学校へ行く伸
けふのゆめあふさかのゆめ
A Melancholic Polis



 何処かへ出掛けたいと思えなくなる時が、恐いと感じたことはないだろうか?。
 歩みを止めた旅人の前には、もう何も開けないのだから…。



 九月の始め、伸の家に一本の電話があった。
『よう、伸。元気か?。俺九月二十五日に、ちょっとそっちに行くことになったんだけどよ』
 電話の主はすぐに秀だと判ったけれど、その内容は瞬時には理解できなかった。
「えっ?、どうしたの、何でそんな時期に」
 伸がそう問い返すのも無理はない。玄関の親電話の横に置かれた、卓上カレンダーもそれを示している。九月二十五日は水曜日だった。楽しさとひと欠片の悔恨とを残した夏が終り、二学期が始まった後の水曜日に、一体何のイベントが存在するだろうか。
 しかし驚いている伸の声に、秀は酷く明解な調子で言った。
『修学旅行だ、修学旅行!』
「ああ!、そっか、言われてみれば今年だったんだ、みんな」
 伸はすっかり忘れていたのだが、他の仲間達は現在高校二年生だった。自分が受験勉強をしている現実を考えれば、自ずと思い付きそうなものだったが。
 しかし彼の意識は今、何故か多くの事を捕捉できないでいた。本来は「気配り人間」と言われるタイプの彼が、その性を忘れているかのように。まるで、ひと所に漂う湖水の霧の様に、遠くの海を目指そうと言う希望が見られない。何かが彼の手足を絡め取って、その先に進ませないようにしている。幸い勉強が捗らないことはなかったが。
 直接の理由は本人にも判らなかった。初めて触れたアフリカの太陽と、無事に戻って来られた日本で過ごした数日のこと。そして仲間達と別れた後から、失った物の大きさを切に感じる日もあった。ただ、喪失感から来る淋しさなら確と見えている。戦いから離れることは自らの意思だった。それについての遣る瀬ない思いとは、また別の何かが胸に押し寄せている気がした。
 そんな、他の音まで掻き消すような潮騒が、今は伸の心を埋め尽している。
『二十五日に山口市内に泊まって、その後九州の方に行っちまうんだけど、伸も暇だったら来ねぇ?』
 ややぼんやりした受け答えの伸に、しかし秀は普段と変わらぬ様子でそう続ける。
「は?、何で地元の僕が…」
 伸はそこに至るまで、秀の話の意味が取れていなかった。が、暫し考えると、漸く相応しい返事をすることもできた。ちょっとした夏ボケかと感じた秀も、それで話のリズムを掴むことができたようだ。
「…じゃないな、勝手に抜け出すつもりかい?」
『勝手じゃねぇよ!、夕食後は徒歩圏内なら自由時間だぜ?。それに遼も集まろうって言ってんだ』
「どういう事…?」
 自由行動の時間内に会おう、とのお誘いの内容は解ったものの、伸にはまたもうひとつ、不思議に感じる名前が登場していた。何故秀とは学校の違う遼が、わざわざその場に参加すると言うのか。そして秀は「これぞ本題」と言う調子で切り出していた。
『それが偶然なんだ!、遼の学校は二十五日に山口に居て、次の日帰るんだってよ。遼ンとこは広島、山口、俺ンとこは山口、熊本、鹿児島ってルートでよ』
 そう、ふたりが何らかの連絡を取った際に、同じ日に山口のホテルに泊まっていて、しかもそれがかなり近い立地だと、偶然気付いた事を秀は伝えたかったのだ。受話器から聞こえる彼の喜々とした声色に、その意図は充分過ぎる程現れていた。
「へぇ〜?。確かに関東からの修学旅行生は多いけど」
『こっちじゃ高校は九州、中国、四国が定番だし、学校多いからこんな事もあんだよな』
 続けて秀が話す通り、関東の公立高校は大方その方面に旅行に行くものだ。稀に京都、仙台、北海道等もあるが、どちらかと言うと稀なケースに入るだろう。
「そうか〜。うーんと…」
 大方の事情が判ると、伸はもう一度卓上カレンダーの数字に目を遣った。自分を含めて過半数が集まると言うなら、無碍に誘いを断る訳にもいなかいと思って。
「うん、別に用事は入ってないよ、じゃあそっちで時間決めてくれたら顔出すよ」
 そして伸は、その頃は通常通り学校と自宅の往復であると、簡潔に秀に伝えていた。
『よし決まったっ!。んじゃ、詳しい事決まったらまた電話するな!』
「分かった…。あ、誕生日おめでとう、だね」
