白熱灯
幻想即興曲
大花月シリーズ5
A Casual Fantasy



 君の見ている幻と私の見ている幻が、限りなく近く調和する景色であるように。



 夏の終わり。今年の夏は五人の少年達の一生の思い出になると共に、鎧戦士の決死の活動が終わりを告げた、些かの淋しさと晴れ晴れしい結果ばかりを残して過ぎて行く。
 如何なる大事件も、長きに渡る命の営みの中では瞬く間の事象に過ぎない。彼等が共に戦った数年間の努力と意思、移動した距離も時間も、今は過ぎてしまった過去の一部となった。炎天下のビル街、アフリカの灼熱の太陽、純粋な善と悪の齎す時の悪戯、目紛しいそれらの記憶はまだ鮮やかに瞼に残るけれど。時は既に違う季節、少年達の新たな世界へと移り変わろうとしていた。

 とは言え、年若き彼等にはそんな感傷に浸っている暇も無い。全員がどうにか無事に帰国できた後、僅かに残った夏休みの内に、五人は再び顔を合わせることになった。まずは喜ばしい結果を得たことへのお祝い、同時に少しばかり反省会、そしてこれからの事を語り合う為に。
 ところがその日、柳生邸の居間の一角で、秀は難しい顔をして呟いていた。
「なぁ…、俺に何か隠し事してるだろ?」
「いや、何も知らない。…ほ、本当に」
 対して壁に詰め寄られている遼は、明らかな挙動不審を見せて困っている。しかし何故彼が、秀に隠さなければならない事情を持つのか、他の誰にも判らないままだった。本来ならふたりは、五人の中で最もオープンな間柄の筈だが。
「何故そう見え見えの嘘をつくのか分からん」
 暫くふたりの様子を見ていた当麻も、今は珍しく遼の態度を批難している。
「嘘なんかじゃない!」
 周囲の見方に気付き、慌てて強く言い返すも、
「遼はさ、自分で気付かないみたいだけど、嘘をついてると身振りが大きくなる癖があるんだよ」
 伸が冷静にそう指摘すると、その通りの事をしていた遼は何も言えなくなってしまった。否、伸が言葉にする前に、誰もが変な態度だと気付いていたけれど。
「隠そうと言う必死さが出ている」
 と、他人事のような観察を征士が語ると、対称的に、秀は切に懇願するような表情で続けた。
「なぁ、何でなんだよ?、俺本気で困ってんだぞ!?。何か知ってんなら教えてくれよ!」
 尚、今の話題の中心は秀なので、この場に於いて必死なのは質問者の秀と、それを受けている遼のみだ。ただ、今を以っても全体のリーダーである遼が、仲間に後ろめたそうな様子を見せているのは問題だった。秀だけでなく、遼に取っても重要な事情が含まれていると、皆が想像しているけれど、誰もそれを知らないのが気掛かりだった。
 例によってまたひとりで悩んでいる、その内ひとりで先行するような事態になるんじゃないのか?、と。
 けれど遼は、周囲の心配や期待に敢えて目を瞑るように結んだ。
「すまん、どうしても言えないんだ」
「なっ、おい!」
 そしてそれきり、固く口を閉ざしてしまった。秀が覗き込んだ遼の目が、心の内で意を決したように深く黒々と澄んでいた。彼は元の静かな表情に戻って、もう何を言われても動じない態度に転じる。対峙する秀も周囲の者達も、これでは駄目だ、と判断する他にない状況となった。
 暫しの静寂。すると丁度そんな折、
「さっきから何の話?、お昼できたわよ?」
 只ならぬ部屋の様子に、声を掛け倦ねていたナスティが姿を現した。秀と遼を中心に、漂っていた妙な空気の流れが一旦途切れ、誰もがふっと肩の力を抜く。何しろこれまでの五人の間で、こんな状態は誰も経験したことがなかった。少年達の新たな出発と共に、新たな緊張感も生まれたことを感じていた。
 そう、彼等は出会った時から幾度も意見を違え、詰まらない喧嘩を繰り返し、時には仲間に不信感を持つことさえあった。けれど圧倒的な鎧と言う存在に支えられ、またそれを導く者の意思に支えられ、散り散りになることなくここまでやって来れた。
