新宿の夜道
八月、僕らは
For You Lovingly



 何も知らぬ、命の未知なる力を喜ぶのが子供なら、カリ・ユガの境地にも僥倖を見い出すのが大人である。



 八月の半ば。まだ残暑の盛りのその日、お盆休み明けの気だるい業務を終えた征士は、脇目も振らず真直ぐにマンションに帰って来た。東京都心の篭ったような独特の暑さから、早く逃れたい気持ちもあっただろうが、それだけではない彼の意識は自然と家路を急がせた。
 この数日征士の様子はどうも変だった。上の空と言う訳でないが、何を話しても会話の乗りが悪い。常に何か別の事を考えてるみたいだと、伸は日々観察しながら思っている。
 何があったのだろう?。夏のバカンスにブラジルに出掛けた八月初頭は、特に変わった様子ではなかった。よくよく考えてみればその後からだ、征士の態度が少しおかしくなったのは。そして今日も、何か言いたいような、或いは時を見ているような、妙な様子で一日を終えるのだろうかと伸は考えていた。
 ポロンポロンポロン…
 玄関のチャイムが鳴り、征士は連絡通り早めに家に戻った。
「お帰りー」
 いつもそうするように、仕事の手を止め伸が玄関へと出て行くと、鞄を置き、靴を脱いでいた征士の、暑さに辟易したような表情は普段通りだと感じる。今日も真夏日の酷暑だった。お疲れさまと言う気持ちを込め、その場に立ち上がった彼の頬に伸はキスをする。
「ただいま」
 そう返して薄く笑った征士は、そこまでは、別段変わった点は感じられないのだが。伸がその後に続けた今日の話題から、確かに少しばかり違和感を感じる展開になっていた。
「聞いて聞いて、大ニュースだよ」
「え、何だ?」
 キスの続きで、相手の肩に顎を乗せたままの伸はすぐ傍に居る。その楽し気な表情に注目し、征士は「何だろう」と耳を傾ける。
「当麻の就職が決まったんだって!。だから明日の夕方飲み会でもしようってさ」
 しかしその内容を聞くと、彼は途端に色褪せた声に変えて言った。
「何だ…そんなことか」
「そんなことって!。あれだけ悩んでたんだから、もうちょっと喜んであげないと」
 それが違和感のある変化のひとつだ。二年前になるが、当麻は就職に悩んだまま結局大学に残ることになった。大学の四年間、大学院の三年間、そして更に一年半ほど経過している現在。元々優柔不断な面のある当麻だが、それが彼の持ち味でもあるからと、周囲が彼の決断を急かすようなことはなかった。だが本人が就職したいと強く希望するので、その成り行きは常に仲間達の関心事だった。
 そう、関心事だった筈なのに、征士の態度はまるで馬耳東風と言った趣なのだ。仮にも仲間達の中で、一番仲が良かったと言える相手にそれはないだろうと、伸にしてもやや心配になってしまう。
「いや、喜ばしいことには違いないが」
 次に出た言葉もまるで他人事のようだ。征士がそこまで離れた視線で、当麻を語るのも珍しいと思う。
「何だよ?、歯切れが悪いな?」
「ん、うーん、別に」
 なので伸は、少し意地悪な冗談を振って、せめて征士の快活な声を聞きたいと考えた。何を話してもやんわり素通りされるような、妙な雰囲気を掻き消したかった。
「クスス、当麻と何かあった?、君らは何か、僕に隠れてコソコソ話してる時があるから」
「なっ、何もないぞ!」
「何でムキになるんだよ、アハハハ」
 伸の思惑通り征士が返すので、それについては笑ってしまった伸だけれども。考えてみれば最近こんな話にムキになることもなかった。やはりそれもおかしな変化のひとつだ。
「…からかうなよ」
 と言う征士に、伸は更に思いもしない話題を続けてみる。
「今更そんなこと、僕が気にしてる訳ないだろ。それとも『浮気してるんじゃないか』って疑ってほしい?」
