振り返る伸
光咲く秋
Fall thunder fall



『妖邪そのものじゃないか』
 という誰かの問いに、迦雄須は
『心だ』
 とだけ答えた。

 朝、その目覚めは差し込む陽光の所為ではなく、心の中の戸惑いに似たものが、正に一筋の希望の道を示され、安堵したことの結果だと思われた。伸は横たわったまま、暫しの間ぼんやりと昨夜の様子を思い返していた。
 倒した筈の阿羅醐が生きていた、と言うことはもう大した問題ではない。薄々それに気付き始めていた彼等には、そこまで衝撃的な事実ではなかったようだ。それよりも禍々しきは己の鎧。知らず知らずの内に、正義と力の間の袋小路に落ちてしまったような、遣り切れない思いを皆が感じていた。信じて戦い続けた結末がこれでは、と、誰もが悩み、寡黙になって長い夜は過ぎて行った。
 普段うるさい程の秀でさえ黙りがちだった…、と起き上がり様に、彼のベッドの方へ目を遣った伸は、そこにその姿が無いのに気付いた。伸は眠りが浅いらしく、傍で誰かが身動きすればすぐに目覚めてしまう。けれど珍しく気付かないこともあるようだ。
 それは「いつも通り」とは言えない朝だから。

 昨夜は秀と話す内に眠ってしまったので、服を着替えることもなく、伸はそのまま寝室のドアを潜って、何となく決まりが悪そうに、ひたひたと音を立てずに廊下へ出て行った。けれどその足から、そして自分を包む空気から、確かに昨日よりは心が軽くなったと感じていた。
 未だ問題が解決した訳ではないが、その方向は示してもらえたのだ。後は自分の行動如何に掛かっている、と伸は新たに心を決めるように、やや眉間に皺を寄せて、難しい顔をして歩いていた。
「おはよう」
 階段の踊り場に来ると、後ろから、今階段を降りようとしている征士が声を掛けた。
「ああ、おはよう」
 振り返りながらそう返した伸は、征士も普通じゃないな、と思えて口許だけで笑って見せた。何故ならこの時間、普段の彼は裏庭で素振りをしている筈だった。それをバツが悪く感じたのか、征士はちょっとした言い訳を続ける。
「昨晩、迦雄須が夢に出て来た。それで色々考えていたのだが…」
 すると即座に調子を合わせるように、
「僕もさ。意外とみんなそうなんじゃないの?」
 と伸が返したのを見て、征士は穏やかにそれに頷くことができた。更に伸は加えて言った。
「何か行動を起こさなきゃいけないだろうね。…これから、僕は鳴門に行って来ようと思うんだ」
 今度は征士が呼応するように返した。
「私も秋吉台に行こうと思っていたところだ」
 彼等はそれだけの会話で、必要な同意を全て得たように笑い合っていた。恐らくこれ以上を追求せずとも、ここに集う五人は皆同じ考えだろうと、容易に想像することもできた。考えてみれば、迦雄須が誰かひとりを贔屓にする筈はない。
「あ、そうだ」
 そこで伸は思い立ったように口を開いた。
「僕は飛行機で行こうと思ってるんだけど、途中まで一緒に行くかい?」
 これまで土地の位置関係など、全く気にしたこともなかったようだ。言われてみれば、岡山辺りまでは同じルートで行けるだろう。
「そうしよう」
 征士は間を置かず簡潔に承諾した。この状況に於いて、誰かが居れば心強いと言うこともないが、しかし征士には他にも考えることがあった。伸の意見を聞きたがっていた。
 鎧戦士として集められた当初から、伸は誰にも人当たりが良く、誰にも気遣いをする性質を露呈していた。ともすれば反目し兼ねない、それぞれの個性がぶつかり合う場面には、伸のような存在が確かに必要だと、今は征士にも認められている。けれど今のように、切り無く続く戦いの中に在って、度々気掛りに感じることも出て来た。
 即ち、己の意向を殺して全体に合わせている、何かしら無理をして戦っていると、感じられてならなかった。
 それが悪いと決め付けられはしないが、本音を言い合える当麻などと比べると、自分が、或いは皆が捉えている『伸』の人物像が、酷く曖昧で希薄なものの上に在り、又彼と他の者達とは、実に不安定な要素で繋がっているように、征士には感じられて来た。五人の確かな固い結束の中に、実際は曖昧なものも含まれていると気付いたのだ。
 成るように成ると楽観視はしたくなかった。いつまで経っても上辺だけのような感覚に、征士はとうに嫌気が差している。折しも新たな戦いの中で、自分の対称となる存在が在ることを知った。それは恐らく最も遠くに居て、最も理解が及び難い人だろうが、鎧戦士の為すべき事に於いて、最大限の成果を上げる為に必要な、両極を担う対の翼なのだ。翼はそれぞれが勝手に羽搏く訳にはいかないだろう。
 時間が長く経過すれば、結果的にはそれなりに落ち着くかも知れない。けれど今の段階では何も見えて来なかった、そんな状況だった。
 そして伸の中でも、己が置かれる状況に疑問こそあれ、それと似たような展望が在るだけに留まっていた。大抵の物事は、ただ与えられるままに待っている、それが伸なのだから。
 そして結果に不平は言わない。

