喜ぶ伸
母なる夜
#3
THE LONG EXPECT



「…終わったのか?」
 静寂を破って、最初に秀が声を発した。
「はい、皆様もうよろしいですよ」
 迦遊羅はそれに答えて、石のように止めていた動作を、再び人間らしく戻し振り返った。
 しかし、静けさに堪えられなかったのは秀のみで、他の四人は、すぐに騒ぎ出す気にはなれなかった。あまりにも非現実的な、不思議な体験を得た場の空気が、まだその余韻を残して漂っている。既に何もかもが消え失せていると言うのに、残る圧倒的な印象が彼等を、いつまでも捉えて放さないでいた。
 征士は小声で、
『あれは本当に神なのか?』
 と横に立つ当麻に尋ねていた。目を向ければ、納得の糸口すら掴めぬような、困った様子を征士は見せていた。まあ、至極基本的な部分で疑問を感じてしまうのも、この際無理は無かった。戦士達のイメージする神の姿、迦雄須一族の神として想像した姿とは、掛け離れた異形の神だったので。
 それに対して当麻は、
『知るか』
 と、一度は面倒臭そうに答えたが、続けてこう説明する。
『だが神にも色々あるさ。憤怒の形相をした明王とか、閻魔大王だって神の内だろ』
『ああ、成程…』
 そして当麻が予想した通り、この程度の説明で、征士は粗方の事情を理解したようだった。無論尋ねたのが秀なら、簡単な説明では済まなかっただろうが。
 つまり見た目の恐ろしさも、神の威厳の内であること。悪魔のような能力や災いを起こす力も、全て神の一面であることが判っていれば、天つ神の見た目は気にならなくなる。まして、戦乱の世を智恵を以って渡って来た、迦雄須一族の守護の神なのだ。近代に見る優し気な顔をした仏とは、一線を画する姿であって然りだった。
 人の鎧に閉じ込められた鬼、のようだった。正に阿羅醐を始めとする、鎧戦士の神らしい姿ではないか。
 と、征士と当麻が密かに話している内、
「それで…、俺達のことは」
 遼が、祭壇の前から離れた迦遊羅に、恐る恐るそう質問していた。遼のその様子は、別段事態に怖れを為した訳ではなく、迦遊羅の仕事の邪魔をしてはいけない、との考えからだったが、彼女はおっかなびっくりな遼を見て、落ち着かせるように話し始めた。
「はい、手段を授けて下さいましたよ。烈火殿、思い返して下さい、以前地上からここに、迦雄須様が橋を掛けたことがございましたね?」
 迦遊羅がそう話すと、遼は懐かしい過去の一場面を思い出して返す。
「ああ、もう随分昔のことだな」
 まだ鎧の何たるかも、戦いの真の意味も見えていなかった頃の話。あの段階で迦雄須と言う師を失ったことは、妥当だったのか失敗だったのか、未だ答が出せないでいる。そして今、新たな局面に晒されている自分達は、再び彼の不在を痛く感じ始めている。
 誰も何も教えてはくれない、未知の領域へと踏み込んで行く不安を、誰かが見ていてくれたらと思う。
 だから迦遊羅の存在は、ある意味では頼みの綱だった。嘗て戦士達を導いてくれた者に、彼女は最も近い存在なのだから。そして彼女は言った。
「その時と同様に、ここから鎧世界へ通じる架け橋を作ります」
「え…、できるのか?、って言うか…」
 ところが、「同様に」と言う言葉に遼は戸惑う。まさかあの時と同様に、迦遊羅は命を投じて橋を作ると言うのか…?
