インターミッション
水面の月
(みなものつき)
THE MOON FLOATING



 捕らえられない水面の月は 涙の波紋に歪んでる

 天(あめ)より落ちた水面の月よ
 漂うも、漂われるも 同じ不安の海へと続く



 征士が目覚めると、そこは見慣れない白い壁、白い天井、殺風景で空虚な部屋の窓から、日焼けしたブラインド越しの薄明かりが射していた。面白味のない、ただ清潔で白いだけの世界。白いシーツ、白い上掛け、傍の棚の上に飾られた、賑やかな夏の花さえ沈黙しているように見えた。
 己は何をしているのか、何故ここに居るのか、杳として知れない事象をぼんやり考えながら、気怠さに支配された体を起こそうと試みる。すると力を入れた腹の辺りに、引き攣れるような痛みを感じた。その場所を確かめるように手を当てると、巻かれている包帯のざらっとした感触が手の皮膚に伝わる。視線を落とせばそれも又白く、幾重にも折り重なっていた。
 何もかもを白く霞ませていくような、言い様のない自己の不安定さに恐れを覚えた。征士はもう片方の手で、掛けられていた布団を強く握り締める。掌に有る限り込められた力に、
『生きている』
 状況の判断は付かなくとも、生きていることだけは確かだと思えた。

