不満そうな伸
水のまねき
Welcome for my tomorrow



 刻一刻と時計の針が進むのを意識している。
 そんな時は何かが待ち遠しい、或いは、何か恐怖が迫っている時だろう。否、眠れず羊を数えている時も、時計の針が進む音は妙に耳に着くものだが、それが丸一年続くとしたら、果たして正気を保っていられるかどうか。
 水の中に君の答はあるだろうか?。



 三月の始め、その日は土曜で家に居た征士だが、朝からあまり調子は良くなさそうだった。普段通り朝の素振りを終えると、部屋に戻り、キッチンに立つ伸の顔を見るなり言った。
「この時期はどうもいかんな、目がゴロゴロする」
「そうだね」
「本格的に花粉症にならなければいいが」
 現在は二〇〇二年である。昔はごく一部の人にしか発症しなかった花粉症が、今は一種の公害と言われるほど認知されて来た。元々何らかのアレルギー体質であるなら、他のアレルギーにもなり易いことは知られているが、アレルギーを持たない者まで花粉症になるのだから、公害と言われても仕方ない面がある。
 食物、薬品、大気を漂う不可視の塵。科学物質を多く体に取り込む現代人は、昔より色々と過敏になっているのも明らかだ。それが結果的に何を引き起こすか、戦後すぐの頃に正しく見通せる者は居なかった。良かれと思い、経済的な杉の木を大量に植林した結果、現代人の多くが春を不快に感じるようになった。
 何事もバランスが必要だ。自然界に存在する動植物の個体数が、自然に調節されることには意味がある。平和的に共存する為の法則を蔑ろにすれば、それなりの酬いがあると、過去に立ち戻り伝えることができれば良いのに、と思う。
 征士は目頭を押さえ、当時の環境庁だか建設省だか、或いは内務省だか、何処かで国の為に働いた人々の、戦後復興へのがむしゃらな意識を思いつつ、だからこそ戦争の残した傷は大きいと、改めて真面目に考えていた。目の調子が悪い。たったそれだけの事ではあるが、起因する物事は様々で奥深い。たかが花粉症、されど花粉症である。
 しかし、こうして征士が目を気にしている時、伸にはいつも言う言葉があった。
「目を擦っちゃ駄目だよ、余計酷くなるから。皺の原因になるとも言うし!」
 だが何故か今は言わなった。昨日も今日もその言葉は出て来なかった。征士はもう一度誘うように、
「目の洗浄剤を使った方がいいのだろうか」
 と呟いてみたが、
「うん…」
 やはり彼は普段の反応を示さなかった。別段構ってほしい訳ではないのだが、いつも煩いくらいに細かく気遣いをする彼の、様子が変だとはさすがに気付く。征士が尋ねると、
「どうしたんだ?」
「ん…。まあちょっとね…」
 フライパンに卵料理を滑らせながら、彼は何処となく素っ気無い返事をした。
 怒っている訳ではない。特に怒らせるような事はした憶えがないし、嫌な知らせが舞い込んだ記憶もない。落ち込んでいる風でもない。そんな原因になりそうな事は何もなかった筈だ、と征士は思う。だがこの数日、明らかに伸は本来の精神活動を低下させている。まるで心が表層から退き、一段下の階層へ潜り込んでしまったかのように鈍い。
 人の精神に存在する階層とは、海の深度に似たようなものだと聞く。奥へ潜れば潜る程、単純且つ不可解な物が犇めき合っている。透明で澄んではいるが、深海であるだけに光の届かぬ闇の世界だ。それを、
「暗いな。今日に始まったことではない、三月に入る頃から少しおかしいぞ?」
 単純に暗いと言った征士だが、まあ元々伸の性格の、根底部分が薄暗いことはよくよく解っている。解っている上で、敢えてそう言葉にしたのは、無論それに反発してほしいからだった。不満に感じる評価をされれば誰でも、そうではないと反論するだろう。もし反論しないのならもう相当に、無気力状態に陥っていると判断するしかなかった。
 伸に何が起こっているのだろう?。征士はもう一度尋ねた。
「何かあったのか?」
「いや、大した事じゃないよ」
「そんな顔で否定されても気になるだけだ。ひとりで悩む前に話してくれないか」