「はい、あ、いいえ!」
 すると答えた迦遊羅も、慌ただしく返事を訂正して見せた。遼のおかしな態度を見て、勘違いされていると判ったようだ。
「迦雄須様ならともかく、私共の力では無理なことです。だから天つ神様に助力をお願いしたのです」
「あ。そうなのか…」
 それを聞くと遼も、俄にホッと胸を撫で下ろす様子を見せて、また迦遊羅もそれを見てクスクスと笑った。儀式の続きの、厳かで重々しい雰囲気がそれで一変し、肩の力が抜けるような明るさが場に広がる。そして以降は話も歯切れ良く続いた。
「本来架け橋を作る為には、出口となる場所を知らなくてはなりません。迦雄須様は過去からここを御存知でしたし、烈火殿と天空殿がふたりで参られた時も、一度妖邪界にいらした後でした。ですがこの度は、天つ神様にお縋りするしかございません」
 と、迦遊羅がこれから作ると言う、架け橋の条件について説明すると、遼はそれを注意深く聞いて返した。
「成程な、そんな決まりがあっては、迦遊羅達だけではどうにもならないな」
 すると、既に征士との遣り取りを終えた当麻が、
「決まりと言うより危険だからだろう。橋の向こう側の世界から、致命的な物が逆流して来る可能性もあるだろうし」
 と、迦遊羅の説明を的確に補足していた。別々の世界を通路で繋ぐことが、どれ程危険かを戦士達はまだ、身を以って知る段階には至っていない。ただ、当麻の言葉から想像するだけで、化学反応や核融合を引き起こす、微細な物の脅威が充分に感じ取れていた。
「そうだな、確かに」
 架け橋を作る。と言うのは容易いが、実際はとても難しく危険な事なのだ。それを文句も言わずに引き受けてくれる、迦遊羅と魔将達には改めて、感謝の念を伝えたいと遼は思った。
「俺達はここに出られて本当に幸運だった、本当にありがとう迦遊羅」
「いいえ、私には大した事はできませんから」
 すると、遼の真直ぐな気持を受けて、迦遊羅は多少恥ずかしそうな様子でそう答える。妖邪界にて暮らす日々には、殆ど覚えることの無い気持を迦遊羅は感じていた。
 何故ならここには、彼女と同世代と言える人間が存在しない。同等に純粋な気持を分かち合える者は、誰も存在しないからだった。迦雄須一族の最後のひとりと言う、大切な役目を負って妖邪界に残された、己の立場の切なさを迦遊羅は、もうとうに忘れたつもりでいたけれど。
 できることなら、彼等と共に広い世界へ出たい、共に未来を探したい。
 真直ぐに明日への希望を見詰めている、遼の濁りの無い態度や言葉から、迦遊羅はふと心の奥底の気持を見付けた。
 ところが、彼女の意識とはまるで関係無く、
「いやホントに助かったぜ!。これで半端に仕事を放棄しなくて済むしな!」
 と、秀が一際明るい調子で割り込んでいた。そして遼の肩を、景気良くパンと叩いて見せたので、何となくいい雰囲気だったその場も、一瞬でぶち壊しになっていた。まあ、遼は何も意識していなかった筈だが、迦遊羅には少し可哀想だったかも知れない。
 否、叶わぬ夢は断ち切れた方が、後々幸いかも知れないが。
 そんな三人の様子を遠目に見て、他の三人は密かな笑い声を聞かせていたが、
「あのさ、ひとつ質問したい事があるんだけど」
 その中から珍しく伸が手を挙げて、迦遊羅のすぐ傍へと寄って行った。
「はい?」
 そして振り向いた迦遊羅の前に止まると、伸はこんな内容の問い掛けをしていた。
「今の儀式の最中にさ、迦遊羅は天つ神様と話をしてたんだよね?。僕等には何も聞こえなかったけど、普通そういうものなのか?」
 いまひとつ、何が知りたいのか捉え難い質問だ。けれど伸の態度は至って真面目と言おうか、熱心に答を求める様子を見せていた。なので迦遊羅も余計なお喋りを入れず、有りの侭の事を話して返した。
「ええ、人の行動で言えば『話して』おりました。ただ神様との対話には、耳や口を使うことはできませぬ。稀に強い意思をお伝えになる時は、誰の胸にもそのお声は届きますし、そうでない時は呼び掛けた者の心に、直接お声が届くのです」
 大体想像していた通りの話を聞いて、
「そうか…。でも呼び掛けるには、さっきみたいな儀式が必要なんだよね?」
 伸は続けてそんな事を言った。まさか儀式の行い方まで、聞き出そうと言うつもりだろうか?。
「そうですね…」
 すると、迦遊羅が返す言葉を選んでいる内に、また当麻が口を挟んでいた。無論彼にも、この部分に関する疑問が存在したからだ。
「特別な言葉があるんじゃないのか?」
 と当麻は尋ねた。そう、普通は聞こえない音域で聞こえる説は外れとしても、迦遊羅が唱えた祝詞には特別な言語、発音が含まれるのではないかと考えている。宗教的な呪文は多くがそう言うものなのだ。けれど、迦遊羅はそれを否定した。
