秋吉台の紅葉
封 印
SEALED



『小学校以来だよ』
 と伸は電話口で笑っていた。そう言えばあの時は遼がやって来たのだ、と。

 まだ寒さは緩い十一月の始め、連休に合わせて征士は伸の家に遊びに来ていた。否、正確に言えば「遊び」ではない。征士には大切なふたつの用事があり、どうしても伸の住む土地へ出掛けなければならなかった。
 尚、連休と言えば十月にも連休はあったが、彼には学校の部活の試合が続いた為、誕生日を迎えた当麻にさえ会うことは叶わなかった。この時期の学生は体育祭などの行事が多く、過去にも一度しか集ったことはない。又それとは別に、征士には普段の生活態度を文句の付け様がない程に、良く見せねばならない家庭の事情が存在した。
 あれから、夏の終わりの騒動から二ヶ月と数日が経過していた。
 伸は特に誰にも咎めらなかったが、征士の方は穏便には済まされなかった。拠って家に戻ってからの彼は、以前にも増して規律正しく暮らさざるを得なかった。剣の稽古も何ら変わりなく熱心に続けている。学校にも以後無断欠席は無い上、中間テストの成績も問題視される結果は出さない…。
 なので家族も今は、この夏の出来事について取り敢えず、沈黙してくれているのだった。無論それで事態が解決した訳ではない、己の希望を理解してくれる家ではないと、征士は近頃頓に感じるようになった。微妙に歯車が噛み合わないまま均衡を保っている、そんな家庭の中で、彼は自らの在り方を主張しながら、家に居る内は家の規則に従う選択をしていた。
 これまでと変わらないようでいて、全く新しい意識だった。
 そして、何かを切っ掛けに変わったと、誰もが征士の背景に気付きながら、どうにもできないでいた。表立っては文句も言わず、黙々と生活している征士に何と話を切り出すか、誰もがタイミングを掴み損ねている状況だ。彼の周囲の戸惑いも、山河の趣きと共に深まっていたこの秋。
 しかし、これまでと違うと言っても、同じ人間が百パーセント変わることはないだろう。現段階では不調和に留まっている家庭状況も、時が経てばそれなりに落ち着く筈だと征士は思っている。それこそ、初対面同志のバラバラな戦士達が、後に素晴しい調和を得られたように。
 故に今は馬鹿正直と思える程に、普段は大人しく真面目な生活をしている。何れ至る未来を誰もが快く迎えられるように、征士は黙して待つことにしたのだ。なので、今日伸の許に来ていることも、勿論事前に了解を取っての行動だった。あまり良い顔はされなかったが。