 機械的にきびきびと食事の用意をする、動作だけを見る分にはこれと言って心配はない。身体的な健康状態は問題なさそうだ。けれど指摘されたように、向けられた伸の表情は憂鬱そのものだった。自分で気付かないのか、言われると笑えていない己を省みてこう言った。
「悩む…、そう、悩んでるのかも知れないけど、解決しようもない事だから」
「解決しようもない…」
 それが精一杯の告白だとしたら、これ以上尋ねても無駄かも知れない。伸に限らず誰でも、原因や得体の知れない悩みを持つことは稀にある。詳しく話されても答えられない疑問は、この世に多数存在している。確かにこれまで答えられなかった物事は多いと、征士は過去を振り返ってみたけれど。
 ただ、それは思い込みの可能性もある。解決しようもないと見えているだけだと、励ますことにより伸が自ら悩みを話す流れが必要だった。ので、征士は努めて真摯な態度で話した。
「これまで私達は、不可能と思える様々な事に直面し、幾度も打開策を見い出して来ただろう?。戦いの日々はもう色褪せた思い出かも知れんが、遠い昔だとしても間違いのない真実だ。ならば今度も解決できるかも知れない、とは考えないのか?」
 すると。
 話の内容からなのか、征士の真面目な様子からなのか、それまで無表情に近かった伸の顔が途端に崩れた。そして意外にも、素直に泣きそうな表情を見せる彼を前に、
「何でもいい、話してくれ。何をそんなに思い悩むのか」
 もう一押しと言うように征士は続け、作業の手を止めた伸の右手を取ると、彼が安心して話し易いように、自らの両手でその掌を包む。心が鈍っているとしてもその行為は、己に心を寄せてくれていると伝わったのだろう。
「僕は…」
 何かに怯えるような目をした伸は、それでも真直ぐに征士を見て話し出した。君が理解してくれるならそれ以上はないと、縋るような声には悲痛な心情が感じられた。そして伸の口から出て来た言葉は、確かに難解な問い掛けだった。
「もうすぐ、二十九才になるんだ…」
「…ああ?」
「あとたった一年で三十才になっちゃうんだよ。僕はどうしたらいいんだ…!」
「…どうしたらと言われても…」
 それ程に心を震わせ、泣きそうな様子で訴え、日常的な意識を沈ませるほど悩むことなのか?、と、正直なところ征士は困惑するばかりだった。今の段階で三十直前ならまだしも、一年以上先のことを今から悩むとは意外過ぎた。
 まあそんな例として、想像できるのはスポーツ選手だろうか。二十代の後半には体力の衰えが見え始め、その後の進退を考え始めるのも当然だ。何故なら彼等の職業は若さが必要不可欠だからだ。否、全てのスポーツがそうと言う訳でもなく、代表的なところでゴルフなどは、続けようと思えばいつまでも続けられる。
 他に考えられるのは数学者など。数学的な発見は大半が二十代までの、若い頃に基礎的な閃きを得ると知られており、脳の活動がかなり衰える頃には、それ以上の新たなものは見い出し難いと言う。つまり数学的な天才は早熟と言える為、年を取るほどに功を焦る者も居るだろう。
 しかしそれらはほんの一握りの、特殊な世界の人々の話である。世の大半の事に於いては、二十代が三十代になろうと大差はない。単なる会社員の場合は寧ろ、一番良い年代に入るのではないか。或いは女性なら、出産を考えると若い内にと思うだろうが。
「三十になったからと言って、今の生活から何が変わるとも思えないが…?。年を重ねる程に、人間的な魅力が増して行く面もある。それはいい事だと思うぞ?」
 とりあえず征士はそう一般論で話したが、やはりそれでは伸は納得しないようだった。
「そう、年を取るほど良い事もあるかも知れないね。でも良くない事も沢山あるよ」
「例えば?」
「例えば…」
 と、尋ねられて伸は暫し考えたが、彼の中でも明確な物は見付からないようで、結局、
「うーん…、上手く言葉にはできない」
 そう返すばかりだった。
 もし彼がタレントやアイドル歌手などしているなら、若さに対する執着も理解できなくない。確かに二十代と三十代では、商品価値的な意味で聞こえが違う。同様に、常に出会いを求める恋愛体質な男女も、商品価値的な年令意識を持っているかも知れない。何れにせよその人の持つ武器の中に、若さが含まれている場合のことだ。