 だがこれからはそうは行かない。ひとつの苦悩から解放されたと同時に、ひとつの基盤を失ったのは確かだ。この先の未来は全て、個人個人の意識に委ねられていると、早くも課題に直面したところだった。
 もう何に対しても無責任で良いと言うなら、それを約束されているなら、それぞれ己のことだけを考えていればいいだろう。これまでの記憶を消去し、単なる普通の高校生に紛れ込めるなら、各々好き勝手に離れて行けばいい。勿論それで良いとは、誰も考えていなかった。
「おっ。…しゃあねぇな、とりあえず飯にすっか!」
 取り敢えず、どうにもならなそうな現状を感じて切り返す秀に、
「何だい?、深刻そうでもないじゃないか」
 伸は努めて、普段と変わらない調子で茶々を入れた。事態が悪い方向に進まぬように平常を装うしかない、今は皆その程度の事しかできない、と彼は考えているようだった。すると秀もまた、
「違げーよ!、飯を食う時は飯に集中しねぇと、しっかり栄養になんねぇだろ」
 伸の気遣いに応えるように、遼を責めないように明るくそう返していた。

「…それで?、さっきは何の話だったの?」
 食事が始まると、まず早速と言う風にナスティが言い出していた。遼のいたたまれない様子を見れば、あまり積極的に突っ込みたくはなかったが、これまでの経過を全く御存知でない彼女には、自ら言い出さざるを得なかったようだ。すると、まだ何も口に付けていなかった征士が、
「秀の身の回りで怪現象が起こっていると言う」
 と、淡々とした口調で返した。
「怪現象?」
「寝ても覚めても、四六時中人の気配がするんだと。伸も何か変だと言ってる」
 続けて征士の向かいに座る当麻がそう補足するが、どちらも冷静に聞き知った事実を話している、と言った感じだった。他の誰も、遼のように苦悶する様子はなく、秀のように入れ込んでいるようでもない。それを見てナスティはやや安心した面持ちに変え、隣の席に座る伸に改めて尋ねた。
「どう言うことなの?」
 そして伸もまた、それ程気になっていないことを示すように、やたら饒舌になって説明した。
「いやね、話だけ聞くと秀の思い込みみたいに聞こえるけど、実際僕も変だなと思う事があって。掃除したばっかりの部屋がすぐ埃っぽくなったり、夜中に物音がして目が覚めたりしてさ。敵が近付いてる感じでもないけど、誰か居るのかな?って普通に考えられるんだ」
 何故そんな事があって、伸が気にしないのかは正しくは誰にも判らないけれど、
「それが…四六時中?」
 とナスティが続けて尋ねると、
「いや僕は部屋に居る時だけだから、やっぱり秀を中心に起こってる事だと思うな」
 伸は軽妙な調子でそう返した。恐らく直接自分に関係のない事件と判ると、速やかに客観的な立場に移動できるのだろう。酷い不快を感じる訳でもなく、悪意や殺気を感じる訳でもない。遼についても、彼ならば他に重んじる事があっての言動だろうと、予想できるから伸は極めて穏やかだった。
 ところで当事者の秀は無論、伸が感じる以上の物音やら視線やら、何かがふっと触れるような感覚を幾度も味わっている。この二日程の間昼夜を問わず、何かが五月蝿く纏わり付いて来るような、見えない現象に悩まされ続けているのだが。
「何か良からぬ霊が…」
 食事の手を止め、冗談とも本気とも取れない様子で征士が言い出すと、当麻は不躾にそれを遮った。
「と言う意見もあるが、俺は幽霊なぞ信じないから、物理的な方向で考えている」
「…物理的とは何だ」
 多少不満そうに返した征士は、ここで面白理論でも提唱してみようとしたらしい。それ程に、事態を深刻に思っていない態度が窺えた。まあ、真面目に考えてくれているであろう、ナスティを混乱させるのも良くないと思い、当麻は話を止めさせたようだった。
 そして当麻は、テーブルを囲む面々に対し、彼なりの考えを展開するのだった。
「物理的とは、例えば、人の目を盗んで鼠が走り回ってるとか」
 だがすぐに、秀本人から反論の声が上がっていた。
「鼠がそんなに気配を放つのかよ!?」
