常夏の島の伸
蜜 月
Lunatic



「バンザ〜イ!、バンザ〜イ!!」
「やめろってば」
 そう大声ではないが、嫌味半分に囃し立てる秀の声を、伸はもう五、六回は制止している。
 成田空港の通路内には、正月を海外で過ごした人々の、帰宅の流れがそれとなく感じられていた。とは言っても、本格的な年末年始のラッシュはとうに過ぎている。今は余裕のある人々の穏やかな波が、彼等の横を掠めて通り過ぎるばかりだった。そんな中でのこの若い集団は、如何にも異質な雰囲気を漂わせていた。
 一月上旬のある日。
「騒いで目立つと、おまえ達の方が恥ずかしい思いをするぞ」
 征士はそう言って周囲を嗜めながら、嬉しそうな様子はおくびにも出さないでいた。否、この度の事態を彼がどう考えているかは、誰もが今ひとつ測れないところだった。
「つべこべ言うな、もっと嬉しそうな顔をしろ」
 と当麻が、不愉快そうにその能面顔に嗾けるが、
「全く、推薦を受けることにしたから良いが、世間体が悪いだろうが」
 征士が素直に受け入れないのはその所為だった。伸以外の仲間達は皆同様に、今年は大学入試を控えている。昨年九月には、剣道での推薦入学を決めてしまった彼だが、同学年の者が必死に机に齧り着く期間、自分だけが悠々と遊び回るなど、まず家族が許してくれそうになかった。否、実際許可が下りなかった。地方の一市町村では、そんな様子が知れれば忽ち良からぬ噂になってしまう。
 まあ、征士本人に限って言えば、身から出た錆と言おうか、そのような事は何ら構わないと考えているが、名の知れた家の者には一大事なのだろう。少なくとも親の考えが解らなくない彼は、大事な友人を救済すると言う名目でしぶしぶ、今回の渡航を認めてもらったと言う経過だった。
 無論伸もそれを知っていて、この一年は気を遣っていた事情だ。
「そうだよ、こんな時期に非常識だよ」
 と、征士に同意するように彼は言った。すると更に、
「おまえが着いていながら」
 征士がそう続けて、監督者失格の烙印をあえて当麻に返す。別段当麻と秀の、どちらが監督者と言う訳でもなかったが、このふたりが事の首謀者で、柳生邸に送られてしまった写真を切っ掛けに、面白がって何かとネタにされるものだから、たまには同様の反撃を以ってダメージを与えたい、と思っただけだ。そう深い意味はなかった。
「…俺は関係ない」
 すると当麻の逃げ腰には、秀がすぐ食い付いていた。
「俺のせいにすんな!」
「いや、秀が滅茶苦茶ツイてたからさ。良いか悪いかって話じゃない」
「まーな、だから幸せのお裾分けってやつだ」
 そんな風に、フォローし合うような会話をして、ふたりは示し合わせたようにニッと笑う。どう見てもあまり真摯な態度とは言えない。真面目な顔でこんな事をされても困るが。
『ふたり揃うとロクな事をしない…』
 征士と伸は黙っていたが、同様に呆れていた。
 何故だか最近、当麻と秀のやる事は増々規模が大きくなっているような。柳生邸に共に暮らした頃から、喧嘩や悪戯は日常茶飯だったけれど、全くタイプの違う彼等だからか、頭脳プレイと実力行使の鬩ぎ合いは常に、周囲の迷惑になるドタバタ喜劇だった。そのふたりが年を少し重ねただけの今は、まだまだ起こる事も奇想天外の域を出ないのかも知れない。何らかの統一性を得て来れば、迷惑より有り難いものになろうと言う気もする。
 そう、彼等もまた違う要素だからだ。それは物理学でも証明されている、近しい二者より遠距離からぶつかり合う方が、生じるエネルギーは大きくなるものなのだ。そんなことを征士は既に知っている。伸は既に知っている。ただ自分達には何ができるかと問われると、今はまだ何も見えて来ないけれど。