「いいえ、そのようなものはございません。儀式に使った祝詞は、単に高きお方への讃辞と感謝の言葉ですから」
「単に?、と言うと、信仰の宗派とか、形式の違う言葉でも良いのか?」
 予想しない返事を受けて、より詳細を明らかにしようとする当麻。そして、
「構いませんとも。数多の国にそれぞれの言葉があるように、神に捧げる言葉もそれぞれだと習いました。そうでなければ、広く世を救うことなどできませぬ。…と思いますが?」
 迦遊羅がそう答えると、当麻は暫し目を見開いたまま止まってしまった。彼にしてはとても珍しい様子。それ程自身の持つ知識からは、想像し難い事実だったようだ。
 ただ、
「それは…意外な話だな」
 と、当麻が呟くように言うと、横で征士は、
「そうか?」
 と首を傾げていた。世界的に見て、言語にこだわる宗教が多いとは、一般には思わないものだ。怪し気な呪文や文言などは、魔法や奇術、忍術などの表現として、しばしば目や耳にすることはあるが、あくまでフィクションの世界の話である。神秘性は認めても、宗教性は感じないのが普通だった。
 無論、当麻は一般レベル以上の知識を得た上で、「意外だ」と話している筈だが。
「何を想像したか知らんが、東洋の宗教に於いては、神秘性を守る為に元の言語を重要視するものなんだ」
 と、当麻はまず征士に対してそう返した。彼が言うのはアジアを源とする仏教、密教等の土台についてだった。
 知られている通り、密教の言葉は特殊な言語を使って唱えられる。が、実は仏教もほぼ同じ教典を使用し、同じ神や仏を崇めている。日本で一般に唱えられる経文は、それを日本語に直したものだ。しかしそれでは、本来の力を発揮しないとも言われている。正式に入門して修行僧とならなければ、正式な読み方や発音は教えてもらえないのだ。
 つまりそうして、神秘性を守っているのが密教・仏教の流れだ。一時代、市民が民間療法的に術を乱用するようになり、宗教的権威が失墜した歴史が存在し、以降門外不出の傾向に転じた背景がある。
 また日本の国教であった神道も、ある頃からこの流れを組んでいる。ファンタジーとして語られる阿倍晴明や役の行者も、密教の流れから生まれた術者である。つまり本来は、術と宗教は一体のものだったのだ。その宗教が生まれた時代から伝えられる、古く、不明瞭な言語を残し続けることで、偉大な神秘性を確立して来たと言える。
 故に使用する言語が大切、と言う話になるのだが。
「だから天つ神と言う神が、元は古代人のひとりだったと言うなら、使う言葉は古代語だと俺は思っていた。だがそうではないとすると…。う〜ん、或いは…」
 と、当麻は発想の根拠を説明しながら、より新しい発想を探っているようだった。
 しかし事実を前にして、一度は壁に突き当たっても、尚その先へ思考を進めようとするのは、実に彼らしい様子だ。その変遷を目の前に見ていた迦遊羅は、軽やかな笑い声を交えて、彼女なりの考えを伝える。
「フフフ、もし天つ神様が神ではなく、より人に近い存在ならそうかも知れませんね」
 そしてその意味は、
「当麻より頭が良くて当たり前、ってことだな!」
「そう、金剛殿の仰る通りです。私達はひとつの事しか解らなくとも、天つ神様には全てお解りですよ」
 意外に秀にも理解できる事だったようだ。すると、負け惜しみではないが、
「まあな…、人間を基準に神を測るのは難しいと言う例えだ」
 当麻はそこに至って議論を諦めてしまった。これ以上の事は、迦遊羅が自ら言ったように、彼女自身も知り得ない神の話となる。推測ばかり論じても、納得には至らないだろうと踏んで、彼はここで話を切り上げることにしたようだ。
 そう、幾ら話したところで解らない。当麻だけでなく誰もが思っている。『神』とは何だろうと。
 すると、当麻に因って話を寸断された格好の伸に、
「それが聞きたかったのか?」
 と遼が声を掛けた。それが、と言われても何を指したのか不明だったが、
「いや僕は…」
 と伸は否定して、続けてこう話した。
「有難い神様の言葉なら、聞きたい時に聞けたらいいと思って」
 同じ場面を語っていても、伸の思う事と、当麻の考える事は根本的に違っていると、改めて判るような発言だった。天つ神がどんな者であっても、この際構わなかったのだろう。伸はただ、戦士達の未来を案じているだけだと、耳にした誰もが気付いた。
 そして迦雄須一族の神であり、迦遊羅を助けている存在を、彼も無条件に受け入れているのだろう。勿論それこそが彼に与えられた、信の文字に表される性質なのだ。
