二人の伸
DRIP DRY EYES
Life as Sing a Song



 泣くことはスレトスの発散になると言う。
 目から涙が出るのは一つの生理現象なんだろう。雑多な思考の洪水に、疲弊した心を程良く整える活動が、体の中で起きているのが判る。
「…、…すん」
 ただ何を見て、何をして涙するかは個人差があると思う。テレビ番組やネット記事に、しばしば泣ける本だの、泣ける映画だの、最大公約数的な万人向けタイトルを、評論家が紹介しているのを見掛ける。
 例えば伊藤左千夫の「野菊の墓」など、定番の小説で映画化もされた。もっとお手軽な娯楽として、「はじめてのおつかい」を観て泣くと言う、世間一般の意見を耳にすることがある。要は自身がどの視点に感情移入するかだが、
『こんな年になって、馬っ鹿みたい』
 と、伸はハンドタオルを目に充てながら、テレビに映る山谷の景色を見ていた。否、泣いているのだから、その場面は記憶にあるだけで見ていない。
「でもハッピーエンドはいいね」
 例え低俗でも単純でも、人らしい感情に満たされ、涙するのは悪いことじゃないと思う。そう彼は納得するように呟いた。
 社会制度や戦争は、個人で解決できる問題ではないだけに、従いつつ抗う人々の物語は、多くの人が感動や共感を抱くのだろう。今、ファシズムの台頭する故郷の国を捨て、一家で亡命した家族が新天地に立った。
『定番的な手法があって、まんまと乗せられるのは癪だけど』
 今現在は既に、商業的に脚本や演出の理論が確立している。けれど隆盛期のハリウッド映画には、計算とは別の素朴なエネルギーが感じられる。つまり理屈を知らなくとも人は生きている。一昔前の人々はその分逞しく見える。その実直な姿に、泣きながら明るい気を得た伸は歌い出した。
「ド〜は鹿、雌の鹿〜、レ〜は陽の光〜」
 日本でも知られる「ドレミの歌」だが、映画を観るとやはり、元の歌詞の方が内容はしっくり来る。無意味な名詞の羅列ではないからだ。但し歌詞を乗せにくい部分があり、彼は自らおかしな点を笑っていた。笑うと同時に、よく見る舞台演技のように手を動かし始めた。
 太陽を仰ぎ天に開いた腕は、象徴的なポーズのひとつだ。
『大体ミュージカルやオペラって、日本人にはオーバーアクションで、あまり気持ちが乗らないもんじゃない?』
「ミ〜は自分の呼び方〜、ファ〜は遠く走れ〜♪」
『しかも舞台だった脚本の映画化だし、役者の声が直接響く訳でもない』
 歌いながら、動きながら、実はそんなことを考えているのだが、よく言う右脳と左脳、理性的思考では反発を覚えながら、感情的に寄り添ってしまう物事は多い。それを羞恥なり嫌悪なり、どう捉えるかは個々の選択次第だ。
「ソ〜は針で縫うこと〜!、ラ〜はソの後に〜!、ティ〜はドイツパンに添え〜、さあドに戻ろ〜♪」
 観ていたディスクを片付けながら、最早彼は舞台上の役者さながら、楽しげな長調のリズムに乗っていた。
『何とも爽快だ』
 子供の頃に観た時は、兄弟の一人に同調したかも知れないが、さすがに今は、あの手この手で盛り上げ、子供を懐柔する家庭教師の頑張りに、気持ちが入っていると伸は思う。
「曲が良いのは確かだ」
 映画に於いて音楽は非常に重要な要素である。「2001年宇宙の旅」など、「ツァラトゥストラはかく語りき」を使わなければ、あれほど話題になっただろうか。音は波動である為、生物の心臓に直接影響を及ぼし、名曲とはその影響力が強いものを言う。
『でもそれだけで清々しいんじゃない。それだけで泣いた訳じゃない』
 音の旋律に揺られ、歌い踊るだけなら太古の人々と同じだ。現代人にはそれとは少し違う、複雑な感情の動きがあって然り。
「クラ〜イム、エ〜ブリ、マウンテ〜ン!、オーバー、ザシ〜♪」
 全ての山を登ろう、海を越え、虹を越えて、一家の物語はクライマックスを迎えた。
『よくある流れだけど、やろうと思えば何事も越えられる、人生を変えられる可能性に感動があるんだ』
「…と思う」
 ケースに納めたディスクを棚に戻す頃、つい数分前に高まり泣いた心が、微風に凪ぐ海面の静けさへ戻って行った。伸はテレビの前から反転すると、全く快活に次の予定へと動き出した。
「さって、すっきりしたところで買い物に行こう」
 春先の午後は、日が沈み出すと思わぬ冷気に晒される。なるべく早い内に用事を済ませ、家に戻って来たいものだ。
 戻れる場所があることの何と幸福なことよ。