 階下のダイニングから、力強い調子で秀の口上が聞こえて来た。吹き抜けを見下ろす廊下の桟には、それをさも愉快そうに眺める当麻の姿が見える。誰もが目指す場所は同じだと、望んでいる姿は同じものだと皆が信じ合える。但しここに至る道程を同じくする者は、誰一人として存在しない。彼等の中に不明な事柄が存在しても、何ら不思議なことはなかった。



 秋晴れの空に轟くジェット機の音が、その鮮やかな空色の空間を切り裂いて行った。
「贅沢だ」
「侍は徒歩で移動するのが基本だぞ」
 他の仲間達との別れ際はそんな軽口でどやされた。ひとり口を出さなかった秀は恐らく、こっそり飛行機に乗って出掛けたことだろう。
 運良く窓際の席に座ることができた、伸は離陸してよりずっと、その窓の外を眺め続けていた。巨大な空港やビルの集まる町が見る見る、机上の模型の様に形を小さくして、やがて見えなくなっていく。今は流れる雲ばかりが視界を楽しませる唯一の物だった。否、それ程楽しんでいた訳でもないが。
 そんな伸の様子を窺いながら、征士は呟くように声を発した。
「こうして柳生邸を離れてはみたが、さて何をする」
 すると征士の思惑通りに、伸は隣に居る彼の方に向き直って言った。
「具体的なことは教えてくれないんだよね、迦雄須は。だから秀が怒るじゃないか」
 それまでは、伸も笑っていたのだけれど。
「でも、僕にも判らない」
 と付け加えた後、その表情を俄に暗くさせた。判らないことは誰にしても同じだった。その様に征士は念を押すつもりで、
「何が起こるかお楽しみ、という訳だ」
 と返したのだが、彼の予想とは違う方向に伸には伝わっていた。
「君はいいね、何があっても、いつも悠然として居られる。僕は戸惑うことばかりさ」
 珍しい、と征士は感じた。
 伸が今話して聞かせた内容は、至極素直に心を表現したものだと思う。普段の伸ならこんな物言いはまずしない、己の欠点を自ら提示することなど。自尊心の所為か、或いは強がりなのか、一見気丈な印象さえ受け取れる伸の、通例を覆す言葉が不意に聞かれたことに、征士は些か驚く他なかった。何かしら普段の伸とは違うと感じられた。
 もっと正確に言えば、先刻皆と別れるまでの伸だ。
 征士は今朝からの経過を思い出してみる。伸の提案に、己の意志で行動を合わせたつもりだったが、もしかしたらその前に、伸の意志が働いていたのかも知れない。と、ここに至って思う。横で座席の肘掛けに片肘を突いて、悩める頭を煩わしそうに支えている、伸の視線は何処ともなく漂っている。その様子は、出口に辿り着く為の手掛かりが運良く、己に齎されるのを期待して待っている風に見えた。
 そう、何かを待っているに違いない。
『期待されているとしたら自分だ。しかし私にも答は無い…』
 そう思った途端、征士にはこれまで感じたことのない重圧が、手足を固く強張らせ始めた。適当な発言をおいそれとする訳にはいかなくなった。何故なら伸は、黙って人の言うことを聞ける人間だからだ。いい加減なことは決して言えない、と征士は悩み始めている。何故こんなことになったのか解らないけれど。
 すると暫しの沈黙の後、先に伸が話し始めた。
「…黙ってるところを見ると、いつも余裕って訳でもないんだね」
 そう言って、幽かな笑顔を向けた伸には、一瞬鎌を掛けられたようにも思えた。が、この場合そう言ってくれたお陰で、征士は窮屈な心境から抜け出せ、ほっと息を吐く。 そして有りの侭の現実を話せた。
「それは買い被りと言うものだ。実際私は何も考えてはいない」
「何も考えてない…?」
 意外そうに、又はやや不審そうに問い返す伸に、征士は至って真面目な態度で説明する。
「剣の稽古でも、その前に必ず黙座して邪念を払う。一度己を無に還すことで、余計なこだわりや先入観をなくし、常に新しい場面に立ち向かうことを基本とする。戦場に於いては、全く同じ相手と同じ戦いになることはないのだ。だから、先に起こることをあれこれ予測するより、その場その場の閃きを大事に、積み重ねて行く方が良いのだと…、私は思う…」
 言葉尻が少々弱含んだのは、一部は親であり師範である人の受売りだからだ。自分でそれを極められてはいないので、本来は偉そうに講釈できる立場ではない、と征士は渋い顔をしていた。けれど、
「成程、それはすごくいい心構えだ」
 伸は容易に納得できたらしい。 物は違えど、武道に携わる者には共通の理屈でもあっただろう。 今一つ断言し切れなかった征士の、感情を汲み取っているかのような返事に、格好は付かなかったが、それで理解してくれれば構わないと思わせた。けれど更に、
「…でも難しい。それだけ自分を信じてないと、多分失敗する」
 伸はそう付け加えた。
 気持を連ねる毎に、徐々に深く沈んで行くような伸の様子。
「聞いていたのか?、もう考えることが先に来ている、それでは駄目だ。…伸には難しいことではないと思う、その場任せはお得意だろう?」