『ハハハ、サンキュー!』
 けれど。
 秀の変わらぬ元気な声に対して、伸の口からは思わず溜息が漏れていた。何を聞いても、楽しくても腹の底から声が出ないような毎日。退屈過ぎる日常ほど今の伸には楽だった。何か事が起こる度に、身に空いた風穴から空気が抜けて行くような、力無い己の意識に気付いてしまう。まるで日照りが続く夏場の、干涸びた植物が萎れた枝葉を地面に預けて寝そべる、生気の無い光景を想像させた。
 もしかしたら、何かが深刻に乾いているのかも知れない。いつになったら、或いはどうしたらこの倦怠感から抜け出せるだろうか。ここから再び動き出せるだろうか。
 しかし、考えるともなく考えながら、伸はあっさり電話から離れて歩き出していた。
「何かあったの?」
 すると玄関に近い予備室にて、洗濯物をたたんでいた姉の小夜子が声を掛けた。電話口で些か頓狂な声を上げていた伸に、何かしら興味を示しているようだった。
「ああ、うん。遼と秀がね、同じ日にこっちに修学旅行に来るみたいなんだ。だから『ちょっと出て来れない?』って話」
「え、なあに、二人共同じ日に来るの?」
 伸の家族達は、伸が話題にする特別な仲間のことは既に、全てを把握しているようだった。直接会ったことのないメンバーも含まれるが、写真等から姿もほぼ一致させて憶えている。この家には大事なひとり息子だからか、その気の遣い様は並々ならぬものが感じられる。無論良い意味での気遣いだ。
「そうらしいよ、妙な事もあるもんだね」
 と、伸はそうはしゃぎもせず感想を口にした。するとむしろ彼の姉君の方が、気持良く感嘆の意を表して答えていた。反応の鈍くなっている弟の代わりに、彼女が本来の気持を代弁するかのようだった。
「まあ、面白い偶然じゃない?。…じゃあその日は伸も出掛けなきゃならないわね?」
「え?、ならないって言うか…」
 畳に座して自分を見上げている、一点の曇りも無い、優しいばかりの姉の笑顔に相まって、その言葉は妙に力強く伸に届いていた。そしてだから、戸惑い気味の伸に彼女はこう続けた。
「みんなが集まる時は、『何を置いても最優先なんだ』って前から聞いてるわよ?。『大事な友達なんだ』って」
「あー。うん、そうだけど」
 勿論、それは仲間達に出会った最初の戦いから、これまで決まり事のように続いて来た習慣だ。本来は与えられた使命を全うする為だったが、いつしか、ただ遊びに出ると言う約束でも、偶然会う機会ができた時にも、全て優先的に採用される規則となっていた。義務的な意識ではない、自らその仲間に加わりたくてそうしていた。仲間と居る時間こそが至上だったに過ぎない。
 だが今の伸には、そうしたいと言う心の衝動が、昔程強く感じられなくなっているようだ。もし、これが鎧を介しての成長であり、卒業であるとしたら切な過ぎる現実かも知れない。実は、どうしてもそうする必要はなかったと、冷静に過去を振り返れるようになった伸。
 勿論、必要だけで世界が成り立っている訳ではないが。
「でも、今回はちょっと考えるよ。会いに行くとしても多分夜だし、山口市内まで行ったら朝帰りになっちゃうよ」
 少年達の現状の変化を知らないとは言え、姉の良心的な進言に対し、伸はそんな迷いを口にしていた。恐らく彼女には「伸らしくない」と受取られることだろう。これまで仲間達に関する用事で、家を空けることに悩む伸ではなかった。拠って次に続けられる会話も、彼には少しばかり予想できていた。まず「どうして?」と問われるだろうと。
 ところが、
「そうね、ここからはちょっと距離があるわね。じゃあ気を付けて行って来なさい、遅くなるなら尚更、みんなに迷惑にならないようにね」
 小夜子はそんな風に、伸の態度を全く汲まない言葉で返していた。仕種や物腰は普段と変わらないのだが、今日は何故だか自分を狼狽えさせる姉が居る。自分が心に、暗に感じている気持が通じない人ではないのに、と、不安を誘う違和感が伸を揺り動かしている。
「そうだけど…。だから、そうじゃなくてさ」
「何?」
「何か、僕を行かせたがってるみたいだな、姉さんは」
 伸はそれで、彼女の考えを率直に話してもらおうと思った。
「…伸には大事な事だと思うからよ?」
「そぉお?」
