落下
LOTUS
The Nepenthes



「手紙が来てるわよ、征士」
 その日学校から戻った征士に、平日の昼間には姿を見ない姉がそう声を掛けた。

 十一月の終わり、姉は珍しく風邪を引いて大学を休んでいた。子供の頃は兄弟の中でも最も活発で、一番の健康優良児であった彼女も、大人になれば様々に事情は変わって来るようだ。そして普段居ない筈の者が家に居る、と言う状況は居心地を悪くさせると、征士はややよそよそしげに返事をした。
「どうも」
 玄関のすぐ奥には電話機が置かれた棚が在り、届いた郵便物は大抵そこに集められている。征士は家に上がると、まず無駄をせずそこへと歩を進める。電話の横に置かれていたのは、特に飾り気も無い葉書が一枚。表に差出人の名前は無かったが、かなり癖のある文字からすぐに当麻だと判った。
 御想像の通りだが、当麻は決して筆まめな人間ではない。殊に儀礼的な挨拶等を進んでする者ではなかった。夏休み中に顔を合わせておきながら、更に残暑見舞いを寄越した遼や伸とは違う。そして仲間内での連絡には電話を使うのが普通だ。恐らく、当麻の行為には何かしら意図があるのだろう。
 けれど征士はそれを推し量ろうともしなかった。些か鬱陶しかった。
『前略、もうすぐ今年も終わりだが、そろそろ復活してくれると嬉しい。期末試験が心配な奴も居ることだから、冬休み前には集れないと思うが…』
 征士は長い廊下に、自室へと足を運ばせながらその葉書を眺めている。明るい印象ではあったが、さして重要性は感じない内容の文面。目は文字を追うことに徹してはいるが、心は何処か上の空といった様子に流れていた。
 何をしていても、何を聞いても空々しい。答の出ない矛盾を自己の中に認めた時から、あらゆる価値観が全て曖昧なものへ転化して行った。
 正しさとは何か、正義を信じて戦うこととは何なのか。
 善にも悪にも傾くのは、鎧ではなく、人間そのものではないのか。
 何事も絶対ではない。悪しきものへと、知らずに向かっている己に気付かないとすれば、己は悪であると言い換えることもできる。こんな気持を抱えていてはまともに戦えそうもない。否戦いたくない。何も気付かずにいたそれまでの、愚かしい自分に再び出会うことになるからだ。
 いっそのこと過去の全てを忘れてしまいたい。過去を全て切り離してしまいたい。迷いを持たざる者はただ傲慢なのだと知れば、それは自己に於ける最大の恥に思えた。与えられた文字である『礼』の意味さえ、今はよく解らない。
 部屋の襖を開けると、いつも通り変わらないその様子に、征士は何に注意を引かれることなく窓際の机に歩み寄り、手にしていた物をその引き出しへと放り込んだ。気に留められもせず、しまわれてしまった当麻からの手紙。今の征士にはそれを受け取る余裕もなかった。
 そして机の上に学生鞄を置くと、部屋の隅に畳まれていた胴衣を抱えて、そのまま道場へと出て行ってしまった。

 秋も盛りを過ぎ、板張りの道場は寒さが堪える時期に入る。まだ門下生が現れない早い時間帯に、学校の部活のない日は必ず征士はここに居た。物心が付いた時から慣れ親しんで来た神聖な場所。しかしこの数カ月は、彼の手に竹刀が握られることはなかった。
 彼はただ一心に瞑想し続けていた。迷いが解かれない内は稽古に入れないからだ。その内時間は瞬く間に過ぎてしまい、公共の場と化すここからは退散せざるを得なくなる。無益な時間の行使を繰り返している、それが動かし様のない彼の現実だった。



