当麻と宇宙?
FIRST WORST
ファースト・ワースト



 そう言えば、ダニエル・キイスって誰だっけな?。
 ふとそんな名前を思い出したところだった。



 神田にある当麻のアパートでは、その日ちょっとした言い争いが起こっていた。事の発端は下らない、他愛無い日常的な話題に過ぎなかったが、
「『燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや』」
 と、当麻は釘を差す様な一言。
 故人には優れた洞察をする者もいたが、だからと言って、全ての者がその道理を理解して生きてはいない。無論その言葉を知らなければ何の意味もない。

「わかんねーって言ってんだよ!」
「中国人のくせに司馬遷を知らんのか、阿呆が」
 素っ気無い様子でそう言った当麻には、さしたる厭味のつもりもなかったのだろう。しかし秀はその場を立ち上がって、明ら様に穏やかでない様子を示していた。眉間に寄せられた皺、への字に曲げられた口、秀の感情表現は実に判り易いものだ。けれど怒り出すとは予想外のことだった。軽口程度の事でへそを曲げるなど、凡そ普段の彼らしくないではないか。
 秀のことだから、「三国志」は読んでも、「史記」や「孟子」などの思想文学には関心がないだろうし、今先刻口にした故事成語について、その意味を彼が知っているとも思えなかった。だから『解らない』と答えていた通りで、その事実には疑いが無さそうだと当麻は思う。
 ならば何故怒っているのだろう?。
 夏も盛り、エアコンを稼動させていても喉の渇きを感じ、当麻は冷蔵庫から冷えた飲物を出して来ようと、アパートの台所の前に立ったところだった。まだ本格的に気温の上がらない午前中から、買い物ついでに遊びに来ていた秀だが、何かに煽られる様に立ち上がった彼からは、今にも外へ出て行ってしまいそうな勢いが感じられた。
 秀はまだほんの小一時間しか滞在していない。だから言うまでもなく、そのまま出て行けばいいとは考えない。ただ理由が思い付かない当麻は、何と言葉を掛けて良いのか困惑していた。
 言葉を詰まらせる当麻、とは珍しい。もしこの場に征士か伸が居たら、それこそ手を叩いて喜ぶ状況だっただろう。しかし彼等はまずこんな場面に居合わせない。実際当麻の困り顔に出会えるのは、仲間内では秀か遼と相場が決まっていた。何故なら当麻の常識的な理屈も、機知に富んだ冗談も彼等には通じないからだ。そして通じない相手を思い測るのは難しい。
「あー…」
 暫し間を置いて、当麻が言葉を繕おうと口を開くと、それに被せる様に秀は話した。
「おまえ、前にも言っただろ、それ」
 怒っているのは確かなようだが、彼の口調は意外にも淡々としていた。頭に血が昇ると増して語調が荒れる秀にしては、些か無気味な様子とも受け取れた。
 けれど、だから大事な事だった。「前にも言った」と言う、その記憶を当麻は即座に引き出そうと、暑さに鈍りがちな頭脳を回転させ始める。忘れていたからには、大して重要な事件ではなかったのだろう。また当麻にはそうであっても、秀にはそうでなかったと言う事だろうか?。
 エアコンの自動制御の送風が、一時命を亡くした様に止まった。



 風が止んだ。
 休暇中の合宿を恒例にしていた数年前、柳生邸ではそれぞれが、生活の中での役割を分担して暮らしていた。そこには一応保護者らしき者が居たが、家政婦ではない、ナスティひとりに全てを頼る訳にはいかなかった。そこで彼等は自主的に発言して、自分達にできそうな家事を選び出し、毎日分担をローテーションすることにしていた。
 その日も暑い一日だった。当麻は風呂場の掃除を割り当てられていたが、やや遅い朝食後、早々にそれを終えてしまうと、以降はひとり部屋に篭って読書を始めた。前日から読み始めたばかりの、「春秋左氏伝」の続きが気になっていた為である。
 そしてその日の午前中は、接近する台風の影響で酷く風が強かった。干上がり気味の庭の土が、目に見えて舞い上がるざらついた炎天下で、外に出るのも嫌気が差すような天候だった。それに困り果てていたのは、洗濯物を干す役を当てられた秀だった。彼は山積みの衣類が詰まった洗濯籠を横に、朝からずっと窓の外を窺っていた。
 五人、否六人が暮らす場所では、洗濯物の量は並大抵ではない。洗濯自体は各自が自分でするが、それを物干に並べるのは分担する仕事となっていた。それがひとつの労働と看做される程、行動的な少年達、或いは清潔好きの少年達が産出する洗濯物は多いのだ。尚、屋内の小さなドライエリアは、ナスティの衣類と陰干専用の場所である上、とてもじゃないがその量を収容できなかった。

