征士とスーツ
FREE SPIRIT
フリー・スピリット



 ある初夏の日の朝、文京区のマンション。
 さて、今日も変わりなく仕事へ出掛けようと、玄関に立った征士の姿をしげしげと眺め、
「へぇ〜?」
 と、伸は些かからかうように感嘆の声を聞かせた。
「何だ?」
「君がこ〜んなにお洒落になるとは思わなかった」
 何となく、何か言われるだろうと予想はしていたが、「お洒落」と言う形容詞にはいまひとつピンと来ない征士。ボケたつもりもなくそのまま言葉を返すが、
「お洒落…なのか?」
 知らずにそうしていると知れば、あまりに彼らしいと伸は笑い出した。
「少なくとも実直堅実ってカッコじゃないよ」
 その出で立ちとは、昨日仕立て上がったばかりの、チェルッティのグレーのスーツにファルチの靴、ネクタイは貰い物だがエミリオプッチだ。貫禄ある大人のスタイルではないが、若いビジネスマンとしては渋めのラインナップだった。否、社会人二年目にしては贅沢かも知れない。
 で、何故そんなハイブランドで固めているかと言えば、
「店で言われるまま買っただけだ」
 と征士は話す。その真偽はともかく、ファッションの何たるかを全く御存知でない彼に、伸は自分も靴の紐を結びながら、少しばかり蘊蓄を垂れた。
「まあ、お洒落と言っても色んな方向性があるんだよ。君のはいわゆるコンサバってやつだ」
「コンサバ…」
「保守的って意味だよ、コンサバティブ。秀なら『それ旨い?』とか言いそうな英語だね」
「ハハハ」
 聞いたこともない言葉に、例に出された秀と同様の想像をしていた征士は、取りあえず笑っておくしかなかった。
「ファッションショーみたいな服も、ビジネススーツも、スポーツウェアだってファッション性ってものはあるんだ。着る物の選択は、一番手っ取り早い自己主張だからさ!」
 と、言い切って立ち上がる、伸の装いはある意味征士とは対照的だった。無地のビジネススーツに比較的幅の細いネクタイ、どちらもそれなりに高い価格帯のものだが、征士よりは随分若々しいイメージに全体を揃えている。手に取った鞄すら傾向が違う。ラフなナイロンリュックで出掛ける伸と、スタンダードな革のガーメントケースを持つ征士。
 因みにそれはバーバリーの製品で、就職祝いに家族が買ってくれたものだ。東京に居着くことには猛烈な反対を受けたが、一応お祝いはしてくれたようだ。
 いつもとは少し違った朝の会話。
 この一年半くらいの間、出掛ける前に行うこと話すことは、時事ネタやその日の予定の確認など、ある程度決まったパターンになりつつある。無論出掛ける前の身だしなみチェックや、持ち物を改めることに忙しいので仕方ない。早起きと言っても六時程度では、未だ続けている朝の素振りとシャワーだけで、ほぼ一時間消費してしまう。
 だからか、ほんのちょっとした変化が出掛けの気分を楽しくさせることもある。
「いい傾向だ♪」
 と、伸は明るい声を聞かせながら、征士より先にドアの外へと出て行った。彼が何故楽し気なのか、何がいい傾向なのかは全く解らないが、征士はそれについて意味を訊ねなかった。
 何故なら彼には既に答の出ていることなのだ。



 その日の夜、有楽町の某居酒屋。
 征士がその場所にやって来たのは、午後九時を回った頃だった。本来はほぼ毎日七時までには帰宅する彼だが、この日は就業後の会議があり、少し遅くなると伸には前々から伝えてあった。
 否、少しと言うには随分遅い。無論内容によっては、いつ終わるか判らない地獄の会議もあるだろう。五時半から七時半まで二時間の予定が、三時間になった程度ではそこまで文句も言えない。だが、居酒屋で待ち合わせをしていた相手は、無駄に一時間待たされご立腹の様子だった。
「遅せぇぞ!」
 と、顔を見るなり罵声を吐いたのは当麻だ。彼の苛立ちの原因はこの場所柄にもあり、時間を潰そうにも彼はあまりアルコールを飲まない、本を読もうにも、カウンター席しかない店は騒がしく集中できない。どうにもできず無駄な時間を過ごす羽目になっていた。
 こんなことなら普通に喫茶店を選べば良かった、と後悔しても後の祭り。
「済まん、電話した通り会議が長引いた」
「俺もそんなに暇じゃないんだ。研究者に取っての一時間がどれほど貴重か。さてこの埋め合わせは何がいいだろう?」
「飯でも何でも御自由に」
 しかし、不機嫌ながらも付き合ってくれる様子だった。
 尚この夜は内緒の逢い引き…と言う訳ではない。昼休みの間に当麻から連絡があり、会議の後なら会えると約束をしていた。用件は征士が頼んだ、とある書籍のコピーを渡すことだった。
