伸のリクエスト
輝ける森
Brilliant Trees



 紫陽花の浅黄のままの月夜かな 鈴木花蓑

 六月八日、土曜日の昼間のことだった。
「何かあんまりいい天気じゃないなぁ、買物やめようかな」
 伸はマンションの窓から空を見上げ、その怪し気な空模様に顔を顰めていた。年にもよるが六月に入ると、日々外出時の天気は気になるものだ。そう遠くへ出掛けるつもりはなくとも、少し荷物になる物を持ち歩くとなると、出掛けるのを躊躇ってしまう梅雨時だった。
 買物に行きたい理由は無論、明日の誕生日ディナーの準備だ。専門店で良さそうなワインかシャンパンを仕入れ、他に今切らしているケーパーと、飾り用にブラックオリーブも買いたいと、昨年同様完璧なコースを出すことを伸は考えている。
「明日でもいいんじゃないか?、予定がないなら」
 と征士は言うが、明日天気が回復するかどうかも判らない。予定通り料理が出来上がらなければ、一週間前から考えていたプランが台無しになる。なので伸は振り返ると、とても真剣な顔をして言った。
「一年に一度の誕生日だからさ、今日の内からちゃんと支度してあげたいんだよ」
 征士は伸のそんな様子を面白くも、愛しくも思いながら見守っている。そこまで気合を入れて完璧にする必要はないのに、と昨年も思ったが、伸がやりたがっている事を素直に受け止めるのも愛情だと、今はリビングのソファで大人しくしている。ただ、
「そんなにあたふたしなくとも…」
 あまりに熱中し過ぎているのを心配し、そう声を掛けても、
「ああ、ちょっと今考えてるから話し掛けないでくれる?」
 剣もほろろの状態で会話にならない時があるのは、誕生日を祝う為とは言えどうかと思った。伸は今フードメーターの数値を眺めながら、その上に乗る粉末の量を調整している。完璧な味を追求しようと思えば、素材に対する調味料の量は重要なことであり、彼が真剣に考えたい気持は判らなくなかった。
 しかし征士の本心から言えば、祝いの席の前日に、こんなに忙しそうに働いてほしくはなかった。少し前にテレビで見たアラブの金持ちは、何もかも使用人やコックがやってくれるので、参加者はパーティを楽しみにしながら、皆ゆるりと談話しながら待っていた。まあそこまで飛躍した話でなくとも、食事やパーティなどより、ただベタベタ、イチャイチャ過ごすのが楽しいカップルも居るだろう。
 考え方は人それぞれであり、何が正解と言うこともないが、もう少し落ち着いていてほしいと言うのが、今の征士の正直な気持だった。伸は自らイベントを演出して楽しむタイプだと、解ってはいるのだが、その為に多大な労力を費やす様を眺めるのは、あまり喜ばしい状態ではない。
「ああ忙しい。どうしてこんなに忙しいんだろう、そこまですごいもの作る訳じゃないのに」
 漸く計量が済んだと思えば、彼は既に新たな鍋を手に取り、もう次の行動に移ろうとしていた。ので、今度こそ言うことを聞いてもらおうと、征士はタイミングを測って口を挟んだ。
「まあそう慌てるな、明日の夜まで二十四時間以上ある、一息吐いてお茶でも飲んだらどうだ」
 すると、やはり声を掛けるタイミングが良かったのか、伸は鍋をレンジの上に下ろした所で、見えるように肩の力を抜くと言った。
「うん、そうしよ」
 漸く休憩を入れてくれて征士もホッと一息。ところが伸は、今度は休憩の為に茶葉を確かめ、急須と茶碗を確かめ、それもまた完璧にやろうときびきび動き出す。いつも見ている光景とは言え、その気の回りようは感心を通り越して感嘆を呼ぶ。忙しいから、疲れているからと言って決して手を抜かない、伸の精神力にはいつも頭が下がった。
 なので征士は、彼がお茶を運んで来てソファの隣に座ると、彼の努力を誉めるつもりで、その様子の面白ささをこう言った。
「白魚や、さながら動く水の色」
「…?。俳句?」
