あやしい男(笑)
自殺志願者
THE SUICIDE



昭和十六年、初夏。



 とある中国地方の山林。ここは『冥界への入口』とも呼ばれ、踏み込む者はまず戻っては来ない、と古来から恐れられている山。聖なる領域。
 青年は、鬱蒼と木々の生い茂る山中に、辿る道もなく只管に彷徨っていた。既に縺れ始めた足は重く、露に濡れそぼる苔の地面は、彼の前進を更に困難にさせていた。小走りに進んでは立ち止まり、何とも知れない古木の幹に凭れては天を仰ぐ。枝葉の隙間から覗く空の上、何人も留まる事の出来ない天には、途方も無い自由が遠く続いている様に見えた。
 余りに長い時を無心に走り続けて来た。山林を包む空気はひんやりとして、途切れ途切れの白い息ばかりが彼の後を着いて来る。
 何かに追われている、恐怖。
 苦しい息の内にまた、密かな葉音にも怯える小動物の様に彼は走り出す。額から流れる汗も、体に貼り付くシャツの煩わしさをも忘れ、彼はただ一心に何処かへの出口を模索していた。
 まだ若く、何をも望める筈の青春の時を、青年は逃げ続けていた。

 僕の名前は、ない。親から貰った名前はもう使われることはない。それが世間に知られてしまった日には、僕という存在をこの世に生み出し、育ててくれた大切な家族を自ら、不幸な目に遭わせてしまうだろう。だから僕は素性を隠さなくてはならない、何処かへ逃げなければならない。そして僕が求めるその場所へ辿り着いたら、僕は自らの生を終わりにしようと思う。誰の迷惑にもならない様に。
 死して尚、僕が誰であるかを知られてはならない。深く、潮の流れの早い海に運ばれ、誰の目にも付かず、誰にも拾われる事のない死に場所。それを探し歩いて来た日々も漸く、ゴールが見えて来たようだ。地図の通りならこの山林を抜けた先は海。海に面した断崖絶壁に突き当たる筈だった。
 今や土の上では求められない『自由』は、命と引き換えに天で戴けるもの。皮肉な事だ。
 そう、僕はコミュニストではない、アナーキストだ。僕はマルクスなんぞまともに読んだ事はないし、共産主義者の語る理想と現実が、彼等の言う「悪の温床」である資本主義のそれと、それ程大きく変わるものとは思えない。共産主義だろうと資本主義だろうと、或いはファシズムだろうと、武力を以って市民を襲うような国家は、あってはならないものだと僕は信じている。
 そして、そんな出鱈目な国家の一員に名を列ねようとしているこの国で、僕はそう感じている自分の気持を大事にしたかった。力を持たない、大した知識も持たない小さな国民は、皆「御国の為」と口を揃える軍人達に、騙され続けているのだ。嘘の報道をし、事実と違う事を信じさせて、この国の威信を為そうとしている。そんなやり方はそう長く続くものじゃない。
 僕は大学に進んで、この国の真実に触れる事ができた。この幸運でもあり不運でもある巡り合わせ、大人しく帝国主義の元で犬死にするか、本当の「正義」を探しに命を投げ出すか、ふたつにひとつの、自分の行く道を僕は選択しなければならなかった。
 そうして僕は今や大日本帝国の敵、反政府分子の諜報員の一人として、特高警察に、共産主義者と一緒くたにされて追われている。

 けれどもう、そろそろおしまいの時が近付いている。傲慢な軍国国家になど従わない。そんな国家は最早僕の祖国ではない。僕は名前もなく、肩書もなく、何処の国にも属さない、自由な鳥のようになれれば、今はそれで満足だった。
 欺瞞と謀略に汚されたこの国の哀れな神に、慰めの言葉を考えながら。