「気が付いたんだね」
 耳慣れた声がする。征士の居る位置からは見えない、部屋のドアが開閉する音を探して首を捻ると、低い衝立ての向こうから、優しい緑の瞳が穏やかに征士を窺っていた。
「気分はどう」
 と、伸はやや素っ気なく続けながら、征士の横たわるベッドの前に静かに歩み寄った。その密かな足音も、或いは距離を測るような足の運びも、何処かよそよそしい印象を与えるものだった。普段の、何気なく見守るような態度とは微妙に、何かが違っていると征士には感じられる。それはこの居心地の悪い、白く取り巻く環境の所為かも知れない。
 見慣れない空間、見慣れない伸の服。
「…済まん、私は、少し混乱しているようだ。今の状況がまるで分からない。説明してくれないか」
 だから征士は、己の不安を隠すことなくそう告げた。そしてそれは酷く疲弊して、弱々しく伸の耳には響いていた。
 普段の伸と何かが違うとすれば、それはただ悲しいのだ。協調すべき仲間の内に在って、傍若無人とも取れる程に、常に自信に満ちて、余計な理屈には耳も貸さず、覇気のある言動を絶やさない特徴的な存在。嫌でも目を、心を惹き付けられる揺るぎない信念の輝き。それが『光輪』であり、伸が見て来た彼の姿だった。
 今は余りにも、その影が薄く感じられるからだ。
 もう完全に元には戻れないと思えるからだ。一度迷うことを憶えてしまったら。
「ん…、簡単に説明するけど…」
 伸はそう言いながら、ベッドの横にスツールを出して座ると、しかし溜め息をひとつ吐いて、
「僕が話せるのは、誰にでも言えるようなことだけだよ。実際何が起こったのかは、君にしか分からないからさ。後でゆっくり考えたらいい」
 と、まず核心に触れることを避けていた。
 それは征士に取っても、他の四人に取っても大きな傷を残した出来事。性急に答を出すべきでないと思われる、拭い去ることの出来ない失敗の記録だ。曖昧にしておけば苦悩も付いて来るだろうが、敢えて苦しむことを選択せざるを得ない今の状況。仲間としての信頼、友情、そしてそれが全て命運を共にすること、なのかも知れない。
 慎重に言葉を選ぶように伸は話した。
「…君は別行動をしてたけど、僕らもニューヨークに来てから色々あってさ。その結果市街で事件が起こったんだけど、それはどうにか治めたよ。君も少しは憶えてるだろ?、穏便に済んだとは言えないけど。…それで君は怪我をしてたから、ナスティがここに入院させたんだ。今は僕とナスティだけが残ってる。みんなも居たがってたんだけど、夏休み、あと十日くらいしかないからさ。僕は特に用がないからいいんだけど…」
 淡々とそれだけ語った彼に、征士も何処かに思いを馳せながら単調に返す。
「随分、寝入っていたようだな、私は」
「そうだね、今日で一週間になるかな」
 征士は何とか自力で上体を起こすと、呟くように言った。
「どうりで…、体が鉛の様に重い」
 彼の怪我の容体は、そこまで重傷という程ではなかった。回復も順調だった為、今この時点で充分退院できる状態だった。けれど一連の戦闘の後昏睡に陥り、意識だけがずっと戻らなかったのだ。それだけ征士が心に受けた傷は深いと皆は知った。
 否、この事件に拠って露になった、戦うことへの疑問、鎧に対する不信感、誰もが少なからず心の負担に感じていたことが、遂に表面化してしまった格好だった。だからそれは、征士一人が原因だとは誰も思わない。むしろ矢面に立たされた彼を心配して、重荷を分け合おうとする意志こそが、仲間として存在する意味だと理解していた。
 与えられた要素に於いて、この先「光の戦士」が輝けなくなればどうしようもない。
『僕らは君を助けたい』
 張り詰めていた糸を無理矢理引き千切った者達。鎧の本能に振り回されて、深く傷付いた彼をもう一度繋ぎ止めるには、どうしたら良いのだろうと伸は考えている。そして自分は、この困難な出来事をきちんと消化することができるだろうか、と。
 俯き加減に考えている彼を見ていて、征士はその、睫に隠れた瞳が一心に、足元の悲しみを見詰めようとしているのを知る。伸の存在とはいつも、誰にも黙って、一人薄暗い場所を見詰める者。喜びは誰の上にも均等に分けられるが、悲しみは全て彼のもの、否そうなるように彼が自らしていること。置去りにされる過去の苦悩と切ない記憶、心の痛みは代わりに引き受けると、これまでも伸は無言でそう伝えて来た。
 けれど。
 緑、緑の瞳、緑の鎧、鎧、鎧の珠、伸が手に渡してくれた鎧の珠。それで良かったのだろうか?、彼は納得したのだろうか?、私は許されて良いのだろうか?。と、征士の中には暗雲ばかりが立ち篭めて来る。
「私は…とんでもないことをしてしまった…」
 暫しの沈黙の後に発せられた言葉。
 大方のことを思い出した征士には、後は後悔と苦しみばかりが残さる。絶対だと信じていた自己への不信感、そして自己を失う恐怖感、無力感。これまでに感じたことのない圧倒的な敗北感に、常にひとりで立てていると、己に思って来たことが全て、奢りであったと気付かされる惨めさ。そして自己の危うさを露見させてしまった不運は、烙印を押されたような劣等感へと繋がるのだ。
 顔を上げた伸は、苦しげに額に手を遣る征士を見た。伸の思うことはただ、そんな姿を見ていたくないと 言うだけだ。
「あのさ、征士、結論を急いじゃ駄目だよ、無理に思い出そうとしなくていいんだ。みんなもまだ色々考えてる。簡単に答が出ることじゃないよ。…ね、君はもう少し休んだ方がいい」
 だから宥めるようにそう言って、征士が自分に気を遣わないようにと、伸は席を立ってその場を出て行こうとしていた。すると突然強い調子で征士は言った。
「眠りたくない、また妙な夢を見る」
 キョトンとしている伸に対して、征士も自分が何を訴えたいのか解らない、極めて不安そうな色の瞳を向けていた。駄々を捏ねる子供でもあるまい、他の仲間より面倒見の良い伸にしても、不可解な要求には答えようがなかった。彼がまだ混乱している様を見て、伸は努めて穏やかに見守る。
「うん、だから僕は出てるよ。一人で落ち着いて考えてよ」
 伸の気遣いを、征士は黙って受け取ることにしたようだ。確かに心中を整理できていないと、自分でも容易に分析できた。
 席を立った伸は、そこへ来た時と同じように静かに、そして何処か他人行儀な様子で部屋を後にした。その、変らないしなやかな動作の後ろ姿を見送って、征士はもう一度苦しい息を吐く。
 自信がない。失えない何かを失ってしまいそうだ。信じられない、己が最も信じられない。
 そして、それまで考えないようにしていたことを、征士はやっと頭の中に解放した。
『何故伸なのだろうか』



