夜の部屋
原 罪
The Original Sin



 部屋がもっと完全な暗闇ならば、カーテン越しに見える、町の光を星空の様に楽しむこともできた。ささやかな都会の贈り物。それをあえて見て見ぬ振りができるのは、それより大事なものが傍に在るから、に過ぎない。
 もうすぐ午前零時になろうと言う頃、伸の部屋はボリュームを落とした白熱灯の、淡いオレンジの薄闇に包まれていた。
 まだ暑いと言う程の季節ではないが、皮膚の下に、体の内側に、徐々に上昇していく温度を感じていた。肩口に触れている指先、耳の周囲を探る唇、幽かに髪を撫でる呼吸の律動、それらはもう脳裏に刻み込まれてしまう程、幾度も顔の上、躯の上を通り過ぎて行ったけれど、不思議と今も一抹の不安を感じさせるものだった。否、不安と言うより恐怖に近いと伸は感じている。
 何が恐いのだろう?。背筋を這い昇る熱と震えに、炙り出される自らの欲求を見れば、全て何もかもが露見してしまう恥じらいも感じる。けれど、それも征士に対しては今更かも知れない。
 僕は恐い。いつも何処かで恐いと感じている。こうして君と触れ合うことが、煽動されるままに溺れていることが。それでも結局、僕は自分の意思で流されているのだけれど。
 開かれた寝巻の襟に、首を伝った一筋の汗が染み込んで行った。閉じた瞼の上に景色が感じられた。海へと引き込まれる夕陽の、溶ろけ出す鉄のような滑らかな炎が、水面を余す所無く被い尽くして行く様。蜃気楼が拱いている、辺り一面が朱に染まって行く。熱い、今は既に身悶えさせる熱さを感じている…。
 伸の意識から、そろそろ表側の理性が退き始める頃だった。
「…!」
 極控え目なある音に反応して、伸は地震でも起きたかのように跳ね起きる。夜とは言え騒々しい都心の住宅街、耳を澄ませていなければ、鼓膜に届かない程の微弱な音にも関わらず。そして、酷く緊張したような面持ちで、伸は薄暗い部屋に目を見張っていた。
「何だ?」
「いや…、隣の音だったみたいだ」
 肩に添えていた手を振り解かれた格好の、征士が伸に尋ねると、途端、我に返ったように彼は答える。同時に彼の口からは溜息も零れる。まるで肉食獣の動きを警戒する、野生の小動物の如き様子だった。
 すると、特に面白い動作を見た訳でもないが、征士は押さえるように口端だけで笑った。顔を向けなければ気付かなかっただろうが、伸は目敏くそれを見つけると、
「笑い事じゃないだろっ」
 と、些かコミカルに憤慨して見せる。何故なら伸が飛び起きた理由は、征士にも判る共通の出来事から尾を引いていた。
「思い出し笑いだ」
 征士は笑った訳を簡単に話すと、伸の気持を汲んでこう続けた。
「厄介な癖ができたな、すっかりドアの音に臆病になったものだ」
 そう、伸が異常な反応を示したのは、室内のドアを開け閉めする音だった。また、今は笑える程度になったものの、征士も未だ警戒感を持ち続けている。一体何故そんな事になったのか。
 その原因となった、多少不運な記憶を伸はこう続ける。
「そうだね…。ゴールデンウィークは最低最悪だった。僕の人生最大の汚点と言ってもいい」
 話しながら、最早取り返しのつかない過去だと諦めたのか、伸は投げ出すように、起こしていた半身をベッドに戻していた。しかし同じ出来事についての、征士の見解は伸とはかなり違うようだった。
「そこまでの事か」
「そこまでの事だよ。大体君がそう言う、楽観的な態度だからいけないんだ」
 返された文句に対して、征士は「それの何が悪い?」と言たげな顔をして、
「止めろとも言わなかっただろう」
 と釘を刺す。否、どちらかに明らかな非がある事なら、こうしていつまでも気に掛かりはしない。伸もそれを判っていて、思い当る条件を言葉にしているだけなのだ。今現在の、何とも決まりの悪い状態に対して、何か明確な答はないものかと考えている。
 隠密でなければいけない事が、明るみに出てしまった失敗の念について。
「だから、僕も悪かったと思うけど、」
 多少しおらしい様子で伸がそう続けると、
「いや、いい。私が悪かった」
 征士は習慣とも言える調子で謝っていた。取り敢えず自分が謝っておけば、事態が収まる時が多いと知っているからだ。ただ、
「…あんまり誠意が感じられないけど?」
「そんなことはない。私はいつでも大真面目だ」
