柳生低の庭
光合成の夏
The Summer photosynthesis



 華やかに天を渡る陽の孤独、愚かなイカロスよりも、花はよくそれを知っている。



 窓辺に照り付ける夏の日射しは、露出の強い写真の様に、そこから見える筈の景色を白く飛ばしている。
「…ひとつの動物細胞に含まれるものを全て述べよ」
「えーと、細胞膜、核、ミトコンドリア、…小胞体、ゴルジ体、…リ、リポ、リポー?」
「リボゾーム」
「リボゾーム!、リソソーム!、…あとは…、…」
 頭を抱えた遼の様子を見て、けれど当麻は小さく頷いて見せた。
「まあいいだろう、あとひとつは中心体だ」
「あ、そうか、中心体…」
 今朝食事を終えてから、当麻が開いた夏期講習はかれこれ、二時間に達しようとしていた。
 それぞれの者が夏期休暇に入り、妖邪との戦いも丁度中休みと言うところだった。けれど彼等は、わざわざ柳生邸に集って夏を過ごしている。何処かで意識して、戦うことを忘れまいとしているかのように。
 但し何処に居ようと、時間は普通の人々と同様に過ぎて行く。彼等にはふたつの生活を成り立たせる苦労ばかりが、今は蒸し暑さに伴って肩に重く感じられていた。クーラーのスイッチは入っている筈だが、広々としたこの洋館には少々力不足のようだ。夜は過ごし易いこの地域では、強力なクーラーを取り付ける習慣がないのかも知れない。
「…こんなこと憶えたって、何の役に立つんだよー」
 ダイニングテーブルに伏したまま、完全に不貞ているらしき秀に、
「そう言うことはな、憶えた後で言うもんだ」
 手にした参考書で仰ぐ仕種をしながら、当麻は些か突き放す様に返している。
 と言うのは、この勉強会がそもそも、秀の学力を不安視して開かれたものだからだ。来年の春に受験を控える者がここには四人も居る。一度結束を誓った仲間なのだから、可能な限りは、足並を揃えて高校生になりたいものだ。
「それじゃあ秀!、今度は植物の細胞に含まれるものを全て述べよ!」
「えー…」
 やる気がなさそうに、けれど反射的に顔を上げ当麻を見た秀は、働かない頭を必死に回転させようとはしていた。
「核…、細胞壁、細胞膜…、うーん…」
「今遼が言ったばかりだろーが」
「あっ、リボゾーム!、そっからリソソーム!」
「それは無い!」
「そうだっけ?…、あとゴルジ体…、ミトコンドリア、あと、あと…、うー…」
「植物の色は何だ!?」
「あー…、葉緑体!葉緑体!!、うー…ん、…もうわかんねー!」
「ったくバカだな、小胞体だろ!、あとはデンプンだ!」
「知るかそんなの〜」
「どうしたらそんなにすぐに忘れられるんだっ」
 勉強会は今朝からずっとこの調子だった。
 いい加減こんな遣り取りにも飽きて来そうなものだが、当麻が辛抱強く付き合っていたのは、これを愉快と感じているに他ならない。そう、実は遊び半分に始めたことでもあり、『感謝しろ』とはとても言えたものではなかった。
「他のみんなが大学生なのに、おまえ一人中学生だったら、トルーパーとしてだってやりにくいだろ?」
 当麻は故意に引っ掛かる発言をしてみせる。
「そこまで落第するかよ!!」
「ハッハッハッ…」
 思わず遼にも受けていた。それで当麻には満足だった訳だ。