 当麻は現在まだ学生である。突然の就職難に陥ったこの時期、考えた末大学院に進学することにした彼は、他の仲間達が皆社会で働く中、来年度もまだ学生の身分である。故に、彼の通う大学の図書館を利用させてもらおう、と言うのが今回の依頼だった。
 日中の征士は仕事で忙しく、国会図書館などにはなかなか行けそうもない。一般の図書館には専門書はあまり無いので、それなりに良い閃きだったのではないか。現に当麻は、征士の依頼通りのものを探し出したと、昼間の電話では小気味良く話していた。
 だが、肝心な用事の前に、
「それにしてもなぁ、おまえ。見た感じすっかり会社員だな」
 当麻はそんな話題を切り出していた。時間を無駄にしたくないと訴えながら、世間話を始める彼は珍しいと征士は思う。そもそも連絡を受けた時の感じでは、今すぐにでもコピーを渡したいと意欲が垣間見えた。それだけ彼は、書籍のチョイスに自信があるのだろう。
 それを差し置き、どうでも良さそうな話題から入るのはどうか。ともすれば予想以上に臍を曲げているのかも知れない。或いは既に酔っているのかも…。
 だが、
「会社員ではない、事務所員だ」
 征士もまたどうでも良い区別について話すと、そこで当麻が何を思い、不意な話題を出したのか知ることとなる。
「分類は何でもいいが、…いい服着てるな?」
 彼はそう言いながら、征士の上着の襟を引き寄せまじまじと見ていた。そう、今朝の伸ではないが、過去に例を見ない征士の服装が気になったのだ。昔から常にきちんとした格好ではあったが、ここに来て突然高級感を備えて来た。二ヶ月前は気にならなかったのに、と、状況の変化を話題にしたくもなる。
 ところが、征士の返事は意外なものだった。
「吊るしだ」
「嘘吐け、俺に見る目がないと思うなよ?。俺自身は着る物の価値なぞ興味ないが、安物とは明らかに生地が違うのは判る」
 当麻の指摘通り征士は嘘を、と言うより適当に答えていた。冗談だったのかも知れないが、ともかく見抜かれたなら事実を話すまでだった。
「そうか…。実は昨日出来て来たばかりなんだ」
 だが、誉められた筈があまり嬉しそうでもない。事情があるにせよ、新しい物を初めて身に着けた日と言うのは、多少晴れがましい気分になるのが普通だろう。当麻には征士の態度が酷く疑問に思えて来た。
「何故そんな意味のない嘘を吐く?」
「いや…」
 しかも征士はそれについて、あまり話したくなさそうに口籠る。
「意味はあるんだ」
「何だよ?」
 すると、当麻は思い付くまま持参した封筒を持ち上げ、征士の目の前にチラつかせながら言った。
「説明してくれないとコイツは渡せないなぁ?」
 用に絡めて話さければ渡さないと言う、一種の脅迫だ。勿論茶番ではあるが、恐らく何か話さない限りは本当に渡さないつもりだろう。
「関係ないだろ」
 と征士は返すが、強ちそうでもないと本人が知っている分、いまひとつ歯切れが悪かった。
 因みに当麻への依頼は、過去から現在に至る国内外の経済状況の、推移を年代別に読み易くまとめた資料だった。全体的なざっくりとしたグラフ等は何処にでもあるが、その時々の人気商品など、品目や銘柄に注目した資料を征士は欲しがっていたのだ。
 彼は大学では経済を専攻していたが、所謂証券や先物にはあまり関心が向かなかった為、主に法律系の勉強をし、現在通勤する特許事務所に就職した。学生の頃はそんな訳で、如何にも市場経済をイメージさせる資料には、あまり目を通して来なかった。が、
「わかった!。わかったから、渡してくれ」
 今になってそれが必要だと感じる、征士の心境の変化は何なのだろう?。毎日顔を合わせる訳でもない立場の者には、全く突然のことに思えて然りだ。
「じゃあどう言う訳か話してくれ。腑に落ちないまま帰るのは気持が悪い」
 征士が折れたのを見ると、それまで憮然としていた当麻も急に、普段通りの穏やかな態度に変えていた。服装の話と持参したコピーに関連があるかどうか、その時点では判らない筈だが、彼の予想ではその根本的な原因を読み取れる、何らかの話が聞ける流れを感じていた。
 そして征士は、本当に仕方なくと言う風に話し始める。
「つまり…簡単に言えば、私自身の好みではなく仕事の為なのだ」
 それだけのことを何故そう、言い難そうに話すのかがまた疑問である。そんなことは社会に出れば、当たり前に遭遇することのように思う。警察官なら嫌でも制服を着るし、ドレスコードが重要視される仕事も存在するだろう。
 だが征士の言いたいことは、そうした表面的な意味ではないようだ。
