一見幸せな征伸
幸福でない王子
Sons and Ties



 何処か、近くて遠い虚空の闇から声がする。
 いつも君を案じていると声がする。
「うまくやってくれるといいけど」
「そうでなければ困る…」



 この秋は、これまでの季節の巡り方とは、全く違う形でやって来た。
 否、秋に限らず夏も春も、年中行事を繰り返すばかりの過去とは違っていた。無論それは変化を望んだ本人の、暴挙とも言える行動の賜物である。
「帰れば早速これか」
 征士は昨年の四月から大学に通っているが、仙台の実家に戻ったのはこれが初めてのことだった。三月の後半から翌年の正月過ぎまで、一年近く家に寄り付かなかったのは、単純に言えば、伸と同居して面白可笑しく暮らしている状態が、酷く性に合うように感じられた為だ。と言うのはそもそも、性格的に縛られることを好まない彼に、常に足枷を付ける環境が存在した訳で。
 光輪を表す象徴、稲妻には定められた軌道はなく、ただ思う侭の光跡を描く法則のみがある。
 家と言う場所が、彼に取ってもう少し寛容なものであったなら、自ら遠ざけようとは思わなかっただろうが。
「文句を言える立場ですか、この一年勝手なことばかり」
 しかし彼の母親は、彼の思惟するところを知ってか知らずか、頑固とも思える態度を変えようとはしなかった。即ち、征士がこの家の次の代を担う責任について、当初から決まっていた予定を変えさせはしないと、天からの使命の如く思っているのだ。元よりこの家の女性は皆気丈で、家庭内では意見を遠慮することがなかった。つまり非常に解り易い意思表示をするとも言えた。
 そして、居間と言うべき広間に置かれた、見事な桜の一枚板の机の上には、綺麗に紙のカバーの掛かった写真の山が見えている。言わずもがな、征士が家に戻った際には、目を通してもらおうと言うお見合い写真だった。
「夏休みに帰るかと思えばちっとも連絡を寄越さない。元旦の席にも来ないと言う。こんな頃になって突然帰って来て…」
 母親の苦言は更に続く。夏の間「部屋を空ける」と言った切り連絡をしなかったのは、確かに征士の落ち度として、責められるのは仕方のないことだった。
「夏は日本に居ないと言いましたが」
「一方的にそう言って来ただけでしょうが。マンションに居ないなら居ないで、何処に居るのか連絡先も教えない」
 責められるのは仕方がなかったけれど、行動を捕捉されるのは尚更不快だった。
 去年の夏は、伸が計画した「世界の海を巡るツアー」に同行して、殆ど毎日移動しながら過ごしていた。レンタカー、自転車を借りて、時にはバスや列車に乗って、南アジアの海岸沿いを実に旅らしく旅していた。途中シンガポールで秀と落ち合って、一週間ばかり彼も合流していた。また夏の終わりには日本に戻って、伸の実家にも一週間程滞在していた。
 以前の生活からは考えられない解放感。高校生までの、実家と学校を往復する日々と言えば、家では常に己への厳しさを求められ、外に出れば家の対面を気にしなければならなかった。そんながんじからめの日々を耐えた後、漸く巡って来た環境の変化と長い休暇。その中に在っては常に、本当の己が生きているように征士は感じていた。
 だからこそ、己を窮屈にさせる声を聞きたくない、真に解放された時間が永遠に続く訳ではないから、今は邪魔をされたくない、と彼は考えているようだった。なので、
「ああ、忘れて済みませんでした。もう子供ではないから良いかと」
 特に気負うこともなく、征士がそう言って母親に返すと、
「いいえっ!、幾つになっても私の子供には違いありませんっ」
「そんなことは分かっている…」
 この期に及んで無意味なことを言うものだ、と、征士は更に冷めた返事をするようになる。
「ああ、もう、だから反対していたのに!」
 逆に、母親は込み上げるものを噴出させるが如く、或いは事の始まりを呪うかのように嘆いている。過ぎてしまった決定は変えようがない。人間を白紙には戻せないと解るから、彼女の嘆き振りは妥当な感覚に過ぎなかった。
「何のことです?」