『まったく、愉快なことだ』
 皆が集まるダイニングルームの隅の方で、日射しを避ける様にして新聞を読んでいた征士は、彼等の様子を見るともなく見ながら独りごちる。当麻は人の世話を買って出るような性格ではない、と征士には幾分知れていることもあったので。
『それにしても…』
 秀の言うことも解らなくないと思っていた。学校で教えられる勉強が将来、何にどれだけ役に立つ情報だと言うのだろう。少なくとも今の自分に取っては、学校の勉強などより、剣を通して得たこと、迦雄須に教えられたことの方が余程大事なものだと、征士には少なからず思えている。
 心の無い者は居ないが、学は無くとも人は生きられるだろう。
 征士はそんなことを考えながら、ふと部屋の中を見回して気付いた。夏期講習に呼ばれなかったもう一人が、先程まではその辺をうろうろしていたのだが。
 時計はまだ十一時を回ったばかり。昼食の支度にしてもやや早いだろう。大体今日の昼は、ナスティが何かを買って来ると言って出掛けたので、その必要がないことを伸は知っている。今朝起きてすぐに、庭の水撒きをする彼の姿を見たので、恐らく庭には出ていないと思われた。
 ところが、
 一応確認しようと征士は席を立って、日避けの薄いカーテンを開けて見ると、庭の隅の方に一本だけ植えられた向日葵の影に、伸が着ていた水色のシャツを見つけることができた。そこで何をしているか、までは征士の居る場所からは判らない。
 そこへ行くにはダイニングルームの窓から出るより、玄関から回った方が良さそうだった。庭に障害物は特に無いのだが、芝の茂った前庭は蚊の住処と成り果てる夏。滅多なことで足を踏み入れたくなかった。丁度新聞も読み終えて、半端に時間を持て余した征士は、暇潰しに様子を見に行ってみることにした。



 眩しい。
 正午に近い頃の輝く太陽を、征士はこれまで殆ど見たことがない。彼の薄い色素の瞳では捉え切れないからだった。殊に遮るものが何も無い場所では、目を開けることも儘成らぬ忌々しい夏の光源、熱源。
『南中高度がどうとか習ったな』
 駐車場にしている砂利道の照り返しを歩きながら、それでも冷静に思考していられるのは流石だ、と征士は自分で思っている。実は理科は余り得意ではない。
『冬より夏の方が日が高い、だから何だというのだ』
 その近付く足音が伸の耳にも届いた。征士が顔を上げるより前に、伸は黙って彼の方を見詰めていた。
「…何をしている、そんな所で」
 征士は至極普通の様子で問いかけるが、
「いや、別に何でもないよ」
 と伸は、とてもそうは思えない作り笑いをした。良くない癖だと思う。そんな態度をされれば、余計に心配になると言うものだ。本人はそれが解っていないらしいが。
 否、征士には少し聞き知っていたことがあった。
 一昨日の夕方、萩の自宅からここへ戻って来た伸は、何と言うか、良くも悪くも様子が変わっていた。結局何も説明をしなかった彼の代わりに、同行して帰った秀に尋ねてみたが、
『うーん…、色々あったんだが…。結果は良かったんだからいいんじゃねぇか?、な!。あんまり人ン家のことをべらべらしゃべんのはなぁ』
 とだけ彼は言って、どうも家で何かあったらしいと、他の三人はぼんやり理解するに留どまっていた。
 伸の家の話は僅かばかり聞いたことがあった、萩市内に幾つか存在する、代々伝わる萩焼の窯元を守っていると言う。征士からすれば、自分の家も特殊な環境である為に、何代も続くような家から生まれる、面倒な物事には大体察しが付くように思われる。
 だから知りたかったのだ。そこで何があって、何を思ったのかを。
「何でもないという感じではないな」
 征士は簡単にそう返して、伸のすぐ横まで歩いて立ち止まる。そこは丁度、葉の茂った欅の枝の影になっていて、暫く真下の場所には日陰ができていた。伸はその日陰の端の方に、向日葵の茎と葉に隠れるようにして立っていた。
「伸は自分から話すことが余りないから、気を遣おうにも、何に気を遣って良いのか分からん」
 そう言いながらも、征士にしては随分柔らかい物言いだと、既に気を遣われていることに気付かない伸ではない。
「ううん、ほんとにさ。…秀や遼が、学校の勉強についていけないって、悩んでるのと同じようなことだよ。自分のことは自分で整理を付けないとね」
 ところが、場違いにも征士は笑い出した。
「クックッ…、あれを『自分のことは自分で』と言えるものか。明らかに当麻がやらせているのだぞ」
「…そ、うかな…?」
 征士程よくよく観察していた訳ではない、と伸は自分の意見をあっさり引っ込めた。そして付け加えるように征士は話す。
「何を話して良いか、悪いかを区別する必要はないと思うが。私達はただの友人の集まりではない。場合に拠っては、自分の家族よりも優先されるものだ」
 何一つ、嘘は吐いていなかった。
 我ながら上手い話の持って行き方だと、したり顔をしている征士に気付いていたら、若しくはこの先の話は無かったかも知れない。ただ伸には、問われる前に本心では、誰かに聞いてほしいのかも知れないと、自分で認められる気持が存在していた。それならば、乗せられて話す振りをしても良かった。渡りに船と言えるのかも知れない。
 どうせ話したところで、結果が変わることもない。
「…そうだね、家族より大事なものがあるなら、そんなに考えなくてもいいんだ」
 やや投げ槍な伸の返答を耳にして、征士は、
「家で何かあったのか?」
 と自然な形で問い掛けることもできた。