 謝りながら彼の手が、頻りに髪や耳朶を弄んでいるので、今ひとつ気持の収まらない伸だった。そう言えばあの時もこんな状況だった、と、まだ近い過去を虚ろに思い出していた。



「あー、疲れた疲れた…」
 その夜、伸は来客のひとりであるにも関わらず、部屋に着くなりベットに倒れ込んでいた。
「ご苦労だな」
 征士は一言そう声を掛けたが、余計な追及をするのは止めようと思っていた。ある意味仕方がないと納得していた。
「みんなで集まるのはいいけど、ここに来ると普段の倍くらい仕事が増える…」
 伸も、言いたい事は色々あるのだろうが、結局大した愚痴は言わないのだ。何がこの場の益になるかを考えたら、大人しく己の役割を果たす以外に無かった。
 柳生邸に訪れたのは正月以来だった。今年、伸の誕生日は他の四人の進学祝いも兼ねていた為、引越し等に忙しい面々に配慮して、渋谷に在る伸のアルバイト先の店に集まった。東京周辺に自ずと集まって来た元戦士達には、柳生邸よりその方が近かったのだ。
 無論、彼等の活動拠点であった柳生邸を忘れた訳ではない。なのでこの、五月の連休にはいつものように、いつもの面子が顔を揃えて、賑やかな休日の憩いを作り出していた。
 ただ伸の言う通り、ここでの習慣は些か伸に厳しい現実もあった。彼等が最初にここにやって来た、共同生活の正にスタートの時から、戦士の内であって半分は世話役の立場が、伸のポジションとなってしまったからだ。元々の性分とは言え、損な役回りだと感じることもしばしばだった。好きでしている作業も中にはあるが、仲間達と話したり、騒いだりする以上に好きな労働など、基本的にある筈もない。
 だが今更辞退するとも言えない。そもそも、ナスティひとりで五人乃至六人の面倒を見るなど、非現実的な話なのだ。小さな子供ではないから、最低限の自分の世話は皆できるとしても、ナスティはこの家の専業主婦ではない。彼女が自身の仕事や研究をする片手間に、できる範疇の事でなければならないだろう。一日三度の食事を作るだけでも、実際大変な労力を要する。
 だから伸は、自ら彼女の手伝いを買って出たし、頼まれ事に嫌な顔はしなかった。
「嫌と言わないだろう?、だから皆宛てにしている」
 そして征士が言うのは、今日ここに集まって来た誰もが、ある程度移動疲れをしている中、伸だけが用事を頼まれ動いていた事実である。無論ナスティに悪気など無いが、家の中の雑事なら、慣れている伸に頼むのが最も効率が良いので、結局いつもそうなってしまう。その理由を征士は簡潔に説明していた。
 勿論結果的に、この滞在が皆の良い思い出となるなら、伸に満足感だけは残されるだろう。
「う〜ん…、まあいいけどね…」
 後の己の心境を想像して、やっぱり仕方ない、との考えに落ち着いた伸は、部屋の天井をぼんやり見上げながら、密かに自嘲していた。
 するとその視界の中に、既に寝巻に着替えた征士が割り込んで来る。伸の様子を見て、口では疲労を訴えていても、そこまで辛そうでもないと知ると、彼は、
「どれ、私が労って差し上げよう」
 と言って、些か悪戯めいた動作でベッドの端に腰掛けた。そして襟のはだけた伸のシャツから、覗く首を掬うように手を入れると、
「クスクス…、何だよ」
 伸はくすぐったがって身を捩った。特に首や肩が凝っている訳でもない、征士はと言えば、ただ反応を見て遊んでいるだけだ。まあそれでも、笑い声が出れば気分的に楽になることもあるだろう。だから特に意図の無い戯れも、人には必要な時がある。
 触れている誰かが居ることが大事な時もある。
「お休み」
 と、暫しの後征士は言って、いつもそうするように唇を合わせた。
「・・・・・・・・」
 いつも、余所の家に来てまで、普段と全く同じ事をしようとは思わないふたりだが、その時伸は、敢えて言葉にしない征士の気持を知って、意識が揺らいでいるのを感じていた。
 ナスティが伸を選んでいる以上、他の者はそれを速やかに代行できないと言う判断だ。柳生邸での伸の行動を、注目して見れば見る程、他の者がどれだけ雑用から逃れているかを知る。征士はある頃からそれを心苦しく感じながら、代わりにはなれない事情も理解していた。それぞれの個性が明確に違う集団だからこそ、こんな状態にもなってしまう。
