言い争い
金 葉
(こんよう)
A Golden Card



 春の夜の闇はあやなし梅の花 色こそ見えね香やは隠るる 凡河内躬恒

 その年の正月は、伸を除く四人が高校を卒業し、その先の学校へそれぞれ進学した後の、初めての新年会が開かれていた。
 まだ今年も全員、公式に酒を飲める年令には至っていないが、例によって今年も柳生邸では、滞在中の一日だけは無礼講となっていた。昨年の正月は進路の悩みを抱えた遼を気遣い、手放しに楽しめる雰囲気ではなかった。その分今年は大いに盛り上がろうと、誰もが考えていたに違いない。勿論、ナスティに愛想をつかされない範囲で、だ。
 因みに、高校受験の時は最大のお荷物だった、秀は試験なしで入学できる専門学校へ進学した。一般学問を苦手だと自己認識するなら、切り捨ててしまうのも良い選択だ。全ての職種で大学の学習が必要な訳ではない。従ってこの度は、遼だけが受験勉強に苦しんでいた。
 そのお陰で、ふたりの教育係だった当麻の心労は大分軽減された。本人もまた、高校以上に大事な大学受験を前に、最も手の掛かる生徒が手を離れたのは幸いだった。
 そうした訳で、今年の正月の集いは初日から、一際賑やかな酒宴の席と化していた。

 しかしその翌日。
「今年はかるたをやりましょう!」
 昼食を終えた後の長閑な柳生邸の午後、テーブルを立ったナスティはキリリとした様子で言った。何故かは判らないが、まるで一大決心を号令するようでもあった。すると早速、
「かるたって?、犬も歩けば棒に当たる?」
 と言う秀の茶々が入るが、いつもならそこである程度説明をする彼女が、その時は一言、
「違います!」
 切り捨てるように厳しく返したので、無知に対する説明役は、今日の催しの事情を知る伸に回って来た。
「百人一首だよ」
「ん…?、ああ!」
 すると、流石の秀も心当たりがある様子を見せる。それは当然の反応だ、日本の普通科の高校に通っていれば、必ず国語の授業で触れる機会がある筈だ。恐らく彼も、朧げでも高校で習ったことを憶えているのだろうと、伸は良心的な解釈で見ていたが、秀の次の言葉は全く彼らしいものだった。
「そう言や一月に毎年トーナメントがあって、学校でお汁粉食えたんだよなー!」
 結局食べ物かい…。と、判り切ったような状況に伸は落胆するが、ナスティの方はそれも織込み済みの様子で笑った。
「お汁粉も用意してあるわよ」
「おっ!、マジ?」
 即座に食い付いて来た秀を見ると、彼女のやり方が如何に正しいか、改めて確認させられる伸だった。
「その前に、みんなには教養を養っていただきます!。みんなもう大人と認められる年になったんだから、最低限の嗜みを持ちましょう!」
「え〜…」
 尚、ナスティの教養講座は今に始まったことではない。一昨年の正月には茶会を開き、薄茶と菓子をいただく作法を教えた。無論触りだけだが、それでも常に騒々しい柳生邸での集会が、一時静かで厳かな雰囲気に包まれた。たまにはそうした、気の引き締まる行事を行うのもいいことだ。
 彼女がそう思い付いた切っ掛けは、正に一昨年の正月、まだ完全な未成年であった五人が勝手に、酒を持ち込んで宴会状態にしてしまったことだ。一応保護責任を負う立場として彼女は、飲酒を止めろとは言わない代わりに、それとは反対の教育をしようと考えたのだった。
 人間、堕落するのは簡単だが、嘗て世界の為に戦った少年達にはせめて、最後まで胸を張れる人生を送ってもらいたい。と言うナスティの親心だ。
 ただそれが五人に伝わっているかどうか。否、一部の者には無用な心配かも知れないが、頭痛の種は常にそこから外れた一、二人…
「そんな文句言うことないだろ?、かるたなんて遊びじゃないか」
 と、気楽な様子で言った遼は、やはりナスティの意図を解っていないようだ。対して、
「そうかなァ…?」