「姉さんが、急に結婚して家を出て行くって言い出してさ」
 その話だけは、秀以外の者も知っていたが、
「僕の母さんは健康な人じゃないから、それで具合を悪くしないか心配なんだ。…今までずっとさ、家って静かで寛げる場所だと思ってたのに、ほんの数カ月離れてた間に、何か、全然僕の知らない場所になっちゃったみたい、なんだ」
 そこまでを淡々と話した伸に、
「そう言うものだろうか…?」
 と征士は疑問を差し挟んだ。
「自分の家を静かだと思ったことはないな。外は静かだが、家の中は騒々しいものだ」
「君の家は人の出入りが多そうだしね」
 伸はその違いについても妥当に答えて続けた。
「僕の家は元々結構地味なんだよ。昔から守って来たものを慎ましく、大事に伝えて行くだけの家だからさ。…そういう意味では、それに一番馴染んでたのは姉さんだったんだ。僕は年が離れてて、長男だったから割と我侭も言えたけど、姉さんは家の決まりをきちんと守ってて、ほとんど口答えをしたこともなかった。子供の頃から、落ち着いて周りの状況を見てる人だった…」
 そこまでは単なる思い出話のようだったが、話す内に、段々と伸の表情は途端に険しくなって行く。
「そう言う人がいつも傍に居たから、僕は家のことをそこまで真剣に考えてなかった。どうせ自分ひとりが背負うことじゃないって、安心して思ってたんだよ。そしたら急に姉さんが家を出て行くって…。あの真面目で大人しかった姉さんがさ。…何だか…、恐ろしい呪文みたいに聞こえたよ」
 伸の言いたかったことのひとつは、己に降り掛からない筈のことが起こって、戸惑っていると言う状況だろうか。
「…突然家に縛り付けられる悪夢、と言うことか」
 征士は自分が思う通りの言葉を連ねるが、
「それもあるかも知れないけど」
 伸にはむしろ、その例えは小事に過ぎなかった。
「昔から母さんは寝込みがちだったし、父さんも昼間は仕事で忙しかった。僕は小さい頃から姉と一緒に居ることが多くて、同じ家族の中でも一番身近な存在だったんだ。父さんが死んでからは特に、いつも僕のことを気に掛けてくれてたから、自分を最も理解してくれる人だって、ずっと思ってたんだよ…。
 でも、違ったんだ。いや変わったのかも知れない。本当は元々何処かに強い意志を隠してて、ずっと誰にも見せなかったんだ。何かあった時にはいつだって、全てを捨てるくらいのことができたんだ、姉さんはそういう人だったんだ…」
 そしてもうひとつは、長い間相手を見間違えていたことに、狼狽えているのか。
 しかし、
「伸は…シスターコンプレックスなのか?」
 征士にはどうもそんな風に受け取れた。
「っ馬鹿なこと言うなよ!、そういう話じゃないよ」
 当然のように否定する伸だが、本人が知らない場合もあるだろう。現に彼は、他人に気を回し過ぎて自分が見えないのだ。それは周知の事実。
「まるで自分が捨てられるような言い方だ」
 だからここは率直に言おう、と征士は意図してそうした。
 伸の手が、彼より頭ひとつ背の高い向日葵の、よく育った茎を握り締めていた。向かい合う枝葉に影為すまだら模様が、彼の上に心象表現のように張り付いていた。
 夏を象徴するような向日葵の昼間。その重そうな頭は真上に昇った太陽に向かって、今は晴れ晴れと笑っている様に見える。ひた向きに光の方向を追って生きる、それが植物に限った性質ではないからこそ、時には滑稽で、時には物悲しい人の在り方に例えられる。
 誰も皆、長い夜を堪え、明るい昼間の世界を待っているのだ。
 そして征士はふと気付いた。
 伸の横に誇らしく天を仰ぐ大輪の花は、まるでもうひとりそこに人が居るようだ、と。
 すると伸も気付く、征士が見ている王冠のような花を見上げると、それは何故だかとても懐かしい感じがした。こんな風に見上げていた時があった、こんな風に顎を上げて見上げながら、いつも優しい影に隠れて居られたのだ。
 それは伸に取って、最も幸せだった頃の記憶なのだろう。