「あり得るね、おまえが人だと思い込んでいれば」
 ただ、勿論当麻もそれが完璧な答だとは思っていない。少し考えれば不自然過ぎる発想だった。
「家の中はそれでもいいが、外まで鼠が追って来る訳がない」
 と、征士が普通にそれを指摘していた。秀は少なくとも毎朝一度は、家屋の外に出て体を動かす習慣になっている。その時にも怪現象は続くと彼等は聞いていたので。しかしナスティは、少なくとも当麻の考える方向性は認めているようだった。
「鼠ねぇ…。このお屋敷はそれなりに古いから、勿論居てもおかしくないわ」
 慎重に考える様子で、フォークを持つ手を止めている彼女がそう呟くと、
「納得しねぇでくれよナスティ!」
 秀が慌てて喚き出す。万一鼠で納得されたら、「小動物にも怯える肝の小さい男」とレッテルを貼られてしまう、と、彼は自己イメージの危機を煽られているようだ。けれど勿論、常識的にそれは有り得ないとナスティも知っていた。
「でも私は違うと思う」
 きっぱりとそう言い切ると、それに続けて伸が、多少恨み節の混じった解説を続ける。
「だよね。あちこちに食べ物が放ってある割に、誰も荒らされたなんて言わないし、まともに掃除をする身としては、鼠のフンくらいあって良さそうなんだけど?」
「そうだそうだ!、ぜってぇ鼠なんかじゃねぇって!」
 厭味を言われていることに全く気付かない秀は、そこで勢い良く賛同していた。まあそれだけ、彼が必死に『鼠論』を否定したがっているのは判る。また更にナスティは、
「それと幽霊説も納得しにくいわ。存在そのものの真偽とは別に、文献にある例とは少し違う気がするの」
 と、征士が言いかけた話にも疑問を投げ掛けていた。言い出した当人は冗談半分だったとは言え、全く可能性がないとも言えないアイディアに、少し理解の及ばない所がある当麻は、率先してその理由を尋ねる。
「何が違うんだ?」
「伸がさっき『埃っぽくなる』って言ったけど、そんな記述は見たことがないのよ。大概跡に水とか泥とか、血もそうだけど水分を含むものを残すらしいわ。湿っぽい環境を好むとも言うし」
 ナスティの説明は当然、専門である伝奇学の文献や、現代に残る歴史書の記述から考えられる結論だろう。日本の説話に頻繁に見られる、キャラクター的な幽霊話や妖怪話も、第一人者の後光を受ける彼女が語ると説得力があった。勿論その前に、彼女自身が正しくものを見られる存在として、皆に認められているからではあるが。
 そして鼠ではないとの考えも、当麻には最も真っ当な意見として受け止められる。彼は黙って頷くと、大人しく思考モードに入って行った。
「では一体何なのだ?。秀がわざわざ作り話をするとも思えん」
 話を聞き終えると、征士が誰にともなくそう言った。テーブルを囲む秀、伸、当麻の三人なら、今の彼と全く同じ疑問を持っていたけれど、そこで、
「ねぇ、それで遼とどう関係があるの?」
 ナスティが突然話を戻した為に、下手に触れられないよう口を噤んでいた遼が、びくりと肩を震わせる様が見られた。これは、打ち明けられないことを相当気にしている様子だ。周囲の様子に臆病になり過ぎている。と見て当麻が、当たり障りのない程度に説明した。
「関係…があるかどうかは知らんが、遼はこの件について何か知ってるようなんだ」
 そして秀も、形だけ怒ったような素振りを見せて、
「だからさっきから聞いてんのに、教えてくんねぇんだぜ?」
 と言うに留めていた。誰より真実を知りたがっている秀が、今はまだ遼の立場を考え、己の感情を押さえているようだった。過去の彼から見れば大きな進歩だと思う。
「そう…」
 そしてそんな彼等の態度を見て、ナスティもそれ以上この話題を続けなかった。
 そもそも、何故遼が何かを知っていると気付いたかは、今朝、遼と秀の会話中に見せた遼の態度が原因だった。日常的に早朝の庭で顔を合わせるふたりは、そのまま一緒に白炎を連れて散歩に出たり、遼が秀のウォーミングアップに付き合うなどして、柳生邸に居る間は毎日のように、心安い会話ができる間柄だった。こう言っては何だが、思考レベルや方向性も似ている彼等だけに、五人の中では最も友人らしい関係と言えた。
