他流試合
月下氷人
The Old Wise Man



 陰は陽を越えず陽は陰を冒さず、日は巡り月は満ち欠けし、有りの侭に在る。



「ギャッハッハッ…!」
 その時柳生邸の広間では久し振りに、豪快な笑い声が谺していた。
「…何なんだ?、これは」
「私に聞かれても…『面白い写真』としか書いてないのよ」
 遼と秀のふたりが見ていた一枚の写真、御丁寧にも大きく引き伸ばされている、を受取ると当麻はナスティに尋ねたが、彼女もその写真についての詳細は知らないようだった。
 遼は高校に入学してから、授業のある期間はこの柳生邸に下宿をして、神奈川県下の学校に通学していた。親が留守がちな彼に取って、それは常に世話人の居る頼もしさでもあるが、今は何より勉強を見てもらえることを有り難く感じているに違いない。そこへ秋の小連休を利用して、受験勉強、その他の息抜きをしに来た当麻と秀。彼等は偶然その日届いたこの、奇妙な写真を同時に見ることになった。
 封書に収められた写真の送り主は『伊達弥生』とあった。言わずもがな、征士の姉君の名前である。そして添えられていた手紙には時候の挨拶と共に、簡単に「家で面白い写真を撮ったので送ります」とだけ書かれていた。
 写真に収められている極近い過去の一場面。恐らく征士の家の一室であろう和室に、わざわざ運び込んだ様子の白屏風。夏の終わりか秋の始まり、背の高い白磁の花器に御柳の花が生けてある。その前に硬い表情を見せて映る、人物達は何故こんな写真を撮らせたかを思うと、確かに面白い趣向ではあった。ただその理由が判らない。
「征士に聞いてみようぜ!、本人に聞けば確実だろ」
 笑いながら遼がそう進言すると、確かに、と軽く相槌を打って当麻は立ち上がった。
「そうだな、じゃちょっと電話借りる、ナスティ」
「いいわよ」
 勿論答えたナスティも、今すぐ理由を尋ねたい程度の充分な興味をそそられていた。その非日常的な様子は一体何のお祭りだろうかと。尚、本来なら一番に口を出す筈の秀は、遼の横で腹を抱えたまま伏せていた。笑い過ぎて痙攣を起こしたようだ。



 高校以下の学校では第二学期が始まっていた。
 九月の始め、大学の授業が再開されるまでの数日を伸は、征士の実家に来て過ごしていた。その主な目的は、征士の家の道場で槍の稽古をさせてもらうことだった。今は東京に住んでいる伸には、その大事な稽古事を行う場所に酷く苦労していた。今現在、東京都内には槍の稽古ができる場所は存在しないからだ。無論大学にも「槍部」などない。
 引っ越しをする前に、地元から通っていた山口市内の道場に案内を頼み、東京周辺の稽古場を探してもらったが、都心からやや離れた国分寺市の団体は活動規模が小さく、その上周辺の人口も多く、体育館等を充分に借りられない現状を抱えていた。月に一、二回程度しか稽古を行えないとあっては、折角収得した特技も錆び付いてしまう。
 なので伸は自主的に動いて、大学施設の空きを探して借りる時もあれば、他の武道系の部活動にお邪魔させてもらう、などと言う事もあった。そしてそんな風に肩身の狭い状態では、到底充分な稽古などできはしないけれど、何もしないよりはましだった。何故そうなってしまうかと言えば、当然槍を習うことがポピュラーでないからだが、それ以外にも大きな問題があった。
 町中ではしばしば竹刀をを振る者が見られるが、練習用の槍を外で振るのはかなり勇気が要る。大人の身長程の柄の先に木製の刀身が付くと、実に2メートル近い長さになるのだ。又剣道の素振りのような練習形式ではない為、槍を持って充分に動き回れるスペースが必要だ。拠って小さな公園や街路では他人の迷惑になる。大型マンションに住んでいれば屋上と言う手もあったが、残念ながら伸の住居は、あまり規模の大きくない高級マンションだった。
 そんな事情から、伸は実家に居る間は毎日庭で稽古をしたが、征士の家に行けば尚都合の良い事があった。平日の午前中は道場ひとつが全くの空きになる為、自由に使わせてもらうことができたからだ。出掛けて行く価値は充分にあった。何しろ公共の体育館でなく、武道の為に作られた道場なのだから。

 伊達家の道場の入口は、家の入口とは反対側の公道に面している。やや閑散とした家の庭先をしばらく歩いて行くと、道場用に整備された駐車場の端に出るようになっている。家自体と繋がってもいるのだが、その通路はあくまで師範代の為のものであり、教える立場の時以外は正規の入口から入ることになる。だからふたりは遠回りしてやって来たのだ。
 古来から代わらぬしきたりと伝統武芸の守られる場所。
「久し振りだなぁ」
 玄関に掛けられた看板の文字が読める場所に来て、伸はその心境を一言漏らしていた。
「そうかも知れない、前に来た時は怪我をしていたしな」