『…今更何を考えてるんだ。わざわざ発破をかけてやったのに、まるで意に解せないようだ。まさに梨の礫と言うやつさ』
 電話口で当麻は頻りにぼやいている。
「普段しないことをするから、気味悪がってんじゃないの?」
 それを伸は軽く笑いながら返した。征士が深みに嵌まっている事実を説明されても、それこそ「今更」だと思えたからだ。
『俺のことはいい、おまえに何か話してないかと思ってな』
 己の非を責められそうに感じれば、当麻は素早く話を切り返す。無論伸に電話を掛けた目的は、己の反省点を聞く為ではないのだ。しかし伸にしても、彼に話せる情報は殆ど無い状態だった。
「別に…、少し前に一度会ったけど、九月以降あんまり連絡取ってないんだ」
『へえ?、水滸の伸ともあろう者が、意外に冷たいな』
 理由を問われても、自分でも判らないことが多いのだから仕方ない。
「避けてる訳じゃないんだ、考えてはいるんだよ、いつも」
 伸は言葉に迷うように、短く区切りながら話を続けていた。
「でも、思い留まらせるものがあるんだ、何となく」
『まあ、分からないでもないな』
 どんなに話をしたいと、考えを聞きたいと願ったとしても、今は征士自身に拒絶されてしまうだろう。本音を聞き出そうとして己が苦しんだことを、伸はまだ全く忘れられないでいた。
 仲間の痛みは己の痛みだった。五人の内の誰にしても、何かしてあげられる事はないかと一様に思う、それが培われて来た彼等の絆だ。しかし征士は、元来誰にも頼ろうとしない性質なのだ。他人を当てにすることが罪悪であるかのように、或いは自己を蝕む病のようにさえ思っている。厳しい環境の中で育って来たとは言え、ただひとつの妥協もなく生きることは、人間には不可能だと思うのだが。
 誰もが征士の悩みを知っていて、認め、既に許しているが、肝心の本人だけが許容できないとする。だから彼が自から話してくれる時を、待つしかない。
「それにさ、」
 伸は躊躇いながらも、新たに何かを切り出そうとしていた。
「こうして普通の生活に戻ってると、ふっと恐くなることがあるんだ、色んなことが」
 何を言いたいのか、という伸の話し方にも、既に誰もが慣れていた。
『征士は戻って来ないとでも?』
 けれど当麻の問い掛けには、特に肯定も否定もしなかった。
「いや、ただ…こんな風に連絡を取ったり、集まったりすることが、また新たな戦いを呼び込んでるような気がするから…」
 何故なら鎧は「力」そのものだから。
 何処かに明るい光が差せば、別の何処かは闇に沈んで行くのがこの世の常。右に傾くものがあれば、必ず左に傾くものがあって保たれるこの世界。決して片方が消えて無くなることはない。そして彼等の結束が強くなればなる程、悪しき力にも呼び寄せられるだろう。その考え方は当麻にも解らなくはなかった。が、
『考え過ぎだと思う、いや考えても仕方がない。それが俺達に与えられた使命だからな』
 使命だから、と言う言葉で全てを割り切れるなら、今頃こんな思いはしていないだろう。と伸は強く胸で呟きながらも、
「そうだね」
 と返事をしていた。本音など、そうおいそれと口に出せるものではない。

 二十分程度の話を終えた後、伸は自室に戻り、ベッドに横になったまま暫し考え事をしていた。
 普段と何ら変わらない静かな夜、時計の針は午後十時を回っていた。考えても仕方のないことだと、つい先刻当麻に言われたばかりだが、伸には頭から離れない思いが、己の中で日に日に強く根を張り、遂には逆らえない程に絡め取られている今が在る。
 真意であるが故に吐き出せない思い。
『戦いたくない』
 誰かの為に、何かの為に、例え賞賛される素晴らしい勝利を得たとしても、消えて行った命の、流された血の記憶が消える訳ではなかった。そうして心に受けた悲しみと言う傷跡が、自分にも、仲間達の中にも蓄積されて行く未来を思う。歪められつつある未来を思う。力が生み出す喜びも悲しみも皆、彼等の命と共にあり、共に影響し合っているからだ。
『戦えば傷付くし、みんなが傷付けば辛い…』
 最も大切な友達、それぞれが輝く個性を持って、他の誰にも代えられない仲間となった者達が、今は望まない進化に苦悩を始めている。そして戦う度に更に傷を負って行くだろう。これ以上戦いを意識して生きるのはただ不安でしかない。
『でも』
 人類の箱庭の片隅に紛れ、こうして束の間の平和を漂っていられる今。今、今でさえ不安だった。戦いを否定すれば返ってそれも、不安へと通じる道のひとつだと解る。
『もし戦いの日々が本当に終わって、真の平和が訪れることがあれば、今度は別の何かを失ってしまうかも知れない』
『広い意味での平和は、僕に取っての平和とは違うのかも知れない』
『僕等は「僕等」ではなくなってしまうかも知れない…』

