新宿はビルの上。
FLASHBACK
at 1988



 これまで春、という季節にそれ程深い感慨を持った覚えはない。
 季節は知らぬ間にやって来ては過ぎて行くが、悠久の時の流れや、人の営みの儚さ、それらに思いを寄せる程の過去の蓄積など、まだ自分には持ち得ない時だった。けれど、今私には「春」の記憶がある。暖かくはない、明るくもない、空を覆い隠す程の満開の桜さえ、灰色にくすんでいた春だった。
 それはひとつの終わりであり、始まりであった。



 伊達征士は東京に向かう新幹線の中にいた。
 東京、と言えば日本の首都であり、この小さな島国で最大の都市であることは疑いがない。折しも目覚ましい経済発展が頂点を迎えたその頃、東京の街はそこかしこに富と安楽が散りばめられていた。希望を持てる材料はいくらでもあった。人々は夢見ることを止めない。例えそれが一夜で消える幻だとしても、失うことを深く考え込む人間はそういなかった。
 仕事は溢れていた、大して苦労をすることもなく、失った物を取り返せると考えられていた。誰もが明日の成り行きに不安を覚えはしなかった。大戦後の貧困から昇る一方で来たこの国が、手に入れたあらゆる幸福な物事を二度と失うことはない、と、誰もが平和な島国の幻想を信じ込んでいた。
 そんな飽和状態を「異常」と感じた者は、極僅かの者ばかりだ。他国の歴史上の出来事を見ても、大衆は事が起こってからでしか解らない。

 都市とは機能の集中する場所であり、そこにはあらゆる商品、娯楽、情報や思想が存在する。だからこそ人の目には魅力的に映るが、今の征士には、のんびりそんなことを思う余裕はなかった。
 勿論彼にも、都市の彩りに惹かれる気持が無い訳ではない。が、東京にはあまり良い思い出が無いのも事実だった。そこに住み慣れた者に取っては、隙間無く犇めき合う建造物も、故郷の懐の深さを見い出す存在に成り得る。しかし仙台に生まれ育った彼には、見渡す限りのビルの木立、絶え間なく行き交う見知らぬ人の波、視界の全てを埋めつくして、折り重なる金属的な都市の風景は息苦しく感じられた。幼少時に喘息を患っていたこともあり、不快な印象が直ちに、呼吸器に反映される「癖」を作ってしまっていた。
 なので征士は東京という土地に、概して良い感情を持たなかった。
 それまでは、それまではずっと。
 彼を運んで来た車両が町中に入り、ゆるゆると減速し始めるとその車窓には、前途の通り、今一つ馴染めない都市の風景が広がっていく。その日の様子は特に、春はまだ盛りの時期だと言うのに、新しい季節の煌くような光が感じられない。いくら東京とはいえ、この空気の淀み具合は奇妙だ。
「…やはり、何かある」
 征士は窓の外を眺めながら、人知れず溜め息を吐いた。

 異変を感じ取る者。
 それは特化した某かの知識や能力を持つ者、と言い換えられる。この時代の日本で何らかの危険を予測していたのは、一部の学者と、これからここに集う少年達だけだった。新学期が始まるというのに、征士がこうして東京にやって来た理由はそれだ。