 姉の簡単な言い回しの裏に何があるのか、今の伸には気付けないのかも知れない。見ている所が違う者同士の会話とは、大方そんな風になってしまうだろう。ただ、小夜子が頻りに笑顔を向けて来るのには、何か意図があると伸は気付いていた。そして彼女はもう一言続けた。
「私、伸の様子が変わった頃のこと、よく憶えているもの」
 それは、前の言葉からは直接繋がってはいないが、彼女に取っても大切な記憶だと言う意思表示、なのだろう。この家に住まう者全てに大事な事だと、彼女は伝えたかったようだ。
 何故ならそれを聞いた途端伸は黙ってしまった。
 『言霊』と言う言葉があるが、全ての言葉には魂が存在し、その魂を生み出すのは人の心と行いだと言う。悪しき言葉には悪しき魂が宿る、善き言葉には善き魂が宿る。そして一度産み出された善も悪も、無へと戻すことはできないと言う。果たして、小夜子が今言葉に与えた魂は、どれだけの力を持っていたのだろうか。
「・・・・・・・・」
 人の始まりは必ずしも生まれた時点ではない。
 毛利伸と言う名のただの少年が、普通の存在でなくなった時を家族は知っているが、その後の苦悩する日々も大きな幸福も、一歩離れた所から見守って来た家族なのだ。そう、思い悩んでいた頃もあっただろう、束の間の平和を楽しむ日々もあっただろう。それらを通じて今に辿り着いた伸のことを、小夜子は今も見詰め続けていると言う事実だった。
 だから姉の言葉は心からのものだと、他を疑う余地は無かった。
 俄に与えられた難しい環境で、君がどんなに成長したかを君は知らない。
 今その歩みを止めてしまうのは良くないと、彼女は言葉にせずに言っているのだ。
「ね、少しくらい無理しても、行った方がいいわ」
「うん…」
 半分は親代わりだった、年の離れた姉の言う事を聞けない訳ではないが、伸は今ひとつ歯切れの悪い返事で返した。彼女の心は充分に解るのに、まだ何かが足りないような気がしていた。
 それは伸の中の何処かで、未来を恐れる気持が生まれた所為なのだ。
 場合に拠っては家族より大切な背景があるからこそ。



 思えば修学旅行と言うイベント自体に、あまりこだわりが無かった気がする。普通なら同学年の仲間と遠出して、寝食を共にする機会は少ないかも知れない。その点に於いては、僕らは酷く恵まれていたのかも知れない…。

 その日の夜、今度は伸が思い立って電話を掛けていた。
「えー?、京都ー?」
 仲間達の中では唯一、解散後に会っている相手だからこそ、言葉を躊躇せずに話せると思った。
『私の高校は伝統的に京都、奈良なのだそうだ。中学は大概東京、神奈川に行くから、距離的にその辺りなのだろう。しかし…、秀達が同時にそっちに行くとは、不愉快な話だ』
「不愉快って!」
『不愉快だ、私は只管自重している時だと言うのに』
 これまでの、戦士としての活動期間に区切りの着いた今年の夏。その夏の終わりを締め括るように、些か羽目を外して遊び歩いていた日々があった。その時はただ、自ら傷付いた思い出を癒す為に、享楽的な雰囲気に漂っていたかった。そしてそんな自分を始まりから、今もずっと見ていてくれる人が居た。伸はだから彼に安心しているのだけれど。
 その為に征士が払った代償は、なかなか大きなものだったらしい。彼は始業式から数日、親に無断で高校を欠席してしまった為、その件に於いて家族の信用を失いかけていた。まあ、彼のことだから後悔はしていないようだが、以後の行動を制約されるのはやむを得ないところだった。
「そう言えば僕も、去年の修学旅行で東京に行ったんだった。馬鹿馬鹿しくて話さなかったけど。京都には中学の時に行ったよ」
『だろう、何故中学の時と同じ場所に行かねばならん』
 征士の不満は解り過ぎる程解る、その土地は戦いに赴いた記憶さえまだ新しい。
 と、過去に思いを馳せながら伸は、どうせ集まるならもっと多くが集まればいいと思っていた。できるなら征士にも来てほしかったのだが、残念ながら彼の高校は行き先が違っていた。否、残念に感じる気持なら、伸より征士の方が勝っている筈だった。これまでの集会に欠席しがちだったのは、部活等で忙しくしていた征士の方なのだ。
 それを思い出すと、伸も自ずと宥める言葉を続けていた。