 伸はそのまま眠りに就いてしまった。



 暗転。



 東から生まれ出ずるもの達、西の水辺に再び無へと還りぬ。
 神の座したるローカ・パドマの四季を見ている。

 生は死を、死は生を紡ぎ、幾度も忘れ去られていく。



 ふと気付くと、仄明るい空の下、征士は蓮の泉の浅瀬に立ってぼんやりとしていた。
 不思議な場所だった。見渡す限りの白い空間には、建物はおろか、連なる山々の影さえ見出せない。うっすらと地平線が横たわるばかりの、他に何も無い空間のように感じた。その広く生温い水辺には、大小様々な蓮の葉が所狭しと浮かんでいた。水面に敷き詰められる緑の隙間から、所々に覗いた鮮やかな紅色の花ばかりが、この場所を印象深く際立たせていた。
 白い、白い、白い世界。
「何だ、ここは…?。煩悩京…ではないようだ…」
 暫しの間様子見に佇んでいた征士だが、そこで周囲を見回そうと少しずつ体の向きを変えてみる。すると自分の背後に、子供が乗れる程大きな葉のひとつに凭れて、眠っているような様子の伸が居る。自分が気付くより随分前から、伸はそこにそうしていたのだろうと征士は思う。
 突然見知らぬ場所に放り出されたことに、そこまで不安を感じていた訳ではないが、植物の他に生き物の姿は無く、征士には些か退屈な場所だった。だから必然的にそこに居た伸に声をかけた。
「おい、伸、起きろ」
 本当に眠っているのかどうかは怪しいと、征士は多少なりとも訝しんでいた。伸は普段、決まった格好でないと眠れないと言っていたので。体の大部分を水の下に浸しながら、言ってみれば「縦になって」寝ているのだ。この奇妙な状況で果たして眠れるものだろうかと。
 暫く待ってみたが彼の反応はない。仕方なく肩を掴んで揺り動かすと、漸く気だるそうに伸は答えた。
「何だい…、人が折角、気持良く眠ってるのに…」
 征士にはその態度はよく解らなかった。
「何をしている」
「昼寝さ」
 顔を上げた伸の髪は、葉の縁から上がった泉の水に濡れていた。その貼り付いて来る髪の束を、彼は煩そうに掻き揚げながら微睡んでいる。
「…ここの水はいいよ、嫌なことも辛いことも、みんな忘れられるから…」
 呟くようにそう言って、伸は密かに波立つ水の上に視線を落とした。ここには悲しみも苦痛も存在しない。無上の理想郷を愛しむような、静かな眼差しを以ってこの世界を受け入れている伸。
 けれどそんな様子を見て、征士には何故だか怒りのようなものが感じられた。
「そんな調子の良いことがあるものか」
 何かに追い立てられるように、征士は感情のまま吐き捨てていた。思考するより先に言葉が出ること自体、彼にしてはとても珍しいことだ。そしてその紛れもない嫌悪を示した彼を、伸は再び顔を上げて、酷く悲しげな瞳で見詰めていた。
「…信じないの?」
 それは身に詰まされる言葉と瞳の鎖縛。
 認めれば彼の全てを否定することになるだろう。けれど、明らかに征士は信じることができないのだ。誰の言うことも、自分自身も。
「君は、僕を、忘れてしまうつもりなんだね」
 すると伸はそう言い残して、水の上に出ていた上半身をスッと水中に沈めてしまった。
 静寂。
 ただ伸の存在がそこから消えてしまった。
「おい…?、伸、何処に行った?」
 振り返るが、征士の視界の何処にもその姿は捉えられない。泉は変わらず静けさを守り、僅かな葉擦れの音も、弾ける泡音のひとつも耳に届くことはない。
『見えない』
 征士は探すことを諦めて向き直る。そして伸が沈んで行った辺りの水面を、じっと見詰めていた。
 膝下を浸す程度の場所に征士は立っていたが、そのすぐ横から水は深くなっているようだ。黒々とした闇を映す水の色で推測できた。伸が何処かに消えたとすれば、恐らくその水の下に居るのだろう。そうでなければ、何故彼等がここで出会ったのか解らない。彼等だけがここに居る理由が解らない。
 彼等は会って、何かをしなければまるで意味がない。
 暫くの間そんな考えに浸りながら、覗き込むだけに留まっていた征士だが、やがて覚悟を決めたように、彼は額の前に手を合わせて言った。
「南無三…」
 彼はそこまで泳ぎが得意ではない。未知なる水の下をただ、楽しみに潜る気持には凡そなれない。均一な植物に埋め尽くされた、恐らく視界も悪い水中を、思うように動けるとは到底思えなかった。
 彼は大きく息を吸って、深い水の中へと入って行った。