 果たして伸にそれが当て嵌まるだろうか?。否、あまり考えられないと征士は思い、ひとまず伸の心境をこう代弁すると、
「漠然とした不安だな」
「そう、漠然とした不安だ」
 復唱した彼は、それには同意したようだった。漠然とした不安。三十才になることに対する漠然とした不安とは何だろう?。ふたりはテーブルに並べられた朝食を間に、暫しこれまでの過程を話し合うこととなった。

「十代から二十代になる時は、そんなことは言わなかっただろう」
 何気なく征士が言うと、伸は「当たり前だ」と言う顔をしてこう返す。
「そりゃ大人になった喜びの方が大きいからだろ?。独立すれば親の干渉を受けない生活ができる。こうして君と一緒に暮らしてるのがその理由だよ」
 それは確かに一番の喜びに違いない。正確には大学を卒業した二十二才以降だが、自由意思で暮らせるのは何より嬉しいことだった。彼等はそれまで学生であることの他に、鎧戦士と言う制約も受けながら過ごして来たのだ、いつか本来の己を解放した生活がしたいと、心の何処かで願って来たのは間違いない。故に酒や煙草が飲めるとか、ギャンブルが認められるなど些細な事だった。
 ただ、全ての者がそう考えるとは言えない。「ピーターパン症候群」と言う言葉のある通り、大人になることを嫌悪する人間も間々存在する。幸いふたりにその傾向はなかったが、五人の仲間の内では、当麻が変に悩んでいたのを憶えていた。まあ彼の場合は、成人社会の醜悪さに対する反発でなく、若い内に成し遂げたい事の為に、もっと十代で居られる時間がほしい、との理由からだったが。
 それでも思い出せば、その時の当麻は如何なる心境だったのだろう、と考える。二十歳になってからでは遅いと思える某かの事が、十代の内にできなければどうしようと、追い詰められる気持だったのだろうか。それは不安だろうか?。今の伸はそのような強迫観念は持ち得ないけれど、
「でも、全く不安が無かった訳でもないよ」
 とも続けた。喜びの方が大きかったのは確かだが、何もかも自己責任とされることから、目を背けていた訳ではない。その点については征士も深く頷いて見せた。
「それは私にも解る。これまで知らなかった世界へ出て行くことに、何も感じないほど脳天気ではない」
「そうだったの?」
「悪いか」
「いや別に。何にも動じない君が思うくらいだから、僕が不安にならない訳ないんだ」
 動じないと言えば美点のようだが、暗に傍若無人で無神経だと含めている、征士の性格についてはこうして事ある毎に、話題に上り弄られる習慣になっている。だがこの時はそれが、沈んだ伸の表情に少しばかり変化を与えたので、気に触るより寧ろ征士は安堵した。面白いと感じれば笑えないことはないのだと。
 それならば、と、彼はより楽しい話題へと舵を切ろうとする。まだ己の何たるかを考えもしない、幼い頃のぼんやりとした幸福感に思いを寄せた。
「思えば、素直に節目を喜べたのは十才になる時くらいだな」
「ああ…、喜べたって言うか、何も思ってなかったよ僕は。学校だって四年生で半端な時だし」
 そうその頃は、年が二桁になることなどどうでも良かった。しばしば給食に出て来る、トビウオの唐揚げが食べられず悩んだくらいだと、フォークの先に絡んだアンチョビを眺めながら、確かに伸も少しずつ楽しくなって来た。
「私は色々思う事があったが」
「十才で?」
「親から言われていたからだ。もう何でも身の回りの事は自分でできる年だ、とか何とか」
 征士がそう話すと、彼の家の事情を知る者には、そんな様子は容易に想像できた。恐らく一日の行動計画や持ち物の用意、一部の衣類の洗濯や家事などを彼が、自らの責任で行うよう言い渡されたのだろう。厳しいとも思うが、将来の為には愛ある教育かも知れない。
「まあ、君の家は厳しかっただろうけどね」
 伸はそう返しながら、その厳しい教育の成果を見ている。今現在の征士を見ていると、そこから生まれた自制的な強さは少なからず、人間的な徳に繋がっていると感じられる。大人として羨ましいと感じられる。
「だが私は嬉しかった」
「何でもできると言われのが?」
「子供扱いされなくなることが。特に姉に対してはな」