 本来の彼は、大政に反旗を掲げて自ら声を上げる、などという大それた事をする性格ではなかった。名も無い草木やありふれた動物達、海や山や何気ない町の風景、そんな物を愛する心優しい少年であった。なので彼が自由主義者になったのは、決して政治的な理由ではない。むしろ権力的な活動には殆ど関心を持たず、ただ純粋な向学心だけを以って、大学には進学したのだ。
 けれど、真に頭の良い者が集まる場所には、様々な考え方が存在する事を彼は知った。大学とは治外法権の外国領事館の様に、比較的自由に、言葉を発する事のできる場所だった。
 そして素直に人の話を受け入れる彼は、そこで多くの「事実とは違う事実」の話を耳にする事になる。
 それまで、自分の主義や立場について論じたり、深く考える事もなかった彼だが、彼の思想は忽ち変貌を遂げていった。今の自分ではこの、「非道がまかり通る戦争の時代」に生きる者として、無責任で軽率であるように思い始めた。こんな事では、望ましい将来を担うものにはなれやしないと。ひとつひとつは少数派でも、果敢に正しい道を生きようとする団体は、世界を束ねれば大勢いるというのに。
 その時、彼が知ったひとつの真実は、彼の心を大きく動かした。
『満州事変は日本軍の謀略だ、嘘をついているのは日本軍だ』
『わざと騒ぎを起こして、朝鮮人に罪を着せ、我が国の検疫の拡大を狙ったのだ』
『国際連合を脱退したのは、それを諸外国から追求されたからだ』
 そんな事があっていいのだろうか、と彼は思った。国民を騙す国家に大人しく従っている国民、信じているものによって、逆に命の危険に晒される何も知らない人々。この国は一体、何をしているのだろう。いつからこんな事になっていたんだろう。彼の目は驚愕の事実によって、開かれていった。
 そして今は、人種差別を公然とスローガンに掲げるドイツやイタリアなど、ファシストの国と協定などを結んでいる。他の民族を虫けら以下だと言う主義の値打が、虫けら以上であるとも思えなかった。世界中で、理解できない事が起こっていた。そして世界中でそれに抵抗する人々もいた。彼がどちらに属したいと思ったかは、既にお分かりの通りだ。
 彼は気の優しい人間ではあったが、勇気を持たない者ではなかった。

 彼が山中に足を踏み入れてから、そろそろ丸一日が経とうとしていた。簡単な食料と水の用意は少々あったが、目的が目的なので、そう何日も持ち堪えられはしない。だのに、困った事になった。彼はこの目印も無い深い林の中で、完全に方向を見失ってしまったのだ。それに気付いたのは、辺りが明るくなり始めて見えた景色が、予想していたものとは全く違っていたからだった。
 もう潮の匂いを感じられていい場所の筈が、何故か岩石の剥き出す山肌を背景に、青々とした竹林が広がる一帯に出てしまった。
 もし、このまま迷い続けたとしても、「餓死」という結末なら迎える事ができる。けれど死は死でも、彼に取ってはそれでは不完全だった。長く死体が残っては、場合によっては見つけられ調べられてしまう。それ程に、アカ狩りの特高は執拗に追いかけて来る。
『…死んでも見通しが悪そうだな、僕は』
 額に貼り付く前髪を掻き上げながら、笹の葉の間から見える空を見上げる。この期に及んでもまだ尚絶望的な状況。しかしそれでも彼は、何とか正気を保って歩いていた。もう、ただ思う方向に歩き続ける他はない。運に恵まれた人生ではなかったが、最後の最後に幸運が訪れるようにと、後は願うばかりだった。

 その時、太陽は頭の真上にあった。
 竹林に入って三時間程歩いた頃だろうか。彼は密生する竹の隙間に、奇妙なものを見つけて立ち止まった。おおよそ人の生活する場とは思えない、こんな山中には相応しくない物体。音を立てずに、恐る恐るそれに近付いてみると、それはまだ真新しいと言っていい、木で彫刻された『玄武』の像だった。
 否、何故それが伝説の獣である玄武と判ったかは、その四角い台座の正面以外に、それぞれに『白虎』、『朱雀』、『青龍』、と文字が彫られていたのだ。それを見て彼はピンと来た。恐らくそれは方位を示していると。
 そしてこれを置いた者は恐らく、この近くに居るのだろう。浮世を離れた山師か何かだろうか、とにかく現社会とは縁のない者ならば、道案内を頼む事も可能なのではないか。
 彼は途端に気力を取り戻して、その最後の望みに賭ける事にした。賭けて、この山の主を探し始めた。