 武器を持つこと、剣を振るうことに、これまで何の疑問も抱かなかった。
 幼い頃から教え込まれた剣術は、今の時代に於いては「殺人術」とは言えず、心を育む為の手法とでも言うべきものに成り果てている。それに疑いを抱く意味はないが、武術・武道とはそもそも武人の道。道を離れ、武器の美しさに心を奪われては忽ち、その禍々しい力の奴隷と成り下がってしまうだろう。
 幼い頃の自分は、ただ与えられた道を素直に、正しいと思う方へ進んで来ただけだ。周囲の期待に応えたいと言う気持だけだった。だからいつから己の中に、武器の持つ怪しげな魅力、美学に隠された暴力、それらに惹かれる傾向が現れたのか判らない。
 そして何故それを今まで通り、押さえておけなかったのかも判らない。自分にも気付けない紙一重の心理を見抜いて、罠に掛けた者達の何と見事な洞察力か。比べて、未だ未熟である己に対して、与えられたのは後悔と痛みだけだが、納得できる結果だと言えるかも知れない。
 暴走したのは鎧でも、己と全く別物でないことは知っていた。
 畏怖と悪意を引き出す機械。あの様なからくりに引っ掛かる己も情けないが、例えようのない恐怖感に責め立てられ、追い詰められる程に、それに歯向かおうとする邪悪なものが、己の中から這い出して来た。鎧の心に反する残忍な魔物がここに、確かに宿っているのを身を以って知ってしまった。自分なのか、それとも『光輪』なのか、どちらなのかも判別できない、その事実に何より己は打ちのめされる。
 元の均衡を取り戻そうと足掻いても、一度走り出したそれを止めることすらできなかった。己の無力さ、自己への不信感に、嗚咽が出る程の嫌悪さえ感じた。そして心が悲鳴を上げる頃には、最早どうにもならなくなっていた。
 負の心に支配された鎧は勝手に動いた。その手は容赦もなく、関わりのない人々の命を切り裂き、流れ出す鮮血の色に歓喜していた。この体は、この手は、この心は、もう私は私でなく、光輪は光輪でなく、殺戮を好む獣の亡霊といったものだった。自分で自分の作り上げた地獄絵を見る、そんな機会には恵まれたくもなかったのだが。
 己とは一体何なのだろう。鎧の支配者なのか?、鎧の為の人間か?。一度感じた自己への疑いが、自我さえも曖昧に塗り潰してしまう気がした。生温く掌を伝った他人の血の色は、鮮やかな赤、赤く爛れ落ちるような鮮烈な血の滴り。四方へと飛び散っては、辺り一面を極めて印象的に染めていく赤の飛沫。そんな惨劇の繰り返しはしかし、その時「自分だ」と認められた唯一の、自身の感覚でもあった。
 己とは、一体何なのだろうか。
 けれどその中に在って、何故か一瞬伸の顔が頭に思い浮かんだ。
 理由は判らない。助けを求めたのかも知れないが、或いは、この邪悪に堕ちた光輪をも信じていてほしかった。確かなことは何も無かったが、度々短いコマーシャルフィルムの様に現れる、彼のイメージを必死に追い掛けていた。
 その内に、光輪はこの体から離れて、意識は何処かへと放り出されていた。

