通夜
いざ来ませ異邦人の救い主
Nun Komm' Der Heiden Heiland



 飛ぶ鳥の自由、思惟の無限、追い縋る囁きに魂の平伏す頂
 優れてこそ知る新たな天地に人は彷徨う



 しめやかな通夜が行われていた。
 秋の夜長はここ、萩の町と言えども肌寒い風が感じられる。冬物の喪服を着ていて丁度良いくらいだった。大正時代の古い民家の前に集う人々は、そう多いと言う程でもなく、長い弔問客の列は見られなかった。恐らく明日の本葬儀もその程度だろうと予想された。
 ひとり住まいの老人の死。
 年月と共に黒ずんだ軒下に生える苔が、照明の明かりにぼんやりと照らされていた。視界に映るそんな様子に時折目をやりながら、通夜の受付テントの向かい側に征士は立って、焼香を済ませて帰る客に、塩等を手渡すのが彼の仕事だった。近隣の住人、親戚筋には全く知られていない彼だ、葬儀屋の社員のように思われていたことだろう。征士は指示された通りの事を大人しく行って、お客には礼儀正しく頭を下げた。
 静かな夜。昨夜から意識が朦朧とし、老衰で亡くなったと言う老人に対して、取り立てて騒ぐような者も今のところなかった。誰もがいつかは荼毘に伏すものだから、穏やかな死に対してはそれ程抵抗なく受け入れられるものだ。しかしこの世には受け入れ難い死も存在する。あくまで人間の側から見て受け入れ難いに過ぎないが。
 死の悲しみを知った上で、死とは何かに望まれて達成されるものだろうか?、と征士はしばしば考えることもあった。何処の宗教でも、死とは真の世界への解放だと説いているからだ。
 弔問客の流れが暫くの間途切れていた。些か退屈さを感じ始めていた征士の肩に、悪戯のように指先で小突く者が現れて言った。
「ねえねえ、やっと叔父さん達が到着したって。もうすぐこっちに交代の人が来るから」
 そして背後から笑い掛ける伸を見て、征士はほっと溜息を吐いた。
 この通夜は伸の実家近くに住んでいた、親戚筋の老人の通夜であった。その息子達は皆東京に出て行ってしまい、唯一の娘は尚遠く沖縄に嫁いでいるそうだ。拠ってひとりで残る老人を気遣い、近所に住む住人、近所の親類、勿論伸の家族も日々様子を見に行っていたが、亡くなっていざ通夜だと言う時に、離れている直接の親族の戻りは遅かった。単純に交通の問題だった。
 その結果征士も手伝いに駆り出されていたのだ。本来なら無関係の者を使うべきではないが、この一帯では高齢化が進んでいて、夜間は寒くなり始めたこの時期、外に立ちっ放しで堪えられる者が少なかったと言う訳だ。まあ征士にしても、ひとりで伸の家の留守番では退屈過ぎた。半ば自ら手を挙げて出て行ったような状況だった。
 ところで、
「似合うねー、君。バリバリの葬儀屋さんって感じだよ!」
 と明るい声でからかった伸は、今年の五月頃に作ったと言う、割合ゆったりとしたデザインの合の喪服を着ていたが、征士は誂えたようなかっちりとしたものを着ていた。秋の連休に一時実家に戻った伸に合わせただけで、偶然ここに滞在していた征士が、勿論学生服など持って来ている筈もない。伸の父親が過去に着ていた服を借りたのだった。上等な仕立の喪服は殆ど何処も傷んでいなかった。
「そんなことを言われた記憶はないが…」
 ほんの少し丈が足りないくらいで、それは征士にほぼ丁度良かった。だから板に着いているように映るのだろうか。その時伸の後方から母親の声がした。
「ご免なさいね征士君、助かったわ。今東京からここの息子さんがみえたから、もうふたりとも戻っていいわよ。ご苦労様でした」
 伸の説明と大体同じような内容を話して、征士に頭を下げる彼女に対し、
「いえいえ、大した事はしていません」
 と、征士は気を遣わせぬように僅かに微笑んで返した。その征士の向こうに、伸の母親は知った顔を見付けたらしく、慌てて挨拶をしにその場を離れて行った。関わる大人達の、密やかながら慌ただしい様子は、今朝から今に至っても継続中のようだ。けれど伸は漸く得られた開放感ついでに、
「じゃあ、帰ろっかお父さん!」
 と冗談を言って征士の腕を取った。
「あのな…」
「アハハハ」
 無論こんな場所でのこと、大声で笑っていた訳ではない。事実伸の声は征士と、極近くに居た者にしか聞こえなかった。ところがそれを耳にして、母親と話していた男がふたりの方に声を掛けた。
「君、伸君じゃないか?。…大きくなったなぁ」
 その中年の男性は、話し方から過去の知人と推察された。特に見憶えのない人物だったが、伸はすぐにぺこりと頭を下げる。それを見て母親が付け加えるように、
「もう大学生なんですよ」
 と話すと、男はさも驚いたような顔をして言った。
「へえ!。…そうか、でも良かったなぁ、旦那様が亡くなられてすぐの頃は、急に大人しくなった印象だったから。随分元気になったようだね」
 しかし、懐かしさを込めて穏やかに語られた話に、伸は少しばかり困った顔を見せていた。何故なら誉められた部分もあるだろうが、通夜の最中にヘラヘラ笑っていたのはまずかった。相手に悪意はないとしても、指摘された内容には多少の自己嫌悪を感じる。そんな伸の様子を母親は確と言い当てていた。
「今連休で、丁度お友達が来ていたものですから、少しはしゃいでいるようですけど」
 そうだろう、今は実家から離れているが、長い間同居していた者なら伸の変調にも気付くだろう。家族だけで過ごしている時なら言葉通り、彼は大人しい種類の人間だからだ。