 すると意外にも、それらしきものはすぐに見つかった。
 涼しい影に覆われた竹林の中に、ぽっかりと開けて陽の当る場所があった。そして奥には竹で組まれた小さな庵と、今そこで作業をしていた様に、辺りに散らかった石片、無造作に残された鑿と木槌、そしてまだ作業途中と思われる、荒削りな鳳凰の石像が置かれていた。先程見た大振りな玄武に比べると、実際のカラス程の小さな作品だが、明らかに同じ手による仕事の様に思えた。
 彼は注意を払いながらも、無人の庭に二、三歩踏み入れて、間近でその鳳凰を眺めてみた。不思議な事に、その台座は水筒の様に小さな穴が開けられていて、漆喰の様なものでその口を閉じてあった。中に何かが入っているのだろうか。
 と思ったその時だった。
「何者だ、お主は」
 突然背後から声がした。極めて至近距離だった。疲れ果てている所為か、人の近付く気配も感じ取れなくなったようだ。これではもう、何に掴まっても仕方がない。彼は胸の内で自嘲しながら、恐る恐る自分の後ろを振り返った。
 そこには、確かに浮世離れはしているが、想像していた山師とは相当にかけ離れた、不可思議な人物が立っていた。近代の物ではない、本の記述にあるような古代的な着物に袴、頭には曙色の烏帽子を乗せて、又東洋的ではない、ひどく秀麗な面持ちの、山奥の住人にしてはまるでそぐわない男だった。
 けれどその形を眺めれば、抜け落ちる様な大きな安心感に包まれた。どう見ても警察や軍隊に関わる人間ではなさそうだ。
「あ、あの…」
 彼は人の良さそうな笑みを零しながら言った。
「勝手に入ってすみません、迷ってたもので…。そうしたらここに辿り着いて、誰か居るなら、道を教えてくれるんじゃないかと思って…」
 しかし、山師らしき男はじっと彼を見詰めた後、フッと視線を外してこう言うのだ。
「ここに教えられる道などありはしない」
 確かに、人の姿を滅多に見ない山中では、「道」と言えるものが存在するとは思えない。けれど何を尋ねたいのか察してくれても良さそうなものだ。能面の様に表情を変えないその男は、更に、とっつきにくい印象の人物だった。
 そして、まるで気にも止めない様子で、男の態度に戸惑っている青年の前を擦り抜けると、庵の前に置かれた道具箱らしき木箱を漁って、砥石の様な物を手にして戻って来た。鳳凰像の横に静かに座ると、男はそこにあった鑿を早速研ぎ始めていた。
 青年はその横で立ち竦んでいた。その「何でもない」といった一部始終を見ていた。折角、目的に適いそうな人物に会えたというのに、まともな受け答えさえしてもらえない。自分の何が気に入らないのか知らないが、まあ、犬だって初対面の者には、そうそう尻尾を振りはしないだろう。仕方なく、
「ここで何をしているんですか」
 と、身の上話を聞く事から始めることにした。
 ところが男は更に妙な言葉で返すのだ。
「…今は、僧のようなものかも知れぬ。生に執着する者と、死を求める者を見ている」
 のようなもの、とはどういう意味だろう。それに「今」とは。
 ならば過去は何だったというのだろう…?。
『死神かもしれない』
 ふと青年はそんな事を思って、その人間離れして整った造型の、男の横顔を眺めていた。成程、例え死神でも『神』と呼ばれるものなら、そんな外見をしていても全くおかしくはない、と思えた。そうして暫くの間、黙って男のする作業の様子を眺めていたが、自分の求める答を、易々と与えてはくれないと思えた、男の口から思わぬ言葉が綴られた。