「あなたが東京の大学に行くと言い出した時から、こんなことになるんじゃないかと、薄々予想はしてましたよ。都会には色々、こちらには無いものがあるでしょうから、ひとつの事に集中し難くなって当然です。多少の覚悟はしていました」
 しかしそれは些か的外れな指摘だ。
「はあ。周りに合わせた訳では」
 何故なら、征士の意識が変化したことを嘆くなら、彼が鎧戦士となった時を嘆くべきだった。広大な世界を知り、知識が拡大する程に人は変わって行くだろう。自ずと見い出せる価値も変化して行くだろう。意を形にする力が存在すること、荒唐無稽な太古の因果をも把握する彼の意識は、もう一地域の一住人に収まるものでもない。普通の人間の振りをして生きることはできても。
 そして征士には、それ以前の思い出を名残り惜しむ気すらないのだ。
「なら尚悪い、自主的な怠慢と言う意味ですか?」
「そんなところです」
「開き直るなどお止めなさい!。まったく、昔はこんなことはなかったのに」
 母親の言う昔を善しとしない彼には、思い出に深い感慨を持てなくて当然だった。
 目指すものを全て用意されている場所で、従順に与えられる義務を努めて来た昔。全てが悪いとは考えないが、そんな幼少期からの続きを生きるだけでは、大成しても結局親の思うように動かされると、征士は今身の上の危機を考えている。ただでさえこの家では女が強いのだ。
「ふた言目にはそう来る。だからです、多少でも私に信用があるなら、行動に細かな注文を付けるのは止めて戴きたい。私は人の道を外れるような行動はしない。ただ折角休みを楽しんでいるところへ、小言の電話など受けたくないからです」
「いいえ、小言で結構。私にはそれが大事なお役目です。あなたがここの道場主となるよう、二十年近く努めて来たのですからね」
 けれど、征士も全てを否定している訳ではなかった。
「…家を継ぎたくないと思ったことはありません。が、あまり五月蝿く言われると嫌にもなります」
 誰にも理解できる話だと思う。
 そんな事例は多く存在する、締め付けが強すぎると反発も強くなるのが世の常だ。丁度崩壊した社会主義国のように、思想、言動、行動範囲までを規制されては、番号を付けられた家畜も同然だ。いつか誰かが気付くことになる、不完全で愚鈍な頭脳しか持ち得ないとしても、人間には人間なりの自由が与えられていること。それは楽園を追放された最初の人間に象徴されることなのだ。
 自らの安楽を捨てた時から人は始まる。例え過去からの遺産を受けるにしても、自らの決定でそうすることだと征士は考えている。しかし、歴史と伝統に支えられて来た家の、そればかりを重んじる彼の母親には、なかなか理解してもらえない事情でもあった。一度離れて考えることを認めてもらえない。
「そんなへそ曲がりは許しませんよ」
「へそ曲がりではない」
 どう話しても頑に拒絶する親の態度は、もう判り切ったことだった。
「何処へ行くのです」
 拠って、これ以上会話を続けても収穫がないと、征士の足は既に、廊下に残して来た鞄の許へと向かっていた。
「帰ります」
「昨日来たばかりでしょう」
「明日には講議が始まるので。一日余裕があったから顔を見せに来ただけです」
 元々長く滞在するつもりはなかった。なので持って来た荷物も殆ど無く、鞄はそのまま持ち帰るような格好だった。まあそれも、征士には予定通りの行動だったのだろう。
「そうですか。仕方がないですね。…でも、」
 すると、大学の日程を聞かされ、引き下がるしかないと考えた彼の母親は、今一度念を押したそうな面持ちで続けた。
「言葉を誤っています、征士」
「はい?」
「『帰る』でなく『戻る』と仰い。あなたの家はここですよ」
 その内容はともかく。
 真に言いたいことを噛み殺すような、息の詰まる彼女の様子は痛々しいものだった。そしてその状態のまま、普段通りの矍鑠(かくしゃく)とした身のこなしで歩き出す。恐らく玄関先に、履き物を揃えにでも行ったのだろう。すぐにでも出て行くと見られる息子の為に。
 そんな、何を差し置いても征士を一番に据えている、その他の感情を捨てて尽している、余裕のない態度を見せ付けられることこそ、征士の最も嫌いな状況だった。