 まだ彼の誕生日には少し間があった。
 同居人の誕生日前は、凝ったことをしようと毎年忙しくなるが、三月上旬は仕事の慌ただしさも一段落し、比較的のんびり過ごせる時期だ。
 春の訪れを風に感じながら、我が国の象徴である桜の開花を待つ、それなりに平和で、それなりに余裕のある生活をしていることの、有り難さや尊さを花は感じさせる。植物の無心に生きる姿を愛でる意識は、正常さを表すひとつの指標かも知れない。
 実際よく聞く話だろう、不毛の土地に初めて野菜の花が付く、防空壕の脇に咲く雑草に励まされる、不治の床で枕元の切り花に心を寄せる、など、人は苦悩に在る時ほど、その美しさや力強さに惹かれるものだ。
 それまで注目されなくとも、否、注目されようとされまいと花は咲く。その点桜は、日本中で心待ちにされる幸福な樹木、と言えるのだが、
「…っくしゅん」
 この時期、同じ花でも歓迎されない種は多い。
『ニュースで言ってたっけ。花粉症でもないのにくしゃみが出るし、春一番って言葉はいいけど嫌な風だよ』
 近年急増した杉花粉症は、明らかに人災であるが、自治体は治療費を補助するどころか、製薬会社の利益に喜んでいるようだ。本来は特に強いアレルギーのある、少数の人の不快症状だったが、大量の花粉に晒され続けると、誰でも発症する可能性はあると言う。
 幼少期、樹木の多い場所で過ごした遼などは、抗体を持つ可能性が高いが、現代人には多くないタイプだろう。花粉情報を天気予報で聞く度、今年はなるんじゃないかとひやひやする。それも近年の春の気分になりつつあった。
 ただでさえ春は風が強く粉塵が舞う。大陸から来る黄砂も体には悪い…
 と、くしゃみひとつに微かな怒りを覚え、伸は遠い景色に滲む都庁と、高層ビル群の影を眺めながら歩いていた。杉を植林した時代の都庁とは違うにせよ、姿の際立つビルはバベルの塔ほどに、人の浅知恵を示しているようだった。今や木材の需要は激減し、余計な病に悩む人ばかり増えたのだから。
 心地良く、麗な春の花を愉しむ、当たり前の事が不可能になるのは悲しい。通り掛かった花屋の店先は、冬場より遥かに賑わっているのに。
「ん、そうだ、しばらく買ってなかった」
 すると、そのカラフルな明るさに惹かれ、折角気付いたから何か買って行こう、と彼は店の前で足を止めた。
 冬場からあるストックに加え、新たに入ったフリージアやポピー、チューリップなど、春の可愛らしい花が並んでいた。その店内の、スミレやデージーの鉢植えも色に賑わっていた。けれどそんな中、アリッサムの細かな純白の花弁を見ていると、彼の頭に音楽が流れ出す。
『エーデルワ〜イス、エーデルワ〜イス』
 残念ながらまだ店に並ぶ時期ではなく、歌に合わせることはできないが、同じヨーロッパの景色を思うと彼は、
「この時期は水仙かなぁ」
 と、切り花のバケツ群を振り返った。水仙は白から黄味掛かったもの、爽やかな黄色からオレンジに近い黄色と、バリエーションは少ないが、温まり始めた春の空気に似合う色調だ。ピンクや紫の花も良いが、春先の色はやっぱり白から黄色だな、と彼の選択は絞られて行く。
 そして今一度店内に視線を戻すと、鉢植えの並ぶ奥に、ディスプレーかと思われたが、よく見ると商品のミモザの枝があった。これぞ鮮やかな春の黄色と、自ら主張する枝ぶりは実に絵になる花だ。
「これだ、こっちの方が今の気分」
『あの一家が移り住んだ、東海岸北部の景色はヨーロッパによく似てる』
 ヨーロッパでは、毎年三月八日にミモザが開花するとされ、その日は国際女性デーとなった。1975年に国連が定めるまで、女性参政権運動の様々な事件が起きたが、丁度観た映画の主人公も働く女性である。春とはきっと快活な女神が地上に溢れ、賑やかで楽しげな空気を作るのかも知れない、と伸の口元は自然に綻んだ。
「すいません、これ二、三本ください」
『ヨーロッパの春と言えば、リンゴやアーモンドの白い花、明るい黄色のミモザや水仙』
 そんな彼のイメージに、ピタリとハマる花があって幸いだ。折角だからついでに、部屋のファブリックも模様替えしたいな、などと、彼の思考は更に先へと進んだ。
 抜き出した三本の枝を束ねる、エプロン姿の女性はあまり見覚えがなかった。この店には幾度も来ているが、顔馴染みの店員なら、ラッピングの間に花に関する薀蓄や、世間話を気軽に持ち掛けて来る。けれど、その人は些か緊張を見せながら言った。
「お好きですか?」
 この春から社会人になったとか、初めて就く業種だとか、恐らくそんなところだろうと、伸は努めて朗らかに返す。
「ええ、絵になる花ですよね。アカシアの蜂蜜も好きですよ」
「よくご存知でいらっしゃる」
 唐突に蜂蜜を持ち出したので、店員はくすりと笑い、俄かに場の空気が和むのを伸も感じていた。笑いが取れれば満足な場面だったが、ミモザはアカシアの一種と知る程度に、草花が好きそうな人物であることが、店員の好感度を上げもした。
 大体世の男性は、花の名前など殆ど知らないものだ。単なる丸暗記でも、知っているだけで印象良くする要素だと言うのに。
『アカシアの花も白い。青を含まない色はみんな明るい。憂鬱をブルーとは言ったもんだ』
 さて、伸の捉え方はあまり女性向きではないが、理由はどうあれ、この春は明るく始まりそうだと、陽光に染められたミモザの花を彼は見詰めている。代金を支払い手渡されると、
「どうも!」
 もう、すぐさま部屋の模様替えをしようと、彼は半分駆け足になって店を出た。
「あ…お客様、ちょっと…」
 慣れない店員が一言、何か言いたそうな様子で止まっている。まあもし、釣り銭を渡していないなど、重大な事なら追い掛けて来るだろう。そうはならなかったので、伸は明るい閃きのまま軽快に行ってしまった。
 自然な春の色は黄色と白、そして若葉の緑と土の茶色。その四色の取り合わせで家具やカーテンを揃えよう。
『ガラッと変わってたら驚くかな』
 時間は午後三時を過ぎたところで、これから夕食の買い物もしなければならない。果たして同居人が帰宅する、夜七時頃に達するまでに、彼は素敵なサプライズを実現できるだろうか。