「そうだな、本当に」
 と遼も、伸の穏やかな意思に賛同していた。今はただ目先に開けて行く世界を、闇雲に探りながら、何とか自力で進んでいるけれど。いつまでもこのままでは駄目だと予測もしている。自分達のみで頑張れる事は、全体の中の極小さな事象に限られると、今は知っている。
 世界は広い、宇宙は更に広い。そしてまだ自分達には見えない次元も存在する。
 このままでより先へ進むことは困難だと、誰もが案じ始めている。
 けれど、
「でもよぉ、簡単に呼べなそうな感じじゃね?」
 秀の言うように、神の声は容易に聞ける訳ではないようだ。宗教哲学で言えば、必要の無い者には与えられないのだから、現状の戦士達にはまだ、本当に神が必要な状況ではないのかも知れない。
「そうみたいだね」
 と、伸は穏やかに笑って答えていた。それは、今すぐ望みが叶わなくても、いつかそうなれば良いと願うような、晴れやかな笑顔だった。
 常にとは言わない、時折道を示してくれる存在が、居るのと居ないのとでは違うだろう。
 いつか大事な局面に巡って来た時には、その声が聞こえたら良い。と。



 儀式の行われた社殿の裏庭を離れ、それまで戦士達が集っていた伽藍へと戻る道の途中で、
「何だい?」
 伸は妙な視線を感じて振り返った。見れば征士が、珍しく難しい顔を露にして歩いている。神を呼ぶ儀式が始まってからこれまでに、何か困らせるような事をしただろうか?、と、伸が暫く黙っていると、自分に気付いた彼に対して、征士は意外な言葉を投げ掛けていた。
「…本当は、聞こえていたりするのではないか?」
「え?、何でそんな…」
 全く思わぬ事だったので、伸は思わず立ち止まってしまった。まず征士がこんな顔をして、人を勘繰ることは滅多に無かった。恐らく伸が、何か重要な事を隠していると思っているのだろう。
 けれど続けて、
「でなければ、『聞きたい時に聞ければ良い』とは、言わないような気がする」
 と言われると、征士が疑問を抱いた理由に、伸は納得せざるを得なくなった。なまじ近くに居る人間じゃない、伸は経験から物を言うタイプなので、経験しない事を尋ねはしないだろう、と読まれたのだ。そして何かを聞いたなら、何故話さないのかと征士は訴えているようだ。
 それが如何に重要な事か判るが故に。
 けれど結局のところ、伸は皆を喜ばせる程の結果は得ていなかった。
「ん…。どう言ったらいいか難しいところだね」
「?」
 ごめん、と謝るような調子で返した伸は、再びゆっくりと歩き出して、後から追い付いて来た征士に問い掛ける。
「君は天つ神の姿を見てどう思った?、何かを感じた?」
 彼は事態の説明の前に、何かを確認したがっているようだった。
「普通に恐かったし、冷たそうな印象だったね。一見作り物みたいだった」
「…多少痛々しくも見えたな」
 伸が自ら話す初見の印象に続けて、征士はもう少し観察の進んだ感想を答える。と、
「ああ、そうだったね」
 目を閉じて思い出しながら、伸はその意見をも肯定した。
「人が神になるってことは、何かを犠牲にしなきゃならないんだろうね。力を持つと同時に、苦悩も増える事を表現してるのかも知れない」
 そしてそんな話を続けた。征士にはまだ、伸が何を言いたいのか解らなかった。
 ただ、伸の話は不思議と自分達、或いは人間全てに当て嵌まると征士は気付く。神の話をしている内に、人間を連想するとは思っていなかった。しかし確かに、力を得ればそれに悩むようになり、特別な立場を与えられれば、主に生活の一部を犠牲にしなければならなくなる。神となることに限らず、人間が生きる中にも同じ理屈が通用すると気付いた。
 つまり神とは、手の届かない存在でありながら、人間によく似ていると結論することもできた。何らかの苦悩や悲しみがあるからこそ、愚かな者にも手を差し伸べるのだと。
「それでも、絶対的な人間の味方のようだが?」
 征士は自らの考えに導かれ、伸の話にそう付け加えていた。すると突然、
「そう、そうなんだよ…!」
 それまで普通に話していた伸が、急に色めいた声を上げる。鎧世界に渡って来て以降、暫く見ることの無かった、一遍の曇りも無い笑顔を向けながら。
 そして、
「なんだ、君にそれが分かるなら、みんなも分かってるかな?」
 と同じ調子で続けるので、征士は些か面喰らっていた。
「さあ?。だが、何故そう嬉しそうに話すのだ?」
「いや、だからさ…」
 その変化の理由を尋ね返されると、伸は再び口籠ってしまったが、そこへもう一度、
「やはり伸には何か聞こえたのだろう?、能力的に言っても素質があるだろうし」
 と征士が最初の話に戻すと、今度は答えてくれたのだった。