 そう、家の後継者など、本当は誰でも構わない筈なのだ。家に取っては運良く男子が生まれたが、もしそうでなければ他の手段を考えるしかない。万一の場合には例外的な措置も認めるだろう。永年に渡る家名の存続とは、臨機応変な対処なくしてやって行けないものだ。だがこの母には、とにかく自分しか居ないのだと気付かされる。
 本人にそんなつもりはなくとも、正に情に訴えて来るからだ。
「はあ…」
 返事とも、溜息とも付かない声を漏らすと、誰も居なくなった広間を一通り見回して、ぼそっと征士は呟いていた。
「『帰る』と言う心境なのだから仕方がない」
 今はまるで、家に戻ることの方が『お出掛け』だった。

 仙台の冬は早々にやって来てなかなか明けない。既に降った雪が白く残る垣根の向こうに、冷たい風を受けながらも、きりりと背筋を伸ばして立つ和服の母親に見送られ、征士は何事もなかったように家を後にした。
 そして無論だが、それまでの経過を終始見詰めていた、四つの瞳の存在には気付きようがなかった。
 誰かが彼を見ている。
「最悪だ」
 とひとりが言う。
「これじゃ何にも変わんないね。良い方向に行きようがない」
 と、もうひとりが言う。
「まずい…」
「まずくてもどうしょうもない」
「だが…」
 そう話す彼等にもまた苦悩があるようだ。見ていることしかできない遣り切れなさは、過去の決定を変えられない口惜しさそのものだった。



 東京・文京区の南部に建つ伸のマンション。
 ここは、昨年までは彼ひとりの部屋だったけれど、今はもうひとり「ただいま」を言う住人が居る。伸は東京に出て来た際に、通学用にファミリータイプの物件を買わせてしまった。仲間達が集まり易いようにとの配慮だったが、気前の良い毛利家の行動に拠って、恩恵を受ける征士がそこに戻って来た。
「お帰り。…また随分早かったね、開講するまで四、五日あるんじゃないの?」
 征士が玄関ドアの中へと入って来ると、伸は暖房で暖かいリビングから、些か驚いた顔だけを覗かせて言った。出掛ける前に、戻る日を正確に言わなかった征士である。一泊だけでとんぼ返りするとは、伸にしても予想外の展開だったようだ。勿論、開講日に関して嘘まで吐いて来た事実は、伸には知りようのないことだった。とにかく征士はここに帰りたかった。
「長居したらしただけ不愉快になるからな」
 その返事なら予想できなくなかった。しかし僅か一日しか滞在できない程、家は征士に苦痛を与える場所なのかと思うと、そこに住まう人々の心情を伸はいたたまれなく感じる。否、伸に限らず誰だとしても、親が子を思う気持を知る者なら、邪険に扱う人の態度は理解し難いものだ。
 征士の抱える事情は充分に理解しているとしても。
「こっちの生活の方が私には快適だ」
 ただ、征士本人は全く言葉通り、現状に痛く満足している様子なのだ。
「それはいいけど、僕は心配になるよ、飛ばっちりが来そうで」
 なので伸は正直にそんな感想を漏らしていた。このまま時間が経過して行く内に、征士、或いは征士の家に蓄積されて行くストレスが、自分の生活にまで影響を及ぼしはしないかと案じている。既に片足を突っ込んでいるお家騒動でもある…。
 などど考えつつ、伸は玄関から真直ぐ廊下で繋がったキッチンへと、飲物を作りに歩き出していた。洗面所で手洗い等を終えて出て来た征士が、その時丁度キッチンに入って来た伸に出会った。そして特別なことではないが、征士は冷蔵庫の扉に伸を押し付けるようにして、その唇に軽く触れた。
「そんなことにはさせない」
 そのまま、冷蔵庫に手を着いて、伸に被さるように立っている征士は、揺らぎのない意思を示すようにそう続けた。それを疑う意味もあまりなかった。
「…君はそれでいいかも知れないけど」
「何か不満があるのか?」
 ただ伸にはひとつ言いたいことがあったようだ。
「君がひとり悪者になるのはいい。でも僕がそうさせたと思われるじゃないか。僕に悪いイメージが付くことをどう思ってるのかな?」
 悪戯っぽく指を指して、態度こそ軽い印象に纏めてはいたが、考えれば伸には重大な問題だった。まずこのマンションに同居することになった理由も、征士の通う大学の場所を聞いて、自分がそうしろと勧めた経緯がある。その前から幾度となく、征士が泊まりで出掛ける度に、伸の名前が出されたことは容易に想像が付いた。いつぞやには学校を欠席して、借金で遊び回っていたこともある。