 その上で、秀が身の周りに起こる現象の話をした時、何故だか遼は奇妙な反応をした。仲間達の悩みには、自分の事のように乗って来る彼が、詳しく話も聞かず「気のせいだ」と否定したのだ。ここでは最も言葉の通じる相手に対し、秀がおかしいと思わない筈もなかった。
 そんな訳で、遼の隠し事については、他の誰でもなく秀自身が気付いた事実だった。それだけに彼も、無責任に騒げないと感じているのかも知れない。自分はともかく、他の仲間達が遼に無闇な疑いを向けることにならぬよう…。
「…分かった」
 ひと度会話が途切れた後、最初に口を開いたのは当麻だった。ごく短い言葉だったが、彼の考えがある程度纏まったことが窺い知れた。
「あ!?、ホントに分かったンか!?」
 途端に色めき立った秀だが、
「ああ。間違いなく物理的な何かだ」
「何だそれだけかよ…」
 残念ながら正体を特定できるまでには至っていないらしい。けれど何やら自信あり気に、
「いや、今夜にでも原因を突き止めて見せよう」
 と当麻は言う。さて、後は彼の手腕を期待して待つばかりだった。



 昼食の後片付けが終わると、柳生邸には午後の明るい静けさが訪れていた。町の喧噪を離れ、観光客の集まる地域からも離れている、この一帯の夏の午後は住人さえ大人しければ、虫の声以外に何も聞こえない世界と化す。その日は食事時の話し合いに拠って、偶然そんな静寂が保たれていた。
 柳生邸の庭の外れ、夏草の生い茂った広場の端の日陰に、遼は白炎と共に居た。彼が何かに悩み始めると、そんな光景はよく見られるものだった。
『困ったな…。約束を無碍にはできないし、酷い事態は起こってないが、みんなに黙ってるのも辛い。当麻は何かに気付いたみたいだし、成り行き任せにしていいんだろうか…』
 そう、遼はある者と約束をしていたのだ。秀の身に起こることを黙っているようにと。勿論正当な理由が無ければ、そんな提案は受け入れなかっただろう。遼は彼なりに考え、相手の正しさや気持を考え、それを受け入れたに過ぎなかった。
 決して悪い事ではない。しかし秘密を勘付かれるのは辛いところだった。
「俺はどうしたらいいんだ…」
 いつもそうするように、遼は何も語らない白炎に向けて呟いていた。けれど、そうしてひとり頭を抱える彼を見れば、仲間達は状況を誤らず理解できるものだ。
「悩んでんな」
「遼の性格からすればそうなるよ」
 秀と伸は、滅多に入ることのない一階の研究室の窓から、遼の様子をやや心配そうに見詰めていた。当麻の指図で、怪現象を体験するふたりは工作班から外されていた。もし秀の言う通り、常に秀に付き纏う者が居るなら、その目の前で種明かしをすることになるからだ。他の三人が仕掛けをする間、ふたりは離れた場所で大人しくしているしかなかった。
 それにより、ひとり離れている遼を観察する時間ができたのだが、ふたりにはもう既に、遼の真実は充分理解できたようだった。
「悪気がねぇことくらい、最初から分かってるけどよ」
 と、却って秀の方が、悩める遼に同調して溜息を吐いていた。
 何故遼が事情を話してくれないのか、その理由を問い詰めて、彼の正義を傷付けるようなことがあってはならない。と、窓の向こうを見ているふたりは今、切に感じていた。真面目過ぎる彼のことだから、聞けば恐らく「なーんだ」と言う話だと想像もできた。実際生命を脅かされるような、危機的な現象に遭っている訳でもない。ならば時が過ぎるまで、そっとしておいた方が良いと判断した。
 何れ何もかもが解明した時には、遼は正しかった、と思うことになりそうな予感がする。
 一方その頃、二階の秀と伸の使っている部屋では、
「さて始めるか」
 ひと通り部屋を見回した当麻が、意欲的な様子で合図を示していた。ところが征士は、