「学校で習わなかったか?、井原西鶴などの談林派の俳句だ」
 征士が伸を例えた句は、談林派の中の小西来山と言う俳人の作だが、まあそこまで勉強するのは大学か高校の選択授業で、文学史や国文学を選択した者に限られるだろう。文化系では世界史と英語しか選択しなかった伸には、かなり疎い方面の話題だった。そして、
「いや、そんなの聞いた憶えないな。井原西鶴は知ってるよ、『好色一代男』の人でしょ」
 伸がそう返すと、その如何にも一般的な学習を感じさせる返事に、征士は更に面白くなり笑ってしまった。別段一般的な学習が悪い訳ではないが、受験などに向けた通り一遍の言葉の暗記は、それだけでは詰まらないものだ。井原西鶴と聞いて、『好色一代男』と言うタイトルを思い付いて何になる。その本の内容や、井原西鶴と言う人物を知らなければ、ただのクイズで終わってしまう。
 だが勿論、ひとりの人間が世界中の全てに詳しくなれる筈もない。伸は音楽や芸術方面には明るく、今話題の本なども積極的に読むが、詩歌や漢文の類の知識が薄いと言うだけだ。何事も知れば面白味を感じることができる筈だが、今のところの伸の様子は、勉強する前の高校生並みと言う事実が、征士には俄な愉快を感じさせていた。何事も完璧にやりたがる伸が、と。
 更に、笑われたからなのか彼は口を尖らせ、
「知ってる俳句だってあるよ。雀の子…」
 と小林一茶の句を続けようとしたが、面白いので征士は手を振って見せ、
「それはあまりにも有名過ぎてなぁ」
 と止めさせた。もう、これを続けて伸が幾つ俳句を言えるか、征士は楽しくてしょうがなかった。
「柿食えば、」
「それもメジャー過ぎる」
「うーんと…、菜の花や?」
「いい句だがそれもメジャー過ぎるな」
 そこで駄目出しを続けられる伸が声を上げた。
「メジャーじゃいけないのかよ!」
 普通の人の知識はそんなもんだろ!、と言いたげな開き直った様子だった。まあ征士としても、挙げられた前者の作者正岡子規、後者の作者与謝蕪村、彼等のもう少し捻った句を出して来たら、大いに誉めてあげようと言うところだったが、取り敢えずこんな説明をして、この遊びの主旨を伸に伝えた。
「いけなくはない、有名な俳句はそれだけ多くの人に感銘を与えた証だ。普遍的な感情や情景が、上手く詠まれているから誰でも解り易い。だが、」
「だが何?」
「単なる日常じゃない、例えば私と伸の関係を表現するとしたら、もう少し巧妙な句を詠まねばならないだろう?」
 そう言われると、征士の気持だけは成程と理解できて伸も笑った。
「ああ、あはは」
 今日は誕生日の前日の土曜日。折角の休日であり、前日と言う日もまた特別な日に違いない。そんな日に穏やかに身を寄せて座るこの時間、少し高尚な愛情表現を考えてみようと言う訳だ。
 征士の遊びを理解すると伸は早速、自分の気持に近そうな名句を探し始めたのだが…
「あかねさす紫野行き…?」
 と、征士のひとつのイメージである「紫」が、鮮やかに感じられる情景の中で、袖を振る恋を詠んだ額田王を思い出すも、その途中ですぐ、
「それは短歌だ」
 間違いを指摘されてしまった。
「あれ?、短歌と俳句って何が違うんだっけ?」
「現代ではまあ、五・七・五と、五・七・五・七・七の違いと、季語が必要かどうかと言う解釈だな」
 無論伸が、その基本的なルールを知らない筈もなかったが、何故か今、俳句を思い出そうとしているのにも関わらず、短歌が口から出ていたのだ。自分で「おかしいな?」と思うからこそ尋ねたが、聞けば一般常識として知られる以上のことは特にない。なので改めて、
「そうだった、んじゃあね…」
 五・七・五で構成される俳句を考えるが、数を知らないからなのか、どう言う訳か、伸の気持に沿うような句は一向に見付からなかった。
「痩せ蛙、負けるな一茶ここにあり」
「そんなことを言われてもな…」