「聞こえた訳じゃない。はっきり聞こえるなら質問なんかしないよ」
 そう、満足な結果を得た訳ではなかった。己の超感覚的な能力も、神と呼ばれる相手には通じなかった。しかしそれでも伸には、酷く嬉しい経験だったようだ。何故なら、
「ただ迦遊羅と天つ神の間で、…何て言うかさ、波が寄せたり引いたりするみたいに感じたんだ。内容も判らないし、音も聞こえなかったけど、話してるんだなってことは判ったんだよ」
「成程」
「同時にそれが、すごく幸せそうだったんだ」
 本来見ることすら叶わない相手と、迦遊羅が確かに会話している様子を知って、またそれが素晴しいインスピレーションを、自分にも与えてくれたと言う現実。だから伸は、滅多に見せないような顔をして喜んでいるのだった。
 加えてその現象が、伸に縁のある波のように感じられたことも、彼の歓喜を誘った理由なのだろう。海、波、魚など、水のイメージを感じる物は皆、伸の漂い易い心を受け止めてくれるから。
 恐らく、伸はそこから安定を得られたのだろう。と征士には解った。
 それから、
「…迦遊羅は母親のように慕っているようだが」
 幸福を感じる心象風景だった、とする説に対し、征士は迦遊羅と神との関わり方を考えていた。
 自分達が知っているのは、迦遊羅が幼少時に攫われ、洗脳され、ずっと妖邪界に捕われていたことだけだ。その間に時は流れ、既に本当の親は存在を消している。尊い一族の長も、意思のみを残して肉体を捨てた後だった。閉じられた世界で、意思を受け継ぐ者として残された少女。そんな運命に置かれた人の心を、想像するのは難しいと感じた。
 すると伸も、
「うん。そんな事ってあるかな?、と僕も思ったけど」
 と、それには同意していた。最初に那唖挫が話してくれた事も、迦遊羅自身が母だと言ったのも、あくまで言葉の表現だと考えていた。
「一族の神だから、と言う理由では無理か?」
 征士はそう言ったが、既に伸の体験談を聞いてしまった後では、安直過ぎる想像だと自分で思った。続けて伸に、
「普通、自分の家の仏様を親と慕うかい?。本当の親の位牌は別にして」
「そうだな…」
 実例的な話で返されると、征士は頷く以外になくなっていた。理論的思考だけでは、人の感情は説明できそうにない。
 無論人間は、理論上の現実だけで生きているものではない。自ら気付けない欲求さえも現実である。そして神に取っては、人間と言う不完全生物を含めた全てが現実である。そう考えると少しばかり、神と言う存在を理解できそうな気がするのだが。
「やっぱり、単なる母親って意味とは違うんだと思う。天つ神と話をすると、同時に何かを受け取れるとかさ」
 暫し考えて、伸はそんな解釈に至っていた。
「何かとは。充足感のようなものか?」
「そうかも知れないし、多分僕には『夜』みたいなものさ」
「夜…?」
 その時、話に夢中になって、再度立ち止まっていたふたりの横の壁から、
「そこで何を話し込んでいる」
 と、突然声を掛けられた。伽藍の朱塗りの窓の桟が引かれていて、そこに肘を着いた悪奴弥守が頭を覗かせていた。天つ神は去ったと知って、再び戻って来たようである。
「神と言うものについて、議論していただけだが」
 征士が慌てた様子を繕うように返すと、悪奴弥守の方は、話の内容は大方想像が付くと言う風に、
「ああ…。驚いただろ?、神と言っても死神だからな」
 と余裕を持って言った。
「見た目通りなのだな」
「まぁそうだ。首を刈るばかりが死神ではないがな。むしろそれはほんの一面に過ぎぬ」
 そして当然だが、征士と伸のふたりより遥かに、天つ神を知っていると解る話を続けた。
 正に死神、だとしても、天つ神は恐れられるばかりでなく、この妖邪界に受け入れられている事実。迦遊羅が親を慕う様に崇めている事実。それらを理解するには、身を以って知る者に聞くのが早道だろう。丁度良いタイミングで、向こうから話し掛けてくれたので、伸は、
「それでも迦遊羅には、母親のような存在なんだろ?」
 と、直前まで征士と話していた話題を悪奴弥守に向けた。思索するのは好かない、と言っていた彼だが、有りの侭の事情くらいは話してくれるだろう、と思った。
 けれど、自らのアピールが真実と言う訳ではないようだ。
「フフ…、迦遊羅には、ではないな。妖邪界のみならず、この世の母と言っても良かろう」
 悪奴弥守は多少謎めいた余韻を残して言った。その内容を聞けば、考えることが嫌いなのではなく、敢えてなるべく考えないようにしている、彼の本当の在り方が見えて来るようだった。そして、
『嫌ってる筈なのに』