 と難しい顔で返した秀は、解っていて拒絶するから質が悪い。遼の通った学校ではなかったようだが、秀は高校の試験か何かで、嫌な目に遭った記憶があるのだろう。まあ、そうした勉強音痴、勉強嫌いの面々を良い方向に導くのも、学識者の義務かも知れないと、昨年から大学院に通うナスティは考えている。
 するとそこで、
「だが今更じゃないか、普通中学生くらいで始められるもんだ」
 問題のないグループのひとり、当麻が部屋に姿を現すと同時にそう尋ねる。確かに彼の言う通り、一般には小・中学生の内にゲームとして出会い、高校で内容を勉強するものだ。今頃になって教養と言われても、と、彼には納得できなかっただろう。それについて、
「これまで機会を逸して来たからさ」
 場のセッティングをする伸が簡単に話すと、続けてナスティが詳しい事情を話した。
「そうなのよ、みんなが出会った最初の年は、伸以外はみんな中学生だったし、受験があったからお正月には集まらなかったわ。次のお正月に征士がやろうと言ったけど、ニューヨークのことがあって、言い出しっぺの本人が乗り気じゃなかったのよ」
 そこまでは、成程トルーパーとして活動と学生生活の両立、それぞれが抱える立場上の悩みなど、混沌として忙しい時期だったことを当麻も思い出す。そして、
「次の年はお茶会はやったわね。それだけで終わっちゃったけど。で、去年は大学受験の直前だったから、結局できなかったのよ」
 ナスティが話し終えると、故意に今やろうと言うのではなく、たまたまこれまで機会が巡って来なかった、その状況が漸く腑に落ちた当麻だった。ただ、
「そうだな、経過はわかったが、しかし今となっちゃ…」
 言いながら彼はチラと秀達を見る。
「差があり過ぎて勝負にならないんじゃないか?」
 だが言われなくとも、ごもっともな意見だとナスティも伸も判っている。今回は特に教養レベルの低いふたりを対象に、教育指導をしようと言うかるた大会なので、他の三人は適当に遊んでいれば良かった。その旨を伝えようと、
「君が遼や秀とやることないんじゃない?。僕かナスティか、」
 伸がそう話す途中で、当麻の背後から思わぬ声が聞こえる。
「おまえの対戦相手は私だ」
 何処から現れたのか、最後に部屋に入って来た征士が、珍しく仁王立ちの風情で当麻を見ていた。珍しく、と言うのは当麻に対してであって、秀などは割と見慣れた様子かも知れない。
 つまりそれは何らかの意識あってのこと、と言えるだろうが、真意はともかく当麻には、一種の戦線布告と受け取られたようだ。
「ほうほう、言い出しっぺと言うからには、さぞかし自信があるんだろうな?」
 無論当麻は怯むでもなくそう返す。すると売り言葉に買い言葉ではないが、征士の口からは調子良く言葉が連なって行く。
「あるとも。中学の時は剣道部と兼部で百人一首クラブに入っていた。私はその主将だったのだ」
「それを言うなら俺は高校の時、校内の大会で優勝したぞ」
「私は高校の、百人一首のテストは全て満点だった」
「俺は競技かるたの大会に出向いて、わざわざ勉強しに行ったんだ。対戦なら絶対に負けない」
 そんなふたりの周囲には、俄にキリキリとした緊張が漂い始める。和やかに楽しみながら、古典の風雅に触れる目的のかるた会が、一方では心得を持つ者同士のいがみ合いになっている。伸はふたりの間に割って入ると、
「まあまあ、舌戦はそのくらいにして、後は実戦で決着つけよう」
 と、既に臨戦体勢のふたりを諌めた。やる気があるのは良いことだとしても、正月早々この展開は予想外だと伸も慌てている。そこで更に、
「タンマ!」
 突然当麻が切実な声を上げた。
「何さ…?」
「今日、百人一首をやると決まっていたのか?」
 尋ねられた伸は、当麻が何を聞きたいのかも、何を必死になっているのかも解らぬまま、取り敢えず聞かれたままを答える。
「え?、まあそうだけど。年末にナスティに電話して、お正月の予定を確認した時にさ」