 征士は再び笑い出した。今の自分は痩せ蛙でもなければ、何故一茶に応援されなければならないのかと思うと、あまりに可笑しくて笑いが止まらない。伸も自ら言っておいて、
「そんなこと言いたい訳じゃないんだよ〜!」
 共に笑うしかなかった。何故なら伸にも、蛙の扮装をした征士の後ろに、小林一茶が立っている絵が頭に浮かび、ただのギャグになったのは認められた。しかし結局有名な句しか知らないので、それ以上の発想のしようがなかった。
「春の海、終日のたりのたりかな」
「もう春ではないだろう」
 蕪村のこの句は、穏やかに過ごす午後の雰囲気には合うが、そもそも冒頭に「春」と言っているので、今の季節には合わなかった。夏の海と言えば清々しく波立つ海岸の風景。それをよく知る伸ならば、自ら違和感を感じながら話したに違いない。だがその時ふと、何かで目にした感動的な一句が伸の頭を過った。
「あ、うーん、何だったっけ、すごくいいと思った句があるんだけど…」
 学校の授業ではない、最近読んだ本に紹介されていた句だと思い、十数秒ほど頭を抱えて考えると、伸はそれがJAFの機関紙の、旅行記事に載っていたことを思い出した。
「ああ!、旅に病んで、夢は枯れ野を駆け廻る!」
 それはかの有名な松尾芭蕉の句だ。確かに俳諧でもひとつの頂点を極めたような、素晴しい句ではあるのだが、
「名句だが、晩年を詠んだ内容だからな…」
「だね…」
 誕生日を前に、近々死にそうなイメージを持って来てもと、ふたりで困ってしまう状態だった。
 芭蕉を始め、名句を数々世に送り出して来た俳人の名は、一般にも広く知られているものの、その作品自体はあまり知られていないものだろうか。高浜虚子、種田山頭火、中村汀女などは俳人として有名だか、その句をすぐ口にできる人は少ない。また夏目漱石も正岡子規の弟子で、優れた俳句を創作しているが、小説家の詠んだ句ならもっと、世に知られていてもいいような気がする。
 伸は、作家の心のこもった俳句はないかと、更に思い出してみるが、
「白鳥は、哀しからずや…、あ違う、これ短歌だ」
 また短歌が口に上って来て、再び「何故?」と言う気持になった。因みにその歌は若山牧水の『海の声』と言う歌集にあるものだ。
「…何でだろう、短歌は色々思い付くのに、気持を表す俳句って浮かんで来ない」
 伸がそう言って首を傾げると、実は少し意地悪をしていたことを征士は話す。
「まあそうだろうな、短歌は感情表現をする為のものだ」
 つまり裏を返せば、俳句は感情表現するものではない?、と思いつつ伸はこう続けた。
「そうだよね、僕は百人一首はほとんど憶えたけど、半分以上恋愛の歌でしょ。後は人生の歌と、景色の歌がちらほらって感じだよね」
「それが昔から日本人の三大関心事、と言っても過言ではない」
 征士はそう返すが、正確に言えば日本の貴族の関心事、だ。庶民の歌も載せられている万葉集には、妻が夫の狩りの様子を見ている歌など、生活状況を表す作品も多くある。だが何れにしても、歌は基本的に気持を表現するものだった。そして現代で言うところの歌も殆ど、恋愛、人生、生活が題材の歌詞が大半であり、本質的には何ら変わっていないと言える。
 歌は気持を表す、歌は思いを伝える、歌は古くから生活に溶け込んだものだった。そう来ると当然、
「じゃあ、俳句って何なの?」
 伸はそう問い掛けるしかなかった。一見似たようなものに見える両者だが、その存在意義は違うようだと今更ながら思った。ただ、
「何なのと言われても…、国文学の専門家ではないからな」
 征士はその成立ちを、ある程度説明できる知識を持っていたが、それを話しても恐らくピンと来ないだろうと悩む。簡単に言えば古い和歌が短歌になり、連歌が始まり、俳句が出来たと言うだけだが、その内容の格式やルールは時代により変化して来た為、いちいちそれを説明すると逆に理解しにくくなりそうだ。何か良い例はないかと考えていると、征士はふと思い付いた。