 故意に気に障りそうな表現をして、征士は伸の反応を見た。すると案の定癇癪を起こすこともなく、むしろ無関心に、変わらない、重い調子で伸は答えていた。
「自信がないんだ」
「何を今更…」
 そう来るだろうと、ここは既に予想ができていた。
「不得手なことをしろと言う訳でもないだろう、与えられた鎧と、与えられた文字のことだ。自分が一番良く知っていることの筈だ」
 そして予想はできても、理解できないことを問い返す他にない。しかし、
「そうじゃなくて…」
 頑に遮った伸の、不安な訴えは思いの他、征士を納得させるものだった。
「今、この試験みたいなものを通過したとしても、僕には、与えられた力を充分に制御できると、確信が持てないんだ。これまでだって慎重に、注意を払ってやって来た筈なのに、誰も傷付かずに済んだ試しはないじゃないか。…これ以上を望めない気がする。これが最終段階だとしたら、今の自分に在るべき鎧の姿を完成させられるとは、とても思えない。こんな不安定な自分には…」
 征士は知らなかった。
 力を解放することより、制御することを先に考えることはなかった。
 全ての者の思いを組もうと苦しむことも、征士にはなかった。
 人間として未熟であることは、誰にしても同じ条件だった。悠久に続く歴史の中の、まだたった十四年を生きただけの戦士達。そんな存在に何ができると問われたら、確かに何も満足にはできないと答えるだろう。鎧が無ければ、ただの子供と大差はないだろう。けれどそんな風に己を卑下しても意味はない。こんな自分達に使命が与えられたのだから。
 だから征士はこう言った。
「伸は真面目なのだな、恐らく迦雄須だって、完全を求めてはいないと思うが」
 ビクリと、伸の手先が動いた。そしてゆっくりと向けられたその表情には、自分で言った通りの『困惑』が描かれていた。それを見て征士はもう一言、
「考えても無理なものは無理だ、一人で気を吐くこともあるまい」
 と、いつも通りのぶっきらぼうで聞かせた。その方が伸が安心して聞けるだろうと思えた。すると確かに、頑な態度を和らげて伸は、
「…真面目だって、言われるとは思わなかった。僕はただ、思うように鎧を扱えない自分は、腑甲斐無いと感じてるだけで…」
 と徐々に弛緩していく様子で答える。
「まあ、完璧でなくても良いではないか、私達は五人も居るのだからな」
 聞き様によっては、『お気楽すぎ』とも取れる発言ではあった。大体征士はいつも、上辺ではそんな風を装い続けているが。
 するとそれでも、『そうかも知れない』と、伸は急に諭されてしまっていた。否、誰もが暗に了解していることでも、過去の歴史から考えられるものであっても、はっきり「そうだ」と言ってほしかったのだ、と、自分で見えなかった自己の不安に気付く。
 この戸惑いは、この腑甲斐無さは、何よりまず己の心が解らなくて、己を信用することができなくて、そんな迷いから来た感情だったのだ。誰かがそうだと言ってくれなければ、己の中に固定できない、いつも不安に揺れ動いている自我、方向が定められない心。けれどそれでも良いのだと、言ってほしかったのだ。伸は落ち着いて思考し始めていた。
 征士は恐らくそんな自分達の在り方を、早くから適切に理解していたのだろう。だから無闇に不安を感じなかったのだろう。悔しいとも思えるけれど、それは単なる僕らの違いだとも今は思える。だからそれについてはもう考えない。考えても変わることじゃないと、君が言った通りだと、僕も思う…。
「そうだね」
 伸の様子は、再び穏やかなものに戻っていた。
「僕が一番みんなを信じなきゃいけないのに、みんなのことより、僕の方が心配かも知れない」
 そして今朝と同じ様に笑っていた。伸はしばしばそんな風に、急に態度を変える時があると征士は知っている。けれどそれも悪くはない、むしろ良い状態の伸なのだと解った。何故ならそうでなければ、条件で姿を変える水など操れないだろう。
 それが選ばれた彼の要素だ。
 折角明るい顔に戻った所で、それがまた不穏な方へと流れぬように、征士は冗談を交えて返した。
「そんなに心配なら、私が鳴門まで着いて行ってやろうか?」
 まさか、いくら伸でもそんなことを承諾したら、一生の恥だという意識はあった。
「気持ちだけで結構だよ」
 あっさり断った伸に、勿論だが、征士は返って安堵している。
「じゃあ、何かあったら呼ぶんだな、いつ何時でも駆け付ける」
「いいって言ってるだろ」
「救急車より早く到着する自信があるよ、私は」
 真面目な顔をして法螺を吹く、それがいつもの征士だと解るから、安心して居られた。では自分は、真面目な思考をしながら、どんな顔を見せているのだろうと伸は思う。
「ははははっ」
 そして、軽やかに笑えた自分に、伸は心からの安静を感じていた。