「嫌なのかもね…」
 と伸は言った。
「僕と姉さんはよく似てたんだ。見た目だけじゃなくて、誰よりも近い人だったんだ。…家族が減るって言うより、自分の一部が無理矢理引き千切られた感じさ。ずっと変わらないことなんてないんだろうけど、変わってしまったことに、まだ僕は納得できてないんだ…」
 この暑さの中、話しながら、震えている。
 恐らくそれが真実なのだろうと、征士もそれ以上探ろうとはしなかった。彼が本音を語ってくれたのは、他ならぬ向日葵のお陰だった。
 しかしどうだろうか、と思う。人は幼少期に育った環境に因って、後々形成される心の五割方は決まってしまうと言う。伸の持つ朗らかさや癖の無い性格は、正にそこから生み出されたものだろう。今この時点では悲劇であろうが、恐らく彼は、とても恵まれた家族環境を持っていたのだ。そうでなければ、それが変化することをそこまで嫌う筈はない。
「そう言う思いを持てるだけ、伸は幸せだったのだ」
 征士はそう言いながら再び小さく笑う。
「…どういう意味」
 やや訝し気に問い返した伸に、征士は目を伏せ、何かを思い出すように話した。
「姉と言えば、とにかく気が強くてうるさい。人を奴隷のように扱うし、昔から喧嘩ばかりしている。母はとにかく厳しくて、一日中人の行動に目を光らせている。父はそんな母に対する発言権も持たない。…別に、今日を限りで一生会わないことになっても、特別悲しくもない」
「・・・・・・・・」
 何も言い返せなくなってしまった伸と、彼等の間に僅かな風が髪を掠めて、通り過ぎて行った。それは生温い干渉、柔らかな抵抗、それで全てが済んでいた過去の自分のように思えた。
 過去、
『僕は僕として生きてなかったのかも知れない』
 優しい記憶、いつでもそこへ帰りたいと思う、一番に思い出す心の中の住人達。いつも誰かの後ろに隠れて、面倒な事柄や責任から遠く離れていた。誰もそれを咎めはしなかった、暖かい、自分を取り巻いていた優しい人々だった。けれど、
『今は、違うんだ』
 今、
 定められた戦いの場へと、ひとりの戦士として新宿に集まった日から、そう、もしかしたら変わったのは自分の方だったのかも知れない。心が、状況が変化していくことは誰にも咎められない。まして自分が変えてしまった流れを悔やんでも、他の所為にしても、どうしようもないことだ。
 今はまだ、亡くしてしまった痛みしか感じられないが、新たに得られるものもきっとあると、信じるしかない。出会いには出会いの、別れには別れの、戦いには戦いの意味があるのだろうから。
 