 だから、ここに居る時の征士は普段より優しい。
 伸はもう少しだけ、その優しさに触れていたかった。自ら慰めを求める程、心身が疲れ切っていた訳ではないが、普段はあまり見られない征士に会えて、面白かったこともある。征士の寝巻を引き寄せるようにして伸は、止め置く程度に触れていた唇を、離れないよう自ら押し付けていた。そうなれば、征士はもう少し先の展開を考えるしかなかった。
 一度止めていた手を、伸の耳の後ろから顎をなぞるように、幾度も戯れ掛ける。それまでの遊びとは違う、慈しむ術を伸は具に感じ取り、またそれは次第に、形容し難い幸福感へと変わって行った。一秒を追う毎に、ふたりの意識はある方向へと流れて行くようだった。こんな時にこんな感覚に溺れてはいけない、と思う頭も確とあるのだけれど。
 部屋は密度の濃い静寂に満ちていた。
 この場所で、こんな時間を過ごすこともあるんだなぁと、巡り合わせの妙を愉しんでもいられた。
 ところがその時、
「ねぇ、ちょっといい?、さっき…」
 突然部屋のドアが開いた。
「!!」
「!?」
 ろくに警戒していなかった分、起き上がるのさえ遅れたふたりを、ナスティは固まった表情で見詰めていた。
「…どうかしたか?」
 黙って見合っているのも変なので、征士はそう言葉を発したが、
「な、何でもないわ」
 ナスティはそれだけ言うと、すぐに踵を返して退散してしまった。ドアをノックするのを忘れる程、何か急な用事がありそうだったが、結局何も伝えずに。
「・・・・・・・・」
 伸は、彼女が出て行ったドアをじっと見詰めたまま、先程までとは正反対の心境を噛み締めていた。何も言葉が出ない、正に天国から地獄だった。あらゆる信用を一気に失った気がする、相手の良識を裏切ってしまった気がする。ここに居る間は最も、失礼があってはいけない人なだけに…。
「何でもないって様子ではないな」
 征士はただナスティの様子を口にしただけだが、
「…最悪だ」
 伸には最早、己の情けなさしか見えていなかった。長い年月の上で築かれた信用も、一瞬で崩れ去ることがある。ふと気を弛めてしまった己が崩したのだ。と。

 その翌朝、
「お前らなぁ〜…」
 朝の素振りの為に裏庭へ出て来た、征士の顔を見付けて秀が、如何にも何かを言いたげに近寄って来た。無論普段の秀なら、人の日課をわざわざ邪魔するような、意地の悪い行動はしないのだが。
「待て。何があったかは想像できる、言わなくて良い」
 なので征士は、秀の話す内容を先に察することができた。今朝は自分より早く起きていたらしい秀。同じく早起きだったナスティから、幾らかの事を耳にした後なのだろう、と難無く想像することもできた。そして秀は、
「ったくもー!、何だってこんな時に、不注意過ぎんだよ」
 と、怒るのではなく、困ったなぁと言う様子で話を切り出すのだった。
 こんな時には不思議と、秀の性根の優しさが垣間見えるようだ。もし、ただ単に悪いと判断される出来事なら、彼は猛然と怒っただろうが、言葉は粗野ながら、人を想う気持が悪い訳ではないと、その裏でふたりを気遣っているのが判る。全く彼等は良い仲間を持ったものだった。
 秀の温情ある言葉に対して、征士は冷静に考えられた事を話し出す。
「恐らく、原因は伸が草臥れていたからだろう。注意力が散漫だったのは確かだ」
 すると意外なことに、
「あーあー。昨日何かの準備するって、ふたりで物置き漁ったりしてたからなぁ…」
 秀は征士の言い分に、かなり思い当たる節があると続けていた。昨日の伸の忙しない様子を気にしていたのは、どうやら征士だけではなかったようだ。そしてそう来るなら、
「ナスティにも多少責任がある」
 と征士は付け足すまでだった。自業自得とまでは思わないが、ナスティが偶然ドアをノックし忘れたのも事実。つまり不運にも、双方のミスが重なった為の事故と言えるようだった。
「おいおい、それを言っちゃ…」
「無論私達にも。知っていて手伝わなかったのだからな」
「う、う〜ん…、そうだな…」
 単純に誰かが悪いと言う話なら、この場で大筋の結論も出せただろう。しかし考えれば考える程、各人の複合的な条件が絡み合っているのに気付く。征士も秀も、改めてどう収めて良いか悩んでしまった。勿論ナスティが気にならないなら、問題にもなり得ないが、とてもそうとは思えない昨日の様子だった。