 伸がここに来たのは三度、一度はまだ鎧戦士として戦っていた最中に、仲間全員で押し掛けたことがあった。そして戦いを離れた後に一度単独で訪れたが、その時は征士が言うように、未だ家長として健在の爺様が足を骨折していて、仙台市内の病院に入院していた。だから伸は暫くその姿を目にしていなかった。
「何か緊張するよ」
「そうか?」
 この家の中で唯一征士に尊敬される祖父は、伸の目から見ても矍鑠とした、立派な武芸者の風情を漂わせた人物だった。ユーモアのある一面もあるようだが、剣の道にはこと厳しい人だと以前から聞いている。そう、以前は「子供だから」で許してもらえた諸事も、大学生となると御愛嬌では済まないだろう。伸は真摯に己の出方を考えていた。
「一度しか会ってないし、間が空いてるんだ、多分僕のことなんかぼんやりとしか憶えてないだろ?。四年前とは印象が変わってるかも知れないし」
 けれど真面目な話と判る状況でも、征士は故意に適当な返事で返した。
「変わったようには見えないが」
「悪かったなー、どうせあんまり成長してないよ、僕は」
 思考する前にまず動け、とは勧めないが、伸は何事に於いても事前に考え過ぎるところがある。計画を立てて行動するのは良いとしても、失態を見せまいとし過ぎるのはどうか、と征士は常々思っていた。何故なら実際に起こる事とは、予想しない出来事の連続だからだ。何もかも計画通りに物事が進むなら、これ程つまらない人生もないだろう。
「失礼します、爺様」
 だから考え込んでも無駄、と結論の代わりに征士は、明瞭な声で道場の奥に声を掛けていた。伸がここに到着したばかりのこの日、午後は一般の部の解放日になっていて、数人の門下生と征士の祖父がそこに居た。ふたりは一応胴衣に着替えてはいたが、今日はまず挨拶の為に出向いたところだった。
「おお征士か、稽古熱心じゃな…、おや、」
 すると道場の最奥に立っていた老剣士が、孫の声に反応して振り返って言った。まだ耳はよく聞こえている様子のご老体。そして目に止まった、玄関口で頭を下げる伸の様子を暫し見守っていた。
「失礼致します、御厄介になります」
 伸はそう挨拶すると、玄関横の靴入れの方へ姿を消してしまったので、その後道場の様子が変化したことには気付かなかった。征士の方は、何故か静まり返っているのを不審に思っていたけれど。そしてその訳はすぐに判った。彼の祖父が門下生に話し掛けるのが聞こえていた。
「み、皆の者、征士が、」
 その声は些か高揚している様子だった。高めの血圧に障らなければ良いのだが。
「嫁さんを連れて来よったぞ」
「…!」
 丁度、道場の中へと足を踏み入れた征士は思わず絶句していた。祖父からはかなり距離の離れているこの場所で、何故伸を見てそんな風に思ったのやら。万一声だけを聞いたなら、どちらとも言えないような印象の時も確かにある。だが今はそうではなかった筈…。
 と、征士の頭の中で瞬時に様々な考えが巡る間に、
「違いますっ!!、僕は男ですお爺さん!、前にも会ってますよ!」
 伸は慌てて征士の後ろから顔を覗かせて、畳み掛けるように誤りを訂正した。
「…えー?」
「ハッハハハ!」
 すると面を喰らったような爺様の声と共に、他の門下生の笑い声がどっと起こっていた。彼等の中には既に伸を知っている者が居たようだ。
「御隠居、彼は若先生のお友達で、安芸の毛利家の血を引く人なんですよ」
「おや…」
「槍の名士なんです」
 結局、そうして甚だしい誤解は解けたものの、伸は考えていた最初の挨拶が台無しになってしまった、この状況には肩を落としていた。何事も最初が肝心、特に年長者に対する挨拶は大切だと教えられているのだ。今は緊張感より虚脱感を感じながら歩を進めると、伸は未だ腑抜けた顔の老人の正面に立って、取り敢えずもう一度頭を下げた。
「名士って程でもないですが、…毛利伸です。一週間程お世話になります」
 そして漸く呑み込めたと言う様子で、
「あーいや、それは失礼したな、遠目で勘違いしてしまった。征士に比べて背格好が小さく見えたし、様子が穏やかだったもんでな。そう言えば話は聞いておる」
 征士の祖父がそんな説明を聞かせると、伸も素直に答えられた。単なる勘違い、意図のない誤解なら構わなかった。
「はい、宜しくお願い致します」
 伸が気にしないなら征士もそれで構わなかったけれど。
 征士はふと過去の出来事を思い出している、出会ったばかりの頃の伸は、今よりもっと少女めいた風貌をしていた。当時は征士ですら違和感を覚えたものだった、人々の命運を懸けて戦う場所に、何故こんな人物が連れて来られたのだろうと。そしてそれは本人にも、あまり触れてほしくない部分だったのだ。冗談と判る言葉でも伸は怒りを露にしていた。