 通夜からの帰り道は、外灯も少なく視界は真っ暗と言ったところだったが、幸い一本道で大した距離もなかった。だから特に足元を気にもせず、散歩でもするように軽い足取りで歩けた。秋の夜空に煌々と輝く星を見上げれば、明日の天気も上々だと予想も付いた。
 不意に伸は口を開いた。
「僕は薄情だな。結構お世話になった人なのに、何かあんまり悲しくない」
 先程指摘された話でもある。このような場面で楽し気な声を発するなど、不謹慎だと伸は自ら理解している。けれど思わず出てしまった。確かに昨日からずっとはしゃいでいたかも知れない。終った後になって死者に申し訳なく感じていた。又それ以上に、悲しみを感じられない己に疑問を抱いている。普通の感覚が麻痺してしまったのだろうか?、と伸は己の経過をも考えている。
 戦場に起こる悲しみはこんなものではないと。
「ところで誰の通夜だったのだ」
「…え?、話してなかった…?」
 そこで、シリアスな雰囲気は無惨に壊されていた。征士が意外な言葉を返して寄越したからだ。しかし彼は特に不愉快そうでもなく、キョトンとした伸を見て笑っている。
「皆忙しそうで聞く暇もなかった」
「そうだったっけ、ごめん!。みんなに代わって謝るよ。確かにバタバタしてたからなー」
 そして伸は再び困った顔をしながら説明した。
「あそこのお宅は僕の家と同列の分家でさ、昔は長男の叔父さんとお嫁さんが居たんだけど、もう十年以上お爺さんがひとりで住んでたんだ。近所の人はみんなよく知ってて、僕も中学くらいまではよく会いに行ったんだけど、最近は、何だか急に衰えちゃった感じでね。…そう言う姿を見るのが辛くなってたんだ。お年だったから仕方ないけど…」
 伸の口調は段々と、彼の最初の呟きに繋がって行くようだった。必ず悪い傾向とは言わないが、それが幾分内省的な趣を感じさせて来たので、征士は敢えて、
「九十六まで生きたら充分だろう」
 と答える。何でもまず己に原因を見い出そうとするのは、伸の悪い癖だと思う。少なくとも今はそう言う時ではなかった。
「あ、知ってた?」
「あちこちで話していたからな」
 そして征士は続けて言った。
「だからそれ程の悲劇とは、誰も感じていないようだった」
 彼の観察は決して誤りではなかった。通夜と言っても色々あるだろう、大挙してさめざめと泣いていたり、押し黙って悲しみに暮れていたり、嘆き喚く者が居たりと、死の原因や死者の種類に拠って状況は変化する。他に比すれば平和的と言って良い通夜の場には、取り乱す程の酷い悲しみは存在しなかった。問題を抱えてもおらず、鬱屈したところもなく、朗らかな人物だったと言われる故に、集まる人の意識もそうなるのかも知れない。
 ましてや、眠りの内に天へと昇られたのだから。恐らく本人の意識ですら、死の恐怖より安らぎを感じていたと思う。何故そんな状況を見聞きした上で、己に否があると考えられるだろうか。
「…そうかな?」
 伸は一言だけ返して暫し黙っていたが、
「うん、もう考えるのはやめよう」
 自ら諭されたように言って、もう目の前に見える実家の門に向かって、走り出していた。伸の表情は笑っているようにも見えたが、完全に腑に落ちていない様子を征士は感じていた。
 これまでに征士は、様々な伸の表情や態度を見て来ているし、その時その時で違う感情に流れる彼を理解もしていた。その上で言えることだが、今の伸は案外問題がないようだった。何かに深く悩んでいるようで、一時的な感傷だと判っている風に見えた。何故なら伸は目下の悩みをそう簡単に、人に打ち明けたりはしないのだ。言葉でも言わないが、堪え切れなくなるまで態度にも出さない。それが彼の常だった。
 恐らくこの通夜から受けたどんな印象も、伸の最大の悲劇であった「父親の死」に、並列する程の悲しみや苦痛には至らなかった、と言うことなのだろう。そして征士はふと可笑しくなった、例え死んだのが自分だったとしても、やはりそれを越えることはできないと思った。
 三つ子の魂百までと言う。幼い頃の記憶ほど強烈な色彩をいつまでも留めている。伸は身近な人の死について、悲しくはあれど何処かで割り切れるようになっている。順序の妙ではあるが、彼の父親よりも後に彼に出会った者は、皆少しばかり損をしているのかも知れない。それに勝る印象は誰にも残せないのだから。
 少しばかり悔しいように、実際征士は思っていた。