 そうだ、それが征士に最も強い影響をしていたのだと、伸は今更ながらハッと息を飲むような思いをした。
「ああ…、お姉さんの態度が嫌だったのは何となくわかる」
 同じ姉弟と言えどその形は様々、中には下の弟妹を奴隷化する家庭もある。年の離れた姉と言う存在は共通するが、征士の姉は母親同様に、征士には厳しく当たる勝ち気な女性だった。親でもないのに口煩く批判する、そんな対象を相手にしていれば自然に、その上に立とうとする意識が育まれて行くだろう。
 対して伸の家庭は穏やかだった。姉が半分母親代わりだったのは、征士にも言えることだが、伸は只管保護される対象だった。早く父親を亡くしたことにも起因するが、彼の女系家族は性格的に柔和な人々であり、その中で彼は情緒豊かに育って来た。優しさの中にも強さは存在する、思い遣る心を貫くことが平和の根本であると教えられて来た。だから、人を従える力が欲しいとは思ったことがない。
 しかし社会に出てみれば、備わる資質の何が有利かを思い知ることになる。勿論それは即物的な考え方であり、後々大人物と尊敬されるには、そんな近視眼的な価値観で生きるべきではない。けれどそこまでの理想を持たない者には、日々の生活の為に何より今が重要だった。
 決して惨めな立場と言う訳ではない。ただ自由で何の肩書も持たないだけだ。自分はこれで良いのかと、伸は二十代の終わりに来て考え始めている。二十歳からの十年間、これで良かったのかと思うからこそ、その先が不安に感じられるのかも知れなかった。
「小夜子さんのような姉なら、私も何も思わなかったかもな。伸はそれだけ幸福に暮らしていたのだ」
 伸の深い思考など知らず、征士はそう励ましたつもりだったが時既に遅し。伸はもうその話題から先に進み、「漠然とした不安」の正体を掴みかけていた。
「だから僕は来年が怖いんじゃないか」
「え…?」
「三十才はこれまでとは違う。これまで僕は確かに幸福で恵まれていたかも知れない。でも三十を超えるときっと、これまで持っていた何かが変わってしまうと思うんだ」
 と、伸は食事の手を止め震えるように言った。別段、人生の中の変化は年令とは関係なく、誰にも訪れる時には訪れる筈だ。それを何故そこまで怖がっているのか、征士にはまだ理解できなかった。
「何かとは何だ」
 と尋ねると、
「そうだね…、多くの人は若さとか、体力とか答えるだろうけど、」
 まだ伸も考えが纏まらぬ様子なのを見て、彼の助けになるよう征士はこう続ける。
「それだってな、三十を境に急に変わる訳ではないだろう。二十九才と三十才ではほとんど変わらないと思うが」
 ところが、戸惑うように震えていた伸は、突然テーブルに両手を突いて硬直した。何故だか征士のする話は皆、火に油を注ぐ結果となってしまった。伸からすると自分は、余程見当違いな事を言っているのだろうと、征士もまた戸惑っていた。恐らく問題に対し見ている所が違うのだろう。こんな場合、性格的にまるで違うふたりの間の、隔たりを埋める作業には長い時間が必要だった。
 見えない物を手探りで近付けて行くには労力が要る。
 けれども。明確には表せないと思えたその答が、意外にふたりの間で確認されることになった。伸は首を緩く横に振って見せると、今朝から一番の大声で言い放った。
「いやきっと違う!、多分自分の気持や考え方が変わるからなんだ!」
「三十になった途端に…?」
「そうだよ!、それは暗示みたいなものなんだ。『僕はもう三十才だ』って考えるようになると、そこから色んな価値観も変わって行くんだよ…」
 声の大きさに圧倒された訳ではないが。伸の言いたい事は意外にすんなり征士に入って来た。不定形で曖昧な感情である内は理解不能でも、形が見えてしまえば何のことはない。それは誰でも経験して来た事のひとつだと、征士はよく納得し、真剣な眼差しを向ける伸を確と見詰め返して言った。
「うーん、それは否定できないかも知れん」
 彼がそう思うのは、例えば苦手な仕事を頼まれた時、上手くやろうと思うなら苦手意識を捨てようとする、常態的な自己暗示を幾度もして来たからだ。それは最早自然な心の動作であり、暗示であることを本人も気付かないレベルだが、確かに、大学に入れば大学生らしく、社会人になれば社会人らしくと、誰もが無意識の暗示を自らかけていると思える所がある。節目の年令にはそんなトリックがあるようだ。