「ああ、サラリーマン川柳は知ってるだろう?」
 そう、某保険会社が主催しているあれは、意外に良い説明材料になると思った。伸の勤めていた企業にも、毎年その冊子は配られていたので伸も知っている。サラリーマンとしての生活や、その夫婦生活などを面白可笑しく五・七・五にしたものだ。
「サラ川は面白いけど、あれは俳句?」
「俳句から別れたものだ。季語は必要なく、身近な出来事を『上手いことを言う』と唸らせる言葉遊びだな」
 それを聞くと、流石に伸にも予想できることがあった。
「と言うことは、俳句の方が格調高いと言う訳ね」
「ご明察」
 どちらも言葉遊びには違いないが、有名な俳句は学校でも習うのに対し、川柳と言うものは特に習うものではない。だからより庶民的な遊びと言えるが、同時に俳句の本質もそこにあると征士は続けた。
「現代では俳句は完全な文学だ。しかし原型はむしろサラ川に近い」
「そうなの?」
「ああ。短歌は貴族の教養の高さを示す嗜みだったが、俳句は誰もが参加し、物事の滑稽さを詠んで楽しむものだった。言葉遊びでもあるが一種のコメディだ。その成立には大阪の商人達が関わっていて、関西の人々が普段から何かと面白い事を言うのは、その当時からの伝統らしい」
 すると、正にそれだと目が覚めたように伸は声を張った。
「ああ〜!、だからなかなか気持に合う俳句って浮かばないんだ!」
 彼もまた気付いていた、ここまでに挙げた名句と言われるものは、何処か滑稽な視点のものが多いことに。特に一茶の句などは、あまり文学性を感じないものが多い。けれど元は大阪商人のセンスだと聞けば、酷く納得できる面があった。伸の頭には現代の関西芸人の、軽妙でやや下品なお喋りが思い浮かんでいた。身近な出来事を面白可笑しく話し楽しませる、それは客商売をする人の心意気だったのだと。
 そして征士の意地悪とは、俳句で恋愛を語るのは非常に難しいのを知っていた、と言うことだ。
「初期の俳句では、『花よりも団子やありて帰る雁』と言うのも有名だ」
 そこで征士が紹介したものも、雁が夕方に山へ帰って行く理由を勝手に創作した、ただ面白いと言うだけの俳句だった。この作者の松永貞徳と言う人物が、江戸時代初期に貞門派と言う流派を開き、現代俳句の基礎を築いた。始めからコメディであったので、恋の悩ましさなどは感じられる筈もない。
「確かにコメディだね、川柳っぽい。って言うか、じゃあ何で俳句と川柳は別れたのさ?」
 と伸も今は征士の話に乗り、俳句の何たるかをより知ろうと質問する。すると、
「いや人間は、と言うか日本人は、こういう遊びを始めるとどんどん高度に、より厳しく突き詰めて行く流れが必ず出て来る。季語自体に制約が生まれ、比喩や例えを使わない決まりができて、」
「え?、そうなんだ」
 少し専門的な知識を入れて来た征士の説明に、伸はまた瞬きを止めて聞き入った。
「知らないだろう?、意外に知られてないことだ。流派によってはそこまで厳しくないが、短歌によくある比喩や擬人法などは俳句では嫌われる。基本的にありのままをどれだけ上手く詠めるか、そのテクニックを競うものなのだ」
 決まり事が多くなればなる程、それに合わせるのは難しくなって行く。日本人が頭を使う遊びが好きなのは納得だが、全く、本当に洗練され切った文学なのだと伸は溜息を吐く。
「そう言われると難しい…、『なになにのような』って普通に使うし」
 そう、現代でも比喩は日常会話の中でも使われる。それを使わず何かを表現することは、伸の言う通り意外に難しいことだ。但し俳句でも、「ような」と言う如何にもな言い回しでなければ、比喩的表現が許される場合もある。そして逆に、伸の知る百人一首の短歌などは、比喩や擬人法を駆使した抽象的な詞であることが、俳句との違いとしてくっきりと見えて来た。