 そして征士は珍しく秀に、
「ナスティがどう感じたかは判らんが、それより私は、ナスティにどう納得してもらうかだと思う。私は昨日の晩から考えて続けているが、何か名案はないだろうか?」
 と、真面目に打ち明けるような話を聞かせていた。当然それは秀にしても珍しい状況だったので、彼は慌ててこう返す。
「むっ、むつかしー事言うんじゃねぇよ!、俺に判りゃ苦労しねぇって…」
 征士の気持を考えれば申し訳ないが、思考するのはとにかく苦手だった。しかし秀は、その為に他の仲間が居ることを知っている。
「…当麻が起きて来たら、それとなく相談してみっか」
 と続けて、朝の話し合いはこれにて解散する運びとなった。さて、期待されるその相談相手は、穏便に事を収められる名案を思い付くだろうか…。

 ところが、その後秀が話を持ちかけると、当麻は酷く素っ気無い様子で、
「別に、何も無かったようにしてればいいさ」
 と答えるばかりだった。秀には「友達甲斐の無い野郎だ」と、面と向かって文句を言われながら。

 結局事態の打開も何もできずに、その日は夜を迎えていた。
 今日一日、柳生邸全体の雰囲気は多少ギクシャクしていたが、それでもひとりを除けば、いつも通りと言って差し支えない一日だった。ひとり、思い詰めたような顔で過ごしていた伸を除けば。
「…何故黙っている」
 昨日よりかなり早い時間に寝室へと戻り、ベッドに足を抱えて座っていた伸は、まるで置き物のように静かだった。征士がそこに戻って話し掛けるまで、ずっと黙りこくっていたようだ。けれど特に探りを入れる風でもなく、普段の調子で征士が尋ねると、
「別に…、話したくないだけだ。君に限ったことじゃない」
 取り敢えず伸は、彼にだけはそんな心境を漏らした。
 無論、何より人の心象を気遣う筈の伸が、自らの感情を優先しているとすれば、只ならぬ事態である。それ程酷いショックを受けている、とそのまま解釈して構わない状況だった。しかし征士は、その伸らしからぬ様子について、
「急に態度を変えると増々妙に思われるだろう」
 と諭した。今は失敗に落ち込んでいるだけだが、その後でまた、今度は今の態度を省みることになるだろう。伸が落ち込んで行くパターンは、大体そんな連鎖を辿ると征士は知っていた。故に伸が後々まで苦しまないように、と征士は配慮しているのだが、
「事実は変わんないよ、どのみち」
 いつに無く頑なな態度を見せる伸だった。
「だとしても、塞ぎ込む理由は解らん」
「解らないかい…」
 何を失意に思うか、何を恥と思うかは人に拠って違いがある。だがもし他の誰かが同じ立場だったとして、他人への失礼は感じても、そこまで己を責めるだろうか?。征士は今日になってそれを不思議に思っている。失敗の原因は伸だけにあるのではない、少し考えれば判りそうなものだった。つまり彼は、起こった事以上の何かに悩んでいるのではないか、と征士は考えついた。
 何か、今立っている現実の舞台以外の、他の何かを思っているように見えるのだ。それに対して己を弁護できないから、代償行為のように塞いで居るのではないか、とも考えられた。それが正しい推察かどうかは、ともかくこの場を過ぎてみなければ判らないが。
 すると、自らは何も言いそうになかった伸が、突然こんな事を話し始めた。
「やっぱり、少し離れてた方がいいのかもね。馴れ合い過ぎたかも知れない。普通じゃない事が、僕らには普通になってるからいけない」
 伸の意識が自虐傾向を持つ時は、彼が最も投げ遺りになっている時だとも言えた。取るに足らないような切っ掛けで始まった事の割に、伸は深刻に良からぬ心理状態を現している。何でも己の所為だとしてしまえば、周囲は丸く収まると安易に考えがちなのだ。いつか、己の行動の是非に苦しみ、仲間達から離れようとしていた時も、伸はそんな風だったと思い出す。
「必ず何かが悪いと言う話になるのだな」
 征士はそう返して、切り出された話題を転換させようとしていた。勿論征士には、歓迎できる話ではなかったこともある。
「だって、僕らが良ければいいって時じゃないだろ。明らかにナスティの気分を害したよ。僕の個人的な事情で、人の迷惑になるのは嫌なんだ」
 続けて伸の尤もらしい弁明を聞き終えると、征士は、
「塞ぎ込んでいる方が余程迷惑だ」
