流氷
氷解の果て
Melting Your Ice Away



 今年の雪解けは日本中が金色に沸いていた。
 自身の生活には何ら関係ない事が、予期せぬ華やぎを運んで来ることがある。騒々しく、煌びやかな舞台に咲いた氷の花が、春を待つ人々の熱狂に忽ち蕩けた。
 正に凍てつく心が氷解して行くように。



 草の芽は匂い立ち、花綻び、緩やかな暖気と共に塵は舞い、今年も鬱陶しく麗しい時期を迎えた。
 人により只管辛い春先、素直に草木の開花を喜べなくなったことを、今更怒っても致し方ないが、誕生日を迎える伸には微妙なところだ。幸い昨年より杉花粉の飛散量は少なく、昨年からアレルギー用の目薬を点す征士も、そこまで苦しんではいなかった。
 日がな潤みがちな赤い眼に、映る自分は恐らく歪んで見えるだろう。きりりと眩い春の陽を愛す、僕らの幸福な三月を返してくれと、去年は幾度も胸に恨み言を溢した。
 だが今年の伸は、そう、予期せぬ華々しさの到来に喜び、再び浮き立つような春を満喫している。征士の症状が軽かったお陰でもある。
 三月十四日、平日の夕刻、
「お帰り征士」
 マンションのドアを開錠する、細かな音を聞き付けた伸は自ら、キッチンを出て玄関の前に現れた。おめでとうの言葉は今朝口にしたので、征士には特に伝えたい事は無い。ただ普段通り、
「ただいま」
 と応え、迎えに出て来た伸に視線を向けると、ふと、意外な相手の表情に征士は動作を止めた。
 しばしば見ると言えば見る顔だが、自身の誕生日には珍しい。何らかの遊びを画策し、作ったような満面の笑みを浮かべている。はて、何を言い出すつもりだろうと、征士の頭は自然に警戒信号を発していた。
 しかしそれでも、
「今から言う、三つの謎かけに答えられたら、君と結婚してあげよう」
「…何を言うんだ」
 二秒ほど征士は返事に詰まってしまった。勿論昨日まで、今朝仕事に出掛けるまで、そんな話題が上って来た記憶は無かった。
 唯一「三つの謎かけ」と言う発想の、出所だけは明確に把握できている。伸はあの時から、何らかのインスピレーションに嵌っている。まるでこの誕生日当日に向け、自身に魔法か呪いでも掛けたかのように。
 何らかの答に辿り着く因果を見出す為に。
 そして彼は尋ねた。
「毎夜生まれ、明け方に消えるものは何〜だ?」
「希望?」
「何だぁ、覚えてたの」
 さもあらん、それはこの一週間の間に幾度も見聞きした。原典では太陽とされていたそうだが、近代に完成された有名なプッチーニ版は希望とされている。
 プッチーニ、そう、ロマンティックオペラの代表的戯曲が、最近大変な話題になった。二月にイタリアで開幕した冬季五輪である。
 今回の冬季五輪の結果は惨憺たるものだった。国際大会で表彰台に立った競技、スピードスケート、スキージャンプ、モーグル、アルペンは悉く四位、五位に終わり、世界標準を見誤ったスノーボードなどは惨敗だった。大会終盤まで銅メダルすら取れなかった。
 前回まではスピードスケート、クロスカントリーなどで華やかなフィニッシュを観ただけに、毎夜観戦していた視聴者は、眠気を忘れるような落胆を感じ続けた。選手より多い委員や帯同者の、呑気に笑っていた様子に苦言が出たほどだ。
 冬季五輪の最後の競技は、盛り上がるアイスホッケーと決まっているが、日本は出場しない。我が国の最後の望みは終盤の、フィギュアスケートシングル女子のみだった。そこでこの大会唯一の優勝、金メダルが来たことに、鬱憤を溜め続けた国民は大爆発した。
 ほぼ完璧な演技に大喝采、使用された曲や衣装など、オペラ曲のイメージに重ね、大会のハッピーエンドに暫し酔いしれた。伸もその中の一人であった。
 つまりそれ以降、テレビ番組や新聞等に、連日取り上げられ続けた話題であり、征士の記憶にもすっかり刷り込まれたのである。
 中国の美しい王女トゥーランドット、求婚者は三つの謎かけを解かねばならない。解けなければその場で斬首される。幾人もの命を奪った冷血の姫と、付近一帯では知られた存在だった。何故そんな事をしていたかと言えば、誰とも結婚したくなかったからだ。