 晩秋の野山の賑わい。萌える黄色に染まった山の斜面には、所々に紅葉や楓の赤が際立ち見目を楽しませている。針葉樹の多い関東以北に比べ、山口の秋の様子はほぼ暖色に塗り尽くされている。征士がこの景色を見るのは二度目になる。前の時もこうして空港から電車に乗って、バスに乗り換えて、車窓を流れる景色をぼんやり眺めていた。
 ただその時と違うのは、紅葉の美しさを感じる余裕などなかったこと。最初に鎧の持つ力に不信感を持ち、それぞれが鎧の縁の地へと旅立った時のことだ。
 そしてもうひとつ違うのは、今は伸が横に座っている。
「もう随分昔のことのようだ」
 窓の外を見ながら征士が呟くと、
「じじ臭いこと言ってるなぁ」
 伸は吹き出すように笑って続けた。
「そう言えばさぁ、聞いたことなかったけど、何で僕を助けに来てくれなかったのさ?」
「…何のことだ」
 征士は問い返すしかない。そんな可能性のある場面は有り過ぎて、いつの話か見当が付かないだろう。伸の方へとやや顔の向きを傾けると、彼は特に不満そうな様子でもなかった。
「最初の時だよ。最初にさぁ、僕ら一度阿羅醐に吹っ飛ばされたじゃないか。その時最初に目覚めて、散らばったみんなを探しに出たのは遼だよね?。その後君と遼が合流した。それで、どうして君は北海道に行くことにしたのかな、って」
 確かに伸は不満そうではないが、どちらかと言うと、それは征士の方に困った思い出だった。伸が話を信用してくれれば良いのだが、と何となく重い口調で征士は答える。
「あの時は、誰が誰を救出しようとは決めていなかったのだ。私が遼達と合流した時、ナスティが新たに伸と秀の居場所を突き止めた。それでナスティの車はすぐ東に引き返した。そこから最も近いのは伸だと誰もが判っていた…」
「うん、それで?」
 そこまでの経過は、別段何があったと言う話でもない。伸は自分の知らない状況を興味深く聞いている。
「それで、鳴門海峡大橋が見える頃になると、遼の様子はもう、まず目先の問題を片付けようと集中しているのだ。恐らく遼の頭には、伸を救出することしかないのだろうと思った。急ぎの用でもあるから、ふたりでそこに残っても仕方がない。遼の意欲を削ぐのもどうかと思うし、分担を話し合う前に、私が北に行くと言ったまでだ。まあそういうことだ」
 征士はそうあらましを話し終えると、何故だか言い訳をした後のような気分に襲われていた。妙なことだった。事実をそのまま話しているだけで、気まずく感じることがしばしばあるが、実際おかしな現象だろう。しかし妙な様子の征士を伸は一笑に流す。
「アッハハハ、遼らしいよ」
 そう、それだけの事なのだが。
「そんなことなら、身に詰まされたみたいに話す必要ないだろ」
「それもそうだ」
 伸がそう言うなら気にしなくて良い、と判断するしか征士にはできなかった。否、過去のどの場面を取っても、ここまで気を遣って話したことはないと言う程に。
 そして、内容にそぐわない態度を見せれば、余計な疑いを掛けられてしまった。
「それは演技なの?、それとも何か他にあったって意味?」
「何もない、それだけだ」
 どうにも自然に振舞えなくなった征士に対して、伸は反対に調子付くように返す。
「ハハハッ…、何かさぁ、浮気を問い詰められてるみたいだよ、君。そんなつもりで聞いたんじゃないんだけどなぁ?」
 伸に「つもり」がなかったとしても、征士にはそれに近いものに感じられていたようだ。何故かと言えば、彼が今最も大事にしているのは、他ならぬ伸の感情だからだ。
「そんな風に聞こえたか?」
「聞こえたー」
 けれど屈託なく笑っている彼を見れば、征士も特に取り乱すようなことはなかった。
「フフ、伸に怒られたらどうしようかと」
「怒る訳ないよ、遼を優先するのは当然だからさ。むしろそうしなかったら、君はホントに困った奴だったね」
「クックックッ…」
 全くだ、と、結局征士にも笑える昔話だった。
 百パーセント変わることはないが、明らかに変わったと思える部分もある。それはそんな昔話の中からも感じられた。
 過去、彼等の繋がりは鎧を介して成り立っていた。そして全ての中心には遼が居た。彼等の行動基準は常に、大切な鎧の力と迦雄須の導き、大切なリーダーを活かすものとしての鎧の存在、それらの中に居る自分、と言う観点からものを考えるしかなかった。鎧と共に在り続ける限り、本来の目的を外れて行動することは、最も愚かだとふたりは知っていた。
 今も、仲間達の間に居る時ならば、全体の調和を考えて行動するのは変わらない。勿論何らかの事件が起これば、これまでと同様に遼を中心に動くだろう。ただ、ここに居るふたりの関わり方が変わったのだ。只管に正義の活動を支える礎として、決められた位置に、力の均衡を保って存在していた過去。今はその定位置を必ず守る必要がなくなった。鎧と言う力が失われたからだ。
 戦いには必要不可欠だった力。それ故に、中途で失うことへの恐れを感じる時もあった。そして同じことだが、今征士は少なからず、伸の感情的な面を恐れるようになっている。だから疑問視される些細なことにも言葉を詰まらせる。
 まあそれも、時が経てば様子が変わることだろうが。