 伸の部屋は古い母家の奥に建つ、比較的新しい洋式の家の方に在る。大人数で泊まりにやって来た時には、母家の大広間に泊まらせてもらったが、伸の部屋には如何にも洋風の趣向で、来客用のセカンドベッドが入っている。因みにそれは殆ど両親のどちらか、或いは姉君が、幼い頃に付き添って寝る為に使われたものだが、ここ最近はほぼ征士のベッドになっていた。
 今日のふたりは朝から忙しく、共に心地良い疲れを感じていた。まだ二日近くここに滞在する征士は、取り敢えず無理な事はせずに寝る、と通夜の頃には考えていた。洗面所から戻ってベッドの端に腰掛けた彼に、横で布団に潜りながら伸は言う。
「明日も晴れるってさっきニュースで言ってたから、ちょっと遠出しようよね」
 こんな場合、就寝前に話す事と言えば、明日何をするか、何処へ出掛けるかと言う予定ばかりだ。伸はいつもそんな調子だった。どうやら征士が近くに居ると、無意識に遊びに行こうと言いたくなるらしい。無論それが伸の、生活の中での解放を意味するからだろう。気を使い過ぎず、神経質にもなり過ぎず、安心して素の自分で居られるからだと思う。
 大人になるに連れそんな場所は失われて行くものだが、その意味では運が良かったのだ。
 ベッドの横の壁に設けられた棚には、常に変わらぬフォトスタンドがひとつ置かれていた。その中から笑ってこちらを見ているのは、小学生の伸を抱きかかえる彼の父親だ。伸と同じ目の色をして笑い掛ける様子を、これまで幾度も見ていた征士だが、その時ふと、いつもとは違う考えが頭に浮かんで来た。
 もしかしたら伸はまだ、本当の意味で父親の死から立ち直っていないのかも知れない。何故なら死について理解することと、感情的に受け入れることとは違う。だから新たに直面する事にはさほど動じないが、何かが心に引っ掛かった様子なのだと。
 深い傷を癒すには長い時間が必要だろう。ただ、伸が普段からそれに悩まされているとも思えなかった。そう、今は深い意識に沈んでいる記憶なのだ。自ら封じた悲しみなのか、徐々に引いて行ったのかは判らない。それが特殊な状況を切っ掛けに片鱗を現しただけだ。誰にもそんな、トラウマ的な過去の記憶が心に存在していて、現在の性格を左右していると言う。
 まあ、彼を「弱い」と判断しない内は、別段構わないで居られることだった。
 悲しみが命を奪うことはないが、生き続けるだけで乗り越えらる事は多く存在するのだから。