 ひと桁の年令はただの子供だ。十代はまだ人間として未完成だ。二十代は最も活動的な若い季節。では三十代とは如何なる年令だろう。三十代らしさを伸がどう解釈するかが問題だ、と征士は考えるに至った。
 ただ、自ら見付けた答が相手に受け入れられると、伸の瞳には俄に落ち着きが戻って来た。物理的に向かい合っているだけでなく、心が通っていることを意識すると、その答が導き出されたのは決して、自分ひとりの成果ではないとも伸は感じた。征士が誤答を繰り返す内に、外堀が埋められ選択肢が少なくなって行く。そうして正解を見付け易くなって行くからだ。
 性格の不一致は決して悪いことではない。否、僕らはとても上手く回っているよね、と、ひとつ明るい事実に目覚めると、伸は体の力を抜いて、口端に僅かな笑みさえ見せられるようになっていた。
「そうだろ?、僕はそれが嫌なんだ。今の僕で居られなくなるのは嫌だ」
「それが漠然とした不安なのだな」
「そう…、どんな自分になるか判らないから不安なんだよ」
 伸は一瞬遠く何処かを見るような仕種をして、けれどすぐに食事に戻れていた。
 まあ、表面的には哲学的な話が交わされているが、伸の心に渦巻く不安要素には、全く普遍的で通俗的なものも含まれているだろう。単に容姿や体力が衰えるのが嫌だ、「中年」の部類に入るのが嫌だとか、元鎧戦士としては下らない感情に振り回されがちな、伸の有り様を征士は既によく知っている。なので、彼が敢えて口にしない事を突っ込みはしない。
 けれど知っているだろうか。そんな雑多な価値観を持つ伸だからこそ、征士には常に魅力的に見えていることを。そしてその点は恐らく変わりようがないと、悩める彼を見て安心するところもあるのだ。
 何故なら下らない些細な事で悩むのは、心が若い証拠だと一般に知られる通りだ。



 とある日本のミュージシャンが、三十代になることを病的に嫌がっていた。二十九才の一年間は鬱状態にもなり、自殺し兼ねない状態だったと言う話が知られている。アーティスティックな職業の上では、若い感性を失うことは絶望となり得るのだろう。だがそんな彼も現在五十になろうと言う年令で、未だ精力的に音楽活動を続けている。その時を迎えてしまえば誰もが、腹を括る気持になるものではないだろうか。
 見えない内が恐怖であり花である。彼は一度死して生まれ変わったのかも知れない。自らの中に再生の呪文を見付けた時、幻の花は姿を変え彼を苦しめなくなった。それが無闇な若さとの決別だったのである。



 麗らかな晴れ間を窓に感じる、昼時前の三月の居間は明るかった。今日は春には定番の風も安らかで、塵や花弁が乱れ飛ぶ様子も見られない。都内のソメイヨシノも少しずつ開花を始めている。あの懐かしい春の景色が、今年もまた戻って来ると思うと感慨深い。
 あの頃私達は十代だった。まだお互いを見て誰もが頼りなかった。桜は玉砕精神を思い出すと忌み嫌う者も居るが、そんな感情もまだ理解できない頃だった。信ずる事の為に命を投げ出す覚悟の、尊い理想を否定する現実があるとは知らなかった。
 だが今なら解る。何故なら私達は今も生きて、咲いては散る桜を毎年見ているからだ。桜の花は散れども桜の木は生き続けている。年を重ねる毎に見事な枝振りになって行く桜も存在する。何故そのことを、昔の人は指摘しなかったのだろうと征士は笑った。
 人間が滅亡した後も、植物はまだ何万年も生きて花を咲かせるだろうに。私達の知らぬ春はまだ、数え切れぬほど巡って来るのだ。そして君の誕生日も。
「そんなに三十才が嫌なのか?」
 暖かな日射しを浴びるソファに、並んで座っている伸は今は穏やかな様子だが、征士がそう尋ねると、膨れたような顔で口を尖らせて言った。
「…嫌だ」
「フフフ、正直でよろしい」
 だが時を止めることはできない。或いは、戸籍の出生日を書き換えても何の意味も無い。何もしようがないから伸は不貞腐れている。そこで征士は、食事の時に出た話題を引いてこんな話をした。