 もう暫く、日の出を待つ花の様な振りをして、待っている。



「おーい…」
 ふたりの所へ、バスケットシューズを突っ掛けた当麻が、のろのろと歩いて来るのが見えた。
「ナスティから電話があって、メシだけ炊いといてくれってさ」
「ああ、分かった」
 伸がそれに答えると、その前に征士はもう歩き出していた。幾ら木陰とは言え、微弱でもクーラーがかかった部屋に比べれば暑かった。そうして先に戻って来た征士に、当麻は至極愉しそうに声を掛ける。
「何を話してた?」
 けれど、聞かれるまま話して良い内容とも思えなかったので、
「向日葵の話だ」
 とだけ征士は返す。
「向日葵ねぇ…」
 疑っている風ではないが、暫しの間、当麻は考え込むような仕種を見せる。そしてこう言った。
「そうだな、おまえ達は植物が好きそうだから、特別に植物について講議してやろう」
 後から追い付いて来た伸を含めて、夏期講習の続きをしようというのだ。当麻はこの「先生ごっこ」がえらくお気に召していたらしい。
「いいけど、被子植物だの裸子植物だのなんて話はうんざりだよ」
 しかし呟く様に伸がそう言うと、
「勉強とは関係ない話にしてくれ」
 と征士も一言注文を付けた。遼と秀のように、何でも感心してくれる訳ではないのが、こっちのふたりだとは知っていたが。
「おまえらな、知識の内のどこまでが勉強で、どこからが勉強じゃないかなんて、線を引けるもんじゃないんだよ。…うーん、じゃあ、『ミラーの実験』の話でもしよう」
 歩きながら、改まってコホンと咳払いをひとつ、当麻は仰々しくその講議とやらを始めた。
「ミラーと言う科学者がある時…、自分の実験室にとても面白い装置を作った。それは『原始の地球の様子を再現する』と言う、途方も無い発想の実験装置だった。原始の地球とはつまり、まだ植物も動物も、生命らしいものは何も無かった状態だ。天には太陽があり、地表には大気があり、海があり、噴火する火山があり、荒れた天候によって切り無く落雷がある、という世界だったと推測されている」
「それでどうやって生物は現れたのだ」
 話が長そうだと察して征士は言ったが、
「先を急ぐな、結果を急ぐのは良くない傾向だ、征士君」
 と、逆に痛い所を突かれてしまった。
「まあ装置と言っても、現代の電子機器のようなこ難しいものではない。それらの条件を満たす環境を、ガラス管やフラスコを繋げて作った、密閉されたサーキットのようなものだ。
 具体的に説明すると、まず様々な元素の内、太古から海に豊富にあったと思われる水素、メタン、アンモニア、と、水を混ぜた『原始の海水』を作り、それを過熱し続けて、常に水蒸気を発生させる。過熱するのは、太陽放射熱と地熱の作用を表し、水蒸気は地表の大気に置き換えられる。
 そしてその『原始の大気』が昇っていく先には、電極を設けて常に放電させておく。言わなくてもわかるだろうが擬似落雷だ。更に、その先には冷却装置を付けて、流れて来た大気を液体に戻すようにした。上空の冷気や雨に冷やされる経過がこれだ。液体はまた更に過熱されて、同じ循環を延々と繰り返すことになる。そうして、装置内の液体がどう変化したかを調べた訳だ。
 一週間その状態を続けると、そこには始めには無かった化合物が、何と、七種類も生み出されていた。最も注目すべき点はその中に、グリシン、アラニン、グルタミン酸、アスパラギン酸と言う、四種のアミノ酸が現れたことである!」
 しかし、こと細かく丁寧な解説を付けて語り、当麻が力説する程には、その感動はふたりには伝わっていないようだ。
「アミノ酸て聞いたことあるけど、そんなにすごい物なの?」
 玄関ドアに手を掛けながら、伸は穏やかな言葉でそう尋ねる。確かにその質問のレベルでは、感動が薄くて当然なのかも知れない。中学・高校の授業ではそこまでは習わないからだ。
「すごいと言うより重要なんだ。アミノ酸とはタンパク質の基礎、つまり、タンパク質とはアミノ酸の集合体だ。地球上の生物はほぼ全てが、何らかのタンパク質でできてるのを知ってるだろ?」
 すると聞かれた伸は、
「ああそうか、重要なものが最初にできたってことなんだ」
 あっさりそう返して、玄関の中へと消えてしまった。
「そうだとも!」