 風が止んだ、と外の様子に気付いて、遼とファミコンに興じていた秀は慌てて立ち上がった。雨が振り出しそうな気配はない。まだ昼食を済ませたばかりのこの時間なら、夕方までにかなり乾くだろうと予想もできた。秀が颯爽と洗濯籠を抱えると、
「俺も手伝う」
 と、途端に手持ち無沙汰になった遼が声を掛ける。秀はその申し出を有り難く受けて、ふたりは庭の物干に次々と衣類やシーツを並べていった。短時間に終えないことには、乾燥の為の時間を損してしまう。庭に出てからと言うもの彼等は非常にてきぱきと、工場の作業ラインの如きコンビネーションで、あっと言う間に洗濯籠を空にしていた。
 その一部始終を偶然、二階の窓から眺めていた当麻が思わず笑い出す程、それは妙に楽しそうな作業風景だった。けれどひとつ疑問に感じた事もある。後で失敗に気付く事態が無ければ良いのだが、と当麻は再び手中の文庫に視線を落としていた。

 そして日没近くのことである。
「あーあ、注意力が足りないんだから…」
 空腹を持て余して当麻が階下に降りて来ると、案の定と言うべきか、伸の小言のような声が居間から聞こえて来た。
「何があった?」
 食堂で夕刊を広げていた征士に尋ねるが、
「さあ?、洗濯物がどうかしたようだが」
 その関心の無さそうな態度からして、当麻の知りたい内容は得られそうもなかった。野次馬の様な行動は恥ずべき事だが、当麻はそろそろと居間の方へと歩を進める。伸の一言より後に、誰の声も聞こえないのが興味深かった。
 開いたままのドアから居間の中を覗くと、当麻の目には最初、大人しく洗濯物を纏めている伸が映った。そしてソファの向こうには、がっかりした様子で肩を落とす秀と遼が、シーツやタオルを手にしながら沈黙している。それだけでは状況は判別し兼ねたが、ふと伸の前に積まれた洗濯物を見ると、靴下やハンカチなど、極小さな物しか置かれていないようだ。
「何かあった訳?」
 あったに決まっているが、敢えて知らない振りをして当麻は声を掛ける。するとソファの向こうから振り返ったふたりが、泣きそうな顔をして当麻を見るのだ。どうにもバツが悪そうなふたりに代わって、伸は溜息を吐きながら言った。
「今日の分さぁ、もう一回洗濯しないと駄目なんだよね」
 落ち込んでいるふたりに、追い討ちを掛けるような事は言うまいと、伸は特にその理由を言わなかった。否ここで言わなくても、またそれぞれが自分の服を洗う時に、何が起こったかは大体想像が付くだろう。とにかく、みんなに二度手間をさせてしまうのを、秀と遼は酷く済まなそうにしている。怠慢の結果とも言えないので、そこまで咎めなくてもいいと伸は思っていた。
 それにしても、何がいけなかったのだろう?。午後からは確かに風は止んでいた。雨も降らなかった。近くで水遊びや土弄りをした者も居ない。彼等の干し方が特別悪いとも思えない。
 しかし、その一連の行動を見ていた当麻には想像できた。
「ハッハハハ、当ててやろうか」
 その極めて明瞭な笑い声に、秀と遼はキョトンとする外なかったが、
「物干が汚れていたって事だろう?。午前中えらい土煙が舞ってたもんな」
 全くその通りの事を言い当てられると、誰でも気付く事に気付かない不注意さを、ふたりは尚情けなく感じるばかりだった。そう、小物は洗濯鋏ハンガーに干すので無事だった。その他の物は直接物干に掛けた為、全てに汚れの帯が付いてしまった。と言う訳だ。
 ところが、当麻の見事な推論に疑問を挟む者が居た。
「よく判ったねぇ?」
 何処かしら白々しい様子で伸が言うと、
「…まあな」
 当麻もその疑惑の視線には気付いたようだ。何故なら生活態度全般に於いて、当麻もこのふたりと同程度のレベルだと伸は見ている。家事に対する想像力が、それ程働く人物ではないと判断されていた。拠って、何かそれを予想させる事があったのでは?、と伸は考えている。流石に遼や秀と同様に誤魔化せる相手ではない、と当麻は観念したのか、種明かしをするように話し始めた。
「二階から見ていたからさ。風が止んだと喜び勇んで、庭に走り出たみたいだったしな。あんまり勢い良く回してたから、何か失敗するんじゃないかと思った…」
「…ふーん…」
 しかし話を聞いた後も、伸はまだ何かを言いたそうに口籠っている。そこで、何を勘違いしたのか知らないが、突然遼がいたたまれない様子で口を開いた。
「済まなかった!、秀、俺が気付かなかったばっかりに…」
「何言ってんだっ?、遼のせいじゃねぇって」
 お得意の自己卑下に走りそうな遼の様子を見て、秀は慌てて、運命共同体と化した彼を庇いに出る。
「ったく、見てたんだったら、一言言ってくれりゃいいのによっ!」
 そして秀は俄に話の矛先を当麻に向けた。それは強ちお門違いでもなかった。
 何故なら伸が言いたかったのもそれなのだ。二階の窓からなら充分声が届くだろう。当麻は何故それを傍観するだけで、一言声を掛けなかったのか。例えふたりの作業の途中で気付いたとしても、その時ならば全滅は間逃れただろうに。
 そしてこんな場合に当麻の取るべき行動は、素直に謝るか、事情を説明するかと言うところだが、彼はそのどちらをも選択しなかった。