 今は、仲間達の誰もが間違わずに彼を見ている。伸は性質的に大人しく優しい、態度や仕種が柔らかく、伝統的な礼儀作法も体得している、ただそう言う男なのだと。理解している者にはそれ以上も以下もないが、しかし他の人間に対してはどう思うだろう?。
 今はもう気にならなくなっただろうか。
「ああ…、槍を嗜むとは、今となっては珍しいのぉ」
 伸が頭を上げて、暫しふたりが向き合ったままでいると、爺様は綺麗に蓄えられた顎髭を触りながら言った。
「家で代々習うものですから」
 何処に出向いても言われる事なので、伸も普段通りの回答に留まっていた。長く武道家として活動して来た者と言えども、最近はめっきり見る機会がなくなっているだろう。記憶に残る戦争の中でも、日本では既に槍は使われなくなっていた筈だ。
「流派は?」
「宝蔵院流です」
 そしてそれもひとつの理由。現在に残る槍の流派は、ほぼ宝蔵院流のみと言っても良い。そうなると活動はどうしても、西国が中心になってしまうからだ。京都が総本家であるマイナーな武道を、東北で見る機会がないのは想像に易かった。すると予想範囲内だったが、爺様は伸にリクエストを出して来た。
「ふむ、是非形を見せてもらいたいな、お願いできるかな?」
「はい、構いません」
 勿論伸が断る筈もない。これが印象の良い挨拶の代わりになれば、まず万歳と言うところだった。その為に練習用の槍を持って参上したのだから。
「滅多に見られるものではないぞ、皆もとくと見ておくが良い」
 伸が道場の中程へと移動を始めると、老人はパンパンと掌を打って、周囲の者に下がるように合図をした。大人しく壁際に下がった面々、征士以外の誰もが、槍の場合の形と言うものを知らなかった。剣道と同様に、繰り返し練習する基本形があって当然なのだが、見せるものではないので、知らなくても特におかしいと言うものではない。
 けれど征士にはやや引っ掛かる事があった。
「爺、今は何故槍を習う人が少ないのだろうか?」
 横に立ったついでにそんな質問をした。廃れた、と言う意味では他の武具も同じ筈だが、何故槍についての知識がこんなにも、人に知られていないのだろうと。ところが、
「何じゃ征士はそんな事も分からんのかね」
「…分かりません」
 爺様には嗜めるように返されて、己の無知を認めるしかなくなってしまった。下手な言葉を返せば、その理由を聞き逃してしまうからだ。そして爺様は次に伸に声を掛ける。
「毛利殿は御存知かな?」
 今度は伸を立てるように『殿』と付けて、老人はニッと笑って見せた。些細な事を気に掛けてくれていたと知って、伸も快く返事をしていた。
「はい…、槍は最も武器らしい武器だから、でしょうか?」
 ただ彼も正確な言葉で聞いた経験はなかった。それは道場に稽古に通う中で、意識せず耳に入って来る情報から得た答に過ぎない。だから上手く言い表せなかったけれど、ある程度、正しく理解している様子は感じてもらえたようだ。
「そんなところじゃな」
「武器らしい武器?」
 小刻みに頷く祖父を横に見ながら、征士はひとり呟いていた。そして彼の呟きが聞き流されることもなかった。
「古来から伝わる武具には、剣、弓、槍、棒などがあるが、古の時代の戦場で最も威力があったのは槍なんじゃ。柄が長く身を守り易い利点がある故、入隊したばかりの兵にもまず槍を持たせた。技術が低くてもそれなりに使える武器でもあったのじゃ。しかし、近代に入ってそれが鉄砲に取って代わられ、競技的な部分が少ない槍を習う者は減って行った」
 又そんな爺様の説明以外にも、考えられる事が征士には充分に生じていた。柄の長さの利点は、振る際の遠心力が付き易い点にもある。振り下ろすにも、薙ぎ払うにもそこまでの力を必要としない。だから女性は薙刀を使う者が多く居た。更に攻撃範囲も広くなり、複数の敵を一度に仕留めることも難しくない。力の強い者が使えば尚威力は上がる。
 伸の戦い方を見て来て考えられたこと。そこに遊戯性は感じられず、純粋に有利な戦いを追及する技が見られたこと。
「成程、よく分かりました」
 征士は言いながら、現代が如何に平和であるかを思った。対峙する相手に対し、常に有利を考えなければ命を落とす、そんな状況は今は何処にもありはしない。ただ、人の歴史の中で編み出されて来た、優れた技術が廃れて行くのが忍びないだけだ。平和とはそれに勝る価値だと理解する他にない。彼等にしてもその為に戦っていたのだから。
 今は静かに息絶えて行く文化を見守る時代だった。
「じゃあ始めますよ」
 周囲の様子が静まったのを見て、伸は早速、身に付いた動作を披露して見せた。誰もが口を噤んで、流れるような伸の動きに見入っていた。

 終えると、伸には思わぬ拍手が起こった。
「素晴しい、基礎をきちんと修めておる」
「そうですか?、ありがとうございます」