 しかし当麻は追い掛けるように喋り続ける。
「だが、まだ単なるアミノ酸だった。無生物だ。それらのまだまだ単純な有機物と、水の分子が蓄積してくっ付き合ったものを、『コアセルベート』と呼んでいる。最初の段階の有機集合体だ。そして更に、コアセルベートの外から入って来る有機物、コアセルベートの内部組織にも反応が起こり始め、徐々に分化された器官が形成されていった。遂にそれは、『呼吸』という運動を始めるようになった。
 呼吸!、生物は正にここから始まっているのだ!」
 そこまでを、殆どいい加減に聞き流していた征士だったが、丁度靴を脱いで立ち上がった折に、
「酸素を吸って二酸化炭素を出す」
 と一言茶々を入れてみる。
「まだだ!、先を急ぐなと言ってるだろう、そんな高等な呼吸が最初からできる訳がない」
「何故だ」
 科学的センスのない征士には、至って素朴な疑問だった。呼吸と言えば息をすることではないかと。けれど当麻はここに在っても、まだ根気良く話を続けていた。
「酸素が少ないんだよ、この時点では」
 そして、この講議の神髄の部分を漸く語り始めるのだ。
「それを『原始従属栄養生物』と言って、他の有機物を、生命を支える養分として取り込み、分解して二酸化炭素を吐き出していた。無気呼吸と呼ばれ、最も原始的な生命運動だ。ところが、そんなものがどんどん増えて行くとどうなる?。海水中の有機物は減る一方で、代わりに海中と大気の、二酸化炭素ばかりが増えていくだろう。そして彼等は行き詰まってしまった。
 しかし生物とは実に柔軟で逞しいものだ。変化した環境に合わせて、次々に新しい種が現れては消えて行く。今度は二酸化炭素を取り込んで、酸素を吐き出す生物が増えて行った。するとそれに対抗するように、酸素を取り込んで二酸化炭素を出すものも再び現れた。ふたつの種が初めて共存できた瞬間だ。だがこれでも、生物の大繁栄には到れなかった。何故だと思う?」
「わからん」
 征士がこう答えるであろうことは予想していた。だから当麻はどちらかと言うと、ここには伸が居てほしかったのだが、彼は既にキッチンへ行ってしまっている。そこで仕方なく、演出上の盛り上がりに欠けた部分を補う、恰好の材料を使うことにした。
「何故なら原始の生物は全て、自ら養分を生産することができなかったからだ。みんな自分の体を守る為に、ひたすら食って食って食い捲るだけだった、あいつのように」
 と言って当麻は秀を指差して見せる。話を聞いていない秀は何も言わなかった。と言うより、勉強疲れと空腹で怒る気力が失せていた。
「そんな経過を辿ってやっと現れたのが植物だ!、いや正確には、植物性プランクトンのもっと幼いものだ。二酸化炭素を取り込んで酸素を出す、という生物は既にいたが、決定的に違うのは、二酸化炭素を栄養として分解するだけじゃない、それ以外のものを体内で、更に合成していくことができるようになった。そこで最も重要なのは!、秀、さっきやっただろ!」
 ダイニングに入って来るなり、半分眠ったような秀を叩き起こして言った。
「葉緑体だ!!」
「んあぁー、葉緑体〜、小胞体〜、…デンプン」
「やればできるじゃないか!」
 と当麻は一言誉めてから、やっと講議を締め括るに至った。
「葉緑体、という組織を持った植物は、『光合成』を行えるようになった。環境からの発生ではなく、生物組織が行った最初の『生産』だ。煮ても焼いても食えない太陽光から、有機物を合成する植物が現れた。この時から!、地球の運命はほぼ決まったと言って過言ではない。今日、これだけの数の生物が繁栄する世界になった!、という訳だ。
 植物がこの世界にどれだけ大事な存在か、これでよーく理解できたことだろう。以上、本日の講議はこれで終了とする」
「パチパチパチ…」
 訳も分からず力無く手を叩く秀の、伏せている呆れ顔が想像できるようだった。するとその背後から、
「そういうことなら、夕方は当麻が庭の水撒きをしてくれるよね」
 炊飯器のスイッチを入れて、キッチンから出て来た伸はそう言った。別段受けを狙って言ったつもりはなかったが、そこに居た征士も秀も笑っていた。廊下に出て白炎にブラシをかけていた遼の声まで、吹き抜けのダイニングにははっきり届いていた。