 水平線。ほんの僅かな境界を隔てて、そこは反対に仄暗い世界だった。

 否、下を見れば切りも無い闇が続いているように見える。
 例えて言うなら「水牢」とでも表現できる光景だった。成長し切った太い蓮の幹が、濫立する柱の如く下から上へと貫いている。限りない水の底から貪欲に空へと伸びている、その圧迫感は見る者を小さく、水の迷宮へと閉じ込めてしまいそうだ。そして何らかの規則を持って揺らめく様は、出口を知らぬ迷い子を嘲けり笑う、冷ややかな微笑の群れと化していた。
 気分が悪い。気分が悪い場所だ。
 征士は頭上に広がる水面の明かりを頼りながら、水平方向へ少しずつ移動して行った。蓮の緑、水の翠、紛らわしい林には選べる道も無く、ただ隙間を伝って出られる所に出るだけだ。足許の方向だけは、何も見えない空間が遠く広がっている。引き込まれそうな黒の闇、泥のさざめき、心許なく彷徨う命を呼び寄せるかのように、それらは安楽の底に沈んでいる。
 ふと、彼の視界で何かが揺れた。
 足許の更に深い場所を漂う、伸の着ていた明るいシャツの色が見えた。
 けれど暗すぎてそれ以外は判らなかった。
 想像したよりも、泉の暗がりはすぐそこから始まっている。これ以上彼の姿を目で追うことはできそうもなかった。呼び止めようにも届かない、否声を発することは無意味だった。何もできない。そのまま伸はまた、蓮の螺旋の下へと消えて行ってしまいそうだった。彼は増々暗さを増す水の深みへと、何の苦労も恐れもなく降りて行く。
 行ってしまう。
 そのまま見送る訳にはいかない。征士はその後を追おうと、何とか深い方へ降下を始めたが、しかし慣れないことには所詮限界があるものだ。
 息が続かない。追わなければという気持はあっても、苦しい。喉が締め付けられる。肺から悲鳴が昇って来る。思うようにならないことが、何もかも苦しい。
『もう駄目だ…』
 と、征士は最後の一息を叫びに変えた。

 その時何処からともなく現れた腕が彼のそれを掴む。すると途端に楽になった。見開いた征士の目の前に、彼の人は再び姿を現していた。



 明転。



 そこは薄暗い水中だった筈だ。
 けれど今は光に飛ばされたような白い空間に居た。
 そしてまだ下へ下へと落ちていた。宇宙空間にでも投げ出されたように、不安定に浮かびながらもふたりは確実に下降していた。
 しかし蓮の茎だけは変わらず、ずっと下方から天上への道を繋いでいる。気が遠くなるような年月の、気が遠くなるような成長が感じられた。こんな風にただひとつの到達点を目指して、いつまで続くとも知れない命を生きる間に、果たしてどれだけの変化を重ねて来たのだろう。最早何も気にならなくなる程に、在りし日の記憶も失くしてしまっただろうか。
 年月と共に、否応無しに忘れてしまうことがある。
 忘れたくないことまで忘れてしまう時が来る。
 確と存在するのは蓮の林ばかりで、まだ足を着けられる地面も知らず、確固とした天井も元よりありはしない。落ち着かない心境を表すように、ただ拠り所無く空回りしている。ふたりはゆっくりと回転しながら落ちている。
 終点である底を求めて目を凝らせている。
 しかし今度は明るすぎて、やはり何も見えない。見出せない。
 空虚さ、不安定さ、不安、不安。