 と、伸には痛い言葉を返して、彼を黙らせてしまった。
「・・・・・・・・」
 向き合って黙っているふたりは今、遠いな、と感じていた。
 憎しみは無いけれど、否、もしかしたらそんな感情もあるかも知れないと。遠い存在だからこそ惹かれもするし、反目することもある。どうしても理解できない部分は残る。どう足掻いても相手のようにはなれない。今はそれぞれの意識の中の鬩ぎ合いが、場を支配しているような気がした。
 何故解らない?。何故解ってくれない?。と、無言の内にも言葉は飛び交っていた。そしてそれは、次第に苛立ちへと変わって行くのだ。
「…そんな態度で居られれば周りが気を遣う。その状態で、人の気持を気にする意味があるのか?」
 征士が前の一言に続けて話すと、
「気にするさ!、どんな状態だろうと」
 伸は会話の中で初めて声を荒げた。征士の言うように、理屈に合わない事をしている意識が無い訳でもない。だが、今のままでは自分の気持が済まない、と訴えていた。
「他人を優先すれば解決するのか?」
「非が在ると思ったら直すべきだろ?、僕かも知れないし君かもしれないし」
 しかし話は結局平行線を辿っている。どうしても、ふたりの間には相容れない思考があると、こんな時ほど明確になる現実だった。
「そうではない、伸は問題を取り違えている。事実を隠すのが人への礼儀と言うなら、それは間違いだ」
 冷静に話せていた筈の征士もまた、僅かに声のトーンを上げていた。
「間違いじゃない、君とはやり方が違うだけだ!。僕は君じゃないし、君のように図々しく生きられないからな!」
 そして遂に、ただの口喧嘩のようになってしまった。
「誰だろうと、非の打ち所の無い人間など居るものか!。理想論では何も解決しない!」
「そんな事言ってるんじゃない、君は非常識だって言ってるんだ!」
 まあ、今更征士にそれを言っても仕方がないけれど。
 又、言いたい事を言ってしまった後には、後悔の念ばかりが残ることも、経験的に知っていたけれど。
 伸は言わずには居られなかった。冒した罪がそれに留まらず、周囲のあらゆる物を悲しませると知ったら、征士の解釈はどうしても受け入れられなかった。少なくとも事の原因は、自分らにあることは間違いないのだから。
「好きなようにすれば良い」
 最早どう言っても、伸自身が考えを変えない限り進展は無い。時間を置いて話した方が良いだろうと、征士はここで話すのを止めた。それを受けるように、伸は見上げていた視線をふっと外して、自分の足許にそれを移す。
「・・・・・・・・」
 また元の、物言わぬ置き物の様になって、伸はひとり心の深淵へと沈んで行った。話したくなかったのは、こんな結果になってしまうことが、ある程度予見できたからかも知れない。と伸は思った。
 己の中の迷いや苛立ちを、人に押し付けたくはないものだ。もうこれ以上に傷付きたくはない…。

 そして、翌日ふたりは全く話さなくなった。

 昨日まではまだ、大目に見ていつも通りと言えたが、流石にその日は朝から様子が違っていた。伸は輪を掛けて取っ付き難くなり、何処か余裕が無さそうにピリピリしていた。征士は一見普段通りのようだが、考え事をしているのか、声を掛けても上の空になっていた。柳生邸の床面積は広いと言えど、おかしくなった人間がふたりになると、誰もが居心地の悪さを感じずにいられなくなった。
 秀はどうにか場を明るくしようと努めていたが、おかしくない人間の中にも非協力的な者が居て、終始関心の無さそうな態度をしていた。当麻の理由も判らないが、心配そうに当事者のふたりを見ているナスティの、今の心情も秀には理解し難いものだった。昨日は確か、表向きには全く気にしないと言う感じで、終日明るい笑顔のままだった。伸に対しては、ただ当たり障りなくしていた筈だったが…。
 今日に至っては、未だ事情を知らない遼だけが、秀の楽しい休日のパートナーだった。折角こうして集まる機会を作っておいて、淋しい話だと事態の成り行きを嘆いていた。全く不運な連休になってしまった、と。
 ところが。
 落胆する秀の知らない所で、事態は変化しつつあったようだ。否、秀だけでなく、今ここに居る六人の内ふたりしか知らないことだった。