 普通でない感性。普通でない環境から齎された彼の個性。しかしそれが良い面でばかり働くとは限らない。その頃の当麻は、ただ大人びただけの子供だったに過ぎない。
「自分で学習しなければ意味がない。俺はお前達の行動を見て学習させてもらったが?」
 傲慢とも思える当麻の言い分。無論、秀と遼のふたりが素直に受け取ったとは思えないが、彼等の性格から考えて、与えられた烙印はそれなりに辛いものだった筈だ。例えば当麻とは話し慣れている征士なら、一理ある、と言う程度に受け取るのだろうが、秀と遼では恐らくこう考えただろう。
『そんなに俺は、俺達は、お前から見て駄目な人間か?』
 しかし、
「あーあー、そうだよなぁ。天空殿から見りゃあ、俺等はどうしょうもねぇ馬鹿だよな」
 と秀は歯向かわずに返した。
 どの道汚れた洗濯物がきれいになる訳でもない、言い争いをするだけ無駄だと思ったようだ。それと、当麻には本当に傷付ける言葉は言えないと、秀は何処かで気付いていたのだ。否誰もがそれを案じていた、彼の周囲を巡るピリピリとした拒絶心が、却って彼の弱い部分を露見させていること。
 誰もひとりで生きてはいないと、まだ実感として理解できない彼の状態。
「俺はどうして何をやっても駄目なんだ!」
「そんな事ねーよー…」
 まだ落ち込み続ける遼には、根気良く返事を返し続けていた秀。馬鹿で結構、見下げられる側に居る者は、叩かれるだけ心を強くするだろう。元々「馬鹿だ」と言われても大して傷付く訳でもない。頭の出来の良し悪しよりも、世の中には大事な事が沢山あるだろう、と思う。
 秀はそんな思いを巡らせながら、逆に拒絶されると脆いかも知れない当麻には、厳しく楯突く事を避けていた。
 知らないのは本人ばかりだった。
「『燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや』と言うんだ。一角の人物とは広い視野を持ち、臨機応変に考え、常に客観性を失わないものだ」
 当麻はさらりとそう言うと、一段落した雰囲気を覚ってその場から離れて行った。居間に残った三人は、「その言葉は何だ?」と、その時は顔を見合わせただけだったけれど。



 その時は確かに怒らなかった。意味を知らなければ怒りようもない。

「…ああ、そう言えば言った事があったな」
 雑多な記憶の中から、当麻は漸くそんな場面を思い返したところだ。
 だが、今同じことを言われて怒っている秀は、言葉の意味を既に理解したと言う事だろうか?。因みにその意味とは、燕や雀のような小さな鳥には、鴻や鵠のような大型の鳥の思う事は解らない。つまり小者には偉大な人物の考え方は理解できない、と言う世の道理を例えた言葉だが。
 息苦しい雰囲気を遮ろうと、当麻は冗談めかした陽気な口調で話す。
「あれから勉強したようだな?。少しお利口になったじゃないか」
 けれど秀は乗っては来なかった。
「ああ、何を言われたかはよーく分かってる。別に阿呆だの馬鹿だの言われたって、俺は全っ然構わねぇんだがな、」
 変わらず淡々とした口調で、こう続けるのだ。
「お前は何を言ってるか分かってんのかよ?」
「…何、って?」
 秀の頑な様子と、更に質問で返される状況を予想しなかったことで、当麻は再び言葉を詰まらせている。そして彼を見詰めている秀の目には、何かを懇願するような色が浮き上がっていた。それは恐らく、そうであってほしいという彼の理想だ。秀はいつも、己の理想とするものを確と見据えている、そんな奴だった。
 燕雀の価値も、鴻鵠の価値も宇宙的規模で言えば同じだ。
「自分は普通の人間とは違う、みたいな言い方やめろよな!。そんなに俺達と同じじゃ不服かよ?」
 当麻が勘違いを繰り返さないように、と彼は心底望んでいるのだ。