 征士の祖父は、槍についてもある程度の知識があったようだ。手を抜いた訳ではないが、そこまで気合を入れて行った訳でもない伸には、そんな風に誉められると些か申し訳ない気持もあった。なのでもう一度深々と礼をしてみる。見る人から見ればつたない筈の己の技に、賞讃があればそれだけ困るばかりだった。
 謙虚な態度こそが武道に於ける美だとするなら、伸は誰に教えられることもなく、始めからそれを会得している者だった。
「…どうだね?征士」
 鑑賞を終えると、老剣士は見ながら考えたことを口にしていた。
「は?、何ですか?」
「手合わせをしてみないかね?」
 勿論話の流れから意味が読めない征士ではない。
「剣と槍でですか?、無茶なことを」
 異種格闘技と言うエンターテイメントは存在するが、それもあくまでお祭り的な趣向に過ぎない。真面目にひとつの道に取り組む者に取っては、まず関わりたくない「邪道」と言うものだろう。武人として当然それが判らぬ祖父ではない筈なのに、と征士は首を傾げている。だが、
「無茶ではないぞ、戦なら如何なる相手とも遭い見(まみ)えるじゃろうが」
 祖父の言い分にも一理あった。実際征士は鎌や棍を持つ相手と戦っていた筈。否、ブーメランなど外国の武器も記憶に新しい。そして勝利したとは言えなくとも、それなりに考え戦えていた筈だった。相手が何であろうと対戦できないことはないのだ。
「剣を持つ相手とは勝手が違う、どう戦うかを考えてみよ」
「はあ…」
 但し、思い返せば伸と対戦したことはなかったと、征士は今ひとつ乗り切れない声で答える。剣の稽古は大方遼が相手になってくれた。しばしば秀も参加していた。形は滅茶苦茶だが、秀は運動全般にセンスが良かったからだ。伸は少しばかり形を知っているので、打ち込まれ役に立ってくれたことはあった。だがそれだけだ。
 等々、迷いながら床を踏み出した征士に対して、
「ちょっとした余興だね」
 しかし伸は意外にも明るい声を発していた。伸は特に気負いを感じていないようだ。それは何故か?。ただの友人だったとしても、真剣に勝ち負けを競うのは難しいと思わないか?。
「深く考えないようにしよう」
 征士は仕方なくそう言って、剣道の試合用に取られた枠の立ち位置に立つ。先にその傍に到着していた彼の祖父が、高く右手を挙げて双方の間合いを取っている。静まり返る道場の中で互いに礼をする。手順通りの慣れた動作を進める中で、徐々に、目先の相手と戦うことへ意識が集中して行った。
 そして開始の声が掛かった。
「始め!」
 征士には大体、伸がどのように動くかは予想できた。しかしそれと同時に伸も、征士がどう出て来るかを読めている。最初に鋭い一撃を狙った征士を槍の柄で受けて躱すと、伸は体を素早く回転させて、側面からの攻撃を試みる。が、征士は伸が動くと同時に身を引いてそれを避けた。伸はその勢いのまま、征士の足元を狙って行ったが、結局枠の外へと追い出すだけに終った。そこで仕切り直しとなった。
 もう一度、今度は遠巻きに間合いを取りながら、互いに相手の隙を窺うように動き始めた。ふと槍の先に相手の竹刀を掠める。「近い」と感じた瞬間伸は付きに出たが、征士はそれを予想して軽々と避けた。そして充分な体勢のまま小手を狙ったが、伸は付きの構えのまま槍を振り上げ、降りて来た竹刀を払っていた。払われたと判ればすぐに征士は身を引く。伸の続けての攻撃は当たらなかった。
 暫くの間そんな攻防が続いていた。
『やり難いなぁ』
 征士は増々そんな意識を持ち始めていた。そもそも戦場では、よく知った相手と戦うことは稀だろう。魔将達にしても、仲間達程理解が及んでいた訳ではない。まして違う武器を持って戦うと言うのは…。
『適当にやればいいものを』
『そっちこそそんなむきになることないだろ』
『なら手を抜いたらどうだ』
『それが武士の言う事かい?』
 長く打ち合うふたりの間では、そんな会話が交わされているかのようだった。段々と、戦況の変わらない状態に飽きも来ていた。どうしても相手を撃ち破れない。真面目に取り組んでいるつもりなのに、打破する方法が見出せない。
『例え練習でも負けるのは嫌だ』
『僕だって』
 次第に気力だけになりつつあって、見ている側にもそれが判ったのだろう、
「そこまで!」
 御隠居と言えども張りのある一声が響き、漸くふたりは動きを止めて息を吐いた。
「…止めてくれて良かった」
「多分決着着かないよ、いつまでやっても」
 息が上がっていた。単純に運動量の所為もあるが、恐らくふたり共、こんなに神経を遣った試合は経験したことがない。まるで十試合も続けたような疲労感だった。もう二度と御免だ、とでも彼等は思っていただろう。
 けれどそんな様子の彼等を微笑ましく眺め、暫し何かに思いを馳せていた征士の祖父は、