「やめてくれ、考えたこともない。よりによって当麻に」
「じゃあ遼だったらいいの?、秀は?」
「だから…、何故そんな訊問を受けているんだ、私は」
 そこでふと伸の顎を取り、確と自分の方に向かせた征士は言った。
「何か疑わしいか?」
 間近で真直ぐに見詰め合う、瞳と瞳の間には慣れ親しんだ愛情と、未だ相容れないふたりの個性の違いが、目に見えぬ光線のように行き来している。自分が思うことはそのまま思うように、相手からも反射されるのが判る。征士の言うような疑わしさなどありはしないと、伸はそこで素直に一言、
「だって何か変なんだもん」
 と言った。それに対し征士は、
「変と言うか…。…まあその内わかる」
 それでもやはり話してはくれなかった。
「あ、ほら、何か隠してるだろ!。何だよ、何だよ、言いたいことがあるなら言ってよ!」
「後でな」
「狡いよ、何なんだよ!」
 征士の隠し事は恐らく罪のない何かだ。背信を感じているなら、逆にこんな曖昧な態度は見せないだろう。伸はそう理解はできたけれども、何も教えてくれないのはやはり悔しい。その内と言うから何か、サプライズな出来事を狙っているのだろうか…?。

 僕らの生活はこの数年至って平穏だと言える。今話題に上った当麻などに比べ、人生の悩みはあまり感じていない状況だ。淡々と、こんな幸福が続くことを過去には夢見ていたが、本当に実現できるとも思えなかっただけに、日々夢の中に暮らしているような気さえする。否、いつ何があるか判らないのが人生だから、一時こんな時代があってもいいじゃないかとも思う。

 伸は、そんな史上最高と思える時間の中で、いつそれが崩れてしまうかと、小さな変化をいつも気にしているようだった。征士は何を考えている?。征士に何があったのだろう?。戦場で戦っていた頃は、細かい事にはそこまで干渉しなかったが、今は繊細で微細な事こそ気になる時代だった。



 翌日、金曜の夜の、週末を前に人で溢れ返る新宿の繁華街で、
「この暑い中、就職活動御苦労様でしたー」
 ナスティのそんな音頭と共に、五人の仲間達は揃ってビールグラスを掲げた。お祝いだからと用意した場は、普段の会合で使う大衆居酒屋ではなく、少しお洒落な地酒と鳥料理の店にした。秀が知り合いに勧められた店で、串焼きとつくねが美味しいそうだ。その秀は早速、
「全くだぜ、仕事がねぇってさんざん騒いで、もう諦めたンかと思ってたけどよ」
 と、野次る文句を飛ばしている。いつも明るい彼だが今日は格別に明るい様子だった。恐らく最も愚痴を聞かされて来た彼だから、この場で言いたいことも色々あるのだろう。また秀の言葉に続け征士も、
「てっきり大学に根を下ろすものとばかり思っていたが」
 と話すと、隣で満足げな顔の当麻が、
「勘弁してくれ、地味な現場に埋もれていたくなんかない」
 ややオーバーなアクションを交えてそう返した。まだ宴席は始まったばかりだが、当麻は既に酔っ払っているような呈で、何もかもが面白く聞こえるらしい。それだけ、長く抱えていた悩みから解放されたことが、嬉しいんだろうとは誰にも判った。だから遼も力強い声で彼を讃えた。
「良かったな、粘った甲斐があったじゃないか」
「まあな、一応希望通りの職種だ」
 ちなみに当麻の就職先は、企業向けの観測カメラとソフトの開発会社である。観測と言っても天体などではなく、日々の天気なり海面温度なり、夜間の駐車場なり、町中の人の行き来なりを調べ、集めた情報を処理する社会的観測だ。当麻の専門は宇宙物理だが、まあ多少天気に関わると言うことで、何とか採用してもらえたようだ。本当なら統計数学に明るい人間が欲しかっただろうが。