「その後征士に話しただろ?」
「話したけど?」
 すると当麻は、思いも拠らぬ厳しい態度で言い放った。
「それは不公平だ!、征士には復習する時間があったんだからな!」
 その怒声を耳に、遼と秀はただただ目を丸くするばかりだったが、伸とナスティは別の意味で困惑した。そんなことでそこまで怒鳴るかと。そして、相対する征士が涼しい顔をしながら、
「些細なことでムキになるな」
 などと煽るように言うと、当麻は相手の意を組んで憎々し気に返した。
「些細なことじゃない!」
 この遣り取りについて、かるたの対戦を知っている者なら、彼が何を言いたいかはもう見当がついただろう。どれだけ札を憶えているかが勝負なのだ。殊に上の句の出だしにすぐ反応する為に、事前に一通り復習するのは有効だ。普段から日常的に競技をしている訳ではない、復習時間のあるなしは、対戦に大きな影響を及ぼすと当麻は考えているようだ。
 勿論、気軽に遊ぶだけなら、彼もそこまで必死にならなかっただろうが。一度火が点いた競争意識に、今は促されるまま語気を強めていた。
「条件を公平にしろ!、でなきゃ俺は参加しないからな!」
 とどめにそんなことまで言って、当麻はあくまで妥協しない態度を見せている。けれど時間を戻すことはできない。彼の真剣さをどう処理すれば良いか困った。
「今そんなこと言われても、どうしろって言うんだよ?」
 伸はこの場合、当麻本人に条件を出させるのが良いと考え、それとなく質問口調で意見する。ところが当麻が答える前に、それなりのアイディアがナスティから齎された。
「じゃあ、こうしたら?。私達が遼と秀に教えてる間、あなたは復習をする。その間征士は何もしないこと。これでいいでしょ?」
 考えてみれば、同時進行で二試合行う決まりはない。彼等の対戦は第二試合とすれば良かった。また遼と秀が勉強する間、征士はそれにも関れない場所に居てもらい、復習道具と思える物も一切取り上げておけば、ナスティ案の条件は成立するだろう。単純だが意外に良案だった。
「しょうがないな。一時間くらいもらえれば」
 当麻はそれで条件を飲むことにしたようだ。が、今度は征士が黙っていなかった。
「長過ぎる!!」
「ふざけるな!!」
 訳の解らない言い合いになり、伸も既に呆れ気味の様子で仲裁に入る。
「いい加減にしろよ、もう…」
 伸がそうであれば、当事者を除く他のふたりなど全く、何が起こっているのか想像もできなかった。
「何なんだ?、どうしたんだおまえら?」
 征士と当麻と言えば、五人が集結した当時から仲が良い。と、誰もが平素に認識している事実があるが、その仲の良さと言うのは、例えば伸と秀のような関係ではないことが、この場でぼんやり浮かび上がって来る。
 心情的に労り合うのではない、相手の実力を認めるからこそ友人であり、敢えて競争となれば絶対に負けたくないのだ。彼等はそんな点でも似た者同士なのだろう。だからこそこれに賭ける意気込みも違う。他人には理解不能でも、彼等の間では当然のルールがあるようだ。

 結局、ナスティの裁定で第二試合は四十五分後と定められた。ふたりの対決の時まで、間に入った彼女と伸は、非常に落ち着かない時間を過ごすこととなった。



 ソファやテーブルが退かされ、広く開けられた応接室には毛氈が敷かれた。そこにばら撒かれた百枚の札を前に、今は遼と秀が必死に目を凝らしている。
「百敷や、古き軒場の忍にも…」
 しかし予想はしていたのだが、ナスティが順徳院の歌を詠み始めると、秀は途端に笑い出して言った。
「ももひきだって!、ももひき!」
「股引じゃないわ、ももしきよ!。長い時間って意味」
 まあ今日のところは、和歌の内容を楽しめとまでは言えないと、始めから判っていたことだ。彼女は特に苛立つ風でもなく、淡々と下の句を詠み続ける。
「なほ余りある昔なりけり」
 そして、身を乗り出して該当の札を探すふたりにこう話した。