「…そうじゃな」
 と言って含みのある笑顔を向ける。
「?」
 何かしら言いたい事がありそうな顔をして、しかし何も言わずに、くるりと身を返すと今度は声を上げて笑っていた。そんな調子で道場を後にする老人を、征士と伸だけでなくそこに居た全ての者が、ただ不思議そうな面持ちをして見送る。
「何か可笑しかったかな?」
「さあ…?」
 困惑を表す伸の言葉に、返せる答を征士は持たなかった。彼にしても、祖父のそんな態度は始めて見るものだったのだ。



「これ、お客人が何をやっておるか」
 その日の夕方、伸が風呂場の廊下で拭き掃除をしていたところへ、偶然征士の祖父がやって来て言った。何気なしに手洗いにでも来たのだろう、思わぬ人物が掃除をしているのを見て、相当に驚いた表情をしていた。彼は以前ここに来た時の伸を知らない、征士の母親や姉妹なら彼の性質をある程度知っていたが、それでも本来は仕事を頼むべきでない、と考えているだろう。
「ああ、いいんですよ、『何かお手伝いさせて下さい』って僕が言ったんですから」
 けれど伸にしてみればこれも、ここでの普通の行為だと続けて説明した。
「前に来た時は台所を手伝ったんですが、今日は人手が足りてるようなので」
 もし自分が下宿人だったなら、家賃と食費を払うのが普通だろう。或いはそれに代わる仕事をして当たり前だろう。一日、二日と言う短い滞在ではない上、まだ本当の意味で大人でもない自分に、正式な接待をしてくれる必要はない。伸の考えは大体そんなところだった。ただそれがこの家に於いて、どう受け止められるかは多少疑問が残る。それぞれの家に違った考え方があって然りだ。
 更に個人個人ともなれば、及びも付かない捉え方をする者が居ても可笑しくない。特に伸は、これまであまり会っていないこの祖父が、何を考えているのか見当が付かないでいた。無論道場での一件の所為で。
「そうか…いやしかし…」
「…?」
 再び掃除に戻ろうとした伸の耳に、奇妙な溜息混じりの言葉が聞こえて来る。何について思いあぐねているのだろう?。そう言えば最初にここに来た時、手伝いたいと申し出たら母親に妙な顔をされたが、それとは少し違うような感じを伸は掴んでいた。では何だろう?。一応それを確認しようと、作業の前に振り返ってその人の方を見遣る。すると、
「勿体無いのぉ」
 また更に奇妙な感想が老人の口から漏れた。全く何が何やらである。
「どういう意味ですか?」
 伸は尋ねたが、やはりそれに対する答は与えられなかった。ただ代わりにニッコリと表情を変えて、征士の祖父はこんな事を言った。
「ん、それが終ったらでよいから、ちょっと儂の部屋まで来てくれぬかな?」
「あ、はい、分かりました」
 もしかしたら、今この場では言えない事なのかも知れない。ともすれば酷く大事な何かに気付かれて、場を改めて自分に教えてくれるのかも知れない。伸は良心的にそう思うに留めて、普段通り人の良さそうな顔をして返した。
「感心感心…」
 すると何かをしに来た筈だが、何もせずに踵を返して老人は戻って行った。まあ、何をしに来たのか忘れるような事態も、年令から考えれば珍しくないだろうが、伸の脳裏には、些か思わせ振りな態度ばかりが残される。自分を見る度に、段々と楽し気な様子になって行くのが気掛かりだった。
『何なんだろうなぁ、さっきから…』
 何か、とんでもない罠に嵌められそうな予感がしないでもない。

 掃除を終えて伸が老夫婦の暮らす離れへと向かうと、征士の祖父は彼を奥の座敷へと案内してくれた。ただの来客の立場では、滅多に目にすることのないその部屋には、彫刻の見事な欄間、竹に雀の伝統的な伊達家のモチーフ、黒光りするすべらかな梁や柱等が見られた。比較的新しい印象の征士の家の中で、それらだけは古い家から移されたものだろう。そして恐らくとても大事な人がこの部屋には居る。
 伸の目の前で襖が開かれると、広い座敷のやや窓寄りで、夕陽に暖まる老婆が布団の上に座って居た。あまり具合がよろしくないと聞いている、食事の席にも今は出て来なくなった征士の祖母は、このところ一日中この部屋で過ごしていた。
 伸は欄間を潜る前にその場に膝を着いて、病人でありながら身なりをきちんと整えた、上品な老人に敬意を示すように頭を下げる。
「初めましてお婆様、暫くお世話になります、毛利伸です」
 するとその、現代の若者には珍しい様子を見て、
「まあ…、まあ、丁寧なこと。遠くからよくいらっしゃいました」
「いえ…」
 彼女も感嘆の声を以って言葉を掛けてくれた。窓の日射しの所為かも知れないが、顔色はそう悪くはない印象だった。年寄りには気難しい者も少なくないが、取り敢えず気分を害さない挨拶ができたなら、伸にはそれで充分な結果だったけれど、
「征士のお友達に、こんなお行儀の良い方がいるとは知りませんでした」