「今日はけったいな格好をしないのか?」
 と、何故か出鼻を挫くような発言。彼はあまり乗り気でないらしかった。
 その「けったいな格好」とは、以前ここに偽水滸が現れた時の当麻の出で立ちだ。即ち頭の左右に火の点いた蝋燭を縛り付け、キッチンに下げてあったニンニクの袋を首から下げ、腰にお守り袋、片手に数珠を持った様子を言っているのだが、流石にその時の勘違いは、本人も少々恥ずかしいと感じているらしい。
「下らんことを…」
 と彼は一蹴したが、征士にはその記憶があまりに鮮烈だった為に、今ひとつ当麻のやる事を信用できなくなっていた。無論戦いの場での行動とは別の話だが。
 そんなやる気のなさそうな征士を余所に、ナスティは指示通りの物を探して持って来ていた。
「これをどうするの?」
 彼女が手にしていたのはごく一般的なピアノ線だった。今現在の柳生邸には、まともにピアノを弾ける人物は存在しないが、嘗てはダイニングのピアノを弾く者が居たようだ。しかも自ら調律していたらしい。それ用の道具一式が倉庫にあるのを思い出し、当麻はこれならすぐ調達できると考えた。
 そして彼は説明した。
「ああ。単純な話だが、部屋の下方のあちこちに張り巡らしておけばいいんだ」
 つまり当麻は、それに何かが引っ掛かると踏んでいるらしいのだが、そんな簡単な事で?、と誰もが首を傾げてしまう場面だった。何故なら最初に予想された鼠のような動物には、大仕掛け過ぎて擦り抜けられてしまうだろう。なので征士は早速文句を付ける。
「泥棒を捕まえる訳じゃないんだぞ」
 だがそれでも、当麻には何らかの確信めいたものがあるようで、
「同じさ。それなりの質量がある物体だからこそ、目立つ量の埃を持ち込むことができるんだろ。窓を開け放っていたんじゃないなら」
 言いながら、既に設置場所の細かな点検を始めていた。すると彼の理屈を耳にしたナスティが、
「確かにそうだわ」
 と、ここに来て目が覚めたように賛同する。彼女がその状態では、最早征士に反論する余地は残されていなかった。

「これで部屋に秀が入った時、一緒に入って来る者が何なのかはっきりするさ」
 まだ昼間は真夏と変わらないこの時期、日射しの強い二階の部屋で二時間弱の作業を終えて、汗だくになりながらも、最後に当麻は満足そうに言った。夢中に作業をする内に、透明な昼の陽光がオレンジ色に傾いて来ていた。時は滞ることなく淡々と過ぎている。秀の悩みも遼の悩みも、当麻の予定ではもうすぐ解決するのだろう。
「こんなに広く罠を張っては、まず秀が引っ掛かるんじゃないか?」
 との当然の疑問を発する征士にも、
「まあ見てろよ」
 当麻はお構いなしの自信を見せていた。
 その後夕食前に、彼は何故か秀と伸を呼んで、ピアノ線がどう張ってあるか描いた図を見せる。御丁寧にふたりに歩き方まで説明していた。それでは秀に着いて来る何かにまで、仕掛けを説明するようなものだ。わざわざふたりを工作班から外した意味もない。当麻は何を考えているのやら、と征士、ナスティだけでなく、伸と秀まで首を傾げていた。
 当麻にはそれ程の勝算があるのだろうか。皆が真実を知る時は、刻一刻と近付いていた。



 その夜。
 町が寝静まる頃の柳生邸には、秋の気配を乗せた夜風がさわさわと木々を鳴らす音、それに掻き消され気味に秋の虫の鳴く声、そんな自然の音のみが聞こえていた。既に誰もが寝床に着き、誰もが密かな会話すら止めている。ある者は微睡み、ある者は息を潜めてその時を待っていた。
 皆が注目している秀と伸の使う部屋。には、それまでは何の変化もなかった。当麻の説明を受けたこの部屋のふたりは、注意深く張られたピアノ線を擦り抜け、問題なく一日を終えていた。恐らく秀に着いている者にも影響はなかっただろう。
 だが、当麻の目論みは正に当たることとなる。