 兎にも角にも、拾ってくれる企業があって幸いだ。それだけでここに集った六人が、夏の盛りに美味しいお酒が飲めるのだから。
「でもベンチャーなんだろ?。最近は大学のベンチャーも面白い研究所が増えてるのに、わざわざ外部に就職したのは何で?」
 けれど伸はそう話し、当麻の目の前で少し首を傾げて見せる。するとナスティも、
「そうよね、私もそういう所に就職したんだと思ってたわ」
 伸の見方に同意だと続けた。御存知の方も多いだろうが、九十年代の後半辺りから、大学内でのベンチャー活動は盛んになって行った。バブルが弾けた頃、それを逆手に取るように現れたベンチャー企業が、いくつかの成功例を見せて来たことが背景にある。
 過去から続く大企業とは違い、ベンチャーの活動はより専門的で、体質がコンパクトな分身動きが取り易いのが魅力だ。こうでなくてはならないと言う社訓めいたものはなく、自由だからこそ当麻のような研究者には向いている。ただ、大学内ならより自身に向いたものがありそうなのに、何故わざわざ、そこまで歓迎されない企業に就職したのかは…。
「まあ…、大学の研究は即時商品化できるものは少ないからな。もう少し目に見える形で、社会に貢献できることをしたいと思っただけで…」
 その理由を当麻がそう話すと、間髪を入れずに征士が批判を浴びせていた。
「当麻らしくない」
 すると大いに賛成と言う様子で、身を乗り出した秀も言った。
「だよな、当麻らしくねぇよ」
 そのふたりの様子を面白く見た伸は、最後に一番キツいと思われる事をさらっと言ってのけた。
「多分それ長続きしないと思うな」
 遼とナスティのふたりは黙っていたけれど、何となく三人の主張も判らなくないと、些か気まずい表情を見せている。お祝いの席だと言うのにあまりにハードだった。
「何なんだよ!、俺の純粋な気持ちからの判断を貶すつもりか!」
 当然当麻は怒って見せるが、何処か慌てた動作が図星にも思われてしまう。否、就職に喜んでいる割には、就職理由を話し出すとすっきりしない語尾になった、その変化は誰もが聞いているのだ。この場は疑われても仕方ないところだった。
「貶してなんかねぇけど、おまえが言うと変な理由に聞こえんだよな」
「何が変なんだよ!」
 秀の返事に当麻はそう突っかかったが、そこにナスティが冷静な分析を付け加える。
「当麻はねぇ…、社会がどうこうなんて事より、もっと先を見据えた研究の方がいいように思うわよねぇ」
 落ち着いて、嫌味でも意地悪でもなく、親切心で言われていると思うと、流石に下手な反論はしない当麻だったが、
「それはそうかも知れんが…」
 と、曖昧な返事をしてしまうと、伸はその揚げ足を取り、また楽しい攻撃を続けることになった。
「そう言う歯切れの悪い返事をするから、突っ込まれるんじゃないか」
「そうだぜ?。本当は迷ってんじゃねぇかと思うだろ?」
 秀もそれに加わり、この乗り乗りのふたりのタッグに言い籠められると、
「…うーん…」
 珍しく当麻は黙ってしまった。本来なら絶対に秀の言うことには屈しない、伸の舌先三寸な苛めなど慣れっこだったが、全く珍しいことに、今の当麻は自身の中の不安を認められたようだった。ただその様子を見て流石に遼は、
「あんまり責めちゃ可哀想だ、祝いの場だって言うのに」
 と彼を庇っていた。不思議なことだが、何故彼等は素直な気持ちで喜べないのだろう?。遼の介入で一旦流れは区切られたものの、その後征士がまたこんな話を続けた。
「だが前に話していたよな、親が自分の為に大金を払っていて申し訳ないとか。本当にそんなことを考えているのか?」
 二年前、当麻が就職に悩む理由として挙げたことは、確かそれが一番だったと征士は思い出している。すると秀も、パン!とひとつ景気良く手を叩き、