 更に印象の良い感想が聞かれると、伸の横に居た爺様が、
「そうじゃろ!」
 と何故か嬉しそうに伸を売り込んだ。
『???』
「どうぞ、こちらにいらっしゃい」
 相変わらず訳が判らないのだが、伸は呼ばれるまま奥の座敷へ進んで、征士の祖母の足許辺りに改めて座り直すことにした。本当に、何故こうして祖母に紹介されたのかも、伸は全く説明を受けていないままだった。こんな風に余所の家の奥へと入り込んで、もし重大事を任されるような事があれば、安穏と休日を楽しんでいる場合ではなくなる。と、伸の表情には俄な緊張さえ生じていた。
 しかしそのすぐ後、祖父の方はまるで砕けた調子で話を始める。
「それでなぁ婆さんよ、明日も良いお日和だと聞いて来た。丁度良いから、長持の中の着物を虫干ししようと思うがどうかね?、人手のある時に」
 それを聞けば、「何だそんな事か」と肩の力が抜けた伸だった。
「はあ…、どう言う風の吹き回しか存じませぬが、そろそろそんな時期ですね…」
「じゃろう。よし、この毛利君にお願いするとしよう」
 いつ思い付いたのかは知らないが、伸に手伝ってもらうのに丁度良い家事として、征士の祖父はそれを選んでいたようだ。けれど、
「お客様にそんな用をお頼みするのは…」
 祖母の方からは当然そんな意見が出た。この祖父以上に伸のことを知らないのだから、そう言って当たり前と言う場面だっただろう。なので伸は、お客に対する形式上の遠慮の意を懐柔するように、自らの意志を説明して聞かせた。勿論無理な嘘など含まれない話だった。
「いえ、そんなお気遣いは要りません。僕はお客じゃなくて、頭数に加えてもらっているだけですから。何もしないで居るのは居心地が悪いくらいです。お婆様のお役に立てれば僕は嬉しいですよ」
 そしてそれが伸の本質だと、既によく理解した様子で祖父の方も、
「ほれそう言っておる、儂が彼を見込んで頼むのじゃ。毛利君は物の扱いが大変に丁寧じゃ、きちんとやってくれると見た」
 と調子を合わせて、更に同意を求めるように、伸の肩を軽く揺さ振って見せた。
 しかしよく見ていたものだ、と伸は思う。それは道場で練習用の槍を持ち出した時なのか、先刻の掃除の様子を見てのことなのか、どちらもほんの僅かな時間だった筈なのに、「物の扱いが丁寧」だと自分を評価した決め手は何だろう。身に染み付いた習慣から来る、自らは気付かない些細なものが見えたなら、家の教育に感謝せざるを得ないところだ。
 有りの侭の自分を評価してもらえる喜び。家の名前でもなく、戦士の中の一要素としてでもなく、普段通りの己の有り様を見てくれるのは、今の伸には最も嬉しい事だった。ただの人間として今後を成り立たせて行かなければならない、今は丁度そんな考えに耽る時期でもあった。大学で専門的な勉強を始めている、それを下地に新規の人生を始めなくてはと。
 別段、征士の祖父母に気に入られたからと言って、何がある訳でもないのだけれど。それを思うと伸は途端に可笑しくなった。漸く自然な笑みが口許に込み上げて来た。
「左様でございますか…。それじゃあ、どうか宜しくお願い致します、大したお礼もできませぬが」
 そして征士の祖母は、言いながら申し訳なさそうに、布団の上で深々と腰を丸めた。
「お礼なんて」
 と、慌てた様子で伸が口を開くと、
「まあまあ、礼なら儂がもう考えておる。おまえは安心して任せなさい」
「はい…」
 祖父はそんなことを言って妻を諭していた。そして気掛かりな事情はもうひとつ増えていた、既に考えていると言う『作業の報酬』について。
『う〜ん、何かありそうなんだけどなぁ』
 けれど伸があれこれ思考し始める前に、
「それじゃあ毛利君、こっちに来てくれたまえ」
 征士の祖父はその場を立ち上がり、自分に付いて来るように声を掛けていた。思い立てば動き出しは早い、まるで伸のよく知る人とそっくりな行動パターンだった。又八十代の老人にしては、老化を感じさせない機敏なその動作に、
「はいはい」
 釣られるような二つ返事で、軽やかに受けて伸は後を付いて行くしかなかった。相手が征士なら一言挟むところだったが。
 征士の祖父は座敷の更に奥の、かなり暗くなった通路に出て、電灯の明かりを灯しながら進んでいた。そこは見る分に人が住む為の部屋ではなく、通路の先は家の裏手にある蔵へと続いているらしい。つまり渡り廊下兼物置きのような場所だった。
「奥は暫く掃除もしていない、埃っぽくて済まないが…」
 その一角、立派な漆塗りの長持や桐箱が積まれた場所で、老人はそのひとつの蓋を徐に持ち上げ、大雑把に中身を確かめ始める。その最初のひとつで既に、大量の古い着物が重ねて収納されていた。
「うわぁ、凄い。これ全部着物ですか?」
「ホッホッ、物持ちの良いこと。流石に全部は無理じゃな」