「まあ、今年はみんなで気持良く、海外旅行にでも行けるといいね?」
 騒ぐ裏には彼等なりの厳しい事情があると、伸は一応エールを送るように返した。進学に関する問題さえなければ、福引きで旅行を当てた本人と、その最も仲の良い友人が出掛ける筈だったのだ。今当麻が横浜に出て来ているのも、秀を手助けする為の事だろうから。
「わーってるよ!」
 そして秀がそう答える頃、彼等はチェックインゲートの前に到着していた。
「じゃあね、折角だから楽しんで来るよ」
「土産は食べ物でいいからな〜」
「帰って来なくてもいいぞー」
 手荷物のチェックをする間、彼等はそんな言葉を幾らか交わしていたが、やがて征士と伸は大強運を引き当てたふたりと別れる。手を振る彼等が壁に遮られ見えなくなると、騒々しい雰囲気だった周囲が一変して、空港の曇った物音ばかりに辺りは静まっていた。
 暫く黙ったままだった征士が再び口を開いた。
「何を考えているのか…」
 彼の呟きの意味は確かに解るけれど、伸は見送ってくれたふたりへの、当て付けの言葉はもう止めようと考えたところだ。
「とか言いつつ、実際有り難かったんじゃないの?」
 何故なら自分達に利益のない事ではなかった。
「まあな。入試に関係ない身だと言っても、好きにはさせてくれない状態だった。こう言う特殊な事情ならではのお許しだ」
「僕も自粛に付き合わされたからなー」
 征士が遠出を自粛されられていた為、お互いの家を幾度か行き来するだけに終った去年の大半。じっと我慢していたからこそ運が巡って来た、と考えても誰も咎めはしないだろう。但し喜び過ぎるのは、当麻と秀に申し訳ない気持もあって、故意に迷惑を強調して見せていた。真実は決して迷惑が勝っていた訳ではない。
 むしろ、ただありがとうと言いたかったのに、先程までのふたりの茶化した様子を見て、言いそびれてしまったようだ。まあその分、お土産と言う形で返せば良いかも知れない。気心が知れている、知れ過ぎている
と言っても良い間柄なのだから。
 後はただ懐かしい、常夏の海の色を夢見て眠っていればいい。



「海だ」
 ホノルル空港には、ほんの二時間程前に到着したばかりの筈だが、ふたりはもうホテルのプライベートビーチに居た。伸は目の色を変えるように、砂浜を真直ぐ、さざめく波打ち際へと駆けて行ってしまった。
「…今は真冬だと忘れてしまいそうだな」
 征士はのんびりと辺りを見回してから、波の向こうに小さくなって行く伸に、
「あんまり沖の方に行くんじゃないぞ」
 と声を掛けた。現地時間は午後三時頃だった。急いで行けばまだ充分泳げると言って、ホノルルに到着した時点から伸は、慌ただしくこの海を目指して奔走していた。彼が海を求めるのか、海が彼を呼ぶのか判らないが、そこまで必死になれる気持と言うのは、普通の表現ではなかなか表し難いものだ。ただ伸と海とは同義語だと言うことだけ、辛うじて説明できるだろうか。
 引き合っている、離れられない。元は同じ体を共有していた意識のように、傍に寄りたがる。
 それに付き合わされる方は難儀を強いられるが、まあ今更文句を付ける気もなかっただろう。些か疲労を感じていた征士は、今日のところは水には入らないことにした。何故ならこの早朝、雪の積もる仙台から成田へと向かい、更に真夏のような島へと移動したのだ。何やら調子が狂っている気がしてならなかった。
「さて、どうしようか」
 伸の居る辺りからあまり離れないように、と思いつつ後ろを振り返ると、ホテルの宿泊者に用意された小さなコテージが見えた。遠目では判らなかったが、徐々に近付くに連れ、そこには座り心地の良さそうなデッキチェアと、新聞か雑誌の乗せられたテーブル、屋根の奥にはバーカウンターらしきものもある。流石に設備は整っていそうだ。