「まあまあ、場所よりもさ、一生に一度かも知れない高校の修学旅行だろ?」
 思ってもいない事をよく言えたもんだと、自分で思いながら。
『どう言われようと嬉しくない。代われるものなら代わってほしい』
 まあ、伸が何を言っても状況が変わらない限り、征士の意思も変わることはなさそうだった。遼などのような頑固さとは違うが、これと思う事には執着心のある征士だ。又人の意見に流される性格でもない。この場は冗談でも交えて、気を和ませることしか伸にはできそうもなかった。
「え〜、やだなぁ君、そんなに僕に会いたいの?」
『関心のある土地でもないなら、付加要素が有るか無いかは重大だ。物凄く損をした気分だぞ』
「あははは!」
『笑い事ではない』
 冗談らしからぬ征士の怒り口調が、伸には段々と可笑しさに変わって行く。間接的には自分も不運の当事者だが、不思議と状況を笑い飛ばせる心境に至っていた。それは何故だろう、と胸の奥で感じながら。
「いやでも、当麻だって春に北海道に行ったんだし、君だけ仲間外れな訳じゃないからさ」
『それが救いと言うのも情けない話だ』
「ハハハ、それもそうだ」
 人は何らかの種類の不幸や悲劇が訪れると、怒りや悲しみより笑いが込み上げる時がある。今はそんな状況なのだろうか?、と伸は考えていた。
『まあ、なるべく忘れておくさ』
「そんな、なにもそこまでさぁ、」
 そこまでは、笑い話として受け流していた伸だけれど。
『そこまで大事な事だからだ、私には』
 ふと擬視感のようなものを感じた。
 否、昼間に秀から電話がかかって来た後、伸の姉がそんな事を言っていた筈だ。
「…う、うん」
 それで伸が口籠ってしまったのを、征士がどう感じたのかは判らない。
『どうした?』
「いや、何でもない」
 結局、自身の心の動きを捉えられない伸に、この戸惑いを説明する術は無かった。誰も彼もが口を揃えて言うからだ、それは「何よりも大事」だと。嘗てそうであったように、ずっとそうであったように、これからも同じ価値を以って続くことなのだと。
 けれど果たしてそうなるだろうか?、希望すれば希望通りに続くものだろうか?。と、伸は未来に疑いを持ち始めている。お互いの命運を担っての、意義ある戦いを前にした状態なら、否応無しに結束することはできたけれど…。
 ばらばらに解体される未来を望む訳ではない。最も理想的な、輝かしい未来のヴィジョンが無い訳でもない。ただ伸には自信が無かった。生物の進化の歴史の後に、人間の愚かな歴史が積み上がっていることを思えば、意思や思想が変わって行くのは仕方がないと思えた。それが全てに当て嵌まる好例だと、理解せざるを得なくなっている。
 ただ目の前に現れる敵へと、武器を振り翳して向かって行くだけの状況も、回を重ねる毎に複雑に変化して行った。そんな端的な事象に於いてさえ、変わらないことを保障するものは何も無い。そして、何より己が真っ先に変わったと知っている…。
 伸の意欲が薄れている現状とは、つまり、大事な誰かが在っての不安なのだろう。
「って言うか、…使命とか、責任とか、今はなくなったけどさ。もう考えなくていいのか、それじゃいけないような、よく分からない気持があるんだ。大事にしたい事と、大事にできる事は、ちょっと違うんじゃないか、とか…。でも…、」
 何でもないと言っておきながら、伸は何とかこの感情を説明しようと試みる。けれどそんな感じで、結局取り留めない言葉の羅列に終ってしまう。何処かで思考が停滞している為に、日本語として纏めることすらできなかった。
 だが、それに対し征士が返した返事は、
『世の中に対する使役は終えても、人間としての責任は残っているだろう』
 意外に的外れでないものだった。
 無論征士が今日まで、伸の話を注意深く聞いて来た背景がある。『何を考えているのだろう』、その疑問こそが彼等の始まりだった。
「…そうだね…」
 そしていつも、曇って見えなくなった視界が開かれる瞬間は、突然明日からの光が己に差したような、驚きに満ちたものだった。伸にはそう感じられていた。
『だが責任と言っても、法律的なものばかりではない。全てを同じ枠組みで考えることはない、義務でなく善意で動ける者が、最も尊いと言う』
「…うん」