「そうだな、誰だとしても十代から二十代が一番良い時だと、漠然と考えているだろう。だがそれも暗示のようなものだと私は思う」
「暗示じゃないよ、実際衰えて行くんだから」
「衰えると言うなら、脳細胞は二十才から衰え始めると聞く。そこから数えなければおかしいだろう?」
 そう言われると、人間の生物としてのピークは、もうとうに過ぎていることを伸も考えた。言語的な学習能力は出生直後から、十才頃までにすっかり衰えてしまうと聞いた。生殖能力のピークは十代後半で、後は下り坂だとも聞いたことがある。体の成長は二十才まででほぼ止まる。二十歳を過ぎれば脳細胞は減る一方だと今は知られている。確かに若いと言っても、二十代は既に終焉の始まりと言える時期だ。
 けれど生物のひとつの完成を見て、現実的な希望を持ち、最も充実して動き出す時でもあると思う。成長期の不安定さは決して幸せばかりではない。細胞分裂と心には、そんな時間のずれがあると伸は話した。
「科学的な事実と、感覚的な事実は違うよ」
 すると征士はまるで用意していたようにこう続ける。
「社会的事実はどうだ?。二十代で成功する人間はあまり居ないが、三十代、四十代で頭角を現して行く者は多い。その時を最も幸福に思う人は当然居る筈だ」
 成程それも解った。考えてみれば子供でもなく、充分に成熟した大人の思考も持たず、二十代とは半端な年頃かも知れない。まだ重責を負わされる事も少ない為に、気楽で楽しく過ごせる気になっているのかも知れない。早く高い目標を達成したい者には逆に、若造と下に見られて苦労する時期でもある。人に拠り年令に対する幸福感は、必ずしも一致しないと理解はできた。
 しかし人は人だ、自分は自分。他に倣えば幸福になれる訳でもない。
「僕は別に、社会的成功なんて望んでないしさ」
 と、伸は未来に対する強い希望は無い事を、有りの侭に伝えるしかなかった。これまでもそうだったが、彼はただ行く川の流れの如く、海に細波の揺れるが如く、日々繰り返される変化を楽しみ暮らせれば良かった。何を気負う事なくそうしていられる、大した事のない日常こそ求めるものだ。だから今の生活をこよなく愛している、これ以上でも以下でも何も望まないと。
 けれど征士は、そんな伸の気持を理解した上で敢えて言った。
「それはそれでいい。要は伸が三十代を愛せるかと言う話だ」
 そう、今が幸福ならそれを変えたくないのは解る。ならばできる限り変えないよう努力するだけだ。これまでも彼等はそうして来た筈だった。だが伸は三十になった途端に、努力不可能になるとでも思っているのだろうか?。ひとつ年を取るだけでこれまでの、幸福な世界が全て色褪せると思うのだろうか?。
 否、恐らくそうではないだろうと、征士は伸の中の核心的な感情を知りたがっている。彼が何より一番嫌っているものは何だろう?。その謎が解ければ、如何様にも慰めてやれると思うのだが。
 すると伸は、暫し無言で征士の横顔を見詰め、
「君は愛せるの?」
 呟くように問い掛ける。問い掛けておいてこれは愚問だと知っている彼は、すぐに目を伏せてしまった。征士の回答は伸の想像通りのものだった。
「私は常に今の自分が好きだ」
「…やっぱり君は脳天気だと思うよ」
 けれど羨ましいとも思う。征士の在り方に憧れを持って来たからこそ、対照的にいつも揺れている自分自身の価値も見出せた。僕と君は鏡だ。故に自分は決して征士にはなれない。彼のようには考えられないのだと、伸は改めて強く思うばかりだった。
 僕はきっと三十代を愛せないだろう。
 ところが。そんな風に伸が思っていそうなことも、或いは、何を思えど複雑な伸の内のたったひとつであることも、経験的に征士は知っているのだ。
「私は常に今が好きだ、今以外の存在は要らないと思っている。だから伸が、その時その時の自分を愛せないと言うのは、私には悲しいことだ」
 ここで何と言えば伸の気持が揺らぐかは判っていた。
「伸が三十になった時、私も今の伸を失ってしまうのか?」
「・・・・・・・・」
 案の定言葉を失った彼を征士は、普段よりも意識した優しい瞳で見守った。