 突然征士は喚き立てるように言った。
「手を離さないでくれ!」
 その声は木立を渡る谺の様に響いて、やがて何処かへ吸い込まれて行った。伸が彼の腕を掴んでいる様子は、その力の具合も、位置も、先程から何一つ変わってはいない。白昼の疑心暗鬼が征士を苛んでいる。全てはこの虚ろな空間の所為。
「そんなこと、分からないよ」
 けれど伸はまるで動じていなかった。否努めて冷静にそう返し、征士の方を向こうともしない。まるで普段とは反対の彼等。
「止めてくれ、何故それで納得するのだ!、私は嫌だ」
 理想と現実。
 曖昧なものでは支えられない己を知り、ひとつでも確かなものをと、征士は闇雲に模索し続けていた。彼はここに来るよりずっと前から足掻き続けている。けれど確かに約束された物事など、何処に存在すると言うのだろう。征士の求める答えは未だ見付からないままだ。伸ならばいつの時も、移ろい易い人の心の間に生きているけれど。
「嫌だと言っても、もしも、僕が死んだら、この手は自然に離れる」
「何故死ぬ?、何故死ぬなどと言う!」
 征士は半ば怒鳴るような口調に変わって行った。それでもまるで通じない言葉は無力だった。伸は逆撫でされる訳でもなく、返って淡々と冷え込むように話している。
「分かってる筈だ。みんなも、君も知ってることだ。戦力的に見たら、僕はみんなに比べて劣っているだろう。僕はいつ死んだとしても、おかしくはない」
「止めろ!」
 怒り、嘆き、沸き上がって来たものが全て、目の前に居る存在に向けられていた。確かだと思いたい存在に向けられていた。そこに集約されるのは、失敗もひとつの価値だと認めてくれる者を、これ以上裏切りたくないと言う切なる願い。だから伸には、自らを否定しないでほしかった。価値の低い人間など決して居てはならない。
 それだけの感情だったのだが、
「だから余り僕に頼らない方がいい」
 続けられた言葉は、信の文字を持つ者にしては切な過ぎた。
「それ以上言わないでくれ!。…伸は間違っている。私もいい加減、何ひとつ分からないままだ。だが伸も誤っている!」
 征士は叫んでいた。
 伸という人は、元より己の属する場所を心得た人だ。誰もが心に持ちながら、密かにその奥底へと隠す暗い水辺の傍に彼は居る。他の誰にも冒し得ない、「心」と言う掴み所のない領域の利こそあれ、その暗い側面からも逃れられないことを既に、早くから覚ってしまっている。それは全て己が引き受けると。
 しかし、
「忘れたい」
 伸は言った。そして征士は黙った。それは双方の中に存在する言葉だった。
「忘れたい、全ての悲しみ、全ての苦痛、全ての怒り、全ての、それに繋がるもの…」
 しかし言った傍から伸は割り切れない顔をした。征士の指摘するように、伸にも答が見える訳ではない。口から綴られる言葉とは関係なく、迷っている。
 否迷い続けている。自分以外の存在が無ければ、『信』の意味など全く無価値だと知っている。そこに誰かが居ると判ればそれだけで安心できた。誰かが居た、誰かが昨日は居た、誰かは今日も居た。そして誰かが明日も居てくれるように、戦うことを受け入れて来た。
 制御の利かない体をどうにか動かして、伸は漸く征士の方に姿勢を向かわせる。彼を前にすると、言ってはいけない言葉が、自然と口を突いて出てしまった。
「僕は、戦いたくない」
 初めて真直ぐ向き合っている伸の言葉を、征士は逆わずに受け取っていた。
「得るものより、失うものの方が多いことに賭けたいなんて、僕は思わない。…でも、どうしてなんだ?、戦っても戦わなくても失くしてしまうんだ…」
 そしてその意味することは、征士にも何となく理解できた。
 漸く芽吹いたばかりの己の存在など、内なる進化への欲求に淘汰され、ただ天へと手を伸ばすことに明け暮れる、植物の茎のようなもの。戦い続ければ常に命の危険に晒されるが、時が全てを変貌させてしまうように、戦いを止めれば、今の状態もいずれ様子を変えてしまうかも知れない。
 忘れたくないことまで忘れてしまうかも知れない。
「どっちを選べばいいんだ、…君はどうする、君は忘れた方がいいのか…?」
 俄に苦しげな表情へと変化した、伸は、選べない選択肢について考え続けている。そしてふと心が離れそうになる一瞬、伸の掌は力を失った。
「手を!、離さないでくれ!、全てを失ってしまいそうなのだ!」
 青褪めた額を一筋の汗が伝った。声が震えていた。何の為に征士はそこまで追い詰められている。
 何の為に彼等は迷う。

