目覚めの三月
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Auto-reverse
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ある信仰に於いて輪廻転生は宇宙的摂理だと言う。
創作された物語にもしばしばそれは登場する。
けれども過去の記憶が残存するなら、転生に何の意味があるだろう。
再び零に生まれてこそ命は幸福ではないか。
瞼の上にふと明るみを感じる。
春まだ浅い三月の、目覚まし時計の鳴る頃は、滑らかな絹の表面ほどにひんやりとした、部屋の空気が皮膚を覆っている。鋭い真冬の冷たさはさすがに感じない。代わりにこそばゆいような、何かが鼻先や睫毛の先を掠めて行くようだ。
大気に漂う春独特の粉塵か、或いは春の天使のお告げか?
目覚めよと呼ぶ声ありて、おずおずと応えるように伸は目を開いた。
「・・・・・」
そして緩慢な動作で半身を起こす。勿論そこに天使の姿など見えはしない。見えなくともそういうものだと、心得ているかの如く彼は穏やかだった。辺りを見回すような動作も、目を見張るような驚きも彼には無かった。ただ意識の内に目覚めを促されただけだ。
そこに、天使の姿は見えないけれど、想像上の絵に似ている人物なら存在した。そして伸の身動きより伝わる軋みか、衣摺れか、影や呼吸の音かも知れないが、その人はいつも隣人の動作にすぐ反応した。
「…どうかしたか?」
征士は目を閉じたまま尋ねる。もう五分、十分もすれば時計が鳴ることを彼は、習慣的に勘取っているらしく、それは中途で起こされる不快の声ではなかった。彼もそれなりに穏やかな朝を迎えていた。
けれど、
「僕は、今、生まれた」
起きざまに溢れた伸の言葉は、征士には全く想定外の呪文だった。
「…は?…」
時計のベルが鳴るまでこのまま、と思っていたが自然に彼の目は開いた。仰向けで寝ていた彼の視界には、無論部屋の天井とランプシェードが有るのみだった。当然ながらここは天国ではない、彼等の日常の景色に違いなかった。
すると征士が顔を傾ける前に、伸は独り言のようにまた呟いた。
「今、初めて目覚めたんだよ」
見れば、落ち着いてはいるものの、伸の横顔には何らかの戦慄が浮き出している。奇天烈な夢でも見たのか、確かに彼は言う通り目覚めたらしい。
それについて話したいのか、話したくないのか知れないが、結果的に目を開けてしまったので、征士もまた身を起こし、間近に視線の合うように肩を寄せた。そして、
「何を…、いや、それは良かった」
口走った言葉の意味を尋ねようとして、止めた。目覚めた理由の前に、「今生まれた」と言わなかったか?。誰も自身が生まれた理由など判りはしない、と、どうも面倒臭そうな話に思え、征士はあえて聞かずに話題を転換する。
伸の顎を取ると、自身の方に向かせてこう話し掛けた。
「おはよう、今目覚めた毛利伸さん、誕生日おめでとう」
本来なら忘れはしない三月十四日の朝、伸はごく簡単な祝辞と、情愛の印の唇を受け取り、何やら意外そうにキョトンとしている。
「うん…ありがとう」
そうして暫し視線を合わせていると、成程、今初めて目覚めたと言い出した、伸の感覚は判るような気がした。征士の目に映る彼の表情は、昨夜眠りに就くまでの経緯をまるで忘れ、それこそ十代の頃にでも戻ったようなのだ。
否、当時にしても複雑な感情を持っていた筈だ。彼はそう言う存在なのだから。
とすれば、今目の前に展開される状況は、果たして喜ぶべきか憂うべきか、征士はやや迷いながら皮肉を口にしてみる。
「素直でよろしい」
「そう…?、そうかな、僕はそんな捻くれ者だった?」
どうもやはり、伸は本来の自覚が抜け落ちているようだ。捻くれ者と言う言葉には当たらないが、彼が正直に物を言わないことは、征士にはもう重々判っている。真実は鋭く人を傷付けるので、優しい配慮の面もあるが、つまらぬ怒りや劣情に流れる心を恥じ、人に見せたがらない面もある。
それが本来の彼だ。特に注文を付けたいとも思わない。最近そんな話をした憶えも無い。一体何があったのだろうと、征士は胸の内に首を傾げている。決して悪い変化では無さそうだが、と思っていると、正に清々しい様子で伸びをし、
「まあいいや、僕には何もかも新鮮に感じるよ。今朝の空気も生まれたばかりのように気持ち良い」
その生まれたばかりの裸体に、新たな世界を取り込むような深呼吸をした。彼がそう感じているからこそ、征士の目にもそう映るのだろうが、