「もし、お主が『至天の崖』に行くと言うなら、教えてやっても良い」
 青年はハッと息を呑む様に男の顔を見た。
「『至天の崖』…?」
「知る者ぞ知る自殺の名所だ」
 男は、彼がここに来た理由を知っている。否、好き好んで迷える樹海を越える者など、理由は限られているだろう。男は先程自分で説明した通り、恐らくここで長い間、死出の旅に向かう者の道案内をしていたのだ。青年もそれには納得ができた。
 しかし、次に男は思い掛けない事を青年に告げた。
「但し、条件がある。お主が身を投げた後、その屍を私にくれる事」
 思わず青年は目を見張った。
「目も、耳も、臓腑に至るまで全て私にくれる事」
 あまりに奇妙な提案、を真顔で、至極落ち着いて喋る男の口振り。
『本当に死神みたいだ』
 けれど青年は意志を持って返した。
「僕は国家反逆罪で追われる身なんだ。この姿が残るのはどうしてもまずい、わかるかい?」
「そんな事にはならぬ」
 そして平然と答えた男の声には、嘘や戯れ言の響きは全く無かった。何を考えているかはまるで解らないが、信用できない人物とも思えなかった。
 これで契約は成立した。
 元々、海の藻屑と消えるのが理想だったのだ。バラバラになった自分の体がどう使われようと、それはもう自分とは何の関わりもない、ただの肉片に過ぎない。今は「社会の害虫」と扱われる自分が、何かの役に立つならむしろ喜ばしい事とさえ思えた。なので青年は快くこう言った。
「それならいい、こんな体が使えるものなら使うといい。僕の体を貰った人なんて、日の目を見ない一生を送りそうだけど、そこまで責任は取れないよ」
 その、変に明るい口調をどう受け取ったのか、男は、
「ああ」
 と一言だけ言って、目の前にある、作りかけの鳳凰像をじっと眺めていた。
 途端に緊迫した空気が流れ始めた。石像の一点に集中しているその視線、男は何かを思い詰めた様な顔をして黙り込んでいる。現代人とは違うであろう、その思考を捕らえる事はできなかった。が、その様子を傍で感じている青年は、何故か、とても優しい心情が自分に降りて来るのを感じていた。
 男が見ている先にあるものを思う。
「…誰かを助ける為なのか」
 未完成の鳳凰には既に、生きようとする力が感じられた。
「そうだな、僕の代わりに助かるといいな」
 青年がそう言うと、男は頷くでもなく変わらない様子ではあったが、スッとひとつ息を吸い込んで、淡々と語り始めた。
「…ここを出て『朱雀』の向いた方へ、真直ぐ進むと黒い岩盤の壁が現れる。向かって左から向こうへ回ることができる。向こう側に出たら尾根を伝って、隣に見える木の無い山に移る。その岩山の上へと登って行けば、自ずと海は見えて来る…」
 青年は、
「ありがとう」
 と穏やかに言った。そして、鳳凰を見詰めたままの男に軽く会釈をすると、静かに体を返してゆっくり歩き出した。もう慌てて駆け出す事もないだろう、と思った。自分の行く道はきっと、この得体の知れない男が守っている筈だと。そうでなければ、彼の望みも叶わないのだから。
 その場を離れて行く青年の、背中を追い掛ける様に男はもう一度念を押した。
「お主が身を投げた後、私はその屍を拾う。良いな?」
 青年は半ば振り返りながら、小さく頷いて去って行った。