 その後、急ぎ足でスーパーマーケットに入ると、店内には早春の定番、「さくらさくら」の曲が流れていた。忘れていたが雛の節句は明日なのだ、マーケットの入り口に山と積み上がった、桜餅や雛あられ、菱形のおこし等が春の色彩を作り出していた。
 そこまでは良いがよく見ると、伝統的なお節句とは関係の無い、桜色のパンやチョコレート、桜入りの緑茶、桜入りの大根の漬物…。最早桜であれば何でもいいような、現代の商売らしさがそこにあった。
 否、待て、旧暦の雛祭りは桜の時期だが、ソメイヨシノの開花はもう少し後になる。雛祭りと桜は直接関係は無いのだし、今桜をアピールしなくとも良い筈だ。と伸は気付く。
『桜の記憶が強すぎるんだ、僕らも、日本人全体も』
 日本人の桜好きは、恐らく飛鳥・天平時代からの流れだろう。万葉詩集に散見される、奈良の春の風景は余所者の憧れだった。奈良の山桜、イコール都への憧れであり、天皇家や豪族への憧れでもあった筈だ。
 即ち、桜は我が国そのもののイメージ、と言えるかも知れない。それだけに近代の悲惨な結果を招き、素直には愛せない花となった。無論政治家や政党の主張も、素直に受け入れ難いもの、継続する生命力の内には美的な面と、必ず毒が含まれるのが判る。
「綺麗だけで終わったら意味が無い」
 花の見頃を過ぎると、平和な現国民の大半は、桜について物思うことを忘れてしまう。忘れていられる平和こそ幸いだが、恒久的に継続する平和は存在しない。その時慌てて過去を振り返り、愚を繰り返す我々の果敢なさを見るだろう、と彼は理解するので、一昔前に比べ、過熱気味の季節アピールに辟易して来たところだった。
 商業戦略に操られる春など要らない。
 そうでなくとも桜は、元鎧戦士に強く重い意味を持つ花だ。故に彼はこう考える。
『憂う桜の淡紅色もいいけど、やっぱり年の始まりは明るい方がいいな』
 自分で自分をお祝いする気になるじゃないか、と。
 年始に飾られる蝋梅も、新たな日の出を思わせる優しい黄色、或いは黄金色と見て、天照大神を讃えるのかも知れない。天皇家の象徴である菊も白か黄色である。それならば、
「うん、今日は前祝いに少し奮発して、チーズフォンデュでもしよー」
 我が国の祝賀気分として、伸の頭に浮かんだ黄色の食べ物。まだ寒さの強い今頃には丁度良く、簡単なパーティ気分を味わえるメニューだ。
 購買意欲を盛り上げる「さくらさくら」から、特に関係の無い、自身の誕生日へと思考が飛ぶと、彼は早速ナチュラルチーズの売り場へ足を向けていた。そして引き続き彼の中では、映画の一曲が流れ続けていた。
『エーデルワ〜イス、エーデルワ〜イス』
 世間一般が桜色の夢に染まろうと、好きなイメージを選択する権利はある。ナチの理想に染まらなかった一家のように。
 そんな意識でいたせいか、ドレミの歌の歌詞にある、ドイツ風のハードパンを選んで購入した。チーズフォンデュはスイス発祥と聞くので、ドイツパンで間違いは無いだろう。