 何処か、それは現実ではない、果てなく続く悪夢の続き。
 何処ともない漆黒の空間、そこに私が居て、光輪が居た。
 対峙している鎧からは、心を持たぬ、残酷な気配が圧力の様に漂っていた。私は手にしていた剣を青眼に構える。そして渾身の力で、光輪の兜を正面から突き刺した。
 その時感じたのは、ただ空しさ。
 空洞である筈の兜からは血が、鮮やかな赤の血が怒濤の様に溢れ出して行った。流れを作り、それは見る間に空間を満たして行く。
 貫かれたのは『光輪』だったのか、それとも己か?。考えている内に、辺りは強い鉄の匂いが立ち篭め、赤の濁流は動転している己の抜殻をやすやすと押し流して行く。
『負けたのか?』
 嫌悪と怒り、恐怖と驚愕と、全てに負けてしまったような虚無感は、遣る瀬無く体を預けさせて、共に流されて行った。己が己であることの全てを呑み込む、液体の牢獄にこの身は沈んでいく。
『私は、負けてしまったのか…』
 密度の濃い、息を詰まらせる流れは蛇行を繰り返しながら、飽きもせずどこまでも落ちて行った。最早出口を探ろうとも思わなかった。何処へ着いたとしても、そこは己に与えられる奈落、水は必ず低い方へと流れるものだ。
 水、水の流れ…。
 その時ふと気付いた。幾度も現れた伸のイメージは、最初に新宿のビルの上で遭った時の記憶だった。未知なる戦いを前に、張り詰めた心境でそこに辿り着いた私を振り返り、伸は何故だか楽しそうに笑っていた。
 それが始まり。鎧戦士としての全ての始まりだった。忘れていない、だからこそ心はそこへ舞い戻ろうとする。何が間違っていた?、やり直したい、もう一度始めからやり直したいと願うからだ。
 彼が笑っていた理由も、憶えていた筈だ。
 死を覚悟して、世界を邪悪から救う役目を果たしに来た、そんな場面で徒に笑う伸を、その時はひどく不真面目に感じた。けれど彼は、甘受すると言うことをよく知っていた。何が起こったとしても、彼は全てを受け入れると示す。微笑みの内に閉じ込めた悲しみを常に見詰め続けている。その緑の瞳に映るものは、全て陽の当らない事実なのだ。
 それは美しい、そして優しい悲劇だ。
 さだめによって運命付けられたことは、誰かの為に担う責務でこそあれ、自己に取っての幸福に繋がるとは限らない。ならば肩肘を張って取り組むよりも、呼吸をするように、さだめも自然に付き合うものになれば良いと、伸は諦めながら望んでいたに違いない。
 そう知っていた筈だ。
 だのに私は誤った場所に来てしまった。
 与えられた使命を、運命を誇りにこそ思え、恨みに思うことなどなかった。けれど私の中に、鎧の心に従って生きることに耐え切れず、逆らおうとするものが居るのだ。己を律する程に返って強くなる心の邪鬼が、どうしようもなく落とし穴に嵌まってしまった。そしてもう戻りそうにない。
 何も知らなかった頃、ただ真直ぐに戦士としての道を突き進んで来た、純粋に己を高めようとしていたこれまでの、元の自分には戻れないと感じる。どうしたら良いのだろう、己をどうすれば良いのか判らない。仲間達に、どんな態度を示せば良いと言うのだ…。

 征士が再び目を開いた時には、一度沈んだ血の洪水は跡形もなく消え、倒れていた彼の足元の岩場を、清らかに澄んだ水が流れていた。
 その水の流れに沿って、何処からか生温い空気が運ばれて来る。辺りを確かめようと、暗い岩場をゆるりと起き上がれば、頭にごつんと何かがぶつかり直立できない。そこは鍾乳洞の様な、細く天井の低い洞窟の中らしい。シンと静まり返っていて、何の音も聞こえない。
 水は流れているが音が無い。そして薄暗い割に妙な暖かさに包まれている。不思議な、と言うより不自然さが居心地を悪くさせる場所。せめて理屈に合う世界であってほしいと思う。二、三歩足を動かした征士の、鎧の軋む音ばかりが谺して響いていた。
 音は遠くの壁面まで反響して、この洞窟が容易に出られるものでないと表していた。けれど目に映る閉息感は堪らない。ある程度視界は利いても、他のルートらしきものはまるで見当たらない。ここから早く抜け出したいと思えば思う程、単調な一本道が伸びて行くようにも感じた。征士は幽かな望みを持って、水の流れる下流の方へ向かっていた。
 すると今度は、背後から地面を揺るがす轟音が響いて来た。次第に何かがここに近付く気配、上流から押し出される気圧が正に危険を知らせていた。
 が、何かを思案する暇も無く、今度は洞窟を洗い流すような大量の水に呑まれて、彼の体を再び何処かへと押し流して行く。全く、何もかも意のままにはならない。
 当てもなく、流れのままに連れられて行く洞窟の水路。入り組んだ迷路を渡るばかりで、何処に辿り着くとも判らない。思えば、ただ生きることだとしても同じなのだ。思うようになると考えた途端に、それは傲慢だと罰を食らうゲームの様に。しかしそれは優しい、苦しみを与えられることなく身を委ねていられた。水は低い方へと、深い方へと流れ落ちて行く。