 横になった伸と秀の頬や手に、ふと部屋の空気が動く感覚があった。窓は閉まっている、周囲にそこまでの大風が吹いている訳でもない。やはり何かが居る、と、微睡み始めた頭が一瞬で冴え渡り、伸は身動きせずに部屋の様子を窺っている。
 ところが。
 犯人探しに期待を持たせ過ぎたのか、待ってましたとばかりに、途端に布団から起き上がってしまった秀。それに気付いた伸は、本来の予定から外れるのではないかと、当惑しながらも寝た振りを続けるしかなかった。そして起きてしまった秀も、結局何をして良いのか判らず暫く黙っていた。
 その内、仕方なく水でも飲みに行こうとしたのか、秀はベッドから降りて歩き出す…
「わたっ!!、しまっ…!」
 案の定、罠の配置などうろ覚えだった秀が、足をピアノ線に引っ掛けていた。
『ドタドタッ…!』
 ままあって、広い屋敷に派手な物音が響く。「あ〜あ」と言う心持ちで伸は寝た振りを止め、すぐに部屋の照明を点灯させた。罠の配置図の複雑さを見た時から、こうなりそうだと予想できなくなかった。実に間抜けな失敗だ、と彼は思っていたのだが…
「あ!、れっ!?」
 明かりに照らし出された光景を見て、思わず伸は目を丸くする。すると忙しない足音と共に、
「掛かったか!?」
 待ち構えていた様子の当麻が、廊下側から部屋のドアを開けた。
 既に遼もすぐ後ろに立っていた。今聞こえる足音は征士とナスティだろう。そして多くの者の目の前に曝け出された事実とは、
「おまえ〜〜〜〜〜!!!」
 足を罠に絡ませたまま、辛うじて頭を打たずに済んだような秀の、腹の下を抱えるように腕で支えている、見覚えのある男がニヤけながら答えた。
「やあ金剛、久し振りだな」
「やあ!?、やあって!、こんな時に何言ってんだぁーーーっ!!」
 まあ、不快な思いをした秀が怒鳴るのは尤もだが、それにしても彼、即ち螺呪羅が相変わらず秀に執着している様子に、皆は呆れていた。
「やっぱりな…」
 と当麻も、予想通りながらも溜息を吐いた。
 昼間の話し合いから思い付いた、彼の犯人予想はこんなものだった。秀本人が感じた事はともかく、質量のある存在を神経質な伸が捕捉できないのはおかしい。この現象には何かのトリックがある。存在しているのに察知されない、そんな芸当を持つ者が嘗て居たように…、と。
 そして当麻は、巧妙な幻魔将を捕らえるのは難しいとも考え、始めから『秀が引っ掛かるように』罠を仕掛けたのだ。もし目の前で秀が、危険な倒れ方をしたら彼はどうするだろう?。まず質量を持つ物が無ければ助けられない。咄嗟に武器でも何でも、何らかの物を実体化して尻尾を出すと思えた。そうなる為に、ピアノ線を複雑に組んだ罠を張り、足から簡単に外れないようにしたのだった。
 実際はそれで、所持品の無かった螺呪羅が姿を現したのだから、今回の作戦に限っては、当麻の推理勝ちと言うところだった。
「まあー!、怪現象の原因はあなただったの」
 部屋を覗くなり、珍しい来客の姿を見てナスティが言うと、
「いや申し訳ない、こんな騒ぎになるとは」
 螺呪羅は悪びれもせず、凹む様子もなく穏やかに陳謝していた。しかし隠密行動がバレたと言うのに、彼の態度が妙に大人しいのが気になる。猛省している風でもない、馬鹿にした態度でもない。なので周りを囲む者は、彼が秀に貼り付いて何をしていたのか、是非聞かせてほしいと思ったのだが、
「騒ぎにならねぇ訳ねぇだろ!!。用があるなら玄関から入って来りゃいいんだよ!!」
「それはそうだが…」
「まったく貴様は全然進歩がねぇな!。何が目的か知らんが、隠れてコソコソすんのはでぇ嫌ぇだって言った筈だ!。悪事を働くのを辞めたんなら、それなりの態度を示すべきだろ!?。それが武士の礼儀ってモンだ!」
 罠からどうにか足を抜いた秀は、その途端、楯突く隙もない調子でがなり立てていた。立て膝の姿勢で止まっている相手を見下ろし、堂々として厳しい意見を主張している。眉を寄せ、鋭い視線を真直ぐ相手に向けている。大真面目に怒っている、と言う感じだった。
 だがその場面を見ていた者には、