 まだ陽は充分に高かった。征士は午前の早い便で宇部に到着したので、目的地へは昼前には着きそうだった。ふたりがバスに乗ってから三十分は猶に過ぎていたが、観光客の流れに紛れながら、予定通りその地に降り立っていた。
 征士の目的地とは、彼の鎧に縁の場所である秋芳洞。伸が「小学校以来だ」と言ったのもここの話だ。単なる観光なら確かに、一度来れば充分と言う気もしないではない。しかし観光とは別の用があったとして、普通の観光ルートでない所へ、勝手に侵入することができるだろうか?。まず鍾乳洞には立ち入り禁止区域として、一般には入れない場所があるものだが。
「でもさぁ、本当に入れんの?」
 周囲の人々に聞こえないように、伸は小声で耳打ちするように尋ねる。ところが征士は何の心配もないと言う風に、
「そうでなければ来る意味がないな」
 と、平常時の彼がよく見せるような、余裕の表情で笑っていた。そしてひとつ合図を送ると、洞穴の入口へと繋がる歩道を前へと進む、人の列から隠れるように離れて、征士は道無き林の中を伸を先導して歩いた。ここで幾度か戦闘になったことから、多くの地形的知識を得ている征士には、観光ルートとは違う場所に入れる入口も、確と記憶に留めてあったようだ。
 ただその時は、鎧でなくとも最低アンダーギアを身に付けていた。私服である今の状態で十分かは、着いてみなければ判らないことだった。

 何の木とも知らない、ただ鬱蒼とした森がその先には続いている。道も無ければ勿論標識等も立っていない。場所によっては明るさも十分とは言えない。足が滑りそうになる苔蒸す地面と、膝上の高さに生え揃った草は、ハイキングにしても難儀な道程だった。けれどその迷路のような木立を、確実に信じて歩き続けられるのは何の為だろう。
 鎧と言う存在は消えてしまった、そこから生み出される力も最早過去の幻だった。けれどこの体の何処かに染み付いて、未だ残っている何かがあるようだ、と征士は感じている。もう大したことはできない程度のものだろうが、確かに己を導く磁石のように働いていた。
 彼の場所へと。
「…見えて来たぞ」
 征士が遠くを見据えながらそう言うと、薄暗い木々の合間、彼等の行く手に立ち塞がるように覗く、淡く光を反射する白い岩盤が見えて来た。御存知の通り鍾乳洞とは、水分が石灰岩を溶かしてできる洞窟である。ならば白は石灰と考えて妥当だった。
「へぇ、こんな所から入れるとはね」
 征士の記憶を疑う訳ではないのだが、伸はそんなことを言って返していた。如何に秋芳洞が東洋一の広さを誇るとは言え、その全貌は未だ明かされないとは言え、観光ルートからそう遠くない場所に別の入口があるとは、地元に住んでいても興味深い情報だろう。伸には不思議なことに思えて当然だった。のだが、
「まあ恐らく」
「恐らくって」
 ここまで来て何故「恐らく」なのかと言えば。
 白い岩盤が間近まで近付くと、征士は立ち止まってその左右への連なりを眺める。そして何かを発見したように、ある方向を目指して草木を掻き分けると、そこには明らかに、刃物で直線的に切り崩したような跡があった。以前彼がここで戦った際に崩落したものなのだろう。征士か、アヌビスか、どちらかの剣の仕業だと思えた。
「えっ、これが…」
 征士の後を大人しく着いて来た伸は、そう声を発した後思わず黙ってしまう。
「やっぱりな。すぐ入れるとは思わなかったが」
 征士は予想通りだと涼しい顔で呟いた。
「やっぱりじゃないだろ!、これじゃ鶴嘴くらい用意しなきゃ無理だよ」
 そう、切り崩された岩盤は完全に穴を塞いでしまっていた。これが庭に撒く砂利のようなサイズなら、何とか手で掘り返すことも可能だろうが、一見してスコップ程度では動かない大きさの岩が、幾重かに重なっている様を観察している。
 けれど征士の様子は何ら変わらないのだ。
「無理か。確かに正攻法では無理だが、この場所なら裏技が使えると言うものだ」
「裏技…?」
 聞き慣れない言葉に伸が振り向くと、征士はこれまでの、自信の有りそうな態度のまま前へ出て、その入口を塞ぐ岩のひとつに手を触れる。無論びくともしないが、彼は力で動かそうなどとは思っていない。ではどうやって?。
 征士は目を閉じた。瞼を閉じて佇んではいるが、目に映るものとは別の何かを見い出そうとしていた。それは何か。それは正にこの壁の奥に存在する、最も彼に近しいものだ。いつかそこに居た記憶を呼び戻している、そこに引き込まれた記憶を確と呼び覚ませば、再び招き入れてくれるのではないかと思った。その証に、彼の中にはまだ何かが残っている。
 ゴ、ゴゴゴ…
 洞窟の内側から鈍い振動と音が伝わって来た。誰も居ない洞窟側から崩れているのだ。
 ガラガラガラ…
 そして、暗闇の筈の洞内からは、突然太陽が現れたような眩い光が漏れて来る。まるでその光に砕け、溶けて行くかのように、大岩は土砂と化してふたりの足元を埋めて行った。
 そうして姿を現した入口。何故それを開けられると感じたのか、征士の理由が今は伸にも理解できていた。それは正に光だ。
「…まだこんな派手なことができるんだ」
 例え鎧との関わりはなくなったとしても、それらは元々己を構成するひとつの要素だった。今を以っても伸と「水」との縁は切れないように、征士が今も「光」に親しいことは変わらない。六十億の細胞に刻まれた個人の設計図、生まれ持った遺伝子がある時一度に、別の何かに入れ替わるとは考え難い。そしてだから、今も征士の呼び掛けに光は反応するのだった。
 恐らく、伸がそれを理解するのは容易なことだろう、とも征士は想像できた。
「いや、常にこうではないぞ。『この場所なら』と言った通りだ」
「ああ…、そっか。もしかしたら僕も、鳴門に行けばすごいことができるかも知れない。でも渦の中になんか行くことないからなぁ」
 今は穏やかな様子に戻って、伸はそんな感想を漏らしている。
「ハハハ、その方が良い」
 けれど征士はこの現象を否定的に示した。
「何がいいのさ?」
「…憶えているか、伸、迦雄須が朱天童子に話したことだ。鎧とは破壊の為の力ではなく、己を守る力だと言った。つまりは、必ずこの身を守れるものがなければ、力を持つべきではない。必要以上の力を持つことは滅びに繋がる、あの輝煌帝のように」
 勿論伸はその迦雄須の言葉を憶えている。そして征士の言わんとしていることも、充分過ぎる程に伝わったようだ。
「うん…。だからここに来ようと思ったんだね」
 ひとつ先回りして伸がそう言うと、
「そうだ。要らないものを捨てる為に」
 征士はそう返しながら、躊躇うことなく洞穴の入口を潜って行った。