 そうした過去の積み重ねから思うに、今頃はもう、あまり信用の置けない人物とされているような、伸にはそんな引け目が感じられていた。即ち信用こそ彼の最大の持ち物、だとすれば彼の自尊心に関わる問題だった。独立した個々の間なら不要な議論でも、未だ親の世話を受けている学生の身では、保護者の存在を無視し切ることもできないと。
 そう伸は真面目に考えているが、では征士は何故そう思わないのだろうか。
「どうとは?」
 多少間の抜けた調子で返した征士を見て、伸は少し意地悪な口調で言った。
「君それでも旧家の息子か。僕が嫌われたら僕の家も嫌われるってことさ」
 嗜めるような視線に変えて、伸は解っている筈の内容をわざわざ、はっきり聞こえる調子で説明してみせる。しかし案の定、伸が思うほど征士は重く捉えていない。
「今更受けなど考えなくとも、伸のことは既によく知っているだろう。それとも伸は…、私の家に嫁に来るつもりなのか?」
「冗談言ってる訳じゃないんだよ」
「なら心配無用だ」
 そう言い切った後、もう話すことはないと示すように、征士はその場を離れて行ってしまった。他の受け取り方をすれば、関心のない話題から逃げたようにも見えた。
 一頻りの、帰宅の挨拶から始まった会話を終えると、伸はポットの前でインスタントコーヒーを手に取る。また序でにもうひとつカップを手に取っていた。殆ど無意識に行われている日常的な行動だった。最も近くに居る、同居人の存在を思うことなく思っていることが、自然に彼をそうさせるに違いない。
 そして家族とはそう言うものだと思う。相手に対する気遣いが、言葉として頭に上って来るより前に、反射的に相手に合わせた行動が出て来る。その根底にあるものが、人間の最も基本的な愛情だとも思う。長い年月を支え合って来た家族にはそれだけ、積み上げられた愛情が存在すると伸は思う。一時的に反発し合うことがあっても、完全に断ち切れる相手でないことは、征士にも恐らく解っているだろう。
 鬼神の如く戦える戦士であっても、鬼になり切ることは難しい。
 そう解るが故に逃げている。今は離れていたいのだろう。
 こんな時自分にできる事は、微妙な状態での生活が許される間だけは、何より一番幸福で居ようと努力することだ。と伸は常に考えていた。嫌でもいつかは、生まれながらの問題を解決しなければならないだろう。その時が来るまで充分に準備をして、これ以上はないくらい楽しむことを堪能していれば、後悔を伴わずに次へ進めるかも知れない。征士に取ってこの大学の四年間は、大事な転換期に当たるのだと思う。
 と、伸はリビングのソファに座った征士の前に、湯気の立つコーヒーカップを無言で置いて、自分はその向かい側に腰掛けて言った。
「君が考え倦ねてるのは分かるよ」
「…迷っている訳ではない」
 言葉の差はあるが、征士も誤魔化すつもりはないようだ。もし明日世界が終るとするなら、何を選択するかは決まっている。つまり今の時点で彼の抱える問題とは、どちらを選ぶかではない、現状から抜け出す方法を模索する意味なのだ。けれど、
「でも、中途半端にしてるのは、本当は嫌なんじゃないの?」
 思案中と言って、曖昧に過ごすのも負担になるのではないか。伸がこの半年程の間に察することのできた、征士の立場についての意見。
 但し実際にそうだったとしても、征士と言う人は白黒付けたがる性格ではない。今を以って答を急ぐ様子は見られないままだ。伸の助言が聞き入れられるかどうかは、伸本人にも望みが薄いと思われていた。
「僕ならこう考える。どう身を振るか困ったら、より多くの支持が得られる方を取るべきだ。特に、この世界の命運を託されてる身としてはね」
 伸の言う通り、普通の人間ならそうするのが良いだろう。もう今は、過去に与えられた特別な能力も完全に失った。残り火のような力を嗅ぎ付けてやって来た少女に、持てるもの全てを与えてしまった後は、普通の人間以上の何でもなく、ただ陰の歴史を後世に伝えるだけの存在となった。特殊な環境を生きた心は普通とは言えないが、単なる人間としての現実が今は大切だった。