「うーん春らしい!」
 すっかり日も暮れた午後六時半頃、伸は部屋を見回しご満悦だった。つい数時間前の思い付きを速やかに、ほぼ完璧にやり遂げた充実感は、軽い疲労を喜びに変えている。
 カーテンとテーブルクロスは若草色に、フローリング床にはオフホワイトのカーペットを。居間のソファには鮮やかな黄色の、北欧モダンの花柄ファブリック。各所に置かれた観葉植物の鉢も、温かみのあるチョコレート色の和紙で覆った。
 予定通り夕食の支度をし、最後に、白磁の花器を選んでミモザを生けた。玄関から続くドアを開けると、真っ先に目に入る窓辺の華やかな春。眩しい日差しや蜂蜜の零れるような、花の房の明るく楽しげなこと。
 そう、少し方向を変えるだけで、現実世界は百八十度変わることもある。軽やかにその時々の愉しみを渡る、東風のように春を生きたいものだ。
「桜のイメージに縛られて、他の発想ができないのは損だよね」
 勿論桜が嫌いな訳ではない。寧ろ花見に賑わうだけの人々より、遥かに桜について考えているせいか、時には牢獄や迷宮に感じることもある。彼に取って桜の季節は重いのだ。
 だから偶には、一点の曇りも無い快晴の気分で居たい。
 と、心底素直な意識を口に出したら、
「あとは僕の太陽が帰って来るのを待つだけ〜」
 酷く珍しい言葉になっていた。伸の何処かにほんの僅か、微かに存在する崇拝的な憧れは、陽の回りに依存する地球人と同じく、ごく自然な感情だけれども。
『なんて、本人の前では絶対言わないけどね』
 子供ならともかく、心の全てを曝け出しては生きられない。無意識下に隠し事を持つのもまた、ごく自然な人の姿だろう。
 だが稀に、編み上げた物語や歌に乗ると、面映ゆい感情に正直になれることがある。伸はその時、太陽から連想した歌が口に上って来た。
「君は、何をいーま、見つーめているの〜」
 一心に命を燃やし、あらゆる感情が育まれた時代が、今はとても懐かしい。