『記憶喪失じゃないだろうな』
征士の疑問と、伸の現状の意識は全く違っていた。
何ら変わらぬ日常と言える朝。
未だ続く習慣の素振りを終え、着替えなど形を整えた征士がダイニング踏み入ると、既にそこは柑橘類の瑞々しい香りや、動物性蛋白の焼け焦げる匂いなど、鼻腔から安心感を運び込む、当たり前の朝食が皿の上に揃っていた。
そして最後に、流行りの歌でも口遊みそうな様子で、ドリップされたコーヒーをふたつに注いでいるところだ。
「今日は随分調子が良さそうだ」
征士が声を掛けると、伸は正に歌うような調子で返した。
「朝、気持ち良く目覚めるとさ、その日一日ずっとその気分で居られるじゃない。はいどうぞ」
至って普通の返事を耳にしながら、コーヒーカップを受け取り、征士はまだ疑いの晴れぬ視線を彼に向けている。
「それはそうだが」
すると案の定、
「意識してなかったけど、今日誕生日だったんだ。だから新たに目覚める夢を見たのかも知れないね」
続けられた言葉は、とても正常とは思えぬものだった。
『大丈夫か…??』
何故なら昨夜、誕生日である今日の予定をどうするか、話し合ったばかりなのだ。ほんの八時間ほど前、秘め事の後に微睡む中でも、午前中から車で出掛けようと確認した筈が、その発言は近年増えていると言う、若年性何たらのような印象を征士に与えている。
だが本人は言う通り、新たな陽を受け微笑んでいるではないか。
「再生するって素晴らしいことだよ。一から全ての可能性を成長させられるんだ」
理解できそうもないが、伸の中に新たな宗教でも生まれたようだった。
まあしばしば、稀に、彼は不思議なことを言い出すので、征士も今は深く考えずにいた。ほんの一時の感傷に振り回され、馬鹿を見た経験が多数あるからだ。ゆらゆら蜃気楼のように君の心は、僅かな経過で形を変えて行くからだ。
なので至極適当に、
「ではもう、鎧なんて物には関わらず、今こんな生活をすることもない選択をしようと」
征士はそんな話を向けたが、伸は屈託無く破顔して話し続ける。
「あ、ははは!、何拗ねてんだよ」
「再生などと言い出すのは、現状に何か不満があるのでは、と感じるぞ」
「そりゃ何も不満が無い人生なんて無いでしょ」
そして、まるきり昨夜を忘れているようで、そうではないことを伸は証明した。
「さっき『素直でよろしい』って言ったじゃないか。目覚めて一番に、僕は君を受け入れたのにどうして?」
その問い掛けは益々よく判らなくなった。
病的な記憶喪失にも、大半の情報を失う例と、斑らに一部の情報が消える例があり、誰もが一様の症状を見せる訳ではないけれど。昨夜、三月の彼の特別な日を思い、普段よりもう少しばかり、征士はパートナーらしい愛情を示したつもりだ。
それをある面では受け取っている。ある面では忘れているらしい。
勿論全く身に覚えが無いと、否定されてはいないので、それなりの安堵を得られた征士は、相手の穏やかな微笑みに合わせ謝った。
「それは失礼、前言撤回」
言いながら微かに笑っているので、
「やだな、僕は信の戦士だよ?。いや元戦士だけど、少なくともすぐ触れられる距離に居る人は、あからさまに裏切ったりしないよ」
伸は何処か腑に落ちない口調でそう返す。否、腑に落ちないのは征士も同じなので、今ひとつ噛み合わない会話は続いた。
「判った」
「何で今頃そんなこと確認するのさ?」
「いや、新たに目覚めた伸を理解した、と言ったのだ」
テーブルに並ぶ、日常の楽しげな景色から一度顔を上げ、征士は真意が伝わるよう、それなりに真面目な顔を作って見せる。時々伸の行動や心理は予想できず、頭を悩めることもあるが、それこそが彼と共に居る愉しみであり、永く惹かれている理由だと判るように。
恐らく新しい君にも私は恋するだろう、と。
「そう、じゃ、今日は盛大にお祝いしてくれるんだよね?」
「勿論だ」
いつものような口調が伸に戻って来ると、征士はひとまず満足そうに口角を上げた。
「リクエスト通りの所を紹介してもらった。十二分に楽しんでもらわなければ困る」
「やった!」
そんな、些か妙な会話で始まったふたりだが、その後は偶然土曜に重なり賑わう、ホワイトデーの街に車を走らせた。
瞼の上に煌めく光を感じる。
早咲きの桜は既に見頃を迎えたが、東京の象徴的なソメイヨシノの蕾はまだ、果敢ない目覚めを待っている三月半ば。その眠りを覚ます暖気の訪れ、春先特有の寒暖差、蜜を欲しがる虫らの誘いさざめく声が、何処か懐かしい桜の枝を揺さぶっている。
久しく感じずにいた木漏れ日の眩しさか、或いは春の精霊の誘惑か?