 淡い光が見えた。
 狭い洞穴が途切れた先は、高い位置から滝壷の様な水溜まりに落ちて、そこで長く続いた水の旅は終点と思われた。その場所は洞窟内には違いないが、ドーム状の天井が高く開けて息苦しい印象はない。そして辺り一面が腰の高さまである池。その透き通った水には生物の気配すらない。征士は暫くぼんやりとしていた。遠くの水面に揺らめく何かを眺めていた。
 落ち着いて辺りを見渡せるようになった頃、彼はその、「何か」を映し出す元となっている場所を見つけた。
 天井がなだらかに低くなって行く方向へ進んで行く。水に浸されている状態で、重い鎧を着けたまま歩くのは困難だったが、その下に辿り着きたい一心で彼は歩いた。天井の岩の一部から、一条の光が差し込んでいた。どうやら外の世界に繋がっているらしい。
 迷宮に迷い込んだ者はまず、自ずと出口を探そうとするものだ。その出口から出た先が必ず、今より良い場所とする保証は何もないけれど。それでも前に進もうとするのが正常な心の所作だろうか。それとも愚直だろうか、それとも性だろうか。希望を感じさせるものに向かって行くしかないだろうか、人間は。
 光の筋のすぐ傍までやって来ると、黒い岩盤を背にして、水面には歪んだ三日月のような形が映っていた。征士が体を動かす度に揺られ、絶えず形を変える本物の月を思わせる反射。上を向いてその光源を辿ってみるが、在るであろう小さな隙間は確認できなかった。その向こうは、光の世界が広がっていると想像しておかしくはない。
 光の世界、嘗て彼が居た筈の世界。
 征士はその場に立ち止まっていた。そうして外の世界に焦がれていても仕方がないが、一頻り思案に暮れた後、結局何もできないと納得したのだ。天井には手が届きそうもなかった。無論必殺技などを繰り出せば、辺りが崩れて命が危うくさせるだろう。
 ただ光に集まる羽虫の様に、そこに佇んでいるしかない…。
「…そこから出ることはできないんじゃないかなぁ」
 すると、何処かで彼に語り掛ける声がした。
 時はそう経ってはいない。なのに酷く懐かしく感じる声の主を探して、征士は背後の水の上を振り返った。薄暗がりの水面を、何かがゆるゆると流れて来るのが判る。じっと目を凝らしてその姿を確認すると、それはよくよく見覚えのある形、水滸の鎧だった。彼はまるで昼寝でもしているように、静かに水に浮かんで漂っていた。
「…何をしている」
 その穏やか過ぎる様子が、征士には理解できなかった。
「流れてるのさ」
「・・・・・・・・」
 この奇妙な場に於いて、まともな返答を期待しはしなかったが、それにしても伸の言葉は一層、征士の思考を混沌とさせて行った。何故ここに伸が居るのか?、ここで何をしている?、そもそもここは何処だ?、伸は何処からやって来た?、そして私は何処へ行けば良い、「流れている」とはどう意味意味なのだ。
 必死に頭を整理しながら、征士はもう一度問い掛けてみる。
「なら何処から流れて来た?。入口があるのか?」
 けれど、彼は気のない返事をするばかりだ。
「さぁ?」
「さあってな…」
 瞼を閉じて、安らかに眠るような顔の伸が、征士のすぐ傍まで流れ着いて来る。何の苦痛もなく、しかし喜びに上気するでもない、静寂に心を据えた凪の表情とでも表せる様子。そう言った伸の顔を、征士はこれまでに余り見た憶えがない。他人が居る場所では気を遣う彼のこと、本来の伸は、こんな姿をしているのかも知れないと思う。
 そう、伸がひとりで立つ時はこんな風に、流れに身を任せ、全てを成り行きに任せられるのだろう。「許容」と言う強さから来る余裕が彼を穏やかにする、漂っていられる時こそ穏やかさを得られる、そう言うものなのかも知れない。
 征士の横までやって来た伸は言った。
「僕はずっとここに居るんだ。だから入口も出口もない」
「ずっと…?」
 そしてだから、この場所は伸に取って居心地が良いのかも知れない。無理に出口を探す必要もない。この水は優しく澄んでいて、温かい。傷付いた心と体を浸す癒しのような、同情にも似た慰めと戯れ。ここに居ることは確かに不快ではない、と征士にも思える。
「でも、こんな所にいつまでも居ちゃいけないよ。出口を探さなきゃね…」
 けれど伸の言葉は無情にも、征士の傾きかける思考を断ち切った。
「…今出口はないと言っただろうが」
 些か不貞腐れた口調で食い下がる征士の様子が、目で見なくとも、伸には充分面白く伝わったのだろう。彼は小さく笑いながら、征士には簡潔に結論を出してみせた。
「見付かるよ」
 しかし、それでは納得できない。自分の前を通り過ぎてしまった伸に、追い縋るように征士は足を進める。
「ならば一緒に出口を探そう、ふたりで探した方が早い」
 それはそうなのだが。
 征士の意志は又別の方向にも向かっていた。出口を求めること以前に、これ以上、何も無い場所にひとりで放り込まれ、闇雲に彷徨うことを拒絶したかった。孤独な戦いへの恐怖が勝っている証でもあった。誰かがいつも傍に居て自分を見ていてくれたら、誤った方へ傾くことも止められると、考えた。
 そしてそれは彼だと良いと思った。
 無意識にでも頭に思い描ける程、己に取って最初に彼に出会った時の記憶が、彼の言葉が、その緑の瞳が、どれ程深く心に根付いているかを思う。そして出会ったのも運命なら、こうして罠に嵌まるのも己の運命だ。伸は許してくれると、最初に知ってしまったからだ。
『僕は助けたい』
 ふと目を開いた伸は、戸惑う征士を見上げて言った。
「そうじゃないんだ、ここで漂ってるのが僕なんだ。だから僕に出口はない。でも君にはきっと出口がある筈だよ、分かるだろ?」
 そう言って、いつぞやのように楽し気に笑った。
 征士は今更ながらに気付く。伸がこんな風に笑うのを見る度に、自分は、今日も命が有ることを確認して来たようなものだった。そして今も迷い苦しんではいるが、最も大切なものを忘れなかった幸福、それに勝るものはないと感じられている。それは即ち、共に生きていると言うこと。
 生きていさえいれば、必ず償うことも、結果を喜ぶこともできるだろう。生き抜くことが特別な繋がりを持った仲間達への、最大の信用だと言う事実を忘れてはならない。否忘れない。君を忘れない限りは。
 迷いと悩みの暗雲を、征士はほんの少し掻き分けられた気がした。
「ここは何処なんだろうな」
 そして前向きに探してみようと思う、己がより良く生きられる場所を。
 征士の問い掛けに、伸は何処か遠い目をして、物語する様に話しを始めた。
「ここは水だよ、水…、暗い水の溜まる場所。形もないし、外からも見えない場所。うんと底の方だろう。…毎日、みんな平然と、当たり前みたいな顔して生きてるけど、本当は誰でも生きてるだけで不安なんだよ。それぞれ心の中に、こんな不安定な場所を持ってるんだからね。…知らない方がいいんだ、気付かないで生きられれば、理想的な幸福に近付けるんだよ」
 心の中の、不安定で暗い側面。そんな場所に甘んじて身を置く伸が居る。そこから離れられない、気を逸らすこともできないで居る。
 誰の痛みも見逃せない、だから彼は優しいのだと解る。暗がりに守られ、悲しみと絶望が溜まる水辺に漂う君を思う。そしてその意志は必ず、受け取らなければならないだろう。
「君は君の場所へ行けるさ」
 信じられる。大切なものを失わない為に、私は前へ進み続けると。