 戯れ言だとしても、君は必ず共鳴してくれるものだと、信じられた。



 機内アナウンスが、もうすぐ岡山空港に到着することを告げた。征士はふと、出発前に考えていた目的を思い出したが、もう改めて話を切り出そうとは思わなかった。否、その目的の半分くらいは既に、達成されたように感じていた。
 自らの弱味を、悩みを打ち明けることの意味は何だろう。人は皆何処かが欠けている。もし欠けが無いとすれば、他の誰かなど必要も無いのだ。だからずっと征士は聞きたがっていた。もっと多くの、出来ることも出来ないことも、見せてほしかった。
 器用な仮面を見せられてばかりいた、これまでと今とでは明らかに見方が変わっている。大人しく全体に合わせていながら、誰よりもその行動に責任を感じていたこと、本当の伸の表情を垣間見ることができれば、征士はそれで充分満足だった。
 ひとり行動を起こすことより、他の意見に賛同する方が、責任は重いものなのかも知れない。伸を見ていて新しく知ったことだった。

「じゃ、また会おう」
「成果を期待する」
 短い言葉を交わして、ふたりはそれぞれの方向へと歩き出した。
 伸の向かう先には、空港内のタクシー乗り場が見えていた。そこへと集まるざわめく人波が、空を流れる雲に合わせるように、何事も無い長閑な景色を形成していた。誰の上にもある、ぼんやりと平和な日常。ここに居る人々は、目前に迫っている危機など、まるで知りもしない。平和とは、平和を望む誰かが動かなければ、ただの幻想になってしまう。それを理解する者は極僅かなのだ。
 伸はふと足を止めて、その場でそっと振り返ってみた。するとタイル敷きの通路の先には、意外なことに、区別できない筈の人込みの中に、征士の姿だけはすぐに判別できた。
『目立つなあ、あいつ』
 独りごちてフッと伸が笑うと、米粒に消えてしまいそうな征士は、振り向いていた。









コメント)あのTV後半からはじまる「鳴門編」だけど、私は初めて見た頃かなり疑問を持ったの。何故遠距離移動した人が先に出来て、富士山と天橋立の二人が後でさらわれた話を聞くんだろうって。柳生邸から目の届かない所に居れば、狙われ易いってのはわからないでもないけど、彼等の到着時間が何か腑に落ちないのよね。
だからこーゆー設定が前からできてました。ところでこんな小説のために、岡山空港の資料を探してたんだけど、ネットってホーント便利ですよねぇ。




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