「でもそう言う、憶えやすい言葉から憶えて行くものよ。勝手な解釈でも何でもいいの」
「そうなのか…」
 遼がそう返事するも、始まると意外に集中し、かるたを取ることに意欲を見せ始めたふたりは、人の話など聞いているかいないか判らない。その時、
「はい!、はい!、これだろ」
 秀が嬉々として一枚の札を取り上げて見せた。すると寸での差で、遼も手元にあった一枚を指し示す。
「こっちじゃないのか?」
「残念ー!、秀の方が正解です!」
 双方を見比べナスティは言った。遼が指したのは「なほ恨めしき」で始まる藤原道信の歌だった。そこそこ慣れた者なら間違えない札だが、初心者は出だしの「なほ」しか頭にない為、稀にお手付きをすることがある。ただ、秀の場合はたまたま正しい札を先に見付けた、と言うだけだろう。
「よーし!」
 この札を取って、秀は遼より一枚取り札が多くなった。揚々と力こぶを作ってみせる彼に対し、遼はまだ釈然としない顔をしている。
「何なんだこれ?、引っ掛けか?」
 つまり同じ出だしの札があることに、まだ納得していないようだ。普通、いろはがるたのようなものは、出だしの一文字で取り札が特定される。そういうものだと思っていると、確かに最初は混乱するかも知れない。それについてナスティは、
「そうよ。同じ単語で始まる札が何枚かあって、わざとわかりにくくしてるらしいのよ。最初からかるたにすることを考えていたのか、謎なところが面白いのよ」
 と説明した。実際出だしの語句だけではない、歌を組み立てるあらゆる言葉に、似通った用法、同一の語順が出て来る為、憶えて来るまではかなりややこしい。すると、
「最初はかるたじゃなかったのか?」
 秀よりは勉強の意識を持つ遼が、ふと感じた疑問を口にした。そう言う所から、成り立ちや和歌に対する理解は深まるものだと、ナスティは笑顔になって話す。
「そう。元は『百人秀歌』と呼ばれていて、『有名な歌人ベスト100』みたいな歌集だったのよ」
 その例えも的確だったらしい。聞けば秀の方がすぐ反応して答えた。
「タレントのカタログみたいなモンか?」
「そうね、そう言う面もあったでしょうね」
 御存知の方も多いだろうが、テレビ、映画と言う映像文化が登場する以前の世界は、スター的な有名人と言えば文筆業の者が殆どだった。ほんの百年前までそうだったのだから、古典の時代の歌人などは大スターだったに違いない。
 恐らく秀はそれを知らないだろうが、イメージは充分伝わったようだった。
 さて、気を取り直してナスティは次の歌を詠む。
「では次。難波潟、短き芦の節の間も…」
 すると今度もまた、愉快に感じる語句を取り上げ、秀がふざけて笑い出した。
「短き足だって!、股引の次は短き足!」
 もう面倒なので、「葦」と「足」は違うとの説明も敢えてしなかった。例えどう受け取ろうと今日は、札を取って楽しめればいいと前に述べた通り。そんな流れを傍で見ていた伸も、「まあこんなもんだろう」と終始穏やかに見ていた。
 それより彼には、あとのふたりの方が余程気掛かりだった。単なるお正月のレクリエーションのつもりが、怒鳴るほどの真剣勝負と化すなんて、と。
 そこで伸は席を立ち、外に出されている征士の様子を見に行くことにした。彼が玄関を出ると、本人の宣言通り裏庭で、竹刀を手に立っている征士がすぐ目に入った。
「おや、律儀に約束守ってるね?」
 伸が声を掛けると、普段より些か厳しい表情の征士は言った。
「そう言う不正はしたくない」
 その言葉通り、彼の周囲には本やあんちょこの類は全く無く、今はただ勝負の前の、精神統一を図っているようだった。彼のそんな様子は何処か懐かしい、鎧と共に必死で戦っていた頃を思い出させた。
 しかし、当麻も当麻だが、何もそこまでと言う気がしないでもない。遼ではないが、かるたと言えば基本的には遊びだ。歌の解釈を競うならともかく、そんなに熱くならなくてもと思う。伸は少し場を和ませようと、「そういう所好きだよ」と言おうとしたが、その前に、