目覚めよと呼ぶ声ありて、心地良く手を引かれる感覚に伸は目を開いた。
「・・・・・」
視界は明るくも何故か頭が重い。身体中が気怠く、いつまでも横になっていたい気分だ。けれど折角の休日が勿体無いと、彼は本能への直向きな抵抗で半身を起こす。勿論そこに春の精霊など居はしない。ただ特別な幸運は無くとも、朝の訪れを知るだけで彼は穏やかだった。桜の花は今年も命を散らす、季節は常に時を刷新して行くものだと。
そこに、精霊の存在は感じぬけれど、やや現実離れした容姿の人物なら存在した。そして伸の身動きより伝わる軋みか、衣摺れか、影や呼吸の音かも知れないが、その人はいつも隣人の動作にすぐ反応した。
「何だ…、また急に起き出して」
征士ははたと目を開く。まだ目覚まし時計は鳴っていないが、昨日の記憶は彼を瞬時に呼び覚まし、さすがに同じ繰り返しだと気付いていた。不快ではないが何処か不安だった。状況を細かに感じ取る伸には、幸か不幸か兆しが見える時もある。春は彼を苛み、不安定にさせやすい時期でもあった。
けれど、
「僕は今、多分生まれ変わったんだ」
揺らぎを感じぬ明瞭な声の、伸の言葉はやはり予想外だった。
「ああ…、昨日の朝も聞いたような」
確か「初めて目覚めたような夢を見た」と、昨日の朝の彼を征士は、意外に正確に憶えていた。何故なら昨日は特別な一日だったからだ。その時、伸に取ってこの先の未来が、希望ある夢として現れたなら幸いである。
けれども、彼はまた不可解な話をし始めた。
「違う、ここはきっと別の次元だ、僕が望んだ場所に移動したような気がする」
『おいおい…』
口には出さぬ征士だが、昨日より更に飛躍していないか、と、考えつつ伸を見遣ると、本人は昨日より更に瞳を輝かせている。
「僕は何かに目覚めた、何か新しい命の力に」
何を見ているのか、細長い高窓に映る空は、現実には大したエネルギーも感じない。煤煙に包まれたような、都心の薄ら惚けた灰色が、少しばかり明るく見える程度だった。
だが征士にはひとつ、年を重ね理解できた感情がある。一般に郷里の記憶の力は、豊かな里山や海など自然をイメージさせる、広大な地球環境の心強さに重なる。が、そうでない人間もそれなりに紛れている。例えば都心の文化で生まれ育った人物、また、私達のように、地方では暮らし難い生き方をする人々など。
いつの間にか私達は、生まれ故郷より灰色の世界に馴染んでいる。天然のエネルギーには乏しいが、ここにはまた別の力が存在すると今は判る。
伸の見ている物は、恐らくそれに近いと征士には感じられた。
「それは良かった、頼もしいことだ」
なので彼はそう言いながら、また昨日と同じように体を起こし、身を寄せて相手の顔を自身に向かせた。
「おはよう、生まれ変わった毛利伸さん、忙しい誕生日だったな」
半ば冗談ではあるが、伸の考えに寄り添った言葉と共に、征士は彼の心の健康そうな様子を祝福するキスをする。
「誕生日…」
それを素直に受け取りながら、彼は何故だかキョトンとして相手を見詰めた。
「これは君のプレゼントなの?」
「はは…?、私に時空を操る力があるなら、ここではない最も自由な場所へ、とっとと移転していると思うが?」
「じゃあ何が切っ掛けなんだろう」
征士も何が何やら、と言うところだが、伸にも事実と虚構の区別ができないようだ。無論別の次元に飛んだなど誰も判りはしないが、彼の鋭い感覚は「以前と違う」と判断している。そう、何かが違っているのかも知れない。周囲の現実なのか、彼自身の現実かは知らないが。
ただ、注意深く観察する征士とは対照的に、伸の発する気は軽やかだった。彼は両手を上げ、天井の唯一のアクセントである、ランプシェードを眺めるように伸びをした。
「まあいいや。僕の目には、もう見飽きたような部屋の様子も、みんな少しずつ違って見えるから楽しい」
言う通り彼の目に映る物が、微妙な変化の楽しさ、新しさを見せているのか、彼自身も生き生きと変化をしている。彼がそう感じているからこそ、征士にもそう見えるのだろうが、