 征士はそこで、一応ジンジャーエールを注文して席に着いた。大きなパラソルの下は流石に、色素の薄い彼の目には優しかった。なので重ねられた雑誌類の中から、日本語版の経済誌を抜き出して読む気にもなれた。夏の暑さが恋しかった時だからこそ、涼しい顔で海辺の読書もできる。
『監視の目が無いと言うのはいいものだ』
 見出しの文字をざっと追いながら、征士はぼんやりそんなことを思っていた。つまりここがハワイである必要は特にないが、普段の顔触れに囲まれていない場所は全て、彼に取っては楽園のようなものだった。南の島と言えば、楽園のイメージは相応しいものと思う。
 ところが、それから十分も経たない頃だろうか、征士は周囲に漂う妙な視線に気付いていた。なるべくなら放っておいてほしい時に限って。
「すみませーん、日本人の方ですか?」
 視界を塞ぐ雑誌を少し横へと外すと、コテージのすぐ下の砂浜には、征士と殆ど年齢差のなさそうな、OLらしきふたり連れが立っていて、とてもにこやかな表情をこちらに向けていた。にこやか、と聞けば印象は良いが、実際は何かをアピールするような微笑み方だ。
「そうですが」
 と、普通に答えた征士に対して、途端に緊張がほぐれたような、甲高い声がふたりの口から上がっていた。見ず知らずの、しかも妙に整った顔から普通の返事が聞かれたものだから、彼女らの心境は察して余りあるものだろう。例えば外国の映画スターが、流暢な日本語で話し始めたようなような感激だ。落ち着きのない様子は始めからだったが、ふたりの内日焼けの色の濃い方が、それなりに話を続けた。
「あ、良かったぁ。ねぇ、あの、今日の夜ラマダホテルのパーティがあるの、知ってますぅ?」
「さあ知らないが」
 そのホテル名だけは知っていたが、ハワイには初めてやって来た征士だ。しかもひと月前に突然旅行の予定が入った。現地ホテルの行事など知る由もなかった。
「良かったら一緒に行きませんかぁ?」
 そしてその声に漸く真意を掴むことができた。迷子の案内なら他を当たってくれと言いたかったのだが。
『…ナンパか?』
 特筆するような美しさやかわいらしさはない。どちらかと言うと垢抜けない印象の、呑気な事務員風情のふたり組には、無論惹き付けられるような魅力は感じなかった。日に焼けた皮膚は健康的と言うより、何かのスタイルに沿ったものだと判る。ふたり揃って同じような、派手なビキニとパレオを着けているのがその理由だ。又そこかしこを闊歩する欧米人に比較すると、かなり見劣りのする貧弱さだった。比べるのは可哀相だがハワイだから仕方がない。
 けれど、征士はあえて強く断らなかった。
「ああ…、私は構わないが、ひとり連れが居るから」
「えっ?、彼女か何か…」
「いや男だが」
 そう返せば恐らく、向こうはこう返すだろうと予想した。
「あっ、じゃあその人も一緒に!。私達ふたりだから丁度いいよね?、ねー?」
 そして顔を見合わせてはしゃぎ出した彼女等の様子は、征士の目にさえ無邪気過ぎて、些か嘆かわしくも映っていた。別段悪事を企むつもりはないが、もしここに居たのが悪しき下心を持つ者だったら、このふたりはどうするつもりなのだろうと。こんなにこちらの思う通りに話が進むようでは。
 しかしながら、やや間抜けな女性達のお陰で、面白そうな場所を紹介してもらえることになった。
「それなら」
「じゃあじゃあ、名前聞いていいですか?。それとぉ、待ち合わせ場所は…」
 何の計画もなくここに来てしまった為、海と火山以外のハワイについて、征士は「色々ある」とだけしか認識が追い付いていない。無論それでは勿体無い気がした。旅行にハプニングは付き物だと言うから、自らそれに乗ってみようと言う訳だった。又理由はもうひとつ、