「だが絶対に勝つ」
 征士は足元を見据えながら言った。それはまるで、何らかの正義の為の誓いの場面に見えた。相当入れ込んでいるなと感じる、伸は相手をどう懐柔しようか迷っている。
「珍しいね、そう正面から勝ち負けにこだわるなんてさ。何か理由があるの?」
「理由と言うか、長く親しんで来たものだから、自分なりに自信を持っている。だから相手が誰だろうと負けたくないのだ」
 相手が誰だろうと、と彼は言うが、本当にそうだろうかと伸は考える。何故なら全く面識のない相手の方が、容赦なく勝負に出ることができる。またもし対戦相手が自分だったら、そこまで厳しい態度をするだろうか、とも思う。
「それなら、剣道の試合だってそんなこと言わないじゃないか」
「剣の取り組みとは違う。剣道の本質は殺人術ゆえ、勝負以前に心が必要だ。だが本来、勝負事は勝たなくては意味がない。やるからにはプライドを賭けてやらなければ」
 そう言われると、やはり伸も、征士と当麻の間の不思議な友人関係を感じざるを得ない。否、世の中に彼等のような付き合い方は、それなりに存在するかも知れない。人気商売など、日常的に競争に晒される職種では、同じグループのメンバーでも常にライバルだ。だが通常、仲間内で競争心を露にはしないものだ。それ以上にグループとしての纏まりが必要だからだ。
 それはともかく、何故このふたりがそうなったのかは、今のところよく判らない。単純に性格的な問題かも知れないし、相手を見てそうしたのかも知れない。こんな時にこんな形で、それが表面化して来るとは思ってもみなかった。
 そして、決着が着いたら着いたで、恐ろしいことになりそうな気もした。
「ふ〜ん。そんなこと言って負けたらどうすんの。当麻も相当自信ありそうだったよ」
 伸はそれとなく、征士の心情を探ろうとそう質問してみる。すると、
「考えたくはないが、その時は、次の対戦までずっと、当麻に会う度悔しい思いをするだろうな」
 彼は苦虫を噛むような顔をしながらも、意外と潔く考えていることも知った。酷く勝ちにこだわる割に、汚い手段は使いたくないと言うし、もし当麻もそう考えているなら、ある意味スポーツのようだと伸は思う。
 そう言えば、征士は昔レーサーになりたかったと言っていた。今の人物像からはあまり想像できないが、本来の彼は結構勝負事が好きなのかも知れない。ただ、勝負には必ず勝者と敗者が存在する。一方には晴れ晴れとした栄誉が、そしてもう一方には惨めさと落胆が待っている。勝負の世界に生きる者は、後者となる可能性があれどもそれを楽しみ、或いは次への糧として生きているのだろうが。
 そんな運否天賦の人生に、彼は今も憧れているだろうか?。何も起こらない平坦な人生よりは、ゲームの世界で生きる方が楽しいかも知れない。けれどそれは、ほんの一瞬の輝きかも知れない。君はそれでいいのだろうか?、と、伸はやや飛躍した想像の中で、次に掛けるべき言葉を探している。
「ふ〜ん…」
 俄に考える伸の様子を見ると、征士はその微妙な心の変化に気付いて言った。
「何故不満そうなんだ?」
「いや、別に不満って訳じゃないけど…」
 伸はまだ言葉を探している。今感じている気持を表す、適当な語句や表現がなかなか思い付かない。けれどそんな時、今だからこそ通じる言葉があることを思い出した。この複雑な感情を征士なら、判ってくれるだろうと思った。
「あひ見ての、後の心に比ぶれば、昔はものを思わざりけり」
「・・・・・・・・」
 そう、高校のテストで満点だった百人一首の問題だ。よく勉強できていた征士なら、その解釈も憶えていることだろう。
 そして、確かに征士は憶えていた。一見何でもないことを詠んでいるようで、これはかなり色気のある歌だと。「あひ見て」とは男女が会って契りを交わすことであり、その最初の時と後になってからでは、思うことが違うと言う訳だった。