『そこまで言える立場か、おまえは?』
 などと思わせていた。一本調子で言い倒す秀に対し、螺呪羅が刃向かわず、完全に受身になっているからかも知れない。今助けてもらったことも忘れ、一方的に言い過ぎると感じた伸は口を挟もうとした。
「秀、その前に…」
 ところが、周囲の困惑を余所に、事態は意外にあっさり収束を見せるのだった。
「大体お前ら勝手にこっち来ちゃいけねぇんじゃねえのかよ?。来るなら来るで、その前に挨拶とか、とにかく礼儀が足んねぇんだよ!。俺じゃねぇ、他のみんなが迷惑すんだ!、ちったぁそう言う事考えろ!!」
 秀は言いたい事を言い切ったように、そこで真一文字に口を結んで見せる。正常な人間ならこれ程罵り続ければ、終いには罪悪感や、己を叱咤する感情も生まれて来るものだが、彼はそれを敢えて押さえているように見えた。すると、ある事ない事責められたにも関わらず、螺呪羅は酷く満足そうな顔をして言った。
「ああ、以後肝に命じよう」
 彼の見上げる先の、秀の表情は怒りが貼り付いたまま、何ら変化を見せなかった。そして、
「だったらもういいっ!」
 雑な言葉で許すと、秀はそのままプイと明後日の方を向いてしまった。真摯に接していると思える相手に対し、あまりに素っ気無い態度だった。
 ただ一見そうであっても。不思議と、双方の間には何の誤解も生じていないようだ、と見ている者は感じ取っていた。ともすればふたりして、わざとらしい芝居を見せているようにも感じた。つまりどんな態度をしても、何を怒鳴っても、相手との間隔が変わらず保たれることをお互いに、経験的に信用しているような、それを大切にしているような不思議な印象だった。
 普段は元気なばかりで、がさつでお調子者で頭も良くない。だが無頓着そうに見えながら、恐らく秀はある面のみで怒り、そうでない感情も伝えることをやってのけている。そして螺呪羅は、そんな彼をよく知っているのだろう、と思えた。
 不思議な、何とも表現できない事実が存在する。人の関わり方は人の数だけ存在する。
 いつから彼等は、そんな距離感を会得したのだろうか?。
「では、御機嫌よろしゅう」
 秀がその場を切り上げた後、螺呪羅は速やかに立ち上がると、静かな口調でそう言って頭を下げた。そして空に消え去ろうとしながら、
「済まなかったな、烈火」
 口止めを頼んだ相手に声を掛ける。
「ああ」
 今の遼には、螺呪羅が如何に秀を気遣っているか、彼の内省的態度は何なのか、凡そ理解できたような気がした。そして彼等を少し羨ましくも感じていた。
 暫く振りに、清々しい顔を見せた遼に、
「結局何をしに来たんだ。叱られに来たのか?」
 と、腑に落ちない様子の征士が問い掛けた。しかし返事はなかった。
「あの様子だと大した事じゃないだろ」
 代わりに当麻がそう答えたが、彼は彼で、必ず遼から事情を聞き出そうと考えているようだ。
「遊びに来ただけじゃないの?」
 伸は欠伸をしながら言った。深夜の大捕り物が無事成功を収めると、流石に緊張の糸も切れて来た。何の為に何が起こったのか。それは明日また考えればいい。それより大事に思える事が、良い形で進んでいるのを目の前で知り、伸はとても満足していた。



 一夜明け、普段と変わらぬ様子に戻った柳生邸。
 その日も夏の終わりの良い天気が続いていた。朝食を終えた後、遼はいつもより少し早く外に出て、白炎にブラシを掛けていた。
 朝食の席では、いかにも何か聞きたそうにそわそわしている、周囲の様子を具に感じ取っていた。勿論昨日からうやむやにしている事実を、知りたがる皆の気持は解るけれど…。遼は居心地が悪くなって、早々にその席を離れていた。
 まだ話せない。否、できればこのまま過ぎてほしい、と彼は思っていた。そして、
「これで良かったんだろうか…」
 と、またいつものように考え込む遼だった。ひとつ救いだったのは、今朝会った時も、食事の時も、秀自身は特に聞きたそうではなかったことだ。元々物事を根掘り葉掘り知りたがる奴じゃないが、秀が気にしないなら自分も気にしなくていい、と遼には思えた。