 更に三時間程が経った。
 青年は、探し求めた崖の上に立っていた。その傍にはきちんと揃えられた靴。彼は今、野生の動植物と同じ、素足で断崖の上に在って、強く打ち付ける様な風に吹かれていた。
 『至天の崖』とは上手く言ったものだと思う。切り立つ崖の下には、余計な物は何も存在しない海。視界の奥には水平線が広がり、その曖昧な一線で区切られた空と海とは、意外に近い場所の様に感じさせる天への入口だ。
『この高さからだと、水に落ちる前に気絶するな』
 つまり苦しむ事もなく、天の門を潜る事ができるのだろう。最早どうでもいい事だったが、彼は安堵する様に笑った。笑いながら、意を決した。

『お父上、お母上、姉上、僕に繋がる全ての方々。お世話になった恩返しも何もできずに、先立つ不幸をお許し下さい。
 見通しの悪い生き方しかできませんでした。
 ただ願わくば、この国が、この世界が正しい秩序をもって、皆が平等に幸せに暮らせます様に、今は祈るばかりです。僕は間違えてはいなかったと、信じています。そして信念の下に、敢えてお別れを告げなくてはなりません。
 皆様、本当に、すみませんでした。』

 遺書さえ残すことはできない、彼はその文面を心の中に書き付けた。
 変わらず、留まる事のない風が吹いていた。
 この風に乗って運ばれて行く先は、何を思う事なく安心して居られる、本当の家の様にこの身を迎えてくれるだろう。無から生まれた僕は、また無に帰るのだ…。
 彼の足が、その断崖を離れた。
 自然の法則に倒れていく様に、その身は深い海のさざめく中へと、捨てられていった。
 彼が本当に、名も無く、肩書も無く、国籍も持たないものになった瞬間。
 けれど、世界はひとつの命を悼むでもなく、大した意味を見い出す訳でもない。

 誰も知らない、ひっそりとした死。
 それが本来の死だ。



『ここは…何処だ?』
 青年の意識が何かを見ていた。

『天国にしては、和風な天井だなぁ…。否、ここは地獄なのかも知れない…』
 そして、ハッと息を呑んだ。息を呑む事ができた、という事はつまり、彼はまだ生きている。
『失敗だったのか!?、ここは…何処なんだっ!』

 蒼白な面持ちで起き上がると、彼に掛けられていた薄い衣が、板張りの床の上にするりと落ちた。
 暖かい昼間、耳には静かな葉音が聞こえている。口には僅かに血の味がしていた。屋内には縞模様の日が差し込んでいた。彼には確と見覚えがある、竹で組まれたこの壁面は…。
 慌ててそこを飛び出すと、眼前に開けた明るい庭には、例の、得体の知れない山師が一人静かに座していた。そして彼が飛び出して来たのに気付くと、
「漸くお目覚めのようだ」
 と何食わぬ顔をして微笑んだ。ピクリとも動かなかった愛想の無い顔が、まるで、身近な家族の様な眼差しを今は向けていた。
 それは、何なのだろう。一体何が起こったのか。これでは自分の決意も、押し付けられた契約も、その後の行動も、全てが意味を失ってしまう。
 訳の解らない青年はへたりと、その場に座り込んで力無く言った。
「ま、まだ、息切れる前に引き上げちゃ駄目じゃないか…!」
 絞り出すような掠れ声ではあったが、穏やかに薙いでいる笹の葉擦れに、異質な音はよく響いていた。遣り場のない感情の、ただ空しい響き。
 しかし、男はヘマをしたという訳ではない。その訴えに妥当と思える理由は、元より存在しなかったのだ。否、彼の理屈の上では何も矛盾する事はなかった。男は言った。
「私は言った筈だ、『お主が身を投げたら、その屍を拾う』と。そしてお主は崖から身を投げた。身を投げたのだから、お主はもう『屍』だ。だから私は約束通り拾って来た」
 それは、とんでもない屁理屈だった。
 つまりは最初から、本当に死ぬ前に助けるつもりだったのだ。けれど自分の気が済む様にと、ああしろこうしろと指示を出して、それらしく演出をして見せたのだ。真剣に死と向き合おうとしていた自分は、手の上の猿と化して踊らされていた。あんまりだ。あんまりな言い種だと憤慨して、青年は男のすぐ横に詰め寄った。
「何て事をしてくれたんだ!!。あんたは、僕の家族を悲愴な目に遭わせたいのか!?。反逆者が出た家など、社会から抹殺されるんだ!。ふざけるな、あんたは僧侶なんかじゃない!、ペテン師だ!」
 空を切り裂いた悲しみ。自分の為ではない、他の誰かの為にこそある悲しみ。他の誰かにこそある怒り。それら全てを青年は吐き捨てる。
 けれどそうして耳元で怒鳴られていてさえ、男は一向に気にも留めなかった。
 その感覚は、限られた短い時を生きる者には、恐らく解りはしない。何も感じないのではない、ただ、男に取っては生まれ来る喜びも悲しみも、過ぎて行くひとつの点でしかなかった。あまりに長い間、殆ど人と関わる事なく過ごしていた、環境から生まれた心のかたち。それがこの男の正体。
 だから彼はやはり、お構いなしにこう返した。
「無論僧侶などではない。勘違いをしているな、シン」
「…?」
 聞き覚えのない名前で呼ばれた、青年は狐に摘まれたような顔をのろのろと、上げてみる。
「お主の新しい名前だ」
 見事なり、ペテン師。
 まだ何も釈然とはしていない。が、『シン』と呼ばれた青年の中に、何かしら新しいものが吹き込まれた。何かが、彼の体の中で反応していた。何にも勝る強い生命力。新しく、生きる力。
 契約が成り立った時点で、自分に分がある事を男は確信していた。