『どうなっているんだ』
征士の心境は、伸のそれとは全く違っていた。
やはり変わらぬ日常と言える朝。
今日も日課としている素振りを終え、洗顔や歯磨きなど一通り終えた征士がダイニング踏み入ると、テーブルにはまだ食器しか並んでいないが、昨日と同様の肉類や果実の香りと共に、バニラのほんのり甘い空気がダイニングを満たしていた。
伸はキッチンの中で小躍りするように、皿の盛り付けをしたり、反転してフライパンを回したりしている。そんな様子はしばしば見る映像だったので、
「言葉通り朝から楽しそうだな」
と征士は声を掛けた。すると伸の返事も、至って通常営業と感じさせるものだった。
「楽しい気分で一日を始められるのはラッキーだね、いつもそうとは限らない」
「確かに」
但し彼の場合、通常と言えどもそれに当たる範囲は広い。
「征士、お皿持って!」
「ん?」
キッチンから勢い良く聞こえた声に、征士は経験から反射的に、テーブルの上の空のプレートを取った。このような合図には、反応が遅れるとヤバいことになるものだ。すると程なくキッチンから、顔を出した伸がフライパンを振りかざしていた。
「ナイスキャ〜ッチ!」
征士が頭上で、皿の上に捕らえたのはパンケーキだ。さすがに野球のボールのように、低空に投げるのは危険なので、榴弾状の弧を描いてそれは飛んで来た。
「危ないな、調子に乗って大失敗するなよ」
何とか合わせられたものの、もし落としたらどう反応するつもりだったのか。伸にしては珍しく、後先を考えぬような行動だ。するとその異様な明るい乗りを、彼は自らこう説明した。
「あはははは、そこまで躁状態って訳でもないけどね」
「そうか?」
「だってさ、昨日誕生日だったのに、何食べたかよく憶えてないんだ。折角いいお店を探してくれたのにごめんね。これはそのお詫び」
その通り、彼は記憶喪失などではない。出掛けたことは憶えているのだから、メニューを忘れた理由は簡単だった。
「飲み過ぎだ」
「そう、だからごめん。昨日は何だか一日浮かれてて、それが大失敗だった。今日は調子に乗ってる訳じゃないよ」
伸はそう言うが、運んで来たベーコンに添えられた、トマトやパプリカの鮮やかな色合いは、逆に「普段と少し違う」と征士に違和感を与える。受け取ったパンケーキをよくよく眺めれば、実は外形が微妙なハート型になっており、それもまた「何か違う」と思わせた。
違う次元に移動したのは、彼の精神ではないかと。
「では何がそんなに楽しいんだ?」
漸く席に着こうと出て来た伸に、既に向かいの席に着いた征士は尋ねる。しかし最早、正確な回答を聞けるとも思っていなかった。
「何だろうね?。ああ、起き掛けに言ったよ、僕は新しい次元に生まれ変わったんだ。これまでの既定路線から逃れられた」
『何を言ってるんだ…』
案の定訳が判らなかった。だからと言って、朝から細かい事を掘り下げたくもない。征士は判らないまま彼の話を聞いていた。
「きっと新しい道を開く力が生まれた筈だ」
「ではもう、これまで続いて来た関係は捨てると」
「え?、何でそうなるの?。誕生日を祝ってくれたのに?」
けれど伸は、時空を移転したと言いながら、これまでの環境や人間関係は、特に変わっていない意識のようだ。試すような問い掛けをする征士には、やや都合の良い想像にも感じ、或いは伸の中でそれ程大きな変化が、起こっているとも考えらた。
君は何に目覚め、何処に行こうと言うのだろう。
「いや、新しい道とは何なんだ?」
「さあ?。判らないから新しい道なんじゃないの?」
「言い得て妙だ」
行先は誰にも判らないけれど、ただ、新しい力が生まれたと言う彼の、意識の力強さはこの数年感じられなかったことだ。否、それより前も、まだ鎧が存在した頃にも、彼が自身の誕生日に悩む場面を幾度も、征士は見て来たことを思い出す。