「征士」
 次に気付いた時には、つい先刻見たような白い天井、白い部屋、白い壁を背にした伸が居て、現実の存在感に征士はほっと安堵の息を漏らした。
『何故なら伸だからだ』
 彼は変らず、何処となくよそよそしい様子で歩み寄った。
「眠りたくないとか言って、寝てたじゃないか」
 そう言うと伸は、見上げている征士の額を指先でツンと弾く。征士はその悪戯っぽく笑う様子を見て、ひとり離れて藻掻いていた時を遠く感じた。鎧と、己の両手が人の血に染まったこと、己を簡単に操られてしまったことを忘れた訳ではない。己の罪と失敗が帳消しになる訳でもないだろう。けれど、
「そうだな…、考えている内に、大分納得したのかも知れない」
 己が何者であって、例え大きな失策を冒したとしても、共に生きて、信じてくれる仲間が居ることを忘れなかった。それだけで今は充分だと征士には思える。
 例えその他全てに批難されようとも。
「意外と呑気なんだよなぁ、僕はあれから大忙しだったんだよ?。急いで秀のおじさんの店に行って、戻って、ナスティと一緒に病院のスタッフを拝み倒してさーあ」
「…?」
 それでも楽しそうな伸の口調。何があったのかを思索する間もなく、ドアが開閉する音と共に、ナスティがワゴンを引きながら病室に入って来た。
「お待たせー!」
 被せられていた白い布巾を退けると、それは土鍋に作られた真っ白なお粥だった。
「『入院』して『アメリカ式』の『病人食』なんて、三重苦だろうと思ってさ!」
 傷を負った本人よりも、更に深い苦痛を味わう者がいる。そして彼はいつも、何でもないという顔をして笑う。
 勿論征士は笑えはしない。悲しみが生み出す微笑みはいつも切なく、今度は己の失態が招いたことでもあった。本来なら気遣いを受けるべき立場とも思えない。だけれども、
 今は差し伸べられた手に、大人しく掴まっていたかった。何故なら征士はいつも、最後にはそうなるように望んでいたのだから。
 いつも最期の時に思い出すのは、自分とはまるで異質な存在、優しいばかりで理屈を持たず、他人の苦しみを受け止めることで、その存在を掛け替えのないものにしている人、彼に出会ったこと。その瞳の上に、今は居座って居られること。
 改めて自分の気持を確認した征士は、用意された食事を終えた後、先程まで見ていた夢の内容を彼に、話してみようと思い立った。
「嫌な夢じゃなかったの?」
 伸が言うと、続けてナスティが、
「悪い夢は人に話した方がいいって言うわよ」
 と付け加えた。けれど、征士の珍しい行動に顔を見合わせている、ふたりを一笑して彼は言った。
「いや、始めは悪夢だったが、続きまで見たらそうでもなかったのだ」
 そして終わりのない物語は始まる。
 征士が生まれて初めて踏み出した、長く暗い道程の最初の一歩だった。