 一度庵に戻って、男が何かを持ち出して来る間に、青年はその庭の隅に、無惨に砕け散った鳳凰を見つけた。今まさに飛び立とうとする美しい姿の、完成を待たずして壊されるとは、何かしら深い訳がありそうだ、と青年は思う。そう言えば契約をした時、男はひどく鳳凰像を気にしていた風だったけれど。
 程なく庭に戻って来た男は、まだぼんやりしている青年の横に座ると、遠慮もなくこんな事を言った。
「シンはこれからずっと、私と共にここで暮らすのだ」
 全く唐突な話だ。勿論ふたつ返事で賛同などする訳がない。
 けれど、思いも拠らず永らえてしまった自分に、他に行き場があるだろうかとも思う。当然、これまで属していた社会に戻る事はできない。否、戻りたいとも最早思わなかった。虚偽や圧政に傷付けられるばかりの、自由を求める身には厳しい時代を生き伸びるには、自分の精神は脆弱過ぎたと今は思える。傷付き過ぎて、疲れ果ててしまっていた。
 戻りたくなどない。
 ここは、想像もしない別世界だった。同じ国土の中に在りながら、滅多に人の寄り付く事もない、頭を悩ませる様々な仕組みや組織から離れて、ただ丸く切り取られた空を眺めていられる。隠された、小さく限られた土地の中の、測り知れない自由を持てる場所。もしかしたら、この自由の中でならまだ生きられる。生きていられるのかも知れない、と青年は感じ始めていた。
『別に死にたかった訳じゃない。そうする他に道が無かっただけだ』
 そして、最後に望んだ幸運がこんな結末だったとしたら、それに逆らうのは愚の骨頂だとも思えた。探していた道は在った。求めていた自由は確かに存在したのだから。
「…どうせ、一度捨てた命だ。もうどうでも構わないけど」
 やや投げ遺りな調子ではあったが、それでも青年の出した答に、男はとても満足そうだった。
「そうか、それは良かった。それでこそ先回りして助けに行った、甲斐があるというものだ」
 やはり始めからそうするつもりだったのか、と青年は呆れ顔で溜め息を吐く。が、
「…僕を助けたかったのか?」
 ふと、自分が問い掛けた言葉を思い出した。男は簡潔に一言、
「そうだ」
 と返した。