五人の中でひとり学年が違っていた伸は、たったひとつ年を取ることに、或いは他の四人との微妙な立場の違いに、いつも考えるところがあったのは確かだ。だがそれももう遠い昔となった。今の彼はこんなにも前向きになれている、と思うと、共に過ごした時間は間違いではなかったと、ひとつ征士は安堵することもできた。
「何でも新しい出逢いは楽しいよね。あ、もしかして、僕が新たな誰かに会ったら、捨てて行かれちゃうとか思ってる?」
と、続けられた悪戯な問い掛けに、
「思わない。そこは最も信用できる点だ」
自ずと口元が笑ってしまうほどに、征士の意識も穏やかになって行った。
「あはは、やっぱり今日は楽しい日だ。そんなこと褒められた記憶無いし」
「あえて言う必要も無いからだ」
「じゃあさ、昨日忘れた分の記憶を取り返しに、またあのお店に行きたいって言ったら行ってくれる?」
「う〜ん、少々高く付くが…、予約が取れたら」
「よっし!、今度は失敗しないよ!」
そんな、些か突飛な会話で始まったふたりだが、その後は麗らかな風薫る春の、日曜日の空気に新たな活力を得ようと車を走らせた。
瞼の上に何らかの閃光が走った、ような気がした。
春とはいつも騒々しい季節だ。お節句、お花見、卒業、入学、引っ越しなど、多くの行事は関係なくなったとは言え、同じ地面の上に居るだけで、他人の慌ただしさが感じられることがある。その時を急ぐような空気が一瞬強く、レーザーの如く駆け抜けて行った。
不安定な雲の切れ間の明かりか、或いは春の悪魔の脅かしか?
目覚めよと呼ぶ声ありて、突然の事に驚きながら伸は目を開いた。
「・・・・・」
考えることなく瞬時に体も動いた。身の危険でも感じたように、反射的に半身を起こした彼だが、恐怖らしき感情は無く、不思議と明るく喜ばしい気分だった。当然そこには悪魔の姿も無い。見えた光は現実のものではないと、意識下で判別できているようだった。
そこに、悪魔の姿は見えないけれど、ある面で同等だと言える人物なら存在した。そして伸の唐突な挙動から伝わるベッドの軋み、布の引き攣れ、それらに伴う音も激しく、その人は隣人の動作に弾かれるように反応した。
「…また目覚ましが鳴る前に」
征士は目を開くやいなや、伸と同様に半身を起こしていた。すぐに呟いた通り、まだ目覚まし時計は鳴っていない。しかし何かに飛び起きたような様子は、彼の中で目覚ましが鳴ったとは言える。前日、前々日と同じようで少しずつ違う、彼の挙動や表情を思い比べると、征士はまずまずの安心感を得られていた。
何故なら、
「僕は、今、」
伸がまた直前の記憶を話そうとして、それ遮り征士は続けた。
「新たな自我に目覚めたとか」
するとそれは、単なる予想や当てずっぽうではなく、的確に言い当てられていたので、伸は更に驚きながら返した。
「…何で判った?」
実は昨日、征士はあるヒントを得ていたがあえて触れずに言った。
「漸く伸が、壁を越えられそうだと藻?いているから」
そしてそう聞くと、本人に気付けないことを隣人が知っている、ふたりで居るメリットを伸は快く理解する。
「そうか、そうだ、僕は君の為に目覚めなきゃならなかったんだ」
「歓迎するよ」
伸の声に明るさだけでなく、生来の強い優しさが戻って来たと知り、征士は片腕を伸ばしてその頭を撫でる。よくできました、と、遊ぶように征士は笑いながら、彼の間近に身を寄せ、続けてこう言った。
「おはよう、目覚めるか目覚めないかの毛利伸さん、今朝も涅槃の誘惑の如く魅力的ですよ」
妖しげな言葉を吐ける余裕があれば、会話は瞬時にふたりの別の側面へ移動する。征士は彼の最も好きな部分を讃えて接吻けた。
「朝から…そう言うこと言うのやめてくれない」
もうキョトンとした顔はしなかった。征士の暗喩が判る程度に、伸は自然な状態に戻れているのだろう。
「朝と夜は繋がっている、いつ見ても伸は伸だ」
そしてぼんやりと、昨晩のこと、誕生日の晩のこと、その前日の夜のことを思い出させる言葉に、伸は現実の放埓さなり、奔放さなり、現実の自身の行動を把握すると、足掻いても何も変わらぬ情けなさを相手に伝えた。