 否、終ってみれば鮮やかに煌めくばかりの過去に、立ち戻りたい程の懐かしみを覚える伸ではあったけれど。
「本気で言っているのか?」
「少なくとも、一般にはそう考えると思う。善かれと思うことを僕は言ってるだけさ」
 けれど割り切れもしなかった。
 伸の話した意見とは、既存の人間社会の事情に於いて、過去の特殊な経験やそこから来る感情などは、極力押さえた方が良いと言う訳だ。無論征士にも納得がいかなかった。何故なら現在の己を構成するあらゆる要素は、全て過去の経緯があってのものだ。元を辿れば、家に反感を覚え始めた理由もそこに存在する。過去を切り離して己が成り立つ状態では最早ない、と征士は思うことなく思えた。
 社会に適応する為に、最も大事な記憶を霞とさせ、二度と手に入らないものを渇望しながら生きるのが、理想的な成長とは思いたくなかった。社会に害を為す凶悪な記憶ならともかく、征士の思うことはただ、足りない半身を再び失う目に遭いたくない、と言うだけなのだ。
 そして伸にも解っているだろうが、ふと一般論を持ち出した彼の口からは寧ろ、それとは逆の感情が伝わって来た。決して多数に従いたくはないのだと。
 少数が多数に負けるとは限らないから、鎧戦士は戦えたのではなかったか?。
 上辺での意見を違えていても、伸が僅かな理解者のひとりであることに変わりはなかった。それを確認できれば、征士は更に冷静に問い掛けていた。
「伸はそれで良いと思うか?」
「仕方がないと思う」
「良いのかと聞いている」
 一般論で事が済むなら、誰も悩みはしないだろうに。
「…良くはない。でも、諦めるだろう」
 その返事は全く嬉しくはなかったが、伸らしい答だと征士は感じた。だから彼はこう返すしかない。
「なら私も良くない」
 知った後では無視できない事実、伸は状況に合わせて己を殺すことがある。どれほど強く思う願いが存在しようと、大きな流れに従う方を選択する時がある。世界の存亡が掛かった戦いの中ならば、確かに仕方がない場面もあっただろう。だが、今は義を取って己を諦める時ではないと、征士は憮然とした態度に変えて訴えていた。
 何しろ言い換えれば、何でも捨てられることが伸の強さなのだ。征士は己が一般論に切り捨てられ、「仕方がない」で済まされる悪夢を思っている。そんなことになってはたまらない。
「僕に決めさせるなよ、ホントに悪者にされるじゃないか」
「悪いのは私だといつも言っている」
 だから征士は、正直な気持を訴え続けるしかなかった。
「伸が嫌だと言わない限り私は考えを変えない。言った筈だ、私はいつも伸の近くに居るのだと」
 諦める、との言葉を征士が切なく感じた過去があった。我を通す強靱さに憧れていた伸が居た。彼等の過去の交流がなければ、相手はおろか己を知ることもなかったかも知れない。片方だけでは充分な機能ができず、己の前に相手が、相手の前には己が、対照的に存在しているのを知った時に、今話す言葉も選択されていたに違いない。と思う。

 そう、例え普通の人間に戻ったとしても、人の心は、過去の決定の後ではどうにもならないと、その場を具に見ていた者達も改めて知ったようだ。
「違う結果を望む方が無理って感じ」
「そうかも知れない…」
 彼等にも同様に、この現状をどうにかしたい意思があった筈だが、征士と伸、ふたりがふたりである根本的な部分に、問題の起源が存在すると解れば充分過ぎた。
「元が同じだもん、他人に押し付けるのとは勝手が違う」
「そうかも知れない………」
 彼等が隠れるマンションのベランダに、凍るような冷たい夜風が通り過ぎて行った。だが、正しくここに存在していない彼等には、そんな季節感を感じることはできなかった。それもそれで切ないことだ。



 まだ明日も、明後日も大学には行かない。
 夏の間は計画通り、歩みを止めない忙しいバケーションを過ごしていたが、この冬期休暇はこれと言った予定のない休日を、のんびり過ごすことができそうだった。別段疲れていた訳ではない。否、体の疲れはすぐに癒えるが、心が疲労していると言った状況の征士。たった一日の帰省にも関わらずである。彼の目下の苦悩は殊の外深い。