 勿論伸の家にも、代々伝わる長持や衣装箱、茶箱等に、滅多に出さない物が収納されていたりするけれど、古道具はともかく、着物に関してはある程度整理をつけたらしく、こんな風に雑然と残されてはいなかった。それだけ伸には素直な驚きを与えていた。
「はて、そっちだったかな?」
 そして爺様は、手前に置かれた幾つかの箱には見切りを付け、その奥にある、家紋の入った対の葛篭のひとつを見て言った。片方は錠が壊れているのが見受けられたが、如何にも重厚な造りが目を引く、箱だけでも相当な値打ち物だと想像できた。その蓋を開くと、やはり中には和紙に包まれた上質そうなものが現れた。これが当たりに違いなかった。
 その一番上に乗せられていた包みの、紐を解いて広げられた中から現れたのは、年を経ても未だ褪めない朱の布(きれ)と金銀の菊、手の込んだ絞りの霞も鮮やかな、江戸時代頃の打掛けのようなものだった。流石にこんな派手な着物は、伸の家にもそうそうあるものではない。
「わー、豪華な着物ですねー。時代劇の舞台衣装みたいだ」
 そう、勿論この家の過去に誰かが袖を通したものだ。こうして古くから残る生活道具とは、単純な価値以上に関わる歴史が人を魅了する。武家が絢爛豪華でいられた時代を思いながら、伸が純粋な感動を言葉にすると、征士の祖父は親切にその由来を説明してくれた。
「そうそう、これが一番大事な物じゃ。我が伊達家に代々伝わる…」



 柳生邸の広間では、スピーカーに切り替えた電話の、征士の声に対してどっと笑い声が上がっていた。笑いながらも当麻は受話器に向かって言った。
「…それで?、虫干しのお礼に、伊達家に伝わる『婚礼衣装』を着せてもらったって?」
「ギャッハッハッハッ…」
 まあ、笑われるのも無理はなかった。それを交換条件に手伝いをした訳でもない、ある意味で伸は一杯食わされたようだ。まさか、自分に着せる為にわざわざ虫干しをさせたなんて。
『爺が勝手に決めてしまって、年長を敬う意味で伸も断れなかったのだ』
「そう言う性格だからなー、伸は」
 痙攣から復帰した秀が間を空けずに言った。無論言葉にしなくても、誰もがその状況は想像できたけれど。そしてその結果の産物として送られて来たのは、まるきり婚礼写真のように撮影された、花嫁装束の伸と紋付を着た征士の図。
「その割に乗り気だったようじゃないか、征士?」
 色々あって、多少意地の悪い調子で当麻が返すと、
『私が?、馬鹿な。写真を撮ろうと言う段になって、やっぱりひとりでは形が悪いと言い出して、急いで紋付に着替えさせられたのだ。要は遊ばれていただけだ』
 どうもそれが嘘ではない風に、征士の立腹した様子が受話器の向こうから聞こえる。又ナスティは写真が撮られた事情より、彼女の目には珍しい、純日本風の衣装や装飾に関心を向けて、
「でも随分凝ってお支度をしたようじゃない?、お化粧もきちんとしてるし、髪なんかどうしたの?」
 などと尋ねていた。確かに現代では全く見なくなった、武家風の衣装の拵えや服飾品をこうして、つい先日の写真として見るとは思いもしなかっただろう。書物に残る記述は主に江戸や京都など、中心的な土地での風俗が主体となる為、地方の伝統が見られた意味では貴重な写真でもあった。少なからず伸が羨ましいような、是非現場に呼んでほしかったようなナスティだった。
『さあ、母上やら姉上やら、みんな面白がって弄くり回していたからな。もうこれに懲りて伸は来たがらないと思う、私は』
「ハハ!、さもあらん!」
 写真の中で、無理に表情を作っているような伸を見れば、当麻にもそんな心情は易々と理解できた。幾ら人の好い伸でも二度はないだろう、と想像に堅い珍事だ。それにしても、
『それにしても、ナスティの所にまで送っていたとは…』
「面白い家族だなぁ?」
 征士の呆れた呟きを耳にして、遼は以前から感じていたことを改めて口にする。すると、
「んーにゃ、ちょっと分かったような気がするぜ?、俺」
 振り向きざまに秀はニカッと笑って、遼には人指し指を立てて見せた。
「何が?」
「征士の性格!」
「フッハハハハ…!」
 本当の困難はこれからだった。写真が笑いの種になっている内はまだ良いが、そこから新たに別の話が持ち上がるから困りものだ。柳生邸では新しい発見がある度、必ず誰かが吊るし上げられていた記憶が征士にはある。被害者だったこともあれば加害者だったこともある。
『おい、何を笑っている…』
 それがいつもの、安心して居られる仲間達ではあるけれど。

「参ったな…」
 と、電話を終えて征士は受話器を元に戻す。
「好評だったようじゃな?」