 誰かが優しさを見せれば、伸はそれ以上に優しくなろうとする。誰かの悲しみを見れば、伸はそれ以上に傷付き悲しむ。今の征士の発言はそんな伸を動揺させた。己を愛せなければ相手も愛せないとは、世の誰もが理解している簡単な理屈であり、そんなことも忘れていたのかと伸は目を醒ましかけている。
 僕は三十代を愛さなければいけない…?。
 そこで思わず彼の口から出た言葉は、征士にも本人にも思い掛けないものだった。
「こんなことじゃ僕、捨てられちゃう」
 稚拙に感じる言葉遣いと、唖然とした表情が酷くリアルだった。恐らくそれが彼の、水の底に隠されていた恐怖なのだと判る。
 ただ、突然本音らしき事を吐き出したのはいいが、何故三十才から「捨てられる」と発想するのか、征士にはほぼ全く理解できなかった。それ程に己の意思を信じられないのか?。それ程に己を保てる自信がないのか?。それとも私が信用ならないのかと、征士もまた悩んでしまうところだ。自分は一度たりとも、衰えることも老いることも、悪く言ったことはない筈だ…と。
 否、言わない為に却って不安を煽られることもある。征士の話す理想があまりに優れ過ぎて、着いて行けるか自信が持てないのかも知れない。
 僕は君のように三十代を愛せるだろうか?。
 彼の中の真実は結局他の誰にも判らない。しかし、何故か捨てられてしまうと怯える二十八才の伸には、とても可愛げがあると征士は思った。ああ、何も変わっていない。彼はいつもいつまでもこんな風に、自ら悩みを作り出して行くのだろう。まるで春先に萌え落ちる花のように、ひとり盛り上がっては悲しみに散る。それが紛れもない彼だと内心笑ってもいられた。
 単純な見た目ではない、不変の美の法則がこの世には確かに存在する。変わってしまうと恐れながら変わらず年を重ねる君が、端からどんなに面白く映っているか、魅力的に見えるか君自身には解らない。
 けれど征士は常に傍に居て、起伏の激しい伸の心の変化を慈しんでいた。
「そうか…」
 彼は一言、そう受け止めて伸の頭を抱き抱えた。恐らく今は、珍しく弱味を見せる時も、浮かれ騒ぐ時も、皆自分の存在が原因だろうと感じられると、何とも己は幸せ者だと征士は成り行きに感謝した。
 私が居る限り、伸は必ず三十代を愛せるようになると思う。



 ところで三月十四日の朝、意外にすっきりした顔をしている伸に、征士は二十九才の誕生日おめでとうと伝え、
「三十代までまだ一年もある。時間をかけて未来の自分を愛せるようになれば良い」
 と言った。しかし伸はもう、そんなことには悩まされなくなったようで、寧ろ小悪魔のような笑みを湛えてこう返した。
「それが君の意思なら、僕が還暦過ぎても今の方が好きだと絶対言わせるよ?。僕は忘れないからな?」
 そう暗示されれば、征士の性格からして真摯に筋を通そうとする筈だった。伸もまた征士の扱い方には慣れている。ああ、こうして短期間に豹変することも何ら変わらない。あのシリアスな悩みようは何だったのかと首を傾げるが、それが毛利伸なのだから仕方がなかった。

 僕は三十代も四十代も、その先もずっと愛せる人生を送りたい。









コメント)もっと軽くて短い話に纏まると思ったのに、意外にこのテーマ色々考える所あって、予定より暗く長くなってしまったわ。花粉症で頭の回転が良くないのにかなり頑張りましたです(@ @)。
でも最後にはいつもの征伸ですけどね。その「いつもの」がゴチャゴチャありながら繰り返されてる、そんなふたりが好きです♪。
ところで偶然、冬コミの新刊の「夕凪」に続き、またNav Katzeの曲がタイトルになっちゃった。始め別のタイトルだったんだけど、後でこの曲の歌詞が話の内容に合ってるのに気付いた。折角だから少し書いておきます。


きまぐれな海を 示す羅針盤 おしゃべりな波は誘う
光かきわけて 泳ぐあなたは 乾くことのないリズム

生まれ落ちた 白い朝に
かすむ未来 握りしめる 小さな両手
時を刻む 砂を止めて 思いのままに
高く低く 水の響 扉をたたく
胸の鼓動 波の呼吸 水のまねきはくりかえす


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