 街中の線路を徐行しながら、聳えるビルの横を掠めるように進んだ車両が、上野駅の、所定のホームに静止するまでの暫くの間、征士はずっと難しい顔をして考え込んでいた。
 と言っても、周囲の人々がそれに気付いたかどうかは判らない。彼の表情ははっきりとは捉え難いと、幼少の頃から言われ続けて来た経緯がある。別段、意識して表情を殺している訳ではないが、恐らくそれが、彼のこれまでの人生そのものなのだ。
 豊かで厳格な家に生まれ、たった一人の男子であった彼は誰からも大切にされ、皆が世話を焼いていたことだろう。そして嫌でも人目を引くような容姿は、常に周囲に人を集めていたことだろう。つまり、彼は自ら愛想を振り撒く必要もなく、又いずれ家の後継者になる身として、自らを周囲の期待に沿うように作り上げて来た。即ち熟考した上での言動を義務付けられた、その結果が今の彼なのだろう。
 そんな征士ではあったが、今は少し冷静さを失いかけていた。
 駅のホームに降り立った時、車体から発する熱を掻き消すような、薄ら寒い気配が漂っているのに気付く。鳥肌が立つような、何か、怪しい物が沸き立つような感覚。けれど過ぎ行く人は何食わぬ顔をして、呑気な買い物話に花を咲かせている。何も見ようとしない、無関心にざわめく乗客達の笑い顔を眺めていると、苛立ちのようなもどかしさが、己の中に芽生えるのを知った。
 まだ年端もいかない一人の少年が、これから起こると予想される未曾有の危機に立ち向かおうと、東京を、否人間の世界を守る為に、自らの死さえ辞さない覚悟でここにやって来た。それこそここに居る、何かを知ろうともせず、幸せそうに行き交う人々を救う為に。
 誰も彼のことを知りはしない、知りようもない。この世界も未来も、全てが少年達の手に預けられていることなど。そしてそれは完全無欠の救世主でもない。このまま誰にも知られず命を落とす可能性もあるだろう。誰に感謝もされず、何事も無かったように、忘れられていくばかりの結末かも知れない。
 例えそれでも。
 それでも純粋な気持のみで、人間界を守る役目を与えられたことに、誇りを持って過ごして来たのだった。叶うことならせめて、誰か一人だけでも己の立場を知り、己だけを注目して見ていてくれるなら、と征士は思う。見知らぬ人の価値の無い言動、それを守る為の無意味な献身など、戦う意志に繋がる筈もないのだから。
 此の期に及んで、こんな気持を知るとは皮肉なことだった。
 
 ホームから改札に向かって階段を降りた。先程から征士が気にしている「何か」の気配が、一層強く彼を圧迫し始める。歩を進める度に、事態の核心に近付いているのがはっきりと解る。磁力に引き寄せられる鉄屑の様に、体がそこへと向かいたがっているのだ。
 与えられた知覚と能力の全ては、その為に在るのだと物語っていた。逸る鼓動に合わせて、段々足早になっているのにも気付かず、人混みを掻き分け、走り去るように改札を通り抜けて外に出た。その瞬間、
 見通しの良い不忍池の方向、頭だけが見える新宿の高層ビル郡の真上に、暗雲に包まれた黒い城が聳え立っているのが、彼の視界にすぐさま飛び込んで来た。そしてそれが己の目的地だと直感していた。
 征士は目の前に来たタクシーを止めて乗り込むと、
「新宿まで」
 と簡潔に行き先を告げたが、
「あっちは混んでるらしいですよ、いいんですか?」
 と運転手には即座に問い返される。
「構わない、行ける所まで行ってくれ」
 自分の足で走るにはやや距離があるように思えた。そう返す他はなかった。



 黒々とした城を包む怪し気な靄。その下敷きになった副都心、新宿はシンと静まり返っていた。
 そこは今にも雨が降り出しそうな暗い町並みの舞台。人で溢れている筈の新宿通り、猥雑な店が犇めき合う歌舞伎町、買い物客と旅行者とが入り交じる西口の電気街、通りと言う通り、地下道から駅から建物の内部まで、何処を見渡しても人の姿を認めることはできなかった。代わりに辺りを囲む、垂れ込める暗雲から発する妖気ばかりが、人の雑踏の様にざわざわと耳元で騒いでいた。
 結局乗り込んだたタクシーは殆ど進まなかった。それもその筈、車のエンジンを無力化する結界は、新宿を中心に神田周辺まで及んでいた。そこからアンダーギアに替えてここまで走って来たが、征士が通り過ぎた場所には、敵の姿らしきものは見当たらなかった。目的に辿り着くための手掛かりは、しばしば耳に聞こえて来る音だけだ。
 金属音、破壊音、即ち戦いの音。
 音を頼りに、比較的低い建物の屋根から上へ上へと、天を目指す様に征士は渡って行った。敵の位置を知るには、高い場所から見下ろすのが良いだろう。そうしてビルの屋上伝いに進む内、彼は、全ての始まりであるそこに辿り着いたのだ。