 と伸は、真面目に天つ神を語る悪奴弥守の様子にも、少なからず驚いていた。
 否、例え本人は苦手だとしても、今この妖邪界の中心とも言える迦遊羅に、深く関わった神である。ここに暮らす者は誰もが、何らかの形で天つ神の慈悲を受けているに違いない。それこそ空気のように、普段は意識もしないレベルで、この小さな世界の秩序を守っているのだろう。正に神ならではのスケールの広い恵み。それを『母』と呼ぶことは、極自然なことのように思えた。
 生きる土壌在っての人類だから、人の世界を守る神は確かに母親かも知れない。と、伸がそこまで考えた時、悪奴弥守は続けてこんな例え話を始めていた。
「お主等は鬼子母神の話を知っているか?、我が子を悼むあまり、余所の子供を次々喰らっていたと言う。本来母親の思慕とはそんな面があるもんだ。時には残酷で容赦が無い」
 そこまでを聞いて、伸は西洋の神話を思い出していた。シンボル学的に海は女性で、特に母親のイメージに繋がると言うが、神話では海に棲む女性の怪物が、しばしば怒りから荒波を起こし、渡る船を翻弄すると言われていた。その説話から海には、女性特有のヒステリックな要素があるとされ、その引金になるのが母性的な愛情だと、後に解釈されたようだ。
 鬼子母神の元はインドの神だが、何処の世界にも似た話が存在することから、それは普遍的なイメージであることが解る。また征士は、厳しかった自分の母親を思い出していた。
 そして、
「だが残酷さも、子を愛しむ心や防衛心の内だと分かるだろう。まあ、鬼子母神ほど暴力的ではないが、人間とその行く末を案ずるが故に厳しい、天つ神とはそういう神なんだ」
 と、悪奴弥守は結んだ。彼の例え話は全体を通して、とても平素で聞き易いものだったと思う。
「そうか…。今の話で大体分かったよ」
 なので伸はすぐにそう返すことができた。
「イメージだけはな」
 続けてそう言った征士にしても、思考の土台となる材料が無かったこれまでとは、考え方に雲泥の差が出ることは気付いていた。
 何故迦遊羅は母と慕うのか、何故ならそもそも全ての母だと言う。恐らく誰に対しても、その同じイメージで受け取られる神だからだ。偉大な力を持ちながら、すぐ傍に居るような感覚も引き出す天つ神。そこから思考を始めるなら、何故我々を助けてくれるのかも、理解し易くなる筈だった。
 征士と伸は、丁度良く悪奴弥守に話を聞けたことで、この時点では充分満足な気持に至っていた。
 ところが、
「俺はよく分からない」
「遼?」
 話の一部を聞き付けて、 悪奴弥守の背後から現れた遼が呟いた。
「今の話も、さっき見て来た様子にしても…」
「お主は相変わらず悩み性だな」
 振り返って悪奴弥守がそう返す。確かに遼も誰も皆、日々進歩している面はあるけれど、根本的な性格は変わっていなかった。ただ、答を急がず、長く悩んでいられるのもひとつの強さだ。
 我慢強く考えながら遼は続けた。
「俺には母親が居ないからかも知れないな」
 そしてその言葉は、見詰める征士と伸をはっとさせた。これまでの会話の流れで、それなりに理解が進んだと喜べたのは、自分達が身近にそれを感じて来たからだと知る。遼は母親の何たるかを知らない。彼に取っては正に可哀想な状況だと、ふたりは俄に思い狼狽えた。
 けれど、そんな事情を知らない悪奴弥守は言った。
「ならこれから嫌と言う程知るだろうよ。迦遊羅は天つ神に己等のことを託した。元々迦雄須に導かれた己等なれば、この先も何らかの御加護は続くだろう」
 意外にもこの場に於いて、最も救いに思える事を話してくれたようだ。遼に取っては、過去には知ることのできなかった存在を、未来に見出せるかも知れない。そして戦士達に取っては、恐らく迦遊羅にそうするように、未来のこと、正しいことを示してくれる、導師となってくれるかも知れない。僕等は何と恵まれた運命だろう、と感じた。
 遼が答えるより先に伸が、
「本当?」
 と、身を乗り出すようにして言った。その勢いを見て、やや驚いた風に悪奴弥守が、
「ああ…嘘ではないが…」
 多少声を詰まらせるように答えると、彼の後ろに居た遼もまた、不思議そうな顔で伸を見ていた。
「何で、そんなに嬉しそうなんだ?、伸は」
「ああ、いや…」
 尋常でない喜び様に、疑問の目を向けられて伸は困っている。こんな事で目立ちたくはなかった。だが、戦士達の支えとなる存在を望む気持は、伸に限らず遼にも征士にも同等に有り、そのふたりが感じる喜びとは、随分度合いが違うことを見せてしまった。もう隠しておくことはできないかも知れない、と伸は感じていた。
 すると、
「是非聞きたいものだな、さっきからそれを話してくれない」