「その内飽きて来るかも知れんが、今は仕事が一番面白い。面白くなるに連れ、同期のみならず全ての同僚との競争も面白くなった。学校の成績とは違い、総体的な能力の評価を数値的に見ることは、一種のゲームのような楽しさがあるんだ。その上で、仕事上有利な身なりや持ち物があり、自分のスタイルを持てなどと話を聞くと、理由は解らなくとも、仕事に有利な方を取りたいと思う。…そう言うことだ」
 それが今に至る経過だと彼は言う。
 女性にはあまり共感できない感覚かも知れないが、例え畑違いであっても、当麻にはその気持は理解できるようだった。そして、
「別にそれは、いいことなんじゃないか?」
 当麻がそこまでの話に相槌を打つと、漸くその裏の思惟を征士は話してくれた。
「いや、ただ。私自身が変わったと思われては困る」
 なにもそこまで、生真面目に考えることもないだろうに。
 大体公の場所での服装と、家で寛ぐ時の服装は違うものだ。ひとつの面で全てを判断される訳でもなし、何をそう恐れているんだろう?、と当麻は思う。否その前に、征士はこうしたことに臆病な人間ではなかった筈だ。人がどう見ようと好きなようにする、自分勝手で風変わりな面のある性格だ、と当麻は記憶しているのだが。
 もしそれが、社会常識と言う圧力に押し負かされた結果なら、少し切ないと思う。殊に昔の彼を知っている者には。
「あくまで仕事上での変化だと、自分自身は納得しているが、服装はむしろ他人への意図を現すものだろう。私は真面目でありたいだけで、高く見られたい訳ではない。ブランドの価値など何も知らん。だからどうも、周囲を裏切っている気がして落ち着かないのだ」
 そこまで語り終えると、征士はグラスに半分残っていた焼酎を一気に空にする。それでほぼ話が終わったと見て、当麻は何とも言えない感想を一言漏らした。
「そう言うもんかね」
 将来的にも何らかの研究に携わりたいと考える、当麻には凡そ縁のない世界のことで、結局アドバイスも何もできなかったけれど。
 ただ、彼にも最近になって気付いたことがある。年の若い頃は、大衆の意見に従うだけの大人にはなりたくない、などと考える時期があるものだ。他人の決めた価値や格付けが下らなく思え、大人の世界が酷く歪んで映ることもあった。
 だが社会とは、格を認められてこそと言う面もある。誰しも怪し気な外国製品より、名の知れたメーカーの製品を買いたいだろう。そうした信用を作る為に、社会から支持されることは必要不可欠だ。だからこそ社会のスタンダード、或いは他人の格付けに従うことも必要なのだと。
 何しろ、大学教授の地位争いでさえ、多数の支持を集められるかどうかの世界だ。アインシュタイン程に飛び抜けた天才でもなければ、人格まで評価の対象に入るので厄介だ。服装を変える程度で有利になる職種なら、その方が楽でいいと彼は感じたに違いない。
 考え方さえ変えれば、それは楽しみにもなることだろうから。
 尚、現代日本に於けるコンサバの価値は、仕事相手に一定の安心感を印象付けることだ。服の素材や作りが高級なのは勿論だが、流行りを追い過ぎず古臭くもなく、派手過ぎず地味過ぎず体裁が整っている。つまり社会人としては、広い層に好感を持たれるスタイルと言う訳だ。それは特に接客を必要とする職種の者に、有利な条件となるのだろう。
 そのような意味で人に薦められていると、征士はまだ知らないにしても。彼が仕事が好きで、今は楽しくて仕方ないことならよくよく伝わった、と当麻は最後には笑った。
「確かに、征士が服に悩むことがあるとは、全然想像しなかったな」
「…私もだ」
 まあ、それも今の内だけかも知れない。今はまだ以前とのギャップに悩んでいるが、いつの日か慣れ切ってしまうかも知れない。これまでもそうして家の規則や、鎧戦士の仁義に従って生きて来たのだ。時が進めば人もまた変わって行く。
 ただ仲間達の誰もが、社会人として満足な生活ができているならそれで良い、と当麻は思った。否、最後に残った彼自身の切なる希望かも知れない。



 その帰り、征士が地下鉄の駅を出ると十時半を過ぎていた。
 そこから徒歩一分でJRの駅を過ぎ、更に八分ほど歩くと自宅マンションがある。部屋に到着するのは十一時頃だろう。少しどころか随分遅くなってしまった。「暇じゃない」と言いつつ、あれから当麻は一時間以上店に居て、今度は自分の身の上の愚痴を語り始めたからだ。
 如何なる分野に携わろうとも、人の悩みは尽きないものだ。
 しかしそれにしても。最初に当麻に話すことになるとは、と、今日一日を振り返りながら歩く征士の耳に、ふと聞き慣れた声が飛び込んで来た。