 夫となると乱暴、勝手で、美貌が衰えるとすぐ若い女に気移りする。典型的な権力者の男性像を王女は嫌悪していた。無論現代は様々な見方ができるが、古の荒々しい時代には、そのような男性像が理想だったのだろう。
 そして、物語に当て嵌まらないキャラクターの征士は、
「だが私の答えは違うな」
 と続けた。スーツの上着に付着したであろう、憎き花粉をブラシで払う彼の、肩口に顎を乗せるように伸は寄り掛かる。わざわざ反論するからには、何か面白い答を期待して待つのみだ。
「ん?、君の答えは何だって?」
「毎夜生まれ朝に消えるのは、紛うことなき本当の伸だ」
「またまた〜、そんなお決まりの文句を」
「私には大事な習慣だ」
 残念ながら目新しい事ではなかったが、征士の言う通り、誕生日の恒例行事的なその会話は、伸にもまあまあ楽しかった。
 ので、残るふたつの謎かけも、とりあえず征士に答えてもらうことにした。
「じゃ二問目、赤く炎のように熱く、火ではないものは何〜だ?」
「血、もしくは烈火」
「あはは!、それもそうだ」
 物語に沿ったオペラの解答以外に、実は幾つかそれに当たる物はある。彼等には寧ろ烈火の方が正しい答かも知れない。
 けれども最後の謎かけだけは変えられなかった。
「最後の三問目、氷のように冷たく、周囲を焼き焦がすものは何〜だ?」
「トゥーランドットだろう」
 変えられないが、他の解釈を付け加えることはできた。
「もしくは僕だ」
 と言って、作り顔をニッと笑って見せる伸の、意図することはまだ理解できない。
「それは…」
 呟きながら、覗き込むように征士は顔を近付ける。伸はしばしば逆説的に、自らを冷たい、軽薄だと自嘲することもあるが、概ね周囲の人々の評価通り、気の優しい気遣い屋で間違いない。凡そトゥーランドット姫の気質には被らない筈だが、
「そうなりたいのか?」
 重ならぬ存在であるが故、憧れを抱く気持ちは分からなくなかった。
「ん〜、単なるイメージだけど、熱いより冷たい方が美的じゃない?。アフリカと北欧を比べても」
「その人の価値観による」
「好きか嫌いかじゃないよ、人情べったりな話と、クールに突き放した話だと、映像になった時の色味も違うし」
 そこで漸く征士は納得した、伸は人間関係に於ける美観を考えていると。一口に恋愛と言っても、成程美しい関係もそうでない関係もある。伸は五輪騒ぎから「千一日物語」を知り、身の凍る残酷さはひとつの美だと、新たな発見をしたようだった。
 そして映像の色と言えば、征士は彼と共に観た映画を思い出した。
「先月の映画は何と言った?」
「『ベロニカは死ぬことにした』?、そうだね、それと『寅さんシリーズ』の違い」
 色としては青、薄く青味がかった画面の印象、淡々とクールに進行する映画、だったのは間違いないが、そこで「フーテンの寅次郎」を出されると、
「うーん…」
 瞬時に画面の違いは判るものの、逆に征士は考え込んでしまう。それを見た伸も、はたと、例えが曖昧なことに気付いて言った。
「あ、考え込むのわかる、内容は全然違うけど、ちょっとテーマが被ってるね」
「比較してみて初めて気付いたな」
 会話の中で偶然生まれた考察は、毎年のお決まりの文句より楽しかった。
 ふたりが先月観に行った、「ベロニカは死ぬことにした」は精神病院の話である。自由に歩き回れる解放病棟で、様々に病んだ人と出会い、主人公が考え方を変えていく流れだが、全体的には心の病を持つ人も、常人と同じように思考力や洞察力がある、との視点で書かれた話に感じた。
 方や「寅さん」の内容は、少し古い時代の下町の人情もの、と捉える人が多いかも知れないが、見る人が見れば寅次郎のキャラクターは、現代で言うところの知的障害、発達障害の人物だとすぐに判るだろう。
 知能や気質に障害を持つ人は、太古の昔から存在していた筈だ。何故ならそれは単に遺伝的組み合わせであり、ヒトがヒトとなった時から、脈々と受け継がれて来たパターンである。
 現代的なシステムの無い時代、重度の障害者は排除されるにしても、軽度の障害者は隣組的な、家族的社会で見守るものだった。教育の行き届かない昔は、知的障害も単に勉強が苦手なことも、同じ扱いだったのだろうと考えられる。