 伸が今、この藤原敦忠の歌を選んだのには、勿論理由があるだろう。
「ハハハハ」
 本人は多少照れ臭そうに笑っているだけで、見た目からその意図は汲めなかった。否、もしかしたら彼にも何か、表現し難いことかも知れないと征士は思う。
 つまり、伸の考え通り伝わったようだ。
 歌は所謂恋愛の経過を綴ったものだが、それを自分に重ね見るとどうだろう。今相手に思うことを十とするなら、恋愛以前には二、三のことしか考えられなかった。時が経つに連れ相手をより理解もするが、別の人間である以上、割り切れない思いも増えて行く。それが、表現し難い心の機微と言うものだろう。
 言葉にできないことは確かに存在する。
「意味深なことを言う」
 そこで征士が漸く表情を崩したのを見ると、伸はひとつ安心したように戯けて言った。
「そお?、当麻は競技かるたを勉強したって言うけど、本当に大事なのは歌の方だしさ」
 後朝(きぬぎぬ)の溜息と充足。それを知る者にしか通じない理屈もある。和歌の多くは元々手紙なのだから、真の心は言葉の裏に隠し、密かに確実に伝えることが何より肝要だ。



 秀と遼の対戦が、一枚差で遼の勝利と決まった後、柳生邸の一室は只ならぬ空気が漂い出した。
 対戦はばら撒きでなく源平で行うこととする。競技かるたでは二十五枚ずつで対戦するが、今日は競技としてのかるた会ではないので、取り札は五十枚ずつと定められた。
 札を挟んで向かい合う征士と当麻。既にお汁粉を手に観戦する秀の、碗から漂う甘い香りも、集中するふたりにはさして気にならないようだ。それ程にこの対戦を一大事と考えているのだろうか。秀は不思議そうな顔をして、自分に文句を言わない当麻を見ている。
 ふたりの対戦の開始から、淡々と時は過ぎて行った。
 それにしても、激しい言い合いをした割に静かな席となった。彼等は無駄なお喋りを一切せず、ナスティの詠み上げる声が、他の音に邪魔されないよう気を使うほどだった。わいわい騒ぎながら楽しむも良し。しかしこうした静寂の中の真剣勝負も、正月のひとつの行事としてはいいものだ。
 見ているだけの者には、本当に、勝敗がどうだろうとそれぞれ楽しめたひと時。

 そして、
「何だ、さっきまでの勢いはどうした?。悔しがらないのか?」
 三枚差をつけて勝った当麻だが、予期せぬ征士の態度には戸惑いを見せた。否、残り数枚で負けていた時点から、落ち着き過ぎているとは思っていたが。
 当麻の問い掛けに対し、征士は、
「まあ、勝負以上に大事なこともあるからな」
 接戦を演じながらもそんなことを言った。彼の中で何が起こったのやら、手の届く勝利を諦める理由があるとすれば、それ相当のことだと当麻は想像する。だが実は大したことではないのだと、真実を知っているのは本人と伸だけだった。
 あひ見ての後の心に比ぶれば、昔はものを思わざりけり。
 遊びに心血を注ぎ、プライドとやらをズタズタにされたら馬鹿馬鹿しい。子供の内ならともかく、君は本当にそんなことが好きなんだろうか?。恐らく伸の思うことはそんなところだ。
 結果的に、負けたのは伸のせいかも知れない。だが征士が良ければそれでいいのだろう。何より彼に取ってはこの、藤原敦忠の一首が心に染み入る正月だった。









コメント)何故今お正月の話かと言うと…。
機会を逸して来た、と言う伸のセリフがある通り、私自身が百人一首ネタを書く機会を逸して来たからなんです(^ ^;。あまり年令が高くなっちゃうと、もう集まってこんなことやらなくなるし、そんな意味でももっと早く書くべきだったんですけどねー。一応この続きと言うか、また別の年の話もあるのでその内書きます。
尚、敦忠は琵琶の名手だったそうだけど、そう言えば能で観たなーと思い出した。



BACK TO 先頭