「そうだな、短歌は元々連絡手段のようなもので、上手いか下手かはともかく誰でも書ける。だが上手い俳句を捻り出すのは容易ではない。当たり前のことで感動させるのは難しいだろう?」
「当たり前のことは難しい…」
 これが美術なら、完全な写実であるベラスケスの絵画より、ピカソの抽象画の方が難しい気がするが、目で見たものをそのまま描くのと、そのままをセンス良く言葉にすることは確かに違う。教養や語彙の無い者には敷居の高そうな作業だと伸は思う。けれど征士はこんな話を続けた。
「だが、新聞にハッとする俳句を見付けて、小学生の作品だったりすることもある。大人は良い表現を色々考えてしまうが、飾らず感じたままを表現する才能は、子供の方が優れていると思う時もあるよ」
 すると、
「ああ、それわかる!」
 今正に難しく考えていた伸は、閃いたような笑顔で征士に向いた。否、実際閃いていたのかも知れない。何故なら彼の脳裏には今、子供の頃に見た海の映像が広がっていた。心細く感じられる程の広さと、絶えず変化して行く力強さ、煌めく水面の美しさも憶えている。俳句とは現実世界をどれだけ新鮮に、素直に見ることができるかだ。つまり新たな発見をすることだと暗に気付いただろう。
「自分を良く見せようと言う意識は、なかなか排除できないものだからな。そこが俳句の高い壁だ」
 と征士が続けたように、子供のままの心や視点を持ち続けることはできない。知識や経験が増える度、社会的地位が上がる度、対面的にどうしようもなく意識は装飾されて行く。大人になるとはそうしたことだから、まっさらな思考を失う代わりに、それ以上の価値あるものを得ようと生きるしかない。そして、好きな人には尚更良く見てもらおうとするから、愛情を俳句にするのは難しいのだ。
 それを聞くと伸はからかうように、
「へぇ?、君は例えばどう良く見せようとしてるの?」
 そう言って征士の顔を覗き込んで見せたが、それに対する征士の返答が尤も過ぎて、伸は予想外に腑に落ちてしまった。
「例えば、こうして伸の知らない俳句の話をすることだ」
「アハ!、そうだね、確かに」
 ああ、この感動的にしっくり来た気持を、俳句にできる才能があったらな、と伸は惜しくも思った。



 伸は再びキッチンに立った。考えてみれば鍋に水を入れ、火を点けて、沸騰したら塩を入れて、など機械的にやっている調理の作業も、見方を変えれば全く違う表現になるのかも知れないと、ふと思って伸は可笑しくなった。
 俳人と呼ばれるような人は、常日頃そんなことを考えながら生活しているんだろうか?。否、確かにそれは楽しい生活かも知れない。日常を楽しむ、それが俳句の神髄なんだろうと今は伸も、自然にその理念が心に馴染んで来ていた。
 そして、サヤエンドウの筋を取りながら何気なく話した。
「でも言葉って不思議だよね、同じ意味の事を言うのに何通りも言い方があって、だから俳句や詩みたいなものが成り立つんだよね」
 日本に限らず何処の言語もそうなのだから、それは日本人だけの特徴ではない。日本語が成立する前の古代中国語が既にそうであり、それより古くからあるラテン語も、似たような意味の単語は幾つも存在した。恐らくそれは、人の心も目に映る景色も多種多様で、同一の言葉では表し切れない感情を人々は、昔から抱き続けていたと言うことだろう。
「人間は意外に、ひとつに集約するのは嫌だと感じる生物なんだろう」
 人は集団を作らなければ生きられないのに、個々の主張をしたがる歴史も持っている。まあだから生殖とは別に、同性を愛する人間が居たりもするのだが、征士のそんな言を耳にすると伸は、背中をくるりと返して征士の方を向いた。
「僕は君が好きだよ?、大好き?、愛してる?、I love you?、お慕いしてます?、どれがいい?」
「フフフ、別にどれでもいい」