 又、伸には驚きを以って受け取られる話は、征士には日常的に考える内容でもあった。
 それは何故か。
 何故なら考えずにそれができる人徳を、伸は生来の質として獲得しているからだ。伸が自己に自信を持って、調子良く過ごしている時には思い付かない事柄。彼に取っては正に理屈ではないと、端から見ている征士の方が、その性質の構造を理解しているのかも知れない。それ故本人が迷い始めると、途端に己を失ってしまうのも事実だった。
 意識することなく発揮できる本能的な優しさ。
 もしそれを、義務的に感じる状態だとしたら、それ程に自己への不安があると解釈できる。
 征士に考えられたのはただひとつの出来事だった。伸の中ではまだ、この夏の事件は終っていないのかも知れないと。
『それ故、私は責任を以って、伸には善意を尽くそうと思うが、私には修学旅行と言う口実が使えない。現実は上手く行かない、と言う話だ』
「うん…、そっか。あはは、君の言いたい事は分かったよ」
 そして、他の誰より近い相手に対してなら、答は解り易かったと伸も気付いた。
 未来に何が起こるかは予想できないが、その為の基礎を準備することはできる。だから過去と未来の間の、今現在は大切な時間なのだと。君が見ているから僕も見ている。僕が守りたいものは君も守ってくれる。意識してはいなかったけれど、こうして征士が、自分の纏まらない意見に耳を傾けてくれるのも、過去の瞬間瞬間を大事にして来たからだ、と思えた。
 恐らく全てに於いてそうなのだと思えた。
 何よりも大事な事は確かにある、と伸は思いを改め始めていた。
「ありがとう」
『ん?、何に対してだ?』
「フフ…」
 少なくとも、愛し方を間違えていないのなら、自ら愛する者達を恐れることはなかった。
 例え自分がどんなに情けなくとも。



「行ってらっしゃい、夜は気を付けるんですよ」
 九月二十五日。玄関から送り出してくれた母の様子は、自分が子供の頃に比べたら、随分穏やかな安心を感じさせるようになった、と気付いた。
 注目してみなければ、当たり前の日常として流してしまいがちな、普段の生活行動の中に在る変化。小さくてもとても大切な変化に、気付けた事自体が何となく嬉しかった。
 ただ漫然と年を重ねて来た訳ではない、この家には良い時も悲しい時もあったけれど、日々繰り返す遣り取りの中から生まれた、家族の信用がいつも下地にあることを思う。人と人との繋がりは皆それと同じだと思えば、一時迷いに沈んでいた、塞いだ気分が徐々に解れて行くようだった。
「分かってるよ」
 伸は振り返りながら言うと、普段と変わらぬ動作で鞄を手に取り、家の母屋の引き戸から外に出て行った。出てすぐに視界に広がった朝の空は、まだ夏の面影を残す日射しに白んでいた。それももうじき、季節の移り変わりと共に変わって行くだろう。この景色と同様に、まだ夏の名残りを残している自分にも、何らかの自然な変化が齎されるに違いない。そう信じようと伸は思った。
 傷付いた記憶を恐れなくなる時は、もうすぐやって来るかも知れない。
『いつも逃げてばっかりでごめん』
 この後会えるであろう遼と秀に一言、心の中で伸は謝ると、学校へと続く道程を駆け出していた。

 この秋は、京都、大阪に居るふたりが、辿り着けぬ都を夢見る秋だった。









コメント)この話、秀の誕生日に合わせられるネタがありながら、日の目を見るまでに随分時間が経過してしまった。秋口の頃はいつも体調が悪くて、書く機会を逸し続けて来たことがあります。今年は妙に涼しい夏だったお陰で、やっとupすることができました(^ ^)。まあ内容的には大した盛り上がりも無くて、セリフの多いライトタッチな話だけど、輝煌帝伝説の後の伸の様子を書きたかったので、遅れたけど入れた方がいいかな、と。
で、修学旅行についてですが、これは経験上から来た話で、私が高校の頃文通していた北海道の人が、東京に修学旅行に来ると言うので、会いに行こうかな〜と思ったら自分も同じ日程で、広島、岡山の修学旅行だったんです(^ ^;。結局その人とは会えずじまいになっちゃったと言う、若かりし頃の思い出です…。




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