 翌朝は予報通り天気は上々だった。
 伸が「遠出」と言った時の、二回に一回は海の見える所に出掛けている。この日も車に乗って川尻岬の方へと出て行った。萩市から望む海は日本海に属する景色の一部だが、山口県の西北にある川尻岬からは、萩とはやや感じの違う、対馬海峡や遠い釜山の風が感じられるだろう。
 午前十一時を過ぎて、親類の家では今頃葬儀が行われている筈だった。そこまで近い親類ではない為、昨夜の通夜に出た伸に出席は免除されていた。今日は母と義兄だけが参列すると聞いて来たが、何となく後ろ髪を引かれるような、沈んだ気持を切り替えるには丁度良い、絶好のレジャー日和が彼等を迎えていた。
「天気が良くて最高だね、ほら、あそこに見えるのが対馬だよ」
 道路沿いの岩場に降り立った伸は、海の向こうのなだらかな島陰を指差して言った。海沿いの空気は流石に冷たく感じるけれど、目の覚める爽やかな潮の匂いが気持良かった。対馬と言えば、過去は半島文化の交流地点として重要な場所でもあったが、今は穏やかな沈黙を以って時代の波間を漂っている。晴れ渡る海の青に全てが紛れ、過去の動乱の時代も皆覆い尽しているかのような、さざめき。
「どうしたの?」
 軽々と岩の上を渡って行く伸の後ろで、しかし征士は岩場の下に何かがあるのを見付け、そこに暫し立ち止まっていた。顔を上げた彼はこちらを窺う伸に一言、
「何でもない」
 と言って妙な態度を途端に直した。何でもない筈がない。征士に曖昧な態度は似合わない。
「嘘、何なんだよ」
「来ない方が…」
 こちらに来ようとする伸を制止させたかったようだが、言ったところで諦めるとも思えなかった。立ち止まってしまったのは失敗だったと、征士は無意識の行動を後悔するしかなかった。否、無意識なのだから、己に否がある訳ではなかったが、この状況は何やら、隠しておきたい物が伸を呼ぶようにも感じた。彼等は必ず出会ってしまうのかも知れないと。
 もう伸はすぐ側まで戻って来ていた。本当に仕方なくだが、ふたりで大人しくそれを眺めることになりそうだった。恐らく伸には、少なからず何らかのショックを与える筈だ。昨日遠縁の通夜に出て来たばかりで、命が終ることの意味を己に問い、考え続けている。今はそんな時だと思う。
 だから些か心配だった。その岩場の下にあったのは、傷付いて打ち上げられたイルカの屍骸だったのだ。暖流に乗ってしばしばこの辺りにも現れる、イルカの姿を見るのは伸には珍しい事ではない。若干季節外れと言う程度だった。勿論征士にしてみれば、水族館以外で見ることのない生物なので、思わず立ち止まってしまったに過ぎない。
 破れた腹部から白い肋骨が幾筋か覗いていた。辺りの岩に地肉の散った後が赤黒く染み付いて、時折波に洗われている。だらりと、力無く垂れた鰭の根元も腐敗を始め、涌いた蛆虫に拠って千切れてしまいそうに見えた。寒々しく打ち捨てられた骸の末路。人ならば凡そ、こんな死に様になることは稀だろう。
「…死んでるね」
 ボソっと伸は言った。暫くの間黙ってそれを見詰めていた。何も読み取れない、無表情に固まった彼の顔を征士は見ている。合わせるように彼も淡々と話した。
「この様子だと一週間くらい経っているな、変色しているし、原型が崩れている」
「そんなレポートは聞きたくないよ」
 伸はそう返していた。表情は変わっていないのだが、明らかに彼の中で何かが波打っている様子。けれど征士は敢えて同じ調子で話し続けた。
「どう話そうと状況が変わる訳でもない」
 きりりとした一筋の風が吹く。氷の粒が水を打ったような涼しい彼の言葉は、最も客観的に、具体的に現実を語っていると判る。主観的に、感覚的に現実を受け止めるタイプの者には、それなりに親切な助言だったかも知れない。死は死である。化学反応と考えれば美も悲愴も存在しないと。
「そうだけどさ…」
 伸は肯定していた。肯定しながら尚も、食い入るようにその屍を見詰め続けていた。理性的に受け止められる頭脳とは別に、何故だか気持がそこから離れてくれない。とその時、
「な、何だよ?」
 征士は背後から、両手で伸の頭をすっと捕らえて、無理矢理自分の方を向かせていた。
「止め止め、海を見に来たのだろう?、天気が良いから対馬が見えるって?」
 吊られて体を捻った伸をそのまま、片手で抱えるようにして征士は歩き始める。多少強引なやり方だったが、とにかくこの場から離れた方が良いと思った。目の前にあんな物が存在しなければ、昨日からの心情を引き摺ることもなかったのだ。又征士がそう考える理由と気遣いが、伸に伝わらない訳でもなかった。だから大した抵抗も表さず、その場を離れることになったけれど。
 心はそこにまだ残されている。

「ねえ、ねえってば」
 まるで農道を綱に引かれて歩く仔牛の様に、暫くは征士に手を引かれるまま、大人しく歩を進めていた伸だった。が、現場からかなり隔たって、海沿いの遊歩道へと出た数分後には、押さえていた言葉が口を突いていた。
「お墓を作ってあげよう?」
 勿論、征士が「うん」と言う筈もない。非現実的な提案だと誰にも判ることだった。
「あれをどうやって運ぶつもりだ?」
「あのままじゃ可哀想だろう!」
 伸の言葉は感情論でしかないのだと、わざわざ説明してくれるような答えでもあった。そしてもうひとつ、大事なことを征士は付け加える。
「…野生の動物に墓は要らないと言うし、ああして他の動物の栄養になって、また海が豊かになる、そうではないのか?」
 嘗て伸が自ら話したことなのだ。水の将である彼に、海に棲むものを陸に埋葬する愚が判らない筈はない。ただ目に見えている悲しみを覆い隠す為に、何処かに埋めたがっているのではないか、と思う。考えように拠っては不毛な思考でもある、隠したからと言って記憶が消える訳でもない。自己満足の善意なら尚更、何もしない方が賢明だと征士は考える。
 冷たい、と思われようと、そもそもイルカの命はとうに失われているのだから。
「…そうだよ、そうだけど」
 伸は何もかも解っていると言った。そうしてふたりの意識は、どこまで話しても平行線を辿るように思えた。感情と理論、理想と現実、曖昧で鮮明な死の概念。その相反するものたちを受け入れようとする意欲が、彼等に存在しなければそれで終りの場面だった。
 しかし、
「君の言う通り、みんな他の命を犠牲にして生きてるよ、僕だって」
 伸は溜息を交えながら続けた。どちらの意見が正解と言うことではない、どちらもあり得るから割り切れない、伸はそう訴えていた。始めからお互いを「違う」要素と認めて、相手の「必要」を認めて来たのだ。今更切り捨てることもできないだろう。
「でも、頭では分かってても、どうしようもない気持ってあるだろ!?」
 最後には苦しみを吐き出すようにそう言った。伸の、他者に対する優しい感情は過去から何ら変わらず、今も彼を翻弄し、大いなる幸福と苦悩を共に生み出し続けているようだ。彼の中では常にあらゆる事象が混沌として、場に合わせて幸福にも苦悩にも傾くようになっている、風向きに変わる潮の流れの様に。そんな観察結果を征士が得られたのは、割合最近の事だったけれど。
 優しさとは建設的な感情ではないが、この世に必要な心だと今は理解している。故に征士も伸を否定はしなかった。
「そうだな」
 ポーズとしては、仕方なく合わせてあげたような態度で。それを見て、けれど伸は笑えていた。己の昂る感情を自ら認めているなら、大丈夫だと征士は思った。