 下町の小さな家に群れる、一家族と得体の知れない知人達は、暖色系の温みを帯びた人情界の住人である。異質さを差別化したがる未来から、不思議と平和に暮らせた昔を懐かしむ、寅さんシリーズの魅力はそんなノスタルジーだ。
 つまりどちらも、メンタルヘルス的要素を持った話であり、その色は演出によるとしか言えなかった。本質的な色ではないとふたりは知った。
 故に伸はこう続ける。
「だから美的なイメージって言っただろ、中身は同じでもさ」
 要するに彼が、冬季五輪のトゥーランドットに感じた、自分に欲しい美の要素は寒気、氷、冷酷などの言葉と、それに合う青味がかったイメージ、と言う話だった。
 確かにその演技の印象は青かった。青と水色のツートーンの衣装が、真っ白な氷の上によく映えていた。
 だがそう思い出すと、伸からそこまで遠い物とも思えない。氷は水からできている、水は当たり前だが水色だ。マグマや蜜のような命は感じない、それらを包み宥める水は、地上で最も安定した物質の、安心感のある薄い青である。
 基本的に温かくはない、清涼である。それでは何が足りないのだろうか。
 伸が見ている美とは何なのか。
「ほうほう、では氷の姫君よ、私もひとつ謎かけをしよう。当てられたら私は姫の前で斬首されていい」
 疑問を抱えたまま征士は流れに乗り、トゥーランドットの話通りにそう続けた。
「君の名前なら知ってるよ」
 最後の求婚者、韃靼の王子カラフは、姫の三つの謎かけを解いてしまった。自ら謎かけを条件にしながら、それでもやはり結婚したくないと言う姫に、カラフは自分の名を当てられたら、潔く死のうと言い出すのだが。
 即座に入った伸の突っ込みに、あまり良い思い付きが無く、
「朝は四本、昼は二本、夜は三本」
「君はスフィンクスか?」
 小学生でも知っていそうだと伸は苦笑した。
「有名すぎて私は身を投げるしかないな」
「どっちにしろ死ぬじゃないか」
 まあ、笑いが取れただけ良かった。どちらの謎かけも不正解は死に至るが、今となっては易しすぎるなぞなぞだ。征士も言いながら恥ずかしくなる程に。
 だがトゥーランドットの結末は死ではない。
 誰も寝てはならぬと姫は言って、夜中にカラフの知人を探し出すが、カラフを慕い着いて来た従者は、痛め付けられ、殺されても彼の名を言わなかった。カラフの人柄を強く信用する様を見て、氷の姫の心は動かされた。
 ほんの僅かな温度の上昇に、砕け離れて行く流氷の光景を思う、トゥーランドットの物語のクライマックスである。
 そんな冷たく美しい、ドラマティックな現実が存在するかはともかく、全てを跳ね除けるほどに、硬く凍り付いた心の高潔さ、根本的な清廉が残酷と化すことはあるのだろう。その一見背反した要素の対比が、話の美観を際立たせるのではないか。
 そして伸は、残念なことに自分の持ち得ない感覚だと、残念がっているようだった。
「君の名前を知らなきゃよかった、永遠に朝は来ない方がいい、誰も寝てはならぬ」
 言いながら芝居がかった仕草で両手を伸ばす、彼の頭には今パヴァロッティの、あの有名なテノールが流れているに違いない。両手は征士の頭の両側に添えられ、自分の方を向くように少し手首を捻る。
 体の向きを強制される征士は、伸の言葉からすればカラフの従者役だ。何があろうと主人を、愛する人を裏切らぬ誠意を見せよ。この小芝居の意味はそんなところだろうか。
 ただ今更問うまでもないと思う、征士は特に乗せられることなく言った。
「目覚めなければ伸は永遠に三十二才か?」
 突然話の筋が変わり、伸は俄かに表情を崩したが、寝てはならぬことも、目覚めずにいることも同じ、大切な時が必要なだけ続いてほしい願いだと、反対の類似を彼は楽しそうに笑った。真実は人の数だけあると言うが、違う立場の違った視点から、同じ事実が見えることもある。
 不思議だが僕らもきっとそうだったよね、と。
「あはは、そうだね、冷凍されて眠ってれば半永久に三十二才だ」
「そんな氷の姫は嫌だな、カツオのたたきじゃあるまいし」
「ああ、来月には初鰹の時期だねぇ」
 だから丸切り話が変化しても、ふたりは気にせず同じ流れの中に居られる。冷凍技術が進化したお陰で、美味しいカツオのたたきが一年中食べられるのも、日々の幸福のひとつの断片であろう。全く美しくはないけれど。