 そのビルの屋上には、己と同じような格好をしたもう一人の人物が、鉄柵に身を乗り出して、音が聞こえて来る下方を眺めて佇んでいた。征士が降り立った足音に気付くと、その人はそろりと振り返った。
「…やあ…」
 背後に立った者が敵でないことを確認すると、彼は明るい顔をして言った。
「君は仲間だね」
 ビル風に煽られる薄茶色の前髪の下から、至って友好的な言葉が発せられる。けれど征士は唖然として立ち止まっていた。この状況下の一場面にしては、何かそぐわない妙な気分を味わっていた。
 と言うのはその人のことを、「彼」と判断して良いのか迷っていた。否、よくよく見れば自分とさほど変わらない体格だが、その人の持つ雰囲気やその仕種が、同じ「戦士」という存在にしては柔らかく、軽やかで、そしてとても優し気だった。
 水色の戦士は、何処か掴み所が無い。
 目の前で立ち止まっている征士に、彼は事態に畏縮しているのだろうか、それとも意外な展開と感じただろうか、と思いながら愉快そうに笑い掛けている。と、先程から断続的な音が響く方向を指差して、そこを見るように、と征士を促した。すると漸く征士の足は動いて、彼のすぐ横まで歩み寄ることができた。足下の路上で繰り広げられている、求めていた光景を征士は漸く目にする。
 そこにはやはり、自分達と同じ格好をした少年が居て、薄気味の悪い、旧時代的な兵士との攻防をくり返している。征士はやっとここに辿り着いたと実感して、食い入るようにその戦いを見つめていた。ところが、
「あっはっは」
 突然横で笑い声がした。
「なんと、もう始まっちゃってるんだよ、戦闘が」
 彼は尚も楽しそうに続けるのだ。まるでスポーツ番組の中継でもしているように。
「…何を笑う…?」
 征士は笑っている彼の方に、きちんと向き直ってからそう返した。
 特に感情的な物言いはしていない。つまり征士が腹の底で感じたものも、言葉の上で相手に伝わることはない。しかし今は、前に在る素焼きの陶器のような皮膚の上に、体良く並んで笑みを零す顔立ちの、穏やかさが苛立ちを煽っている。
 何故こんな時に笑うのか。戦士として選ばれ、果たすべき使命を与えられて、普通に幸せに過ごせる筈の生活を犠牲にしてまで、危険な戦いへと身を投じにここに来た。廃虚と化した街に今は希望が見出せない、一人で奮闘している仲間を見下ろせば胸が痛む。そんな時に、何故愉快そうに笑っていられるのか。これが仲間の一人なのか、と思うと憤りを感じずには居られない。
 態度にこそ表さなかったが、征士はそんなことを心中に巡らせていたようだ。
「…怒りっぽいんだね」
 しかし、彼のその言葉には反応せざるを得なかった。
 上辺の感情を読み取られないことは、征士には十八番とも言える特技だった筈。彼が初対面でそれを見抜いたことには、少なからず驚くしかない。
「何故私が怒っていると判る…?」
 努めて平静にそう問い返すと、その答えは、至極すべらかな口調で征士の耳に届いた。
「目を見れば判るよ、目は心のまなこって言うだろう?」
 そして今度は、厭味ではない微笑みを彼は作って見せる。
『目を見れば判る…?』
 征士は自ずと、自分に向けられている彼の瞳を見た。
 それは、不思議な緑だった。
 笑っている筈なのに、その瞳には何処か奥深い場所から来る、遣る瀬なさのような色彩があった。そこに密められた美しい悲しみの投影が、睫の下で絶えず揺れ動いているのを見た。白か黒か、善か悪か、生か死か、ふたつにひとつで単純に割り切れる物ばかりが、この世に価値を認められる全ての存在ではない。曖昧さの中に悲しみは在り、人は曖昧さの中で生きていると。
 彼は悲しみを呼吸しているのかも知れない。
 彼は本当に笑っている訳ではないのだ、と征士は知った。