 ふたりはそれから、伸の新たな提案で元の場所に戻ると、他で摘んで来た野の花を投げた。伸はそれでほぼ落ち着きを取り戻した様子だった。



「あの方ね、昔取引があった銀行の頭取さんよ。よく伸のことを憶えていらしたわね」
 夕飯の卓を囲む母家の広間。休日の夕食にはここに暮らす家族が皆揃っていた。征士がその中に紛れていることは、伸の家族にも征士本人にも、もう慣れたと言って良いような状況だった。足繁く、とは言わないまでも、単独で伸の実家にやって来る友人と言えば、最近は十中八九が征士だったからだ。又その中で泊まりが入るのは彼のみだった。
 伸の母親は茶碗にご飯を装(よそ)いながら、通夜に現れた昔の知り合いの話をしていた。今日の葬儀にもその男性は現れたと言う。それに見覚えがあった義兄の竜介が尋ねた会話だった。
「いつもお父さんにくっ付いていたからじゃない?」
 そこへ台所から、大皿を手にした小夜子が言いながら入って来た。卓の上に運ぶ物はその皿で最後だったらしく、その後静かな動作で畳に就いた彼女に、母親は応えるように返す。
「それで心配してくれていたのかしら」
 確かに思い当たる節がある、と言った口調だった。
 それらのやり取りを聞いていた伸はと言うと、幼少の頃の自分をそんな風に語られるのは面映い、特に過去の詳細を知らない征士の前では、と言うところだった。なので彼は可愛げもなく、
「そんな、ねぇ…、『親はなくとも子は育つ』って言うのに」
 と言った。何故そんな言葉が出たのかと言えば、目の前に置かれた大皿の白身魚の料理。それを目にした途端、
『そうだよな、食べ物として出て来たら悲しいなんて感じない。どんな死に方だったかなんて…』
 と、改めて征士の意見の正しさを思ったからだった。ほんの少し年上でもありながら、未だ血迷っている己が恥ずかしい、そんな意識に駆られて一般論を持ち出した伸だけれど。この場でそれが伸の本音だとは、誰も受け取りはしなかった。否、伸がひとりで生きられない存在だと言うのではない。他人の配慮をそんな風に切り捨てる性格ではない、との意味だろう。それはむしろ征士の特技だった。
 かくして、何事もなかったように箸を取った伸に、
「よく生き残れたものだ」
 征士はやや遅れて先程までの会話に続けた。しかしそれが妙な言葉だったので、伸はキョトンとしなから彼の方を向く。
「は?」
「伸のことだから、飯も喉に通らなくなって、父親と一緒に死んでいてもおかしくない」
 すると一瞬、弾かれたように伸は大きく瞬きをした。素直に驚いていた、何故なら続けて、
「ククッ、…本当に食べなくなったわよ、四日くらいで寝込んでいたわ」
 味噌汁を吹き出しそうになりながら、姉の小夜子がそう続けていた。知らない筈の事を的確に予想する、そんな例は過去にも無論あったと思うが、伸はその度改めて驚くばかりだった。これが征士の言う「理論的」な思考に因るものならば、理論を扱えない人間は酷い損をしていると感じる。正に己がそうだと繰り返し気付くからだ。進歩がない。そしていつも悔しい。
「やっぱりな」
 と一言で感想を述べた征士に対し、
「知ったようなことを言うんじゃないよ」
 伸は故意に不愉快そうな顔をして見せた。まあそれも一過性の感情なのだろうが。
 ところで、征士の話し方は時々、間の経過や繋がりを省略することがあり、出て来る言葉毎に首を傾げるような事もある。ただそれは一種の演出なのだと、今の伸には大分理解できていたが、周囲の者にはまだ要領を得ない事情だった。征士は次に、
「部屋に写真があるだろう?」
 と話した。何を言い出したのか判らない伸の家族は、思わず沈黙の場を作ってしまっていた。
「あれを見ると伸がどれだけ、父親を好きだったか分かるからだ」
 だがそう続けると、成程と思わせる内容には感心せざるを得なかった。言い方の所為で尚その印象が強くなった訳だ。現存する様々な証拠から答を導き出す、征士の洞察力は優れたものだと誰もが感じる。そして伸とはかなり違った人間であることも。ただ、今も過去を引き摺っているように取られるのは、伸には面白くない状況だ。
「当たり前だよ、自分の親なんだから」
 ところが売り言葉に買い言葉で返した、何気ない返句に伸は『しまった』と思った。伸の瞬時の閃きもまた当たっている、征士は少々厳しい表情になってこう返した。
「当たり前ではない、私は父があまり好きではなかった」
 その話はあまりさせたくはなかった。伸の家族は皆、何となく食事の手を止めている。
「今はそれなりに敬意を持っているが、親らしい事は何もしない父だった。母も特に好きではない、姉は勝ち気でうるさいから嫌い」
 特に感慨も持たずそう話す征士に、伸は慌てるように口を挟んでいた。
「あー、皐月ちゃんは?」
「妹は嫌いではない、祖父と祖母は好きだ」
 そしてそれを聞けば、伸は内心胸を撫で下ろして食事に戻ることができた。征士にしてみれば、何故自分が家族を良く思っていないことを伸が、慌ててフォローするのだろうと感じた筈だ。
 周囲に気を回し過ぎる性質の源。伸の意識はやはり、目に見える、或いは言葉として聞こえる悲劇をできる限り、平和的なものに均したいと願っているのだろう。普段は気にしないでいられるレベルに、全てが程良く調和した状態を切に望んでいる。そんな心の働き方は、場合に拠っては滑稽にさえ映るものだ。征士がそう感じたように、家族の内の誰かも感じていたに違いない。
 誰と誰が憎み合おうと、関わり合わなければ済むことだが、伸はいつも穏やかで居られない。そんな形質を得て生まれてしまったことの方が、余程悲劇だと言えなくもなかった。本人はそうして己の苦しみよりも、周囲の苦悩ばかりに目が行くようだけれど。
「だからこうして伸の家に居る方が、居心地が良いくらいだよ」
 征士がそう結ぶと、
「いいとも、君、好きなだけここに居ても」
 と、伸は実にお優しい言葉を返してくれた。実はこれは、話に上手く繋げたカモフラージュでもあったが、伸はそれに気付いていたのかどうか。
 何故なら話を聞いていた他の者は、征士が伸に合わせてここに訪れる理由を得ただろう。勿論事実はそれとは少しばかり違う。否、事実の中のほんの一部に過ぎない。けれど怪し気なものに捉えられなければそれで良かった。歯に衣着せぬ物言いが征士らしさだとは言え、幾ら何でも、息子さんと付き合っているとは言い出せない。
 そうなった経過は恐らく、異界の戦場に立った者にしか理解できないだろうから。
「言っておくが、私は可哀想な訳ではないぞ?」
「アハハ、それもそうだ」
 伸が必要以上に気を遣うのを嫌って、征士は付け足したが、伸にもそれは既に理解されているようだった。と言うより可哀相だと感じることはあまりなかった。どんな環境に在っても、彼は彼だからこそ輝くと知っているからだ。