 征士も先程からぼやかされていた、神の存在について考えた事の結論を聞きたがっていた。そう、悪奴弥守に会話を止められる直前、ふたりで何を話していただろう?。
 伸はその答をこう話した。
「いやホント、つまんない事なんだけどさ、よく眠れるようになるだろうな、と思っただけで」
 それを聞いて、当然、話の流れを知らない遼は、
「よく眠れる…?」
 と、増々不可解だと問い返すが、流石に征士には思い出せていた。
「ああ、『夜』とはそう言う意味だったのか」
「そう」
 伸は天つ神が会話的交流の中で、相手に何かを与えているようだと言っていた。だから迦遊羅は幸せそうに見えたのだと。そしてそれは夜のようなものだろう、と、言われた時には意味が解らなかった。
 しかし今は征士にも理解できた。鎧世界にて、神経の休まらない日々に疲弊していた伸が、今心から望んでいるのは、安心してよく眠ることのできる夜なのだと。だから彼は神の声を聞きたがる。神は必要な物を必ず与えてくれると言う。どの世界の宗教でも、それは共通の教えなのだから、迦遊羅には親の存在を、伸には眠れる夜を必ず与えてくれる筈だと…。
 そして不思議と、母親と夜は似ているとも感じられた。
「夜な…」
 すると悪奴弥守が、暫し何かに思いを巡らせて言った。
「確かに、人間の世界を昼とするなら、夜は神の世界かも知れぬな」
 闇を司る魔将には、夜と聞いて様々な事が考えられただろう。それを耳にした戦士達には、込められた真意までは汲み取れなかったが、イメージだけは確と受け止めることができた。確かに、活動を止めている無防備な時間帯の人間を、何が守ってくれているのかと思うことがある。そして、人間の預り知らぬ所で、見えぬ所で神は常に活動していると、感じることのできるイメージだった。
 夜は神の一部であり、誰もがその中に包まれている。
 そしてそれを知った後には、遼も思い悩む様子を払拭して、
「そうか…。俺は知らなかったが、夜には色んな意味があるんだな…」
 と、感慨深い様子で納得していた。再び彼の目が未来へと向けられた、ような気がした。
 遼が立ち直ってくれて良かったと、今に至って伸と征士もホッとしている。そしてこんな風に、偶然の会話から気付かされるように、いつも穏やかに全ての問題が解決して行けば良い、と願った。
 皆が自らを完成させる為に、それぞれの些末な哀切を切り捨てられるように。
 新しい戦士として、必要な段階を確と昇って行けるように。
 その課程は恐らく長い道程の、緩やかな歩みとなるだろうから。
 ところが、穏やかに纏まっていた四人の場に対し、伽藍の中には穏やかでない者も居た。
「そこの者達聞き給え、夜の闇は深遠なる宇宙に通じる。暗黒こそが全ての源だ、何もかもが暗闇から生まれて来る。だから怖れを為せと、あらゆる宗教で言っているんだ」
 どうも、ここで話している内容を聞いて、ずっと口を出したかった様子だ。
「黙っていられないようだ」
「ハハハ、そうだな」
 征士は窓の奥に、遼は振り返って、伽藍の間のほぼ中央に座っている彼を見る。そして、
「相変わらずだな、天空も」
 と、悪奴弥守も薄笑いしながら零した。否、もしかしたら当麻を笑ったのではなく、己を笑ったのかも知れないと、ふと伸は思った。何故なら彼は、端からは測り知れない深い思考を持つ人だと、今知ったばかりだった。



 こうして記憶の中の世界は優しく、人々は手を拱いて後ろ髪を引くけれど。



 妖邪界の東の果て。そこは切り立った岩山が連なるばかりの、荒涼とした一帯で、人の姿も集落の名残りも見えない場所だった。
 そしてその岩山を越えた先がどうなっているのか、何があるのか、それとも無いのかは、誰も知らないのだと言う。越えようとしても戻って来てしまうらしく、妖邪界の全体像がどんな形をしているかも、計測不能だと言う話だった。
 それは創造主である阿羅醐にも、判らないことだったようだ。勿論だが、人の憎悪や妄執が物理的な形を持つなど、古代でなくとも計算不可能な事態だ。単純に人間の物指しで計れると、考える方が浅はかだと思う。恐らく天つ神なら、普通に把握できる形なのだろうが。
 その東の岩場に、迦遊羅と三人の元魔将達、そして五人の戦士達が集まっていた。
 その場所を選んだのは、無論五人が発見された地点だからだが、大仰な術を行う為にも好都合な、周囲に何も無い場所だった理由もある。そこで、迦遊羅と魔将達はそれぞれが正方に立って、一種の魔法陣のようなものを形成していた。これから彼等が架け橋の基礎となって、それが開いて閉じるまでを支える、支柱の役割を担う為だ。