 緑の瞳、己の鎧と同じ緑色の瞳の上に、己の今の姿が映っていた。近似する色が溶け合い、混じり合い、どちらの色か判別し難くなっている様を見て、その場所が、予め自分に与えられたもののように思えた。誰かがいつも自分を見ていてくれると。誰かが理解してくれると、思いたかった。

「…ああ、あいつ危ない、そろそろ助太刀に行かないと」
 引き続き路上の様子を窺っていた伸は、そろそろ行動を起こす時だと、妙に大人しくなった征士に合図した。つもりだったが、鉄柵を越えようと伸ばされた彼の腕を、何故か征士は掴んで制止させる。
「何?」
 キョトンとして振り返る伸に、
「いや…、済まなかった、私は誤解していたようだ」
 と征士は丁寧な詫びを入れた。
「・・・・・・・・」
 暫しの沈黙。清々しい顔をした征士とは対照的に、今度は伸が固まってしまう番だった。何故なら『この状況下で笑うな』と怒っていた彼が、『急げ』と言う場面で悠長に謝って来たからだ。
 そのちぐはぐな遣り取りが、まだ互いのことを何も知らずに対している自分達が、可笑しくて、また笑い出しそうになるのを必死に堪えながら、伸は改めて征士に話してくれた。
「みんながみんな張り詰めたような顔してたら、疲れるだろ?。僕みたいな人間も必要だと思うよ」
 確かに、先程までは酷く視界が狭まっていたようだ。戦うことの意味を、価値を己なりに納得する為に征士は考え込んでいた。けれど、見方を変えれば苦悩も生き甲斐に、悲しみも安らぎに変わるものかも知れない。彼はそう言っているのではないか。
 途端に世界が開けたような気がする。
「そうかもな」
 自然に征士はそう答えられていた。
 
「智の鎧で悪を討つ、天空の当麻、見参!」
 辺りにそんな声が響いた。ふたりが慌てて地上を見下ろすと、そこには更にもうひとり、青のアンダーギアに身を包んだ、仲間らしき者の姿が確認できた。が、これは喜ばしい状況ではない。
「先を越されちゃったじゃないかぁ〜〜〜!、さあ、僕らも行くよっ!」
 言うが早いか、伸はもう柵の上に飛び乗っている。しかしその後更に、
「義の鎧で悪を討つ!、金剛の秀、見参!」
 との名乗りが聞こえて来た。時既に遅し、だ。

 

 落ちて行った。戦いの中に、力に引き寄せられる雨の様に、拠り所を見付けた稲妻の様に。
 ふと見れば伸は、やはり何処か楽しそうな顔をして笑っている。
 『ずっと笑っていろよ』と征士は思う。むしろ笑えなくなった時は本当におしまいだと思った。

 

 ただ殺戮と苦痛ばかりが在るのだと思っていた。
 無論それらが軽減される訳でもない。
 今日、明日、私は死ぬかも知れない。
 けれどそれでも良い。誰かが見ていてくれるなら。



 それが春の記憶。









コメント/わはははは、すっごい懐かしい話ですよねー。まぁこれが原点だから、敢えて書いてみました。この当時、確か東北新幹線がまだ、東京に乗り入れてなかったと思うので、上野で降りたことになってます。違ってたらごめん(笑)。



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