 その日の午後、裏庭の木陰に伸がひとりで居るのを見て、ナスティは裏口から静かに近付いて行った。遠目では何をしているのか、小さな菜園の向こうに隠れてしまって見えなかったが、近付くに連れ判ったのは、彼は特に何もしていないと言うことだった。疎らに生える樹木の横に寄り添って、ただじっとしているのだ。
 更に、なるべく音を立てないように近付いて、そろそろ声を掛けてみようかと思った時、ナスティは思わぬ様子を目にして足を止めてしまった。
「どうして、あなたが泣くようなことに…」
 立ち止まったナスティに気付いて、伸はすぐに形を改めてしまったけれど。
「…一体、どうしちゃったの」
 再び歩き出したナスティは、伸についてだけでなく、様子のおかしい状況全てに対して、心配していることを彼に伝えた。その声色は確かに、狼狽するでも叱咤するでもなく、広く状況を受け入れようとする優しさが感じられた。伸にはそれが少しばかり辛く、又懐かしくも感じた。
 瞬時に思い出された、右も左も判らぬままに集められた日のこと。まだ戦うことの意味も、個々に求められる事は何かも知らなかった頃、バラバラにやりたい事をやろうとする集団を、嗜めながらいつも見守ってくれていた。始めの頃は特に、他の仲間達よりも信用の置ける人物だった。何故ならナスティひとりが、背景にある悪意の流れを知っていたからだ。
 知識の裏付けがあったからこそ、ナスティは僕等に親身になって協力してくれた。辛い事が続く時にはいつも、場を和ませようと気を遣ってくれた。彼女には何の見返りがあるとも言えないのに。それだから、僕等は裏切ってはいけなかった。暗黙の了解として、最低限それだけは守らなければいけない事だった。
 なのに、との思いが今は伸を支配している。
「僕が悪い」
 伸はぽつりと一言だけ返した。
 すると思い悩む様子の彼に対して、途端にナスティは明朗な様子で、「やれやれ」と言う顔をして見せる。故意の演技なのか、本心からなのかはまだ伸には判断できなかった。
 そして彼女は続ける。
「私が原因でこんな事になるとは思わなかったわ」
 伸に取っては正に正反対だと言える言葉だった。そんな事を、そんな明るい調子で言わないでくれ、と伸は尚更心苦しく感じてしまう。謝ろうと思う相手に先に謝られると、誰でもそんな気分になるように。ただ、ナスティはそんなつもりで話をしに来た訳ではなかった。
 元々大人しい伸の声が、よりボリュームを落として聞こえて来る。
「あ…、ナスティの所為じゃないし、」
「う〜ん…、あのねぇ…」
 ナスティは、何とか話そうとしている伸の言葉を遮って、けれど多少話し難そうな様子で続けるのだった。
「大まかなことはね、前から知っていたのよ」
「…!」
 話し難い訳だ、と相手の心情を察するより先に、伸には激しい動揺が起こっていた。もしかしたら、万に一つは気付かれているかも知れないと、予想できなかった訳ではない。けれどこうして口に出して言われる機会があるとは、誰も思わなかった筈だ。伸が動揺するのは当たり前だった。
 しかし端からは、そこまでの変化は見て取れなかった。なので気にせずナスティは話を続ける。実は、最も話し難かった内容はその先にあった。
「だからびっくりはしたけど、特に気にしていなかったのよ。そうしたら、昨日当麻が、『奴らの部屋に盗聴器を仕掛けて来たから、どんな感じか聞いてみるか?』って言うの。何でそんな事?、って当麻の行動は疑問だったけど、彼には考えがあるんだと思って、昨日は少し様子を見ていたわ…」
 思いも拠らない事実だった。そんな話を聞かされれば、途端に不安ばかりだった伸の心にも、事態に対する強い疑問の意思が沸き上がって来る。
『何それっ…!?、何でそんなっ…!?』
 そして多少混乱しながらも、昨日の柳生邸の様子を思い返して行った。
 自分に気を遣っているな、と思えたのは征士と秀のふたり。他のふたりは何も知らないように見えた。だが考えてみれば、難しい問題が起こる度に話が持ち込まれるのは、まず当麻と相場が決まっている。本人が異変に全く気付かないとも思えないし、誰も事情を話さないとも思えない。つまり彼は、自分がした事を他に覚られないように、わざと素っ気無くしてたのではないか。なるべく自然な状態を保てるように。