『僕は君を助けたい』
 後に病室を出た伸は、征士の前では努めて陽気に振舞っていた所為か、些か疲れが出たように溜め息を吐いていた。アメリカに残ったのは自分の意思でもあるが、先に日本に戻った他の仲間達に、「後のことはしっかり頼んだ」と念を押されている。細心の注意を払いながらの数日。漸く征士の意識が回復した今になって、張り詰めていたものが一気に抜け落ちたようだ。
「やれやれ…」
 けれど伸は、殺風景な病院の廊下をひとり歩きながら、その口許を僅かに綻ばせていた。それはとても幸せそうな、或いは誇らし気にも感じられる様子で。

 誰の目から見ても、戦力としては最も価値の低いものだと、伸は客観的に自分を評価する。常に真っ先に睨まれる者や、罠に嵌めようと度々狙われる者は、単体で利用できるだけの力を持つと、敵にも認められている証拠なのだ。そしてこれまでの戦いの中で、伸は己の存在意義について、目を瞑りたい、考えたくないと思える状況にしばしば置かれて来た。
 けれど、それでも良いと今は思えたていた。
『水の夢は、無意識の心の現出だって聞いたことがある。
 僕は何もしてないけど、僕の存在が、何の役にも立たないものでなくて良かった…』
 征士は知る由もない。己が救われることは、相手を救うことにもなるのだと。



 表には命を与え 裏には命を狩り
 虚ろに浮かぶ水面の月よ

 それでも僕は信じてる
 僕は信じてる









コメント/暗く悩みはじめる征士。をここから書きはじめるために、これまでをものすごくカッコよく書いていた、という訳でもないんですが(笑)、元々TVシリーズの頃の征士と、NY編の後の征士って、急に大人びてしまうような(おやじとも言う)感じなので、こういう進行になってます…。
ところで懸命なみなさまには、既にお気付きだろうと思うんですが、この話は「FLASHBACK」と重複する文節がいくつかあります。まあ何しろ、第一話を観て「征伸だ!」と思ったゆだみですから、最初が基本だと言いたいんでしょう(笑)。
夢の解釈にもちょっとこだわりがあるんだけど(サークル名で解る方もいる)、詳しい事はユングの本でも読んで下さいな。02.11一部修正



BACK TO 先頭