 その四角の外に立っていた遼は、いよいよ術を始めようと言う迦遊羅に、
「次に会う時はいつになるだろうな」
 と言った。
「さあ…。もうずっと遠い未来になるかも知れませんね」
 何処か、遥か遠くの場所を見据えるようにして、迦遊羅は答えた。
 別れの場面に際して、特に言葉を用意していた訳でもない。けれど暗黙の了解のように、どちらも「さよなら」とは言い出さなかった。否、今生ではもう二度と遭えなかったとしても、鎧が繋いだ特別な家族と言える面々を、この先も忘れたくないと言う気持だった。
 すると、
「そんなことはな、考えぬ方が良いぞ。その都度に偶然齎される幸運ほど、有難いものはないと心得るが吉」
 と、横から螺呪羅が、まるで普段通りの調子で話し出す。
「おめぇ、意外と良い事言うな?」
「ここに生きる智恵と言うものだ、金剛」
 そう、これまでの時間も長かったが、この先の時間も計り知れない世界で、いつ、何時と言う区切りにこだわるのは無意味だ。何かを待望して待ち続けるには、切な過ぎる程退屈で長い妖邪界の年月。そして地球以外の世界には、そんな場所も多く存在するだろうと、螺呪羅は暗に示しているようだった。
 確かに、妖邪界の一日は地球の六日と言うが、鎧世界は昼夜の区別すら無い。そしてそれよりもっと、過酷な世界にも出て行かなければならない、かも知れなかった。
 秀は彼の言葉を、心に確と仕舞っておくことにした。そして遼も、
「そうだな、無駄に先の事を考えてもしょうがないか」
 と、晴れ晴れとした様子で顔を上げる。

 淡い光の筋が、円を描きながら回転を始めた。迦遊羅と魔将達が作る場の内側に、旋回する螢のような光が少しずつ数を増やし、やがて身の丈程の、光の筒のような形を見せ始めた。これが基礎であり、妖邪界側の入口となる。
 そして戦士達は事前に言われた通り、その光の中へと入って行った。雲状の層となった光の壁は、その内側に入るともう外の景色が、殆ど見えない程厚くなっていた。だが、まだ地面に足が着いていた。まだ頭上には妖邪界の、日がな薄暗い空が見えていた。まだ何も起こっていない。
 遼は今の内にと、
「ありがとう、みんな」
 光の外に居る者達に言った。すると、ほぼ同時に光の壁が捻れ始め、空間を切り裂くように上へと伸び始める。恐らく、いつか迦雄須が作った架け橋と同じ様に、外からは見えることだろう。竜巻きが辺りを巻き上げるような、力強い光の柱となって…。
 すると戦士達の体が浮き上がり始めた。
「何処の空にも、天つ神様は居られると申します。きっと皆様のことも案じていて下さいます」
 落ち着かない浮遊感の中で、彼等は迦遊羅の、強く暗示するような声を聞いていた。そして、
「そうか、だから渡り鳥なのか…」
 と遼は、懐かしい妖邪界を離れる間際に、それを知ることとなる。
 けれどそれなら尚安心だと思った。この先何処へ行こうと、どれ程隔たっていようと、ここのことはいつも伝え聞くことができるだろう…。

 いつかまた会おう。
 打ち上げ花火のように、勢い良く空の一点を突き刺して伸びた光の通路は、やがて僅かの時間の後に、火の粉のように散じてしまった。今が夜ならば、暫くの間は光の残像を辿れた筈だが、あれだけの存在感が、白い昼間の空に呆気無く消えてしまった。
 否、物事は呆気無く、突然である方が有難いと、今さっき誰かが言ったばかりだ。
 いつかまた再会できますように。と、この場で祈るだけにしよう。

 天におはします、我等の母よ。









コメント)まずはすみませんm(_ _)m。掲示板に書いた通り、この「3」が1ページに入り切らなくなって、一部を「2」の後ろに入れると言う、荒技に出てしまいました…。
 一度全てを書き終えてから、文の切り方を変えた作品はあるのですが、初回でこんな形になってしまったのは初めてです(- -;。読み難くなってすみませんっ。本当に申し訳ない。
 「1」のコメントで、「3話に収まらないかも」と書いた通り、やっぱり予定の内容が全部入らなくて、その結果こんな事になってしまった。お陰で「既成事実」に出て来るシーンも、まだ出て来ないことになっちゃってます(T T)。うう、こんな筈じゃなかったんだけどな…。
 と言う訳で、今回入り切らなかった要素は次の話に回して、また来月から書くことにします。あと2話くらいで、「偉大なる哲学」まで辿り着くので頑張ります…。はぁ…、書かなきゃいけない事が沢山あると、それを話の中に納めるのが大変です。今回は苦労しました(- -;。




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