「あ、私が片付けておくからいいわよ」
 食事を終えて席を立とうとした伸に、小夜子がそう声を掛けてくれた。何となく浮き浮きとした伸の様子を見て、大した面倒事ではないが、食器を片す手間を省いてくれたのだった。
「ありがと姉さん。じゃあ行こう」
「御馳走様でした」
 ふたりがそう返事をすると、代わりに小夜子はその理由を尋ねた。
「これから何かあるの?」
「ん、明日下関の方に行こうと思っててさ。ちょっと下調べをしとこうと思って」
 下関と言えばこの季節は一にも二にも河豚だろう。恐らく美味しい店を押さえておこうとか、そんな事だと容易に想像できる伸の話だった。まあこの辺りでは何処の家庭でも、冬となれば普通に河豚が食卓に上る筈だが、特に高級なものは小売りには出回らないからだ。
 折角ここに、河豚を食したことがないと言うお客が来ている。どうせなら最高と思えるものを最初に食べてほしい、と地元の人間なら思い付くことだろう。それを即ち郷土愛と言う。又、予定をあれこれ考えている時が最も楽しい、と伸は自ら言うからだ。
「じゃあ、ねえ、ついでだからお買い物して来てくれる?」
 すると「良い事を聞いた」と、今は主婦である姉君も明るい声を発していた。地元に住んでいても高級魚には魅力がある。しかし買い物の為だけに出て行くには、県内と言えど下関は遠い町なのだ。そんな事情を組んで、伸は無論断わりはしなかったが、
「いいけど。何だぁ、元々お土産に買って帰るつもりだったのになー」
「あら!、私、余計な事言っちゃったみたい。フフフ」
 わざわざ申し出なくても結果は同じだったようだ。
 優しい言葉での交流、今は極自然な姉弟の会話。けれどこの家ではそれが、暫くの間見られなくなった時期もあるのだ。一時自分の殻に塞ぎ込んでいた小さな弟は、今はもう何処にも探し出せなくなっていた。ずっと傍で見守っていた家族としては、最近の伸の変化はただただ嬉しいことだった。
 例え全てが見掛け通りではないとしても。表面だけの変化だったとしても。