 伸の予想通り、その夜も十五分以内の誤差で征士は帰宅した。
 単なる例えではあったが、仕事も含め全て自宅中心の伸には、正に陽の回りのような同居人である。ただ、
「…ただいま」
「青春は〜、太陽が〜、くーれた季節〜♪。おかえり!」
 特に抑揚もない挨拶に対し、伸の歌声は力強く、中学校の合唱祭を思い出させた。大して世の中を知らなかったあの頃、疑問も持たず学校行事に取り組んでいたが、今となっては何が目的だったのか判らない。
 世界的に有名な合唱を学ぶでもなく、ひと昔前のフォークグループのヒット曲など。その些か適当な盛り上がりに征士は、
「…えらい陽気だな…」
 溜息を吐くように言った。まだ廊下に留まり、身に付けていた靴や上着を整えている、彼の返事は実際の音より、更に沈んだトーンで伸の鼓膜に届く。
「そう言う君は何かあったの?、いつもの覇気が無いような」
「いや特に何も」
 今度は、特に何もと言いながら、そうではない事実が伸には確と感じられた。仕事が忙しかったのだろうか、人間関係で嫌な事でもあったのだろうか。
 そしてそれなら、自分の為に用意した春の部屋は、彼の為にもなるかも知れない。伸は居間のドアを少しばかり開き、顔だけを覗かせると、
「お疲れ様!、気分転換になるから早く部屋に来なよ!」
 極めて上機嫌な様子とその空気を伝えた。ああ、と普通に返した征士が、
『やれやれ、今年は躁状態だ』
 内心そう安堵し脱力したのは、昨年までの伸を憶えていればこそだ。ある年齢に達することにあれ程、抵抗し悩んでいた筈が、今はまるで俗世を解脱したような明るさだ。
 ああそうだ、トンネルの闇の先にはいつも眩い光がある。遂に通り抜けたなら、今年の誕生日はより祝ってあげよう。征士はそれについては喜び、
「何が気分転換だって?」
 と尋ねたが、百聞は一見に如かず、伸は黙って手を拱くばかりだった。こんな時は何らかのサプライズが、ドアの向こうにあるのだろうと、さすがに征士も気付いていた。そして眼前に広がった、野原の春を思わせる空間に、
「ね、いきなり外国に来たみたいだろ? 。共にアルプスの雪解けを喜ぼう、シトワイヤン!」
「・・・・・・・・」
 伸は高くワイングラスを掲げて見せた。
 明るむ春の大地に草萌え、花開き、彼等の命運を担う風が吹く。春風は小さきものを助ける為に吹くのだろう…
 宙に蒲公英の綿毛を見ていた伸が、横に来た征士に何気なく目をやると、おや、と意外な様子を凝視することになる。
「あれ?、目をどうしたの、まさか泣いてた?」
「泣いてはいない」
 だが彼の目は赤く充血していた。結膜炎等の眼病ではなく、昼間の自分のように、何かに感涙した跡のように見えるのだが。
 すると征士は更に妙なことを言った。
「しかし泣きたい気分だ」
「え??」
 冗談にも泣きたいなどとは言わない、弱気を口に出さない彼がどうしたんだろう、と、ここに至り伸は異変に目を開く。
 明るい希望の春に温められていた心が、俄かな風にざわめいた。
「…痒い…」
「あっ…、駄目だよ、擦ったら」
 泣きたくもないのに涙が、不快感を押し流そうと瞳に溢れて来る。伴う感情としてはただただ鬱陶しく、それが征士の声色に現れていたようだ。そうか、近代の春は麗しいばかりではないと、伸は浮かれ騒ぐ気持ちを抑え、隣人には真摯に労る気持ちを向けた。
「少し前から怪しかったけど、遂に花粉症に…」
 そう言い掛けた時、完璧な気遣いのできる自負に対し、決定的なミスを犯したと伸は知る。彼の表情は見る見る凍り付いた。

『しまった、アカシアは花粉症を誘発するんだ』

 花屋で蜂蜜の話をした通り、ミモザはアカシアの一種なのだ。ヨーロッパにはアカシア花粉症を持つ人が一定数居る。春の象徴の美しい花も、美しい一面だけでは存在できないのか、と思うと伸は途端に切なくなった。
 太陽はとろけるバターのようでも、生物に有害な光線を放っている。
 馨しい花を多く集めた庭は、スズメバチなどの害虫被害を呼ぶ。
 一点の曇りも無い世界は何処にも無いのだと。