 ただ、多様な表現の文化とは別に、気持が入っていれば単純な言葉で感動するのも事実。心の動作とは全く不定形だ。不定形だから面白い。定型の中に不定形を詰め込むからこそ、俳句には感動があるのだろうと征士も思った。
 するとそこで伸が、
「あ、今ひとつ思い出した。夏草や、兵どもが夢の跡」
 もうひとつ有名な芭蕉の句を口にした。古戦場に雑草の生い茂る様を見て、天下を目指した武将達の見果てぬ夢を思うその句は、偶然今の季節的にも合っていた。ただ、
「まあそれは私達にも感慨深い句だが、誕生日に詠まれてもな」
 征士は些か困った様子だった。自分にまつわる戦国武将の歴史、迦雄須と阿羅醐と自分達の歴史から見て、時間の経過とはそう言うものだと、果敢なくも清々しくも感じる一句だが、この先自分が社会的に失敗しそうな雰囲気もあり、あまり嬉しく受け取れる内容ではなかった。けれど他に思い付かないんだからしょうがないと、もう伸は開き直って言った。
「じゃあ何か例を出してよ。君が作ってもいいんだよ?」
「う〜ん…?」
 そう言われ征士は腕組みをして考える。その時最初にパッと思い浮かんだのは、「朝顔や、つるべ取られてもらい水」と言う、加賀千代女の有名な句だった。朝顔の紫、もらい水と言う表現、正に自分達のイメージに合っていて良かったが、残念なことに朝顔は秋の季語だった。季語と言うのは旧暦で定まったものが多く、現代の暦の上では少し早かったり遅かったりする。
 なので、彼はそれから二分ほど考えると、その今の状態をこう詠んだ。
「言の葉淡し、杜の都の泉哉」
 今、ふたりは言葉について話している。その言葉で彼の地元の仙台に、伸を表す泉が存在すると表現できることを詠んだ、と言う現在進行形の面白い内容だ。流石に俳句のルールを説明できるだけあって、きちんと体裁を整えていて、伸は暫し感想の言葉も出ないほど感心した。五・七・五ではない句が存在することは、最初に思い付いた「雀の子」の例で、流石に知っている伸だった。
 尚、自分を杜の都、伸を泉と言った置き換えは、作者の中に存在していても、それで誤解なく通じるなら問題にはならない。ましてこの場では、ふたりの間で意味が通じればそれで良かった。因みに泉が夏の季語である。
 実は征士は昔から俳句の趣味があった訳ではない。昔どころか、ふたりが一緒に住むようになってから、いつの頃やら関心を持ったようだ。それでも勉強の成果なのか、元々のセンスなのか、こんな風に思うことを詠めるようになるものだ。
「…君すごいね」
 と、目を丸くした伸は漸く口を開いたが、
「別に巧くないぞ?」
 征士は、とてもじゃないが上級者の俳句ではないと笑った。
 己を良く見せようとすることは、安っぽく思われがちだが生物の本能でもある。人が言葉を選び相手の心を掴もうとするのは、鳥が美しい飾り羽を見せて求愛するようなものだ。
 数ある言葉の中から、光る表現を選びたくなるのは自然な欲求。
 君の言葉の森は今すごく輝いて見えるよ、と、伸は素直に征士の努力を愛せた。









コメント)いつも「お誕生日おめでとう」じゃつまらないので、何か言葉にこだわった話にしようと考えてたら、結局俳句の話になったと言う。まあ征士らしくていいなと思ったのと、どっちかと言うと理系の伸さんはあまり知らなそう、と言う感じを書きたかったです。
母が少し俳句をやっていて、私もちょっと齧った程度だけど、最近TBSの「プレッシャーバトル」の、俳句コーナーの夏井先生が面白すぎて、改めて俳句は難しいけど面白いなぁと感じてます。個人的に蕪村の有名な句が大好きですが、全体的にはやっぱり芭蕉は俳句の神だと思いますね。
ちなみに冒頭の句は、季が夏であること以外は話と関係ないけど、征伸に似合う一句なので入れときました。



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