 入口から三十分は進んだだろうか、どんな道を辿って来たかはもう忘れてしまった。
 まともに元の場所に戻れるだろうか、と伸が不安に感じているのも無理はない。自然の力によって形作られた、変化に富んだ洞穴を進むのは容易なことではなかった。またこれを引き返すとなると、どうにも気が遠く感じられて仕方がない。幸い水に沈むような場所には当たらずに済んだが、着ているものはもう、まともな状態とは言えなくなっていた。
 人の手が触れない洞窟内では、石筍から落ちる雫が忽ち雨のように、衣服を皮膚に張り付かせてしまっていた。夏ならばそれも良いかも知れない。鍾乳洞の内部は常にある程度の温度を保っていて、厚手の服地に染み込んだ水分は、そう早くは乾かないと思えた。再び外に出た時が恐ろしい。
 その他、乾いた藻類なのか、コウモリか何かの糞なのか、汚れの原因となる物が意外と洞窟には多い。それが湿った衣服や髪に付くと、落ち難いセメント状の厄介物になる。観光用に整備された一帯はきれいに掃除された後だと、伸は身を持って知る羽目になった。
 こんな惨状にもなると、最初から説明してほしいものだった。伸はどうにも納得がいかなかった。もし自分が案内する立場なら、予め全ての予定行動をシミュレートして、不備の無いよう注意事項を話しておくだろう。けれど征士の考え方は違うのだ。何があるかを先に明かしてしまうのは不興であり、仮にも戦士として働いて来た一員に、口煩い配慮は必要ないと思っている。
 人情的な計画性と、享楽的な合理性。その間を埋めるものは今のところは無い。
 まあ、伸も今は解っているから、結果を見るまで文句は言わないつもりだった。
 そんな風に、愚痴のような考えばかり頭に浮かんでいた最中、伸の目の前に突然開けた視界が現われた。入り組んだ洞窟にぽかりと空いた、そこは一際天井の高いドーム状の広場。そしてそこに征士の目指すものは在った。遠く離れた入口まで届いていた、光を発していたのは巨大な氷柱だったようだ。
「ああこれだ、今となっては懐かしいな」
 その荘厳な立ち姿を見て、征士は驚きもせず傍へと歩いて行くが、伸は初めて見るその光景に足を止めていた。本来は一寸先も見えない暗闇である筈の場所を、征士の意思を反射して輝き出した氷の塊。力を蓄える為に彼が眠っていたのは、深い闇をも切り裂く氷の棺だったのだと。それは密やかな事実であり、伸には新たな発見だった。
 又征士だけでなく、伸にも懐かしく思い出される事があった。己と同じ要素を持ちながら、妖邪となって人間界に存在する男が居た。その頑強な氷の力で何をしようとしていたか。それは己の大切なものを全て、永遠に守ることではなかったか、と。
『音がする…』
 何処かで、小川のせせらぎのような、絶え間なく水の流れる音がしている。鍾乳洞に散らばる地底湖へと、淀み無い水を運んでいるに違いない。そもそも岩の洞窟、鍾乳洞などと言うものは、海水や地下水の浸食によってできるものだ。そして水は地球の引力に引かれて、必ず下方へと流れるもの。闇と言う闇に、水の流れがあるのは当たり前の話かも知れない。
 それは、ただ無力な活動ではないと、この場に於いて伸は感じている。
 心臓の音を聞けば血の巡りが判るように、流れを聞くことは、この場所が生きている証明となるだろう。生命には全て流れが必要なのだ。
 そして君は、成熟を待つ胎児の様にずっとこの音を聞いていた。