 今になって、事の成り行きに気付いた伸だった。そう、そもそも当麻なら、他人の痴情沙汰に関わるなど真っ平御免、と言うところだろう。けれど全体が困っている様子を見て、何かしら相互理解の為になりそうな事で、面倒が無い方法をと考えたに違いない。僕が事件を起こした意識を持っていれば、必ず征士に当たるか泣き言を言うだろうと、当麻は予想していたのだろう。実際そうなっていた。
 まるで手の上で踊らされていたようだ。こんなにも読まれていたなんて、悔しいし、頭にも来るけれど、あまりにも彼らしいと感心も覚える程だった。
「それで、聞いたの…」
 あまりの驚きに、それまでの鬱屈した気分はすっかり吹き飛んでいた。伸はただ事実を確認したい気持のみで尋ねる。彼の心境の変化に、ナスティが気付いたかどうかは判らないが、彼女は至って変わらぬ様子で話をしてくれた。
「…正直驚いたわ。遼や秀ならともかく、あなた達があんな風に喧嘩することがあるんだって、初めて知った」
 単純な喧嘩でない分辛辣だった。彼等には大切である筈の、個性そのものを否定する言葉が飛び交っていた。と、伸は昨夜の自分を思い出している。
「そりゃ、ね。色々あるよ」
 無論それは、誰よりも近い相手だから言えることだと、伸は理解していた。例え汚い言葉で罵ろうとも、彼は許してくれると知っているからだ。
 けれどそこまで考えて、伸は再びナスティに申し訳なく思うのだ。何故なら、こんな最悪な状況に至ろうと、自分は幸せな人間だと判ってしまって。
 しかし、ナスティはこんな風に続けていた。
「でも、だから平和が保たれてる時って貴重ね。そんな事を考えたわ。本当にほんのちょっとした事で、うまく行かなくなることがあるんだわ、って」
 彼女には、気の優しい伸が何故あんな事を言ったのか、一見揺るぎなく見えるものが、案外危うい綱渡りで成り立っていると、率直に感じられたようだった。あくまで良識的に考えてくれているナスティに、更に申し訳なく伸は感じるばかりだ。
 彼にしても未来が見える訳ではない。今は信じられる事が、将来も永遠に信じられるとは限らない。環境は常に変わって行く、己も皆も変わって行くだろう。未来に何も不安が無いとは言えない、己の気持はよく見えていた。それはナスティが口にした不安と、何ら変わらないものだ。だからこそ今、戦いを強いられることも無く、最も幸福でなければいけない時間帯に、一石を投じてしまった事を伸は悔やんでいる。本来ならただ楽しく、賑やかに過ごす筈の休日に…。
 但し、伸の思う事が総意と言う訳でもない。
 現状をそこまで深く考えているのは、始めから伸のみだった。ナスティなら始めから今日まで、賑やかな休日の中に過ごしている。個人の目から事実を正しく捉える事は、案外難しいと言う例だった。そして、
「フフフ。私としてはちょっと癪だけど、差別的に思ってる訳じゃないわ。まあ、あんまり悩まないで、みんながギクシャクしてる方が、私には辛いわよ」
 あっけらかんと言われてしまうと、己より他人を優先する伸の意識では、何も反論できなくなってしまった。ナスティの幸福を思うなら、彼女の考える幸福に合わせるのが筋だ。どれ程己に罪の意識があったとしても、それは別の話だと、漸く伸もひとつの理屈を得るに至る。
「うん…」
 しばしば、何故人は均等に幸せでないかを考えるが、それは見方の問題なのだと。伸には可哀想に映る事情も、人に拠っては幸福かも知れない。自身の満足感を後ろめたく思う程度で、全てが丸く収まるなら、それで良いのではないかとも考えられた。
 確かにひとりで塞ぎ込んでいた事が、最大の迷惑だったかも知れないと…。
「おーい、秀が、用意できたってよ!」
 静かに話し合っていたふたりに向けて、遼が裏口のドアから呼び掛けていた。ナスティの様子を気遣って、今日のティータイムには自分が御馳走すると、秀は一時間程前からキッチンで格闘していた。遼がそれを手伝っていたらしいが、果たして手伝いになったかどうかは定かでない。ただ、
 全く彼等は、ナスティは良い仲間を持ったものだった。
「今行くわよ!」
 と、明るい声をして答えた、彼女はもう不安を捨て去った様子で歩き出していた。一度振り返って、伸が着いて来るように手招きをすると、本当に何も無かったように、すっきりとした様子で行ってしまった。恐らくナスティの本音は、隠し事をしているのが嫌だったのだろう。事が事だけに。