「繋がってても、光が差すから朝なんだろ、厚かましい罪人の征士さんよ」
「ははは」
漫才のように、伸は手の甲で征士の肩を打った。何らか恥ずかしい事を言われると、嗜めに彼がよくするアクションだった。白昼には責められても夜は責めない。故に全ての、恥ずべき事や隠したい事を夜に委ねて来たが、結局朝も夜も同じと言われてしまえば、自身の感覚の乖離に悩むのも馬鹿馬鹿しかった。
若さのみに流されて来た過去を反省し、新しい自分を見付けたい。せめて確固たる自我を得たいと思っていた、伸は最終的に落ち着く所へ落ち着いた。
僕はそれほど強く変わりたい意思は無いようだと。
そして切り離されずに済んだ彼の柔軟さを、征士は有るが儘に愛しんでいる。
『対外的なプライドなど、最早私に見せる必要は無い』
念を押して伸に伝えるように、征士はもう一度深く唇を合わせた。
昨日、征士は伸の部屋に置かれていた本を見て、こんなものを読むからだと溜息を吐いていた。それは細密に解説された、占星術辞典と言う分厚い書物だった。三月、魚座の終わりの方の生まれの人は、既に死んでいるか、これから生まれようとする命か、曖昧な精神年齢を一生持ち続けると本には記されていた。
彼は恐らく、一向に定まらぬ自身の意識に悩んでいたのだ。去年の内に、三十歳病は克服したと思っていたが、まだ吹っ切れていなかったようだ。
だがこれからはもう大丈夫だろう。三十と三十一は全く違う、零と一の間には莫大なエネルギーの差があり、即ち無であるか有であるか、その違いを伸は無意識に感じていた。もう若さを言い訳にできない所に来たと、眠る度に彼は目覚めを促されていたらしい。
だが既に変えられない事がある。特定のパートナーを選んでいることも、こんな暮らしを続けていることも、自らの責任であり紛うことなき意思だ。そんな自覚さえ持てれば、この先幾つになろうと彼は悩まなくなる筈だった。
それを漸く受け入れつつある彼なら、過去は誤りだったと、征士を切り捨てることも無い。嫌な事を忘れながら眠り、新たな朝の到来を人は常に待ち望む。伸の幸福な朝の為に征士が居るなら、征士は日々畝り波打つ夜に、自らを沈めるだけで良かった。
幾度も自身を模索していた伸の新たな境地が見える。
「君は僕の後ろめたさの原因だから」
「それは悪うござんした」
「でもいいよ。変わらずに居られる方が幸せなんだから」
事実を炙り出す陽光は厳しくとも、また朝が訪れ、目覚めを希望的に感じる心は、何故懲りないのだろうと伸は笑う。白日の下では、本当の自分を決して晒せないと言うのに。
恐らくそれは人に取って光が美しく見えるからだ。見えるだけで本当はそうでなくても、何らかの感動を覚えてしまうからだ。夜明けの空は美しい、水面の反射も美しい、闇に咲く花火も美しい。
誰もが光彩溢るる世界の感動と共に生きている。と思えば、征士が傍に居るのは最も手軽な状態だと、伸は恵まれた立場であることも俄かに悟った。
故に、長く継続したい欲を持って彼は目覚める。日々変わらぬ恋と執着を持って目覚める。もう非の打ち所の無い大人になろうなど、無理なことを望むのは止めにした。何故なら征士がそれを望まないからだ。
伸は伸だと彼は変わらず理解してくれる。それこそが伸の新しい目覚めだった。
終
コメント)例によって花粉症で頭が回らず、ちょっと変な文脈になってる所があると思うので、後に直せる時に手を入れますね;
ただ同じような冒頭の繰り返しを使う、文芸的技巧に挑戦したかったので、まあそこはそれなりに形になって良かったです。因みにこれ、誕生日前後は三日三晩飽きずにやっていた、と言う話なんだけどw、そのものの場面を省いてすいません。いつものことだけど(^ ^;
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