 僕らは思っていた程、遠く隔たってはいないのかも知れない。と感じていた。

 嘗てそこに守られていた、懐かしくもある氷柱を囲む様にして、征士は持参した榊の枝を八方へと刺した。そして御幣(ごへい)を二本立てた間にお神酒として、爺様から拝借して来た日本酒の小瓶を開け、確とその場に据え置いた。
 恐らくその捧げ物は蒸気となって、雫となって、この洞窟を潤すものへと変わって行くだろう。それこそ尊い神の活動だと征士は信じられた。
「これで良い。もうこの力を求めずに済むように、封印する」
 そう言って立ち上がる、それまでの一部始終を伸は、少し離れた所でずっと見守っていた。
「ねぇ、さ、」
 そして一言。
「僕らの今って何なんだろう」
 それ程心配な様子には見えなかったが、伸はやはりまだ、何処か吹っ切れない思いを抱えているようだった。既に染み付いた戦士としての意識が、突然方向を失ったような状態かも知れない。続けられた言葉は切なく洞内を谺していた。
「戦わない日が来れば、元の自分に戻れるとずっと思ってたよ。与えられた義務を果たすことを、子供なりに純粋に理解してやって来たんだ。それなのに、終わってみたら僕には、大した意思も目的も残ってないんだ。それでいいんだろうか。それで元の自分に戻れたってことなんだろうか…?」
 ひとつの、全てを注ぎ込んで華々しく終わりを告げた、盛大なイベントの記憶がまだ鮮烈に思い出せる。
 その時々に感じた気持、出会った様々な事象に比べれば、普通の人間の日常生活などつまらない、安穏として退屈なものに思えても仕方がない。それだけ、彼等が考えなければならなかった事柄は、重く多岐に渡って彼等の脳裏に刻まれていた。
 今はもう極僅かな、身の回りの平和を願う程度の事しかできない。このちっぽけな存在からでは、もう大した力は発揮できないだろう。それでいいのか、と今更ながら伸は考えている。あれ程戦いが招く悲痛な結果を嫌って、そこから逃れようとしていた筈が、今は自身の奥から来る問い掛けに揺れている。
 それが彼の真面目さであり、優しさなのかも知れないが。
「戻れないだろう」
 しかし征士は言葉を選ぶことなく、簡潔に答を示した。
「記憶が消えて無くなる訳でもなし。大きな何かを与えられれば、大望を抱くこともできたが、今はもうできない。それだけだ」
 ただそう言いながら、彼の中でそう片付けられているかは定かでない。そう考えるべきだと、己にも暗示しているのかも知れない。それは何より伸の為に、だ。
「それが、僕らが望んでいた未来なのか…?」
「良いではないか、何も起こらぬ方が平和なのだ」
 巨大な獲物を追えば犠牲も付き纏うだろう。肉を切らせて骨を切ると言う通り、その痛みに堪え続けることを強いられて来た。けれど今後は、堪え易い者が担えば良いと征士は思っている。普通の人間の社会とは、全ての者が均等にリスクを負う場所ではないからだ。優しき者を、弱き者を、病める者を、不具の者を、他の何かが支えている普通の世界。
 それは伸にも幸福な状態ではないだろうか?。
「それに、代わりに手に入れたものもあるからな」
 最後にそう付け加えて、征士はやや名残惜しそうに輝ける氷柱を離れると、伸の方へと歩み寄って、同意を求めるようにその肩を抱いた。
「…相変わらず楽天家だな、君は」
「どう致しまして」
 そう、後ろ髪を引かれる過去も、あっけらかんとした現在も、変わらぬ事実の記憶となって行く。後になってみたら、今はこんなに愛しい戦士としての記憶より、その後の方が大切な記憶となる可能性もある。だから考えても仕方がない。記憶は変えようがないが、何れ記憶と化して行く未来は変えられると、征士なら普通に考えられるのだろう。
 そしてどの記憶にも、まだ見ぬ未来ばかりを見ている君が居る。思い出す度に自分も、彼が向いている方を見たくなると伸は思う。
 それはきっと、未来を夢見ている内に、幸福な月日が過ぎて行く暗示だ。
 これまでもそうだったように。