「それそれ!。マジでそんなこと気にしてんの?、って思うよな?」
 再び大いに賛成と言う態度で迫って来た。否、迫って来るように見えたのは、秀が両手に確と焼き鳥の串を握り、遼の二刀流のように差し出して見せたからだが。そして、攻撃され続けるのも居心地悪く、
「あのなぁ、俺は親に恩返ししちゃいけないって言うのかよ?」
 当麻はそう返したが、僅かに弱含んだその反論は、容赦なく伸に切り捨てられていた。
「ある意味いけないよ」
 途端、当麻以外の全員が笑い出す。
「ハハハハ…!」
 そう、ある意味当麻には許されない行為かも知れない。何故なら彼は昔から、家族とはドライな付き合いであることを主張し続けて来た。金銭的に困ることはないが、家庭の暖かさには縁のない可哀想な子だった。故に他の四人とナスティは、彼の淋しさを常に気遣って来た経緯がある。純でさえ彼の境遇に配慮していたと言うのに、今更家族を持ち出すな、と言うところだろうか。
 だからかも知れない。だからこの度の当麻の就職を素直に喜べないのかも知れない。当麻が本当に、心から望んで進みたい方向だとは、誰も皆心の何処かで納得できないのだ。親を思う気持が悪いとは言わない、だが自身の悩みを親のせいにするのは筋違いだ。そして、何故そんな考えに至ったのかは、
「フフフ、興味の向く研究や学問ばかり追って来た当麻が。そんな風に考えるようになったのは、他のみんなが立派に独立してるからかしら?」
 ナスティがそう話すと、当麻はもう反論する気力もない様子で、黙って頭を掻くばかりだった。
「・・・・・・・・」
「ああーそっか、みんなに遅れを取ってると思ってんだな?。そうだろ、そうなんだろ?」
 調子に乗って秀がそう嗾けると、それでも秀に対しては威勢良く応えた当麻。
「うるせーな」
「ハッハハハ!、別に俺らはそんなこと、何にも思っちゃいねぇのによ!」
 だが誰もが今は秀の言葉に頷き、遼もまた諭すように当麻に話した。
「そうだ、大学で研究者を続ける人間だって大事さ。ナスティだってそうだろ」
 まあ、遼に言われなくともそれが解らない当麻ではない。好きでやっている事と、義務的にやらねばならぬ事を天秤にかけ、どちらを重くするかの問題だ。彼は今人として、他人に恥じない生き方をしたい気分に支配されている、のだろうが、
「地味とか派手とか言い訳に過ぎないよね。当麻の場合、好きなことを仕事にするのが一番いい。別にそれで批難されることもないと思うよ」
 伸が纏めて「人には向き不向きがある」と続けると、
「…困る。今更そんなこと言われても」
 当麻はもうどう返事して良いか判らなくなっていた。善かれと思い選択したことが、却ってこんな風に反発されるとは思わなかった。またそれが皆正論なので、自身の行動が馬鹿馬鹿しくなってしまうではないか。
 否、ナスティの言う通り、社会の荒波の中で生きる仲間達に比べ、学び舎に居座り続ける自分が、当麻には歯痒く感じられていただけだ。通常の大人の姿とは違う己に、何らかの不安を感じていたのだろう。だが必ずしも「大人」と言う立場に、定型の法則がある訳ではない。大富豪の家に生まれ仕事もせず、道楽に生きる人間も世界には存在するだろうに。
 そんな、様々な大人像を理解して行くのも成長のひとつだ。
「まあ、一度外部に就職してみるのもいいと思うわよ。大学とは違った良さもあるし。しばらくそれで続けてみて、また考えればいいじゃない?」
 と、フォローするようにナスティが言うと、征士もその後は穏やかに話した。
「そうだな、一生同じ職場に居る必要はない」
 続けて伸が自身の状況を話すと、秀も一度勤め先を変えていることを揚々と語った。
「僕も秀も既に転職してるしさ」