『ありがとう、ナスティ』
 そんな風に彼女が寛容だったから、僕らはいつも安心して居られたことを忘れない。
 これからも、己の恥や情けなさは隅に置いて、柳生邸に居る時はそれを一番に考えなければ。と、伸は二日振りに笑うことができた。外ではどんなに罪深くとも、ここでは善良な自分で居なければいけない…。



「ナスティが寛容だったから、それで済んじゃったけどさ」
 事は収まったけれど、自らの悩みを解決できない今について伸は話す。
「無分別は身を滅ぼすって、何かの映画になかったっけ?。僕はそんな心境だった。物凄く悪い事をしたんだって、今になって気付いた感じだった。何か、自然界の流れを裏切ってるみたいで…」
 つまり、伸の中に生まれた罪の意識は、常識的に考えられる男女間の恋愛や結婚等から、離れた立場に居ることに因るのだろう。流れのまま成るように成った結果でも、全世界に対して、背徳と捉えられる現状だからだろう。それだけ現在に満足で、幸福に感じる自分が認められるからだ。何かを怖れながらも、ここから離れようとは露にも思わない。
 無論彼等が極当たり前の、普通に生活する人間ではないことも背景にあるけれど。
 すると、
「そう言う意味では、私は全く悪くないな」
 悩める伸に対して、征士はまるで反対の意識を伝えた。
「…さっき『自分が悪い』って言ったばっかり…」
「私は無分別ではない、伸のように思える人は他に居ないのだ」
「・・・・・・・・」
 部屋の照明が暗いので、微妙な表情の変化までは判らなかった伸だが、恐らく征士は先に言った通り、大真面目な顔をしているだろうと思った。そして、
「まあ、だからナスティも気付いたのだろう。始めから寛容だった訳ではない」
 と征士は更に続けた。
「…そこまで自信を持って言えるならね、みんな嫌でも納得するかもね」
「そうだとも」
 多少呆れた調子に変わった伸にも、征士は変わらずに答えていた。
 ひとりひとり様々な性質、様々な条件を持つ集団の中に在って、何事も主張した者勝ちだと、彼は本気で思っているのだろうか?。納得させられる方が悪いとでも?、と伸は考えている。全く図々しい奴だと、これまでも様々な場面で感じて来たけれど。
「私が悪いと言ったのは、つまりそう言う話だ」
 しかし征士はそう付け加えて、伸には成程と思わせるのだった。
「ああ…」
 存在しているだけで力を発揮する人間も、確かに世の中には居るからだ。
 まして自ら輝くことを命題に与えられた、征士なら仕方がない事情かも知れない。
 彼を見ていると、否応無しに納得させられる物事が多い。それを図々しいとは言ったけれど、本来人間はそうして、周囲の者を推し量って生きているから、自ら意思を発する事が悪いかどうかは判らない。自己主張をしない方が悪い、と言う場面も確かに存在する。殊に僕のような人間は、それを肝に命じなければいけない程だった…。
 だから僕は、彼の傍に居るんじゃなかったか。
「連休中にあった事は、『最低最悪』でもなかった。私は普通に悪かっただけだ」
「ハハ…」
 また征士にしても、己に非が無いとは思っていないことを知ると、伸は漸く深く考えるのを止める気になっていた。何故だかとても安心していた。
「普通、か…」
 人は生まれた時から罪があると言うから、ある程度悪くて普通なのかも知れないが、無論、悪を恐れる心を失くしても生きられない、複雑な構造で成り立つ生物だ。
 君に触れる度、恐いと思う感情からは逃れられないのだろう。
 だが永遠にそれで良いのだと、今伸は思っていた。

 視界を照らしていたぼんやりとした明かりが、今近付く誰かの影に遮られた。
 今夜もまた、僕らは互いの罪を見て至福を知るのだから、不思議なものだ。









コメント)もっとコミカルな話になるかと思ったら、意外と深刻な話になったなーと。一度このテーマは書かなきゃならん、と思っていたけど、ナスティを対象にするとちょっと可哀想でしたね(^ ^;。私は征ナスじゃないけど、ナスティの心情をメインカプに対して、あんまり都合良く書いたら駄目だと感じて、「畜生コイツラ」と言う感じも、少しばかり醸し出してみました(笑)。


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