 近年征士の誕生日には、毎度伸が志向を凝らしたディナーを用意するが、伸の誕生日は労いのために外食に出る。それも大事な習慣の内だが、何故だか今年は全て自宅で済んだ。
 実は昨年辺りから耳にするようになった、料理とシェフのデリバリーを頼んでみた。白衣に帽子、赤いタイをした有名店のシェフが、大方店で準備して来た食材の、最後の仕上げを自宅でしてくれるものだ。
 いつものテーブルに、店で使われるグラスや食器が並べられ、予め選んでいたワインを開け、フランス料理らしいお洒落な前菜が運ばれて来た。店の雰囲気を楽しみつつ、リラックスしたホームパーティになるのは面白い経験だった。
 確かに楽しそうに笑っていた。春野菜を覆う泡状のソースは、その白さからは想像できない魚介の味がした。
 だが征士は向かいの席で、具に伸の様子を見ながら、どうも、やはり気を使われているなぁと感じる。単にデリバリーを試してみたいだけだ、と彼は言ったが、少なからず私の眼を気にしていることは、日々の生活から明らかだった。
 たかが花粉症で痒いというだけだ。
 無論屋外の風に晒されるより、掃除と空気清浄機で対策された、自宅の部屋の方が過ごしやすいが、どうせ毎日仕事に通勤している、二、三時間外出が延びようと死にはしない。そこまで気にすることか?と普通は思うだろう。
 まして大事な人の誕生日を。
 否、去年のミモザの花の件で、伸は自分が征士を花粉症にしたような、あり得ない罪の意識を持っているようなのだ。毎日、十年も毎年その花を飾っていた訳でもなく、伸の考えることは未だよく解らない征士。
 ただ伸は優しい。根から冷たくはなれない性格だ。赤、オレンジ、ピンクのラディッシュや人参を隠していた、淡雪のソースが少しずつ溶けていた。真冬に降り積もる雪の下、糖を溜め込む野菜類は甘くなる。彼にはそんな様が似合うと、征士は皿の上を眺めながら思った。