 だがもう一週間もして、これまで通りの学生生活に戻れば、遠くの家族のことなど忘れている日常がやって来る。その到来を彼は待ち焦がれている。その前に、半端に残った余暇の使い道は迷うところだった。たまには己の居場所について、じっくり考えても良いと征士は思った。
 伸の示唆した通り、好きで半端な状態を継続している訳でもない。長く期待させて裏切るのでは増々質が悪い、家の者に対しても、伸に対しても。いっそ事実関係を全て明かしてしまえば、風当たりは強くなるが家も認めざるを得なくなるだろう。既に爺にも勘付かれている。全体を何とか収められる手段として、唯一頼みになりそうな気はするが…。
 情けない、開き直るなと言われたばかりだ。楽になれば良いと言うものでもない。
 夜空の月が日に日に満ちて行く。冬空は一般に夏より澄んで見えるが、都会の空もそれなりに情緒があると最近は思うようになった。至極短い間だけの、満月の輝きに踊る生命もあると言うのに、月そのものには賑わう音もない。しかし淋しくはない、満月は年に幾度も巡って来るのだ。定期的な回転を繰り返して生きるなら、一度下した決定をやり直すこともできるだろう。間違うことができないから、迂闊に身動きができない。
 人には一度きりの道程だから。
「親を大事にしないと地獄に落ちるよ」
 自室のベッドの上にて、暫し考え事をしていた征士の耳にそんな声が届いた。声のした方に目だけを動かすと、寝仕度を整えた後の伸がドアの前に立っていた。うっかりしていたのか、ドアをきちんと閉めていなかったらしい。伸がそれを開けた音には気付かなかった。
「死んだ後のことなど知らん」
 征士は先程まで考えていたことに続けて、増々そんな気分になっていた。生前と死後のどちらが大事かなど、問われるまでもないことだ。すると、
「あ、僕は道連れは御免だからね、地獄に行くならひとりでどうぞ」
 ふてぶてしくそう返しながらも、伸は征士のすぐ傍へと歩み寄って来た。その表情は疑いなく笑っているが、ふざけに来た様子には見えなかった。こんな場合、伸が何をしたいのか気付かない征士ではないが、口からは敢えて突き放す言葉が出ていた。
「別に、それで構わない」
「・・・・・・・・」
 地獄と言えば、芥川龍之介の小説などを思い出す。三十代の半ばで自害した小説家は、自ら綴る想像上の地獄以上に、生きる現実を奈落に感じたのだろうか。それとも堪え続けた末、個の解放を願える高き所に、命の純粋な目的意識を感じたのかも知れない。天国であれ地獄であれ、人が選べる現実以外の出口には違いない。ただ先へ進みたい、そんな心境が、征士には少しばかり解るような気がした。
 只管に何かを思いながら、ひとり朽ちて行くのも悪くはない。想うものがなければこんな心境には到れない。他を愛せない者には己しか見えないが、真に大切なものの前では己の命も霞むのだ。
 故に誰かに対する、或いは万物に対する愛おしさを知る者には、地獄など恐れる場所ではないのかも知れない。さあ、この身を蝕む苦痛を捨て、暗い地底の山河を歩き出そうと…。
「嘘だよ。僕も一緒に行ってやるよ」
 いつも、伸は後になって本音を言う。
「…自分で言っておきながら、哀れみを向けることもないだろうに」
 そして相手の悲しみも苦悩も、皆自分のものにしなければ気が済まないと伸は言うので、今は同等に悩める人を、征士はただ抱きしめているしかなかった。
 幸福でない私達は、これから何処へ行くのだろうか…。

 満月へと近づく月の光に照らされ、恋人達の影には沈黙が寄り添っている。最早口先に上る言葉は、欲求に着せられたまやかしの衣となって、話す程に離れて行くような気がするからだ。月の女神の微笑みは冷たく、揺らめく感情の隙間に水を差す。
「…馬鹿馬鹿しくなって来たよ、もういいよ」
 ベランダの片隅から、ずっと様子を窺っていたひとりが漸く、この場を切り上げようと声を発した。結局のところ、この世界に生きる征士と伸は、以前と何ら変わりなく、一番に「離れたくない」と言う意思を持って繋がっているのだ。そんな様子を時を追って当てられただけで、新たな変化は何も見出せなかったと、無駄な監視活動の後に溜息を吐く。