『パーティは好きな筈だ』
 伸の好みに合わせた事だ。彼は何故だか、少し無理をしても空騒ぎの場に出たがることがある。己の中に溜め込まれた物の重さを忘れ、派手な熱帯魚の水槽を思わせるような、カクテルライトの青の中へと隠れたがる。そんな欲求が彼にはあることも、もうこれまでに随分と知れてしまった。
 ついでだが、ホテルのパーティなら飲酒も見付かり難い、と征士は考えていたようだ。
『海の方がもっと好きだろうけどな』
 更に言えばそうだろう。
『夜中の海では泳げまい』
 時間は夜八時からだと聞いた。闇を見透かす目を持たない限り、或いは目の他の感覚を持たない限り、魚の様に夜の海を泳げるものではない。夜の闇に締め出される間だけ、伸は陸で過ごす他にないだろうから、征士はその為の用意をしているに過ぎなかった。
 どんなに恋しくとも叶わない回帰願望が、伸の内にはあった。

「…それで?」
 明るい海を映していた空が、やや黄色に霞んで来た頃伸は砂浜へと戻って来た。
 戻って来て、コテージに居る征士を遠目に見つけると、彼は真直ぐそこにやって来たのだが、征士はその近付いて来る間に、例のパーティに誘われたことを話した。そして伸がコテージに到着する頃には、彼の目の前に四枚の紙切れを差し出していた。
「どれが良い?」
「どれってどう言う意味だよ?」
 征士の話からは、その紙が何なのか見当がつかなかった伸。広告の裏であったり、手帳のリフィルであったり、統一性のないそれらは、一見すると書き捨てたメモ用紙に思えたが、
「あっ、何これ、みんな違う人じゃん」
 二枚目、三枚目を開いた辺りで伸は気付いた。
「どう言う訳か次から次へと来たのだ」
 そう、最初にOL風の二人組に声を掛けられてから、伸が戻って来るまでの一時間程の間に、また三件同様のお誘いがあったようだ。バラバラな紙片にはそれぞれ、名前や連絡先、待ち合わせ場所の説明等が書かれていた。まあ恐らく、今夜開かれるパーティのエスコート役を選ぶには、この辺りがタイムリミットだったからだろう。否、誘いに来た人数などよりも、
「あのねぇ、そう言う時は、後のは断るのが普通だろっ」
 何故来た人全てに返事をしてしまうのやら、その方が伸には疑問だった。
「どうせ遊びに行くだけだ」
「不真面目な奴だなー」
 勿論、征士が他人に対してどんな態度を取ろうと、本気で咎めるような感情は湧いて来ない。伸はただ、彼が何らかの考えを以ってそうした、その真意を聞きたかっただけだ。すると、
「真面目さは使い所の問題だ」
 と、征士は全く揺るぎない調子で返した。言い換えれば、全てが真面目な人間は詰まらないし、そんな人間は案外、世の中を上手く渡って行けないと言うのだろう。思えば、征士はいつもそんな有り様をアピールしながら、日々生活していたような気がする。重要な目的には絶対的な忠誠をも誓えるが、心が全てそれに染められる訳ではないと、常に反発をして来た面も彼は持っている。
 個である己を大事にし過ぎるのもどうかと思う、けれど、個を愛せない者には、他の個性を認めることもできないだろう。
 鎧での戦いから離れた今は、征士が何に最も忠実であるかを伸は知っている。
「あっはは、そうかも知れない」
 そして、それが自分にも良い影響をしていると思う、伸は素直にそれを認めていた。そう、全てに真面目であろうと望むことが、長く己を苦しめて来たからだ。
「う〜ん、それじゃあ、飛行機を折って、一番遠くに飛んだやつにしよう!」
 だから伸も、これはただの遊びと割り切ることにした。考えてもみよ、常夏の海のひと夜のアバンチュールとは、嘘も偽りも並べて黄金色に変わり、その儚い輝きをどうにかして捕らえようと楽しむもの。真面目になればなる程馬鹿を見る。