 決して悪い事ではない。思い出す、数日前の事の起こり。
 何故遼だけが事情を知っていたのかは、螺呪羅が地上に降りて来た所に、偶然遼が鉢合わせたことに因る。全く意図しない出会い頭は、双方共に「どうしよう」と言う感じだったが、螺呪羅の方は暫し考え、会ったのが遼で幸いだと思い直していた。真面目な事情があることを話せば、彼なら黙っていてくれるだろうと思ったのだ。
 今、妖邪界ではある事が明るみになって、迦遊羅などは相当おかんむりなのだと言う。その原因を作ったのは悪奴弥守と那唖挫だが、螺呪羅は怒らないまでも、ふたりのやり方には常々反発を覚えると言った。それは、地上の同志達に直接影響が出る事でも、活動の邪魔になる事でもないが、知られれば不快に思われること間違いなし、だからだ。
 鎧を失った少年達に、この先どんな活動が残されているかは知らない。だが例え何の特徴もない民衆のひとりだとしても、人一人の個性や存在は、軽々しく扱えるものではないと螺呪羅は考えている。虚像なり映像を写し取るのは簡単な技術だが、虚像だと認識するからこそ、誰の存在も傷付けずに居られるのだ。と螺呪羅は言った。
『俺のやり方は邪なものかも知れぬが、お主等に微塵も害を与えぬ為には、これが最善だと思っている。今となってはそんな時こそ、実を伴わぬまやかしの術も価値が出よう』
 彼は己の能力を卑下するように遼に話した。恐らく秀のような現実主義の人物に対する、彼の気持の現れなのだろう。
『虚の価値を知れば、自ずと実の価値をも知るものだ』
 その考えを持って螺呪羅は、人間界で言えばビデオや映画のような、何らかの投影装置を作ろうと考え、その撮影に降りて来たのだった。悪奴弥守達のやり方に反論する為に。
 また一連の話を聞いて、彼がどれ程、自分達の正常な活動を大事に考えているかを知り、遼は彼の申し出を受け入れることにした。即ち、数日間の隠密行動を黙っていることだった。
 まあ、よくよく考えれば、正面から話を通して撮影許可を貰えば良さそうだが、螺呪羅の好みか何か、不自然な様子では嫌なのかも知れない。もしかしたら場面によっては、本人が嫌がるような映像もあるかも知れないが…
 ただそんな事より、
「分かってるならいいか」
 と、遼は既に笑えていた。秀が事実を聞きたがらないのも、螺呪羅が何も言い訳しないのも、双方が致命的な亀裂を生むような行動はしないと、相手を解っているからだと遼は知ったので。
 そう、少し羨ましい。
 この五人の仲間達なら、既にその域に達していると思えるが、その他の大切な人々に対しても、そんな信頼を築いて行けるといい、と遼は改めて思った。



 君を映した幻と私の望む幻が、限りなく近くとこしえに変わらぬように。



 差し当たって、秀に関わる事件は解決を見た。
『しかしこの先…』
 後は妖邪界で起こっていると言う、根源的な問題の方だが、それについて当面遼の悩みは続きそうだった。当事者に当たるふたりはまだ何も知らないままだった。









コメント)あ〜、参った。日記に書いていましたが、体は健康なのに情緒が不安定で、全然集中できなくてキツかったのです、今回。
なのでちょっと乗りの悪い話になっちゃって。すみません。
でもまあ私らしいラジ秀です。ラジュラは策士で面白い人だけど、秀に対して行動を起こさないのが私のポリシーなのです。遠くで、心の中で、いつもいつも想っている乙女なラジさんが好き(笑)。それこそ「忍」ですが、もしかしたら本当は秀ラジなのかも知れない、と思えて来ました(^_^;。
ところで、友人らしい友人の関係は、私の中では当麻と征士もそうだけど、このふたりは事あるとすぐライバルに転じてしまうので、一番はやっぱり遼と秀です。尚、伸と秀は友達と言うより仲のいい先輩後輩のイメージです。




BACK TO 先頭