 降りて来た白の宙空の下方からは、再び現れた静かな薄闇が彼等を呼んでいた。静と動、昼と夜を繰り返しながら、生き物達は皆然るべき最期を迎える。
 その時には何かしら、答えが与えられるのだろう。
 その時にはどちらを選ぶのか、答えが出せるのかも知れない。

 けれど、忘れないで。



 暗転。



 そこは酷く湿っていて暖かい。
 ただ暗いばかりの闇の中を、ふたりは変わらない速度で、ゆっくりと離れずに落ち続けている。もう随分長い間水面下の世界を降りて来たが、終わりなく続くように思えた空間は、そろそろ終着点であることを彼等の耳に伝え始めていた。
 蓮の茎を伝う水滴が落ちる度に、底の方では小さな水音が鳴っていた。蓮の泉からここへとやって来た筈だが、また同じ泉に戻ったように彼等を錯覚させる。
 しかしそこは嘗てふたりが居た水辺ではなかった。
 光が見えた。上空からの光はまず届かない深さに、何故だかチラチラと光る水の反射が見え始めた。まだ遠く下方にある水の上を、彼等は何らかの答えに焦がれるように見詰め続けていた。やがてそれら、光を放つ光源は、水の上にぱらぱらと点在しているのが見えて来る。眼下に夜空を見るような、或いは星の旅をしているような不思議な感覚。それが何であるかはまだ判らない。
 彼等は降りて行った。深淵の暗闇を最早恐れることなく降りて行った。
 降りて行った。
 降りて行った。
 そして漸くその姿形を捉えたところで、彼等には言葉が出なかった。
 一面に広がる暗い水辺には、折り重なるように蓮の葉が敷き詰められている。そしてその隙間から思い思いに頭を擡げた、赤い蓮の花が光を発していたのだ。この世の風景とも感じられない幻想的な蓮の池は、そこに辿り着く者に手を拱いて待っていた。
 もしかしたら、この花は神の降臨を待ち続けていたのかも知れない。時に浮遊するローカ・パドマの上に、時を操る神の到来を待ち望んでいるのかも知れない。但しそう思えるなら、無闇にそこへ降りるのは烏滸がましいけれど。
 彼等のすぐ下には一際大きな花が近付いていた。そして引き寄せられるように、彼等はゆるゆるとその上に落ちてしまった。