 伸と征士のふたりが母家から去った後、広間ではそれまで殆ど口を開かなかった竜介が、初めて自発的な意見を言葉にしていた。
「うん…確かに違うかもな」
 その独り言のような発言は何を指しているのか、何から繋がっているのか、聞く者には殆ど判らなかった。なので食器を盆に集めていた小夜子が、
「何のこと?」
 と尋ねると、竜介は一度崩した姿勢を改めてから返した。
「伸くんがさ」
 彼が真面目な態度で話そうとする様子を見て、小夜子とその母親は、今この家で最も頼りにする人の意見を聞こうと、それぞれ作業の手を止めて彼を見た。尚竜介は、地元の様々な活動の中で、以前からこの家の家長であった人を知っていた。東京のように広い町ではない、その中で有名な事業主でもあった伸の父を、生前、知らない者はここには居なかったと言って良い。
 又その人にくっ付いていた小さな少年のことも、もうひとりの控え目な少女のことも昔から、記憶の何処かに刻まれていたようだ。だからこう言えるのだろう。
「前から朗らかな子ではあったけど、あんな風にはしゃぐことは滅多にないと思うよ。それこそお父さんが生きていた頃まで遡らないと」
 そう、竜介の目には普段の伸とそうでない伸が見分けられたのだ。勿論明日の予定が楽しみなこともあるだろう、但し、そんな時でも伸がそわそわした態度を見せるのは、珍しい事だと彼は指摘していた。一体何が普段と違うのだろうか?、と。
「そう…だったかしら。そうかも知れないわね…」
 先に答えた小夜子の方は、今ひとつその説明を呑み込めないでいるようだ。だが、母親の方は的を射て返していた。
「そうね、征士君や、他のお友達が来ている時ね」
 竜介がやんわり頷いている横で、母親も更に考えを深めるように黙った。
 それはつまり、征士を含む四人の遠方の友人は、伸には殊に大切な存在だと示しているようなものだ。否、今更言わなくとも、特別な縁に拠って出会った少年達であるとは、誰にも疑いようのないことだった。けれどそれが、身近な家族に為し得ないことをしている状態を、どうにも不思議に感じている。
 伸は少なくとも征士のように、己の家族を「嫌い」などとは思っていない。むしろ子供の頃から全く変わらない感情を向けていると、母親や姉の立場からは感じ取れていた程だ。これで良いのだろうか?、これで成長しているのだろうか?、と思える程に伸の心は相変わらず繊細で優しい。そして本人はそんな自分を嫌がってもいた。他人には見せまいと虚勢を張り、自ら疲れてしまう時がやって来る。結果自暴自棄になると自己嫌悪に陥って、更に己が嫌いになっていくようだった。伸はそんな様子に見えていた。
 自己を愛せない者には他人も愛せないだろう。家族達はそれを最も危倶して来たのだ。この世界がもし、伸に取って辛いばかりに感じられるなら、今を以って過去の傷が癒えていないと考えるしかない。何故この家は早くに家長を失ってしまったのだ、と恨みに思わなくてはならないところだった。それは死よりも苦しい選択だった。いつまでも過去の凶事にこだわって生きるなどと…。
 それら、伸の悪循環と家族への悪影響を断ち切っているのは、この場で言えば正に征士だった。ただ不思議なのは、彼が何をしているとも見えないからなのだ。
「…あの子は、分別のある大人のような振りをしてるけど、本当は違うからよ。年の近い人にだけ話せることもあるんじゃないかしら?」
 暫しの間が空いて、小夜子は弟についてそんな事を話していた。確かに伸は上辺とは違う人間性を持っている。それについては納得の行く内容だった。が、竜介の考えはもうひとつ掘り下げたものだった。
「僕にはどうも、征士君に父性を求めているように見える」
 ところが、途端に小夜子が頓狂な声を上げた。彼女には思いも拠らない話だったようだ。
「えっ?、全然似てないわよ?、外見も性格も」
 それは伸と同じ立場から父親を見上げていた、彼女なりの見方だった。無論何も間違ってはいない。ただ言葉とは時折、非常に不便な道具と化してしまう時もある。竜介が指す「父性」と言う言葉が、何を捉えてのことなのか説明できない内は。
「うーん、そう言うことじゃないんだなぁ…。どう言ったらいいのか…」
「難しいところね」
 言葉では説明されなかったが、しかし母親は既に同意したように微笑んでいた。無論親の立場から見た答があるとすれば、それが最も信用に足るだろうと、若い夫婦は素直に理解する。誰よりも長く伸と過ごして来た親なのだから。