「私の名はセイジ。ここに住み始めて…さて五百年にはなろう」
 その異常な自己紹介を、青年は些か冷や汗が出る思いで聞いた。所謂『不老不死』の夢を追う物語は、世界中に多く語られて来た題材だが、この男が言うと、世迷い言を吹かしているとも思えない。
「本当…なの?」
 おずおずと青年が尋ねると、
「…嘘だとして何の得になろうか。まあ、シンはその内己の目で、その真偽を理解することになるだろう」
 とセイジは答えた。否、疑いの余地はあまり無かった。この時代錯誤な衣装と、山中で自然を相手に暮らしている割に、小奇麗すぎる風貌のこの人物は。けれど、
「五百年も、ずっと一人でここに…?」
 青年は思わず口走った。彼に取っては、それは死よりも恐ろしい事の様な気がして。しかし特に変わる事のない口調でセイジは返す。
「そうだ。だがそれは仕方がない」
 人の感情を超越したもの、の様に青年の心に強く印象を残した。それはある意味で逞しい、ある意味で遣る瀬ない、この、何事もなく流れている無情な時の様に。何が起ころうと、何を思おうと続いている世界。
 そしてその一部である事を。
 セイジはそして、仕方がないとする理由も話した。
「私には世間から隠れて、ずっと守らねばならぬ物があるからだ。私が存在する事の、全ての拠り所である大切な物を、無闇に人に知られる訳にはいかぬ」
「守らねばならぬ物…?」
 そんなに大事な物とは何かを、青年はとても知りたくなった。それこそ五百年の孤独にも堪え得る、大切な使命とは如何なるものなのか。すると、セイジは音も無く右手を上げて、庭の隅に転がる物体を指で指し示した。
「あの、鳳凰像の中に入っていた…」
 ハッと青年は目を見開く。確かにあの台座の中には、何かを仕込んだ跡があった筈だ。けれどそれはもう、元の形を留めてはいない。砕けた石の残骸でしかない。
「中身は、どうしたんだ…」
 ところがセイジは、何故か思い出し笑いの様にフフフと笑うと、
「シンが食べてしまったよ」
 と言った。
「像の中には、鳳凰様との永年の契約をした時に分けられた、鳳凰様の血が入っていたのだ。それがなければ契約の証にはならぬのだ。だが、それを欲しがって度々うるさい者達が来るので、どうしたものかと困っていたのだが…」
 目覚めた時、確かに口の中に血の味がしたのを青年は思い出した。
「えっ、僕…、もう呑み込んじゃった!?」
 途端にひどい罪悪感に襲われた。そんなに大事な物を、いつの間にか知らないが、自分の胃袋に納めたらしいとあっては。それではその契約はどうなる?、君はどうなるんだ…?。
 けれどセイジは、困った顔をする彼の髪にそっと、愛おしそうに触れながら言った。
「良いのだ、鳳凰はシンの中に居るのだから、それで良い…」
 その時、青年は自分に明らかな変化を見つけた。
 セイジが触れている自分の髪が、髪の色が妙に明るかった。日射しの所為だけではない。それならばここに初めて来た時に気付く事だ。
 自分の前髪を見詰めて、キョトンとしている彼の様子を見て、セイジは先刻庵から持ち出した、盆の様な物を横から差し出す。その、漆の枠に嵌められた鏡に映っていたのは、東洋人らしい特徴が薄れ、明るい茶色の髪をして、笹の緑を映した様な瞳をこちらに向けている、『シン』だった。



 不老不死の血を持つ鳳凰は、千年に一度契約者の許に現れるのだという。鳳凰はそして、己の血を目印にして渡って来る。その為に、それを守る者が必要だったのだ。
 それは何の為に、誰の為に。
 今となっては、その理由も始まりも杳として知れないが、恐らくは、この国に恵みを齎す神を招き入れる為に。嘗てこの国を愛した者が、末永く、この小さな島国の平和で、豊かであらん事を願って…。



昭和十六年、十二月。
 ハワイ沖、真珠湾攻撃を開始。対米英宣戦を布告。
 以降、日本軍は絶望的な戦況を迎える事になる。









コメント)まぁ、和風ファンタジーですね。こういう話を書くのは、ゆだみには結構珍しい事なんですが。いや、ファンタジーというより、戦争の時代の事を書きたかったんですけど。
パラレルの中では超短い作品ですが、この後の続きがかなり下らなかったので(笑)、ここで切ったの。実は「鳳凰の血を狙って」やって来るのは、大学教授になった当麻と、その講座にいる学生遼と秀、だったりする…。




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