「だよな!。まあ何事も経験だぜ?」
 ただ、そんな秀の自慢げな態度は癇に触ったようで、
「偉そうに言うな」
 との文句が返って来た。一貫して秀には負けたくない、力や体力以外の面では絶対に負けない、と言う当麻の態度は、今になってみれば可笑しくもあった。
「そういう経験だけで言ったら俺の方が先輩だしぃ?」
「そうそう、先駆者の言う事は真摯に聞いた方がいいよ?、君の為だ」
 また伸と秀にダブルで突っ込まれると、苦虫を噛むような顔をして、当麻は小さく舌打ちしていた。
 しかし面白いことだ。秀と伸が殊更面白がって当麻に噛み付くのも当然、十四才のあの日の出会いから、彼はずっと鎧戦士の頭脳的リーダーだった。あの頃は誰よりも大人だった。或いは誰より大人に見えたが為に、皆ある種の敬意を彼には感じていたのだが。今現在はこうして、逆に愚行を責められることにもなっている。時の経過と言う魔法は彼等の、気安い関係をより深めてくれたのではないか。
 すると遼が、
「まあまあ、この節目の時に、全員が一応社会人として立てたのはいいことじゃないか」
 場を落ち着かせるようにそんなことを言った。そして、
「節目の時?、って何の?」
 秀がそれにふいと顔を向けて尋ねた時だった。
「僕らが…」
「私達が…」
 思い掛けず伸と征士が同時に口を開き、斜め向かいに座っていたふたりはキョトンと、互いを見合わせ黙ってしまった。
 その一瞬、ふたりの間にはまた、言葉にならない感覚的な思いや愛情が、幾度も光線の行き来するように感じられていた。君が何を考えているのか解る。君がどれ程この時を大事に思っていたか解る。だからすぐにこの問いに答えられたんだろうと…。
 そうして言葉に詰まったふたりに代わり、変だな?と思いつつ当麻が答えた。
「俺達の最初の鎧が無くなって十年経つんだよ、この夏で」
 そうなのだ。あの八月の暑い日、彼等には正に節目と言っていい出来事があった。五人は高校生、ナスティもまだただの大学生だった。無論それからも関与する出来事は起こったが、何より、無邪気でいられる幼年期の終わりを感じさせる、人生の一大イベントだった。
 思い出せば今も、誰の心にもその時の思い出は、鮮明に輝きながら胸に到来する。
「おおー、そうだったか!。すっかり忘れてたぜ!」
 秀が明るい声を張り上げて言うのも、あの夏の太陽が導いた運命を、今は明るく感じているからだろう。また遼は、
「そんなに昔には思えないが、いつの間にか十年経ったんだな」
 その記憶はまだ新しく感じると、些か不思議な感覚を話した。若い内は時の経過は長く感じるものだが、出会ってからの十年を遠く感じる割に、その夏の出来事はまだ最近に思えるようだ。否、今もまだ何処かで喪失感を感じ続けているくらいだった。それだけ残る事件だったのだ。
 ナスティもまた、
「思い掛けずアフリカに行くことになった、あの夏が懐かしいわね。ろくな手掛かりもない状態で、よくあの結果に辿り着けたと思うわ。滅多にない変わった経験だから、いつまでも忘れないでしょうね」
 彼女の視点からそう言うと、それに応え遼と当麻が回想する。
「むしろあの時俺達は、初めてひとりの人間として完成した感じだった」
「そうだな、今思えばそれまではまだまだ子供だった」
 あの頃、彼等はそれでも必死で、大人並みの行動をしようと努力していた。世界の為に、世界の平穏を守る為にと、恐らく何処の政治家より真摯な気持ちで、事態に立ち向かっていたと思う。だがそんな純粋さを今は、「子供ならでは」だと客観的に見ることができる。子供だったからこそ為し得た事がある。過去のそんな事実は、正に気恥ずかしい青春の記憶として、白く輝き続けるばかりだった。