 僅かに、涼しいと感じる風が吹いていた。夕立ちの後の庭は、琥珀色の水滴に覆われて輝いていた。当麻は庭の水撒きは逃れられたものの、ジョウロを持たされて、二階のテラスにあるプランターと、各部屋にある植物への水やりを命じられていた。この家には小さな鉢植えがそこかしこに在って、その全てを憶えるだけでも労働だった。
 玄関の傍に、つい最近加わった小さな木瓜の鉢があった。伸は空いたペットボトルに水を汲むと、一階に点在する植木鉢を回って歩く、毎日の習慣だった。その日も同様に、キッチンから始まり最後に玄関を回って、ふと、背後の人の気配にその場で振り返った。
「悪いな」
 伸の様子を見ていた征士は言った。実はその鉢は、征士が仙台の家から持って来たものだ。もうひとつ自分の部屋にも置いてあるが、趣味らしい趣味を持たない彼の、今のところ唯一の趣味だった。
「『植物がどれだけ大事な存在か理解できただろう』、って言われただろ」
 伸がそう返すと、
「何だ、意外とまともに聞いていたのだな」
 征士は「おや」という顔をわざと作って見せる。まあ、考えてみれば伸は自ら話さない代わりに、人の話はよく聞くタイプだった。これと言った自己主張もせず、人の意見を聞かされてばかりいては、征士の価値観からは全く「損な役回り」だろう。だから当麻の長話にも付き合わされる。
 だが人間は、所詮相対的な価値しか知らないのだ。
「いや、結構面白かったよ?」
 と伸は破顔して言った。
「大昔にあった環境ってさ、僕らの鎧とおんなじだと思わないか?。みんなそれぞれが必要な要素で、揃って存在することが重要だって話さ。だから僕は、それを構成するひとつのもので居ることが、ほんとに大事な役割なんだと思った。…ただ名前を連ねてるだけでもさ」
 今はいつもの様に笑っている伸。
 昼まではずっと、居心地悪そうにうろうろしていた筈なのに。
「でも!、僕は水をやるだけだ。後は自分で面倒見てよ、君の盆栽なんだから」
「分かっている」
 征士が「拾って来ては世話をしない」ような、いい加減な性質ではないと伸は既に知っている。こんな風に故意に念を押す言い方が出るのは、むしろ彼の調子が良い時と判断できる。
『元に戻ったようだ』
 しかしこの変化もどうだろう、と征士は今ひとつ飲み込むことができなかった。いつまでも沈んで居られるよりは良いが、ひとつの点に於いては癪に思えたことがある。
 彼を理解しようと話し掛けた自分にではなく、勝手に話していただけの当麻に、伸は救いを見い出していたらしきこと。腑に落ちない、と強く不満に思うことさえ、征士は表に出しはしないけれど。
 学は無くとも生きられるが、あればそれだけ、誰かに応えられることも多くなる、と思った。

「まあ、僕と君が世話するものは絶対枯れないでしょう」
 擦れ違い際にそう言い残した、伸は何か別のことを言いたそうにして、結局言わなかった。

 新たに得られるものは必ずあると、信じる。



 大地に根差す全てのもの、夏の花よ求むるものは皆、古の水が見ていた長い夢なのだ。









コメント)お待たせしました…。夏の話だから真冬に書くのはなーと思って、又、大事な話なのでしっかり書きたいなーとも思って、とりあえず5月まで引っ張ったんだけど…。結局いつものレベルと変わらないみたいよ〜(笑)。
トルーパー同人をやってた頃も、「ミラーの実験」については征伸の友達と、さんざん論議したのを憶えてます(笑)。TVではほとんど出て来ないカプだけど、科学的な根拠があるのよ!!と息巻いていた方がいたっけ…。今思うとさみしい話題かもー(笑)。02.11一部修正




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