 私の幸福が貴方の幸福であれば、最良の型だと誰しも考える。しかし現実は、完全なシンクロから僅かずつずれているものだ。同じ人間は二人と居ない為にそうなる。
 僕の春への喜びに君は苛立つかも知れない。
 そんなつもりは無かったけれど、今は己が悲しい。
 直接目に触れるのを止めた代わりに、伸は蒸しタオルを作り、征士の瞼の上に充てがった。彼はそれを暫くの間、目の上に押し付けながら唸っていた。薬が含まれる訳でもないが、炎症する皮膚には不思議と心地良い。こうした伸の配慮は的確なので、征士は考えず受け取るままにしている。
 いつもいつも有難い、と思いつつタオルから顔を離すと、開いた目には意外な様子が映り、がらりと雰囲気を変えた部屋にて、征士は戸惑いながら尋ねた。
「その顔は何だ、急に」
 先程ドアから見せた陽気な表情が、今は真顔になって凍り付いている。
「僕も泣きたい気分だ」
 伸に何が起きたのか征士には判らなかった。
 征士がそう言ったのは、事実花粉のせいで目が潤みがちなのだが、伸の泣きたい理由は全く違うだろう。
「たかが花粉症で大袈裟な。歌い出すほど楽しそうだったのに」
 稀に重度の喘息患者は、花粉が命の危険となることもあるが、現在の征士にその心配は無い。また花粉アレルギーは、アナフィラキシーショックに陥る程、強い抵抗を起こすものでもない。心配してくれる人が傍に居るのは幸いだが、そこまで悲しむ事か?と、彼は目を点にして伸を見ている。
「ああ…正にミュージカルだよ」
「はぁ?」
 結局最後まで征士には、事の流れが見えぬままになったけれど。
 伸は今頃になって気付いた。見目は柔らかく、控え目な桜の装いでありながら、内なる心はオーバーに一喜一憂している、それが典型的な日本人なのだと。
 外国人のように、外へ向けたアクションはしなくとも、同様に心が躍動するからこそ、ブロードウェーの舞台もそれなりに楽しめる。
 そして、その時また伸の頭にある曲が流れ出した。
『When the dog bites, When the bee stings, When I’m feeling sad〜』
 犬に噛まれた時、鉢に刺された時、悲しい時、さて何をする?
「あはは…!」
 この気持ちが伝染しないよう、伸は笑うしかなかった。詳細を話せば、征士は恐らく些細な事だと、彼の失敗を意に介さぬ筈だ。けれども何にどう価値を付けるか、それも個々の見方の自由である。
 個性の強い人間は常に風当たりも強い。せめて日常空間は何もかも、隣人を責めない場所にしておきたかったのに、伸の完璧主義が思い掛けず崩れた。
 口惜しい、狂おしい春の花よ。

 悲しみつつ笑うことはある。或いは、悲しみが深いほど笑えるのかも知れない。征士はその反作用的な伸の表情を見て、己を含む人の心の構造を常に考えている。

 外に向けられる姿は、即ち他人に対する愛だ。
 もうすぐ到来するあの季節に重なる。
 満開の桜の景色は明るくも、過去の影を透かしながら笑っている。君のように。
 いつも君のように。

 毎年春は複雑な感情を抱かせるが、最も愛おしい時でもある。征士は明るい陽だまりの色彩に囲まれながら、自ら傷付いた伸の頬を撫でた。









コメント)去年の伊達月間以来、久し振りに短編を書きましたが、楽しげに進行する話は書くのが楽だなぁ(苦笑)
という訳で、ベタな映画や歌を引っ張ったこの話、実は2005年の春は、杉花粉の飛散量がものすごく多く、花粉症を発症した人が多かったので、それを話にしようと決めてまして。でも病気と桜の取り合わせじゃ、鬱々とした内容になりそうだったのね(^ ^;
故に、希望的な映画や歌を入れ込んだんですが、書きながら自分も、歌や音楽には力がある!、と改めて感じました。ああ、またサウンドオブミュージック観よう…



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