「おーい!、随分遅かったじゃないか」
 征士の予定に合わせ、夕飯は外食に出ていた伸だが、彼もまた予定外に遅く帰って来たところだった。
 まだ携帯電話がポピュラーでないこの頃、新しい物好きな伸は個人でPHSを持っていたが、事務所で借りるだけの征士には、既に連絡を取れない時間帯だった。自宅に電話をかけても出なかったので、何の連絡もなく偶然合流することになった。
 ただ伸は、駆け寄ると一番にこう言った。
「前にも増して、遠目でもすぐ君だとわかったよ」
 それは誉めているのだろうか?。それとも浮いている意味だろうか?。
 と思い、征士は今朝聞かなかったことを今になって訊ねる。
「伸には、今の私はどう見える?」
 すると彼は、征士には思いも拠らないことを話し始めた。
「え?、今朝も言ったけどいい傾向なんじゃない?。ホントはそう言う性格じゃないのに、君は意外と身近な人の期待に沿って、大人しくして来たところがあるよね?。だから今の方が君らしいと思うよ」
「私らしいか…?」
「あ、だって、君ほとんど仕事中毒みたいじゃないか」
 征士が自ら話さなくとも、判る人には判ることだったようだ。
 そして、それなら悩む必要はなかったと、征士は心の柵が解けて行くのを感じる。何故なら最も気に掛けていたのは彼のことだった。
 彼等が初めて東京に集った頃は、誰もが同じ横一線の学生と言う身分だった。その場合、親が金持ちだろうと貧しかろうと、あまり気にせず付き合えるものだ。だが成人となり、自らの力で地位を得て行くようになると、高い方に居る者は気にしなくとも、低い方に居る者は引け目を感じるようになる。同じ部屋に居ても住む世界が違うような、距離を感じられるのが征士は嫌だったのだ。
 前途の通り、伸の勤め先は比較的ラフな職場なので。否、それは見た目だけの問題で、収入はそこまで変わらないのだから、深く悩む程のことでもない筈だったが。そこには無論、征士に取って誰が一番大切かと言う意識が加わっている。だから彼は伸との格差が生じることに、慎重な気持でいるようだった。
 けれどそんな変化も、後になれば恐らくほんの些細なことだ。誰しも着る物に惚れる訳ではない、本人に魅力が無ければ服も映えない。
「でも、大人しいことは必ずしも美徳じゃないよ。ファッションとしては『保守的』もカッコ良く聞こえるみたいに、状況によって何がいいか悪いかは変わるんだ。君はそう気付いたんだし、服ぐらい好きなもん着ればいいんだよ」
 伸が続けた内容は、勝手な理想的解釈も含まれていたが、正に自分の求める理由と合致した話だったので、征士は何も言わず頷いていた。特定のスタイルを意識することは、ある意味型に嵌まろうとする行為であり、自由な意志の表現とは逆のベクトルに思える。だが彼に取っては、特定のスタイルが示すステータスに必要を感じ、自分の自由意志でそれを選択したのだ。
 立場や収入から考えれば、現在はまだ贅沢な身なりと見られるかも知れない。それでも自分がそうしたいからそうする。と言う、真の理由を知れば、全く征士らしい自分勝手ではないか。
「わかった?」
 と、話の最後に伸が一応確認すると、
「わかった」
 征士は今日初めて、とても機嫌の良さそうな顔をして返した。調子に乗られるのも嫌なので、伸は「よく似合うよ」とは言わなかった。



 しかし世の中は面白い。
 嘗ては鎧を身に纏い戦う、特別に選ばれた戦士だった彼等だが、現代日本の社会では、サラリーマンの集団を「兵隊」、ビジネススーツを「鎧」と表現する文章をしばしば見る。
 結局のところ、この国に貢献する意味では鎧戦士も、サラリーマンも何ら変わらないのだ。









コメント)10年発行の本を加筆校正しました。
元々征士メインの話として書いたので、征伸としてはかなり弱い内容だけど、社会人になった征士の葛藤を、同居する伸の評価と、当麻の洞察で納得する過程を楽しく書いた、って記憶が残ってます。TVシリーズで既にブレザーを着てたし、社会人なら征士はやっぱりスーツ!、スーツにこだわる男であってほしい、と思ってその理由を考えた話だな。
この本のコメントにも書いたけど、「Free Spirit」と言うタイトルは、91年発行予定だった、征士メインの本のタイトルだったんだけど、この本は落ちちゃったので改めて使いました。話の内容は、当時考えてものとは違うと言うか、もう当時何を書こうとしてたか忘れちゃった(笑)



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