 思い返せば、孤独だと感じていた時間は酷く長かった。
 家族でさえずっと傍には居てくれなかった。だからいつの間にか、自分はひとりで立っていると、自分はもう大人なのだと錯覚していた過去。けれどそれももう昔の話だった。仲間達は、孤独に凝り固まっていた自分を救ってくれた。今はそれをよく理解できていると思う。淋しいと感じる心は、恥ずかしいのではない、人間らしい感情なのだと。
 それが解るまでに随分と長い時が費やされた。他人を必要とする感情は、ただ子供っぽい甘えのような気がして、本当の自分を押し殺すことばかりしていた。なまじ知識量が豊富だった分、理屈を言って誤魔化すことができてしまった。その繰り返しから、尚状態を悪くしていた事も知らずに。
 ただ只管、人を寄せ付けない態度に終始していた。幼い精神が防護の為に閉鎖した世界を、完成した姿だと思い込んでいた不運。自業自得でもあったと思う。なのに、それでも自分を信じてくれる奴等が居た。自らが信じる意思を失っていても、誰の上にも恵みはあるものだと今は思う。

「済まない」
 過去の自分の稚拙さを思いながら、当麻は素直に謝っていた。
 自分は普通の人間とは違う、とは、彼が作ったひとつのスタイルに過ぎなかった。そう思い込まなければ、自分自身を支えられなかったからだ。人ひとりが持って生まれる財産の中に、条件を満たした『家庭』が含まれる者は多いが、自分は代わりに別のものを貰ったのだと、それを盾にして生きるしかなかったのだ。思えば単なる僻みでもあったかも知れない、と、今の当麻は自然に笑えるけれど。
「…秀の事を、小者だと思った事はないが、一度付いた癖はなかなか治らないもんだな」
 そう言って、当麻は些かはにかむ様な溜息を吐いた。
 過去の自縛からは脱出できた今でも、ふとした時にその名残りが現れてしまう。完全に制御できない自分を未熟にも、嘆かわしくも感じる。けれど、
「癖かぁ、そりゃなかなか治んねぇよなぁ…」
 秀は普段と変わらない態度に戻って、そう返していた。
「ま、誰にでもそういうのはあるよな?」
 司馬遷の例え話が、故意に選択された言動でないなら、秀としては最早咎める理由も無かった。ただ自らを誰の手も届かない場所へと、押し出すような意識は阻止したかっただけだ。大事なひとりの仲間の為に。



 心とは、奇妙な磁場なのだ。
 この心の何処かに、変わらず住み続ける我侭な子供が居て、それが時々表に出たがって、何かを主張しようとするのだ。「三つ子の魂百まで」と言うが、子供のまま進歩を止めた欲求が、何かの折には瞬時に呼び出されてしまう。過去の辛い記憶を思い出すと、現在は幸福であっても涙が出るように、今の自分の意識とはまるで無関係な、もうひとりの自分がが変わらず存在している、心。
 それは最大の迷惑者。
 しかしそれを完全に失ってしまえば、やはり自分ではなくなってしまうだろう。
 何故ならそれが原点、自己の出発点なのだから。
 どんなに忘れたい記憶であっても。普段は忘れている記憶であっても。

 人間の一生の中で、どの部分に困難がやって来るかは判らない。幼少期に歪んでしまった人格を抱える者には、周囲が手を差し伸べてくれる場合もあるだろう。けれど、もう滅多に顔を出さなくなった、頭でっかちで生意気な少年の面倒を見るのは、今や大人となった自分自身だと、当麻は最近になって感じていた。
 そしてそれについても、ひとりで苦労する必要はないと知った。
 誰かが助けてくれることを知った。
「俺も小さいねぇ」
 当麻が言うと、
「フハハハハ!」
 苦笑するように吹き出した秀を見て、誰に取っても最善の状態に居られる自分を、自己の幸運を思うばかりだった。
 


 そう言えば中学に入った頃、『アルジャーノンに花束を』と言う小説を読んだ。
 当時は本当の話の意図などまるで解らなかったが。









コメント)2002年に発行した本の小説を、少々改校しての公開です。発行した当時は、いまひとつな話だなぁと言う感じだったんですが、今読み返してみると割とそうでもなかったですね。と言うか、もっと動的でテンポのいい話にしたかった、と言う思いが強かったせいかな。
本のFTに書いてあった通り、当麻と言うキャラの背景が、ちょっと自分に被っている面があって、当麻について掘り下げて書くのは楽な面もあり、辛い面もあると言う、個人的な苦悩が滲み出た当秀シリーズのような気がします(^ ^;。だから痛快な話にしたいのなら、秀をメインに動かさなきゃいけないんだけど、この頃は当秀に書くにあたって、まず「当麻について考えてみよう」と言うテーマがあったので、結果的にしょうがなかった思います。




BACK TO 先頭