 敢えて言葉にするなら、「身の回りに存在する意見」として。
 今この家には竜介と言う存在が在るが、つい最近まで、成人男性が不在の家だったことを母親は思い出している。つまり長い間欠けていた要素がある、と言う意味だ。特に成長期の前だった伸には、最初に指標となる存在が消えてしまった事実は、少なからず影響を及ぼすだろうと思われていた。
 ただでさえ気の優しい子供だった。本当ならいずれ遭遇するだろう、小事を捨て大事を取るような場面に、どんな気構えをするべきなのか、誰かが教えなければならなかったのだ。それが欠けてしまったばかりに、伸は今でも物事に傷付き易い人間性を露呈している。責任は感じても、女である自分にはどうにもできなかったと、母親は考えている。
 それは元々女性には求められない要素だから。
 逆に、それを徹底して憶え込まされた少年が現れた。
 だからなのだ、と。



 母家の外に一歩出てみると、昨日は見えなかった新月が美しい弧を描いていた。
 きっと明日も気持の良い天気になるだろう、と伸は希望に思いながら、洋々と自室のある家へ歩いていた。その後ろで、枯れ枝を踏んだような「パシッ」と言う音が響いた。秋ならそこかしこで耳にする音だが、林の中でもないのに、と伸が振り返ると、妙なことに右手で左手を押さえている征士が居て、伸の視線に気付いて口を開いた。
「…蚊だ」
「え?、まだいた?」
 返事と共に近付いて行った伸には、被せていた右手が退けられた後の、潰れた蚊の屍骸と、今吸っていたと思しき赤い血の染みが目に映った。それを、彼は暫く無言で眺めていた。
 同時に、征士は嫌な雰囲気を感じ始めていた。まさかこんな虫如きから、思い出してほしくない記憶を掘り起こされようとは。まあ、釈迦ならばどんな命も同じだと言うだろうが、征士はそんな崇高な思想には付き合い切れない、と思った。
「もうイルカのことを考えるのはよせ」
 やや強い語調でそう言った。そしてしじまに留まっていた伸が口を開ければ、やはり彼の思考はそこへと流れていたのを知る。
「…僕は変だ。長く付き合って来たお爺さんが死ぬより、見知らぬイルカが死ぬ方が悲しいなんて」
 己の感情の不確かさに、自らの動揺を招いている。それがいつもの伸だと言っても差し支えはなかったが、征士はだから、特に気取らない己の言葉を返せることに、深く安堵もしていた。自分達はある部分では反対なのだから。相手が必要とする意見は、考えなくとも自然に出て来るものだった。
 装飾的な虚の言葉でなく、実を必要としている人が存在するのは、恵まれたことだと征士は自分で思う。
「そう言うものだろう」
 征士はそう返していた。
「…何で?」
 そんな声が聞かれるとは思わなかったと、伸は再び驚いたような顔で征士を見た。否、考えてみれば思わぬ事を喋るからこそ、彼等は傍に居るのではなかったか。征士は分かり易い言葉を選びながら、伸には丁寧にそれを説明した。
「人が死ねば誰かが悼んでくれるが、偶然あそこで見付けなければ、イルカが死んでいたことは知りようもなかった。必ず誰かに埋葬される身か、そうでないかの違いがそこにはある」
 そして、伸はそれに穏やかに納得していた。何故だか征士は、いつも必要な理屈をくれる存在だと伸はいつも思う。本当のところは「何故」ではなく、「未必」なのかも知れないが、そんな人がこの世に居る事自体を伸は不思議に思っている。だから同じ事かも知れない。常に驚きを以って神の奇跡を仰ぐように、新鮮な気持で居られるのは貴重な幸福なのだ。
 もしお互いに新しさを感じて居られるなら、それは人間関係の究極の形だろう。
「うん…、野生の動物は自由だけど、最期は淋しいね。…そうだね」
 言った傍から、伸の瞳に戸惑いの色は退いて行った。
 吸い込まれそうな夜の藍を被る、深く入り混じった緑色の瞳。最初にそれに出会った時、征士はその住人になりたいと強く願ったけれど、それ以上に今は、己の中から発する有りの侭の声が、伸の乱れた律動を緩やかに戻して行く現実、己がそんな存在になれた事に、とても満足していた。
 それから、片手を彼の肩に乗せて引き寄せ、自分の両腕に抱きすくめていた。それも又、初めて伸の部屋に入った時に、そこに在った写真を見て征士は、こんな風になれたら良い、と思った通りのことをしたまでだった。
 死とは全て過去である、と。



 何処の天地に踏み入れようとも、救い主は言う
「何故私を信じないのですか」









コメント)珍しくいい雰囲気で終りました。まあ結局征伸です。それ以外にないと言った感じですね、これ。別に意図して書いたつもりはないんだけど、偶然の産物です(笑)。尚このタイトルはバッハのオルガン曲なんですが、最後に「よ」を付けた、別の作品が私の過去に存在したりします。結構好評だったSF小説だけど、同人ジャンルはこの際聞かないどいて下さい(苦笑)。



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