 誰もが言うように、大人は穢れた存在かも知れない。だが穢れているからこそ見える物も、理解できる事もあるだろう。アフリカの明るくも禍々しいあの記憶が、如何に大事なものを残してくれたかを今の彼等は、末永く幸福に思うことができる。
「そしておまえは今、ようやく本物の大人になったって訳?」
 一連の話の締めくくりに秀がそう言うと、
「うるせーってんだよ」
 当麻は反射的にそう返したが、心の何処かではその通りかも知れないと感じていた。自ら諦めが悪いと語った通り、自分はあの頃から見続けている夢や希望を、恐らく誰よりも捨て切れずに来た。だから長く大学に留まり、今頃になって社会に出てみたくなったのかも知れない、と思うこともできた。
 現実を、甘んじて受け入れることがまず大人の始まり。だろうか。

 そして今日は本当の大人として集まった、彼等の最初の記念の日となったようだ。成人式はもう随分前のことだが、人がいつ大人になったと自覚するかはそれぞれだ。



 夜十一時、最早お祝いだか何だか判らなくなっていたが、当麻の為に集まった会合はお開きになった。
 当麻、征士、伸は中央線でそれぞれの家に帰る。遼とナスティは、秀の実家に泊まらせてもらうことになっており、三人は渋谷から東横線に乗る。今はその岐路の途中、西新宿のビルの麓を六人で歩いていた。
 酒宴の席ではあまり出なかった、穏やかな祝福を伝えるナスティと当麻、久し振りに意気投合して騒ぐ遼と秀。それらを後方で眺める征士と伸は、敢えて多くを語らなくとも、酷く幸福な気持を共有していることを感じながら、着かず離れずの間隔で並んで歩く。
「君が変だった理由がわかったよ」
 と伸が言うと、征士もまた、
「私も、伸が忘れていないことがわかった」
 目と目が合った時の、思わぬ符号の交換に感動したように言った。語り尽くせないあの夏の出来事。話そうと思えば幾らでも言葉は出て来るけれど、
「八月は僕らも…」
 伸はそう言い掛けただけで止めた。
 僕らも、そう、僕らの秘密が生まれたのもあの八月だった。僕があの時の自分の行いに悩んでいたからだ。それを征士が受け止めてくれたから、僕らは今もこうして傍に居る…。
 話さずに、もう一度視線を合わせると、征士はこの数日の自身の態度をこう話していた。
「正確にいつが記念日なのか日付に困ってな。なかなか言い出せなかったのだ」
「そうだったのかぁ」
 聞けば伸も確かに、と思う。僕らはいつから始まったんだろう?。体を重ね想いを明らかにしたのは八月のあの日でも、その前日、前々日から既に繋がっていたようなものだと、議論せずとも認められる事実だった。すると、
「僕はね、二十日くらいになったら話そうと思ってたんだよ」
 伸もまた同じ事を話すつもりだったと打ち明ける。結局どちらが先に言い出すか、と言うだけで、お互いこの記念年を意識していたと知れば、一層の幸福に包まれるようだった。ただ、
「ただそこに来て、当麻の話題で終わってしまいそうだったのがな」
 と征士が明るい溜息を吐くと、
「あはは、丁度時期が被っちゃったね」
 伸も、だから当麻に対する反応が薄い訳だと、朗らかな笑い声を上げた。まあ実際はそんな事で、ふたりの大切な記憶が霞むことはなかっただろう。言葉より前に見詰めるだけで感じ取れる程の、強い恋の感情が今も確と心に存在するのだから。
 その時の記憶と思いが、その時抱いていた情熱と欲求が、先程から頭の中を滝のように激しく流れ巡っている。あまりに早く、多くの情報が流れて行くので、伸は何をかい摘んで話せば良いか判らなかった。ただ征士も、溢れ返る思いを適当な言葉に、置き換えることは困難だと思っていたようだ。
 彼は上着のポケットを探ると、小さな箱を取り出して伸の手の中に収めた。