 暫し佇んでいる鍾乳石のドーム。長い年月を経て今の形を留めている天然の遺物。僅かな音や声が幾重にも反響しながら、遠い過去へも届くかのように響き入っていた。暗く深い迷路はこれからも拡がり続け、未来と過去を繋ぐ場所として在り続けるだろう。
 遠い過去、ここは海と陸が交じり合う場所だった。火山の噴火によって灰に埋められた海が、地下水となって血流のように流れ、現在の複雑な形状を造り出して行った。
 近い過去、ひとりの鎧戦士が難を逃れてここに飛ばされて来た。ここが鎧に縁のある土地だと知ったのは、あまり見向きもされない古い文献からだった。
 嘗てここで何があったかなど、地球上の殆どの者は知らない。
 否知らなくて良い。誰も知らなかろうと生きている。生きている間に出会えたものが、多ければ多い程幸福な時も増えるだろう。ただ普通に時が流れれば良いのだと伸は思った。今日はここに来て良かった、そんなことを知っただけでも…。
「…止めろよ、こんな所で」
 余りに静かで他に誰の姿もない。だから退屈し始めていたのかも知れないが、征士は抱き寄せた伸の顔に触れ、戯れにその耳を噛んでいた。
「何考えてんだか」
 痛む訳ではないが片手で耳を押さえ、伸がそう言って離れてしまうと、
「九月に会えなかったからだ」
 まだ記憶に新しい修学旅行の恨み。逃げられた征士の言い分もまた、過去の事実のひとつとして辺りに吸い込まれて行った。彼のもうひとつの用事が済むのは、伸の家に着いてからのことだった。

 無邪気で純粋なばかりの、昔の理想は思い出として葬っても構わない。葬り去ったとしても、忘れないでくれる人はいつも傍に居るのだ。









コメント)でもさあ、結局「Message」の段階でも、まだ力が残ってたりするんだよね(笑)。と、突然なコメントの始まりですが、私が「Message」に納得したのは正にそれであって、「輝煌帝伝説」で終わりにするつもりだった制作サイドの考えは、御都合主義だと思っているのです。子供が観るアニメだから仕方がないけど、付け足しでも「Message」があって良かったです。
ただ『青春の思い出でした』で済むような、学生運動並みの事件じゃないと思うんです、鎧戦士の戦いは。それをすっきりさっぱり終わりにできるかと言ったら、心理学的に無理だと思う。恐らく戦後の退役軍人みたいな心情になるはずだ、と私は思う訳です。
「輝煌帝伝説」自体は好きなんだけど、そのお陰で同人誌では、単なる恋愛話とか学園ものとか、普通のラブコメ傾向になっちゃったのが痛い思い出でした…(^ ^;。



BACK TO 先頭