 それとも伸の反応は、私が冷淡だからだろうか?

 謎かけが解けず殺された男達はそれで満足か?
 求婚者を殺し続けた王女はそれで満足か?
 征士にはどちらの心境も何となく理解できた。



 その夜、春先は不安定な空模様が多い割に、ほぼ無風で、凪の闇は静かに街の灯を浮かべていた。そして伸は夜を映したような顔をして、暫しベッドの端に座っていた。

 "雪は溶けながら凍り付く、雪、雪、雪は遠い所から降り続く"

 寝室には音楽が流れていて、彼は繰り返し同じ曲を聴いていた。勿論雨や雪など今は見えない、花吹雪にはまだひと月ほど早い。
 ドア口から、外国語の苦手な征士にも、比較的簡単な歌詞の単語は聞き取れた。80年代に耳にしたことがある曲だ。北極の氷の景色について歌っている。

 "泣いてはいけない、涙はいらない、他の誰かを信じるべきだ"
 "望みも恐れもいらない、心は虚無で、誰の熱情もそれを奪う存在も無い"
 "そんな冷気が訪れるここは、一種の私の地獄に見える"

 美しい音色の曲なのに寒々しい。極地とはそんな場所だと受け取れるが、これが如何なる状況で書かれた歌詞かは知らない。恐らく作詞者の中の一世界だと思う。
 冷たく美しい、美しく冷え切っている。今の伸は、焼き加減の丁度良いフォアグラに、喜んでナイフを入れた数時間前とは違う。意識はこの歌詞の中に居るようだった。
 零度を下回る氷の世界は清潔で、不純な物は何もかも凍結させる。冷たさは美しさだと、科学的に言える面からも、現実に存在するひとつの美の基準に、心惹かれる面があるのではないか。伸はあの日からずっと考えているのだろうか。
 罪を犯せども信念を曲げぬ、冷血の王女はこんな気持だったと。

 "望みも恐れもない、泣いてはいけない、私を待ち続けてはならない"

 触れた首筋が冷たかった。
「本当に凍る必要はないんだぞ、姫よ」
 暖房は入っているのだが、お湯で温まった筈の体は端々が冷えていた。征士は膝を着き、その手を取って、言葉ではない何かを伝えるように温める。例えトゥーランドットが、表現通りの氷の姫でも、人である以上体温はある筈だ。
 表現は表現であり、氷の体を持つ生物は存在しない。そんな美しさを持つ人間は、お話の世界にしか存在しないのだ。
 との、征士の思考が伝わったのかどうか、
「凍ってないよ」
 伸はごく静かに微笑んでいた。征士のする事に抵抗せず、素直に受け取っている様が感じられた。それがどんな感情かはやはり解らない。だが少なくとも、訴えかける男を拒絶しないと知ると、征士は自らの手で包んでいた、伸の手の甲に口を付けた。
「ん?」
「でも生きてないんだ、止まった時を刻み続けてる。氷の心の世界はそういう場所」
 伸は言う、頑に男の性を拒否したトゥーランドットは、秒針が細かく時を刻むように、現れる男の命を切り刻んでいた。どれ程細かく微塵にしても消えることはなく、姫の氷の心は止まったままだった。つまり多くの男は美しくないのだと。
 では男に生まれた我々はどう生きれば良いのだろうか。
 征士はもう一度カラフの台詞を真似て言った。
「私の名を当てられたら、この場で斬首してくれていい」
「…君の名は愛…」
 すると実際の台詞を言いかけ、伸は途端に何か、思い付いたように覚めて応えた。
「…エロスだ」
 広義ではどちらも愛に違いないが、適切な言葉を耳に征士は苦笑いする。
「そうであろうな」
 そして悟りを得た、否、開き直った互いの感情の流れを見ると、握っていた手を引き、伸の上体を征士はゆっくり倒して行った。仰向けに寝そべる視界に、微かに済まなそうに息衝く人が覆い被さる。これまで何度も見て来た映像に、伸が今更嫌悪することもない。
 あらゆる物と比較して、僕らは決して美しくない。けれど同類の中で、他より良い物にはなれるかも知れないと、伸は現実を見ながら夢を見た。
「フフ…、やっぱり結婚しよう」
「んん?」
「結婚は人生の墓場と言うじゃないか、冷ややかな美観の愛だ」
 それまで自ら動かなかった、伸の腕が意を持って征士の頭を捉える。窓の外の薄明かりを反射し、その髪はプラチナのように白く光っていた。金属の冷たさを目に捉えながら、触れる皮膚は熱く乖離している。
「意外と…」
「的外れじゃないと思うよ」
 人である以上体温がある。命がそこに存在する証拠だ。
 互いに抱き締める美しくもないそれは、何故魅力的に見えてしまうのだろう、と虚に思いながらふたりは交わることを止めない。

 誰も寝てはならぬ。
 この欲望に相応しい名前が見つかるまで。









コメント)おわかりだと思いますが2006年の話です。
トゥーランドットは勿論荒川静香さんの使用曲ですが、実は私、2004年に演技を観るまで、千一夜物語は知っていても、千一日物語は知らなかったです。
千一夜の方は、不貞をはたらく女を蔑むような物語集で、シェヘラザードが有名ですが、千一日の方は反対に、男を嫌悪する女性中心の物語集で、対を為しているところが面白いですね。
源氏物語にはどちらのパターンもありますが、いつの世も男女の問題は話になりやすい…、いや、現代は性別関係ない恋愛も多く書かれてますがw



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