「フフ…」
 ところがもうひとりは、今頃になって何故か満足そうに笑った。
「何が可笑しい?」
「いや、伸を笑った訳では。…役立たずな身代わりではあるが、実に忠実なコピーだと」
「それじゃ困るんだろ?」
 それは、未知の深遠へと旅立つ為に、地上に残して行く身代わりを見ていたふたり。戦士としての力を残したままの、正史と言える征士と伸だった。身代わり達はそれとは別の役割を担って生きる。即ち歴史のほころびを防ぐ為に、人間としての存在を地上に置くのが良いと判断されたからだ。征士と伸がその経過を知っているのに対し、身代わり達の戦いの記憶は、すずなぎとの出会いの後で終っていた。
 だから、彼等は多少違った意識を持ち、これまでの己とも少し違った人生を送るだろう、とオリジナルが考えるのは当然だった。征士と伸が、これまでできなかった事を身代わり達が引き受けてくれる、と期待するのは自然な成り行きかも知れない。
 確かに、最終的には違って来る筈だ。
 しかしすぐ目に見える変化があるかと言えば、ないようだった。今はそれが判っただけの観察に終始するも、まあそれで良いだろうと征士は納得している。
「物は考えようだ。自分とほぼ変わらない分身なら、恐らくずっと同じことを思い感じるだろう。ここまでの過去はどの道変えられない、元鎧戦士としての人生が、各々の心の内まで全てを含め、正しい歴史を伝えることなら幸いだ」
 大事に思わなかった訳ではない。征士なりに、家は愛すべき存在だったのだ。
 ただ一族でなく、個として生きる己の前に、それより大切なものを見い出してしまっただけだ。
 そして次には、血族以上に結束した集団を引き寄せる、運命の糸を手繰る存在に出会った。集団として、またひとつの個性としての己の命が、必要とされる場があるなら迷わずそれを取る。何故なら五人の戦士達はそうして始まったのだから。
 誰もが己を、お互いの存在を慈しんでいる証拠だ。
「そう、かも知れないね。良くも悪くもならないだけで」
 そして伸も、多くを語らずに同意していた。所詮人間ひとりにできることはひとつくらい、そのひとつの為に生きているのは、己も身代わりも同じだと感じられていた。後はただ、この母なる大地を離れる自分達と、ここで天寿を全うする彼等の行く末を見詰めるだけで。
「いつか最善策を思い付くよう祈る」
 真面目に祈りを捧げている征士の横で、
「あーあ、どうせなら十四になる前に、隠し子でも作っとけば良かったんだよ。そしたら跡継ぎに困ることなかったのに」
 と言う伸は多分におちゃらけた様子ではあったけれど、
「今頃言われてもな。それに、お互い様だ」
「うーん…、ごめんなさいお父さんお母さん…」
 その年の頃に、持てる世界も物の価値感をも変えられてしまった者が、他にまだ数人居るから笑い話にもできた。そして伸の表す態度は、不幸を不幸と感じなくなればそれが最も理想的だと、無意識に示しているようなものだった。

 完全無欠な生を受けたとしても、生きる悩みを持たずに居られないのは仕方がない。
 せめて、如何なる時も笑っていられればいい。









コメント)05年5月に発行した本の内容を加筆修正しました。改めて読んでみて、表紙がかわいい割に中身が暗い重いでびっくりした(笑)。
それと、「鎧伝シリーズ」の進みに合わせてupしよう、と思っていたら、2年も続きをほったらかして、随分遅くなってしまいました。すみません。これまでの「原作基準シリーズ」から繋がった話ということは、わかっていただけたと思います。これが、普通の人であるトルーパーズの、「解放シリーズ」最初の話だった訳です。はい。
尚、身代わりが作られるのは「偉大なる哲学」の更に後です。

そして、元の文章とは大きく異なる点がひとつ。季節が変わっています(^ ^;。
 征士が帰省する理由をうっかり夏休みにしてしまい、結果「Message」の事件より早い話になっちゃってました(苦笑)。これを書いた頃忙しかったのか何なのか、とんでもない確認ミスでした…。



BACK TO 先頭