「え?、何?」
 予想しなかった行動に、ぴくりと跳ねるように身を返した伸は、手の中の包みを見てまずひとつのことに気付く。包装紙にはポルトガル語が印刷されていて、それはブラジルで買ったもののようだ、と言うこと。
 そして、今ここで開けてほしそうな、征士のそわそわした様子を面白く見つつ、伸は歩きながら器用にその包みを開いて行く。現れた小さな白い箱を開け、中から現れたのは、街の明かりを反射して輝く金の指輪だった。
「渡す切っ掛けができて良かった」
 征士は何気なくそう言ったが、内心少しばかり照れ臭かったのだろう。先程まで合わせていた視線を外し、新宿駅の明かりの賑わう方を見ている。
 だがその気持ちも判る。指輪を贈るなど男女のカップルのすることだ。それも婚約か結婚か、改まって将来を約束する場面でのことだ。否、この場合昔のコマーシャルにあった、結婚十周年を祝う指輪のプレゼントと言うところだろうか。それをどんな思いで贈ろうとしたのか、彼の気持ちが判る。
 何故なら伸もまた、君の為に何をしてあげよう、ふたりで何をしようとずっと考えていたからだ。
 十年の記念の年、大人の僕らの八月。
 伸はその沸き上がる喜びを噛み締めながら、殊に丁寧な動作で左手の薬指に指輪を嵌めた。そしてそれを顔の前に掲げ、しみじみ眺めると、
「えへへ」
 と、やはり少し照れたように笑った。気分はまるで大切に守られるお姫様のよう。十年目にこんな場面に出会うとは思わなかった。この征士が、世俗的なイベントには乗ろうとしない征士が、自らこんな贈り物を考えるとは、今を以っても伸は信じられない。
 僕は君に、こんな選択をさせるだけの存在か?。
 これは真面目に受け取ってもいい君の本心か?。
 そうだったら、嬉しい。
 あまりにも非現実的でフワフワしている、幻のような新宿の夜の町が、伸には格別の都の美しさに感じられた。そして隣を歩く征士もまた、キラキラ煌めく街明かりの中で、普段よりもっと素敵に輝いて見えた。だからその幻を確と掴まえておこうと、伸は彼の腕を取り、半ば凭れ掛かるように擦り寄った。
 こんなに嬉しい時が未来に待っていたなんて、あの頃は知りようもなかった…。
 けれど、
「おいおい!、外ではやめろ、外では」
 丁度振り返った秀にそう嗜められる。もう駅は目と鼻の先、ロータリーの横断歩道の向こうには人混みが迫っている。でも今日はどうしても離れたくなかった。適当に笑って返す伸の表情は、隠し切れない喜色に綻んでいるのが判る。何があったのか、今日のメインの話題とは関係ない所で、伸と征士には何らかの吉事があったんだな、と秀は俄に理解すると、
「まあ、俺には関係ねぇけどよ」
 と笑い返していた。



 誰にも平等に流れて来たこの十年の時。ここに辿り着くまでに、辿って来た物語は各々違ったものだが、大人には大人にしか感じ得ない感動があることを、今日の記念に心に仕舞っておこう。









コメント)予定より甘い征伸になって書いた私も満足です(^ ^)。結婚式でもあげたような征伸が書きたいと思って、そう出来上がってくれて良かった。
結局当麻の就職はどうでもいいギャグだった、と言う話になってますが、個人的に当麻の仕事についていじるの好きです、私。何か気に入っちゃってます。
ところで「八月」のタイトルで書き進めた所で、あれ?、輝煌帝伝説って八月でいいんだっけ!?、と不安になり、小説版を引っぱり出して来たら、冒頭のナスティの手紙が八月の日付だったので助かった。もし七月だったら大幅に書き直さなきゃならないところだったわ。



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