 そんな状態の人の心を思い遣るより、宴の明かりが灯るのを楽しみに待っていればいい。



 ふたりがホテルの部屋を出たのは、午後七時を幾らか回った頃だった。窓の外は夜と言って全く差し支えない、充分な暗さが景色を覆い尽していた。漆黒と言うより藍を流したような夜空は、日本の夏とそう変わらない印象だが、輝く星々がここは違う場所だと教えてくれている。日常ではないからこそ、旅行中の出来事は楽しいと感じる。
「一応まともな服も持って来て良かったよ」
 伸はハワイと聞いただけで、その海に戯れることしか考えなかったが、買い物や食事用に持参していた、麻のジャケットとデッキシューズに救われた。もし持ち合わせがなかったら、ホテル内の店でスーツ一式を揃えたところだ。別段金に困ってはいないが、今は独立準備の一人暮らしをしている身、詰まらない無駄使いはなるべく止めておきたい。
 大学に通い始めてからこれまでの伸の生活。始めは慣れなかった様々な環境にも、今はそう肩肘を張らずに過ごせるようになった。また普通の学生達と同じ話題に笑い、同じ楽しみに参加し、同じ様にアルバイトなどもして、普通に生きて社会を学ぶ人々の中の、一員としての自覚を持てるようにもなっていた。戦うことに集中していたあの頃と今とは、意識が全く変わって来たと伸は感じている。
「ホテル主催のパーティとはどんな感じなんだ?」
「さあ、色々あるだろ。最近大学の友達に誘われて行ったのは、ディスコと立食パーティが合体したようなもんだったけど、何処でもそんな感じじゃないの?」
 征士の質問にも、普通の大学生らしい答えで返していた。
 もう遠い記憶になり掛けているのかも知れない、と伸は思っていた。己の持てる力を無心に何かへと注ぎ込んでいた日々、実社会の在り方も奇妙な人の繋がりも、本当の意味では理解できていなかった幼い頃。もう他の何に惑わされることなく、正義のみを求めて戦えるとは考えられなかった。見返りがほしい訳ではないが、社会の信用を得難い立場について理解してしまった。
 スクリーンに描き出された正義の味方、クラークケントが冴えない新聞記者で居るのも、社会での実績を作れない立場だからだ。社会に身を置いて心が年を重ねると、純粋さは確かに失われて行くのかも知れない。しかしそれは汚れて行く意味でもないと思う。ただ子供のままでは居られないだけだ。生きる為に必要な活動が色々あると知るだけだ。
 そんな経過の後に伸はここに居る。今はまだ高校生である征士には、伸が考えている事の全てを理解できないだろう。ただただ心だけで繋がっていられた、きら星の様な素質に恵まれた仲間達。他の四人が伸と同じ気持に到達するには、個人差はあるだろうが、もう少し時を待たなくてはならないだろう。
 他の誰にも理解されない、鮮烈な記憶を持ちながら僕等は、普通の社会の中で生きなければならないと。
「…海だ」
 エレベーターが二階のロビーに到着した時だった。
「確かに、海の様だな」
 来た時とは違う、ホテルの奥のエレベーターを使った為に、彼等は偶然その景色を目にすることになった。それはホテル内に作られたプールなのだが、昼間なら特にどうと言うものでもなかっただろう。しかし薄甘い夜の闇に、適度にライトアップされたその様子はまるで、向こうに見えるビーチの景色に溶け込むような、殊に幻想的な場所に見えていた。まるで竜宮城の入口のようだと。
 人工的に配された、水辺のジャングルの様な植物群の向こうに、確かに海のさざめく音が聞こえている。昼間は遠かった筈の波打ち際が、潮が満ちてもうすぐそこまで近付いていた。呼ばれているようだ。海に誘われているように、伸は感じた。ここが夜への入口だと。