 暫く、何も言わずそこに佇んで、ふたりは取り巻く不思議な光を眺めていた。ところがふと、どちらともなく密かな笑い声を漏らし始めていた。何が可笑しいともつかないが笑っている。心が笑っているのだ。それは歓喜する花の心だったかも知れないが。
「何故私の腕を掴んでいるのだ」
 征士が尋ねると、
「え、ああ…、君が何処かに行ってしまうからだろ」
 と伸は答えた。すると征士は、とても穏やかな顔をして返した。
「私はここに居る。何処かに行きたいとは思わない」
 伸もそれに何ら疑問も持たずにいるようだ。交わされている言葉ではなく、何か別の部分で彼等は交信している。
「じゃあ、違うよ、こうして脈をみてるんだ」
 だから冗談めいた発言をしても、間違えることはない。
「みてどうするのだ」
「んーと、ちゃんと生きてるのかなって」
 実の無い会話をしては、一頻り笑い続けていた。
 そして伸は軽やかな溜め息を吐く。
「ああ、だめだね、思い出せないよ。どうして手を掴んでるかなんて、忘れちゃったな」
 言いながら、彼が余りに満ち足りて微笑むので、征士は何かを続けようとして口を開いた。
 ところが、
「…?、…名前…は?」
「え?、僕の名前?…、…」
 ふたりは顔を見合わせてしまった。
 ざわめく靄ががふたりを取り囲み始める。何も判らない、何も判らなくなっていることに気付かなかった。呼び合う名前も思い出せない。僕は誰だ。君は何者だ。
「君は僕のことを忘れてしまうのか…?」
 再び問いかけられた言葉に、けれど征士はこう答えられていた。
「…目の前に居る人間をどう忘れろと言うのだ」
 すると、一度覚えた不安はすぐに散じてしまった。そうだ、名前が何だと言うのだろう、名前など持たない命の方が、この世には圧倒的に多く存在するのだ。何を甘えている、何者であったとしても僕らはここに居るのだから。
「ああ!、だからだよきっと。だからこうして手を掴んでるんだね」
 そしてとても幸せな気持だ。
 伸は屈託のない笑顔を以って、その気持を隠すことなく表現していた。征士は掴まれている腕を引いて、伸の手首を握り返すと、
「離れない」
 と一言だけ返した。
 それ以上の会話は続かなかった。言葉よりも確実なのは、ただ近くに居ることだった。誰よりも傍に居て、名もなき人の目を口を、体から聞こえる鼓動を遮二無二求めていればよかった。
 何故こんなに単純なことを知らなかったのだろう。何が目隠しになっていたのだろう。と、疑問に思う幾つかの事例さえも、もう既に過去のことでしかない。要らない過去なら忘れられる。忘れても良い。
 君が居ると判るなら、どうと言うこともなかった。

『確かなものがほしい』
『何があろうと生きていることだ』

 彼等の出した答えは、何処ともない闇の中に温められている。いつか孵化する時を待つように。



 翌朝。
 常に同じような顔をした一日は訪れていた。
 通常通り朝六時前に目を覚ました征士は、普段と何ら変わらない手順で部屋を片すと、胴衣に着替えて、それもまた変わらない日課の素振りをする為に、足早に道場へと消えてしまった。
 早起きの衆が集うこの家では既に、そこかしこにけたたましい音が鳴り響いていた。それが至って変わらない日常だった。

「っくしゅん」
 家族の集まる台所に顔を出した伸は、挨拶と共に朝から嚔をしていた。
「…風邪?」
「昨日、考え事してたら、窓開けたまんま寝ちゃってさー」
 参ったな、という顔で説明をする伸を見て、
「気をつけなさいよ」
 母親はいつもと変わらない、穏やかな様子で一言注意をした。彼の姉も仕方なさそうな微笑みに和んでいる。特別なことは何も無い、普段通りの家庭の表情がそこに在った。

 忘れてしまっていた。



 忘却の花よ、無から有を生き、有から無へと還る全ての命を慰め給え。



終(光輪伝につづく)





コメント/こんな話でした、どうだったでしょうか。実はやおい省略しました(笑)。夢の中の場面なので、まあ書いてもあんまり意味ないかと。夢の描写が中心な意味では、前に書いた「水面の月」と同様な訳ですが、「光輪伝」自体がそういう話だったから、こんな話があってもいいだろうということで。
ところでLOTUS=蓮について。ゆだみは過去のトルーパー本でも、「LOTUS LOVE」とゆうタイトルの本があって、この題材は結構気に入ってたりします。いや、過去の本についてはただ、YMOの曲からイメージしただけの話でしたが…。
それでこの話を書き終えた時、その「LOTUS LOVE」の事を思い出し、本の内容をすっかり忘れていることに気付きました(笑)。都合の悪いことは忘れられるステキな生き物です、人間は。



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