 すると電話の様子を見ていた彼の祖父が、変わらず恍けた様子で声を掛けていた。祖父ならば、今に至っても特に悪い気はないのだろう、征士に対する態度が如実にそれを物語っていた。けれどそれでも、年寄りの遊びにしては突飛な発想に感じられた、正に掟破りな出来事だったと思う。この家には特に関係のない、しかも男である伸に代々伝わる婚礼衣装を着せるなど。
 征士はこれまで敢えて尋ねなかったけれど、丁度そんな雰囲気になったこともある、思い切って話を切り出してみた。
「…爺様、いえ、今更言うのも何ですが、何故あんな事をしたんですか?」
 聞いたところで、まともに答えてくれるのだろうか、そもそもまともな答が存在するのだろうか?、とも征士は思う。ものの本には「遊びの始まりに理屈はない」とされている。聞くだけ無駄かも知れない、と、そんな征士の心配を余所に、しかし祖父は明瞭な言葉で解説していた。
「んー?、簡単じゃよ、この家にはお淑やかな人間が居らぬし、普段なら思い付きようもない事じゃ」
「ああ…。そうだったんですか」
 その意味は、征士には酷く切ないものとして捉えられた。飄々とした口調で語られても、祖父は祖父でこの家の現在を憂えているのだろう。言う通り師範代である母を始め、この家の女は皆活発過ぎるのだ。殊に仕事に意欲を燃やす姉を見ていると、一生ここから出て行かないのでは、と考えることもしばしばだった。征士がそう思うくらいだから、他の家族が思わない筈もない。
 唯一たおやかな女性と言えた祖母も、もう重量のある衣装を纏える状態ではなかった。長い間物置きに閉じ込められたままの家宝。祖父が亡くなるまでに袖を通す者は現れないかも知れない。恐らく、そんなことを思ったに違いないと征士は考えた。
 だからそれだけで納得もできた。伸には迷惑だっただろうが、彼はこの家に在っては良い意味で異質な存在だった。己を主張せず、礼節を弁えていつも大人しくしている、そんなタイプの人間がここには居ないからだ。祖父の目にそれが理想のお嫁さん像に映ったとしても、仕方がないことのように思えた。否、伸が実際そうであるかは別として、あくまでここでの見方の問題なのだ。
 自分も含め、皆が憧れている何かを伸は持っている、と言うこと。
 しかし征士がそれだけで満足していると、実はもうひとつ理由があったことを聞かされていた。
「ホッホッ、それと、おまえ達の手合わせを見てのことじゃ」
「それは…?」
 だがもうひとつについては、解り易く説明を付けてはくれなかった。
「それは、征士の方がよく知っているのではないかね」
「私がですか?」
 問い返されて、けれど間の抜けた返事しかできない征士を見て、彼の祖父はあの時と同じように笑い出すと、言った。
「…忘れたのか、対戦に於いて槍は最強の武器なのじゃ。お主は毛利君が下手な使い手だと思うか?」
 下手かどうかと聞かれれば、征士の答はひとつしかない。
「思いません」
 そして、彼が正しいことを言っているのを知ると、祖父は一言だけ付け加えてその場を退いてしまった。それだけで用は足りると判断したのだろう。
「ならそう言うことじゃ」

『槍は最強の武器』
 と、改めて言った意味は何か。そして伸は決して下手な使い手ではないと。つまり伸が本気で勝とうとすれば勝てた筈だ、と言う話になるのだろうか。否、と征士は思い返す。あの時対峙していた武芸者としての意識は、決して相手への気遣いを優先したものではなかった。己から見た伸の様子も、戦時に於ける平常と何ら変わりはなかったように思う。
 だけれども。本能的に戦う体はそこに在っても、心は別の所に在ったかも知れない。
 伸は自分でも気付かずに、無意識に勝ちを取ろうとしなかったのかも知れない。それが恐らく祖父には見えたのだと征士は思い直す。もし対戦したのが己ではなくて、他の誰かだったら間違いなく打たれていた、そんな場面があったのかも知れないと。
 だから祖父は知ってしまったのだろう。
『ばれていたのか』
 それなら、写真の一件も全く辻褄の合うことだと、征士は密かに笑うしかなかった。老いて尚鋭い目を持つ爺やには、改めて敬意を表さなければなるまい。剣の道はまこと人の道であると。









コメント)やーやー、何と言う話でしょうか(^ ^;。こんなの書いていいんでしょうか、と思いつつ書いてしまった。元々はギャグマンガだった話なので、ネタがとんでもないのは申し訳ない。でも征士のうちの爺さんと、槍についての話を書きたかった意味では、楽しく読めるものになって良かったです。老人ばかり出て来ても嫌になっちゃうと思うし。そしてこんなコメディながら、直接の続きがあったりします。年明けに書きますんでどうか待ってて下さいませ。
それにしても「月下氷人」なんて言葉は素敵ですねぇ。誰のネーミングだか知らないけど。あ、作中にある「以前征士の家に来た伸」については、「未完成」を参照のこと。



BACK TO 先頭