 すると、征士は穏やかな口調でこう言った。
「こっちが良いならそれでもいいぞ?、選択肢の内だ」
 そして伸は、今も変わらない彼の真面目さを思った。人との約束を平然と反古にするのも、最も大切な事の為には仕方がないかも知れない。何故なら彼は知っているのだ、伸は何よりも海が好きだと。海に繋がる何処かに帰りたがっていることも。
「フ。…ハハハハ」
 ふざけるように笑ったかと思うと、伸はその場を駆け出して、服のままプールに飛び込んでしまった。メインダイニングやラウンジからは裏手に当たる所為か、今は人影もなく、従業員が駆け寄って来ることもなかったけれど。
「怒られるぞー」
 ゆっくり歩み寄って、プールの縁までやって来て言った。すると服を着て泳いでいると言うのに、伸は意外と自在に水の中を移動していた。不思議に思いながら、暫し水面を覗いていた征士がふと気付くと、
「危ないな」
 伸は水中から征士の片足を引っ張って、危うく変な体勢で水に引き込まれるところだった。
「君も一緒に怒られようよ」
「ああ…分かったから靴を取ってくれ」
 悪戯の後に、征士の片方の靴が水面に残されていた。もうどうせパーティに出られるとは思っていないが、革が傷んでしまうので、早く靴の片割れを取り戻したい征士だ。ただ自分は伸のようには泳げないと思った。だから彼が動いてくれるのを待っている。伸は午後の海辺での様子と同じに、機嫌良く言われた物を取りに行く。
「ハハハ、ハハハ、君とケッコンして良かったなぁ、ホント」
 そして何故かそんなことを言った。
「何を乗せられているんだか」
「夜の海っていいもんだね、卵を産めるような気がするよ、僕は」
 靴を片手に戻って来る、伸の表情には何の企みも、大人らしい理屈も持たない笑顔ばかりが見える。
 だから彼は海が好きなのか、と征士は改めて思った。原始の海とは恐らく暗かったのだろう、夜の海はそんな過去の面影を感じさせるのかも知れない。まだ未分化で何の特徴も持たず、優しく全てを包含していた生命のスープ。生物の進化は感動的なものだけれど、時には原始の混沌に紛れてみたいこともある。普通の人とは少し違った感覚の行き着く答は、戦いの内に知った皮肉な記憶が誘(いざな)う。
 海があり、陸があり、火山は燃え、空を大気で満たし、稲妻が走る。そんな所から生まれる純粋な何かが、最も力強く信頼できる理であったこと。
 今はもう臨めない世界の形。
「…満月ならな」
 完成された動物として生まれてしまった限り、その他の影響も受けずに居られないのだ。それもまた自然の一部だと認めて、海の魚達も生き長らえている筈だった。
「あーあ、ハネムーンなのに残念だね」
 伸は言いながら、再び夜の海へと潜ってしまった。
 無機から有機へと轟くパーティの夜を探しに。
 いつかまた原始を身近に感じる時が来るのを、恐れながら君は待つのだろうか。









コメント)ほほほ、タイトルの割にあんまり色っぽい話じゃなくてすみません。って言うかそんなミエミエの話を書くのはイヤ(笑)。ただ、普通と違うハネムーンを書いてみようと思っただけですが、正式に結婚した訳でも何でもないから、やっぱりただの旅行みたいでした。とほほほ。いや、この話の後に何かあったと解釈してくれてもいい…。
「月下氷人」から続いていた「月」三部作も、この話で終わりでございます。あ、勿論シリーズの話はまだ先があります。これからはみんなが大学生になった後の話、それからMessageの話になるので、ホントまだまだ先はあるなぁと言う感じです。




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