夕陽の海と伸
MY DELICATE ONE
マイ・デリケイト・ワン



 海の色は何故青い。
 海底の岩石が青いからか?、空の青を映しているからか?。今、目の前に横たわる水平線から、視界いっぱいに広がっている海は、明るい日射しの許で水色に輝いている。
 日本もアジアの一部ではあるが、東南アジアの海の色は随分違うと感じていた。

「海はいーねー」
 道すがら、伸は度々周囲の景色について、満足そうな感想を漏らしていた。
「…そうだな」
「ねぇ、真面目に答えてないだろ?」
「…そうだな」
 しかし先程から、征士の返事はこんな調子だった。
「ははは、毎日こんな景色だから飽きちゃった?」
「そう言う訳でもないが…」
 ふたりは今、マレー半島のコタバルと言う町に向かっている。タイのバンコクからバス、徒歩などで半島を南下して行く旅は、漸くマレーシアの国境を越えたところだった。マレーシアと言えば、首都クアラルンプールのあるマラッカ海峡側が栄えているが、海の景色は反対側の南シナ海の方が断然美しい。と言う訳で、伸の考えた旅行プランでは、南シナ海側をゆっくり旅して、最後にクアラルンプールに行くのがベスト、とされていた。
 大学が夏期の休講に入ると、姑くの内は大学の部活等の行事が続いたが、お盆の前後にその行事ラッシュも終り、ふたりは逃げ出すように日本を出発していた。別段何かに疲れていた訳ではない。差し当たって逃げたい事情があった訳でもないが、四月から始まった東京での生活、始めの内は戸惑う程の新鮮味もあれど、同じサイクルの日々の繰り返しには飽きが来る頃だった。否、誰もがそうとは言わない、彼等が変化の乏しい状態に退屈するからだ。
 そう、だからどれ程美しい景色だとしても、似たようなロケーションを延々と眺めて歩き続けるのは、退屈ではないかと伸は尋ねたのだ。海に思い入れがあるのは伸であって、同行する征士にはそこまでの感慨はないだろうと。
 しかし征士の無気力な様子は、他の理由に拠るものだった。
「…暑い」
 一言そう言って、強い日射しを遮るように翳した掌で、征士は額に張り付く髪を払った。
 まあ、高校の地理の授業で勉強した通りだった。この辺りの気候は一年中二十五℃以上、平均雨量もほぼ一年中百五十ミリを超える、熱帯雨林気候と呼ばれる地域だった。特に三月から十月は平均気温が二十七℃にもなるが、歩き続ける彼等の体感温度はそれ以上だっただろう。何しろ先進国とは違い、道沿いに日陰を作る大型の建物が殆ど無いのだ。
「夏だからね」
 なので伸も、それ以外にコメントのしようがなかった。どうせ何を言っても涼しくなるものではない、とにかく次の町へと向かうだけだった。
「暑い時期にわざわざ暑い場所に来るとは酔狂な」
「判ってて来たんだろ?、君」
「無論だ、だから歩き続けているだろう」
 そして、文句を付けているようで笑っている征士を見ると、確かに自分が思う程退屈しているようではないと、伸も笑って返すことが出来た。
「ははは、えらいえらい」
 彼等の持ち物は、そう重くはないバックパックのみだった。地図や情報誌を見ながら、町から町へと自力で移動してその場で宿を探す、多少サバイバルな趣のある今年の夏の旅。ハイシーズンの高級リゾートで、上流の客に紛れてゆったり過ごすのも良いけれど、一度はこんな旅をしてみたいと思っていた伸だ。
 特に今回は手持ちの現金のみでやりくりすると、ゲームのような制限まで付けている。ステータスを証明するカード一枚あれば、何もかもを至れり尽せりにできる状況とは違う。そしてそんな条件下なら、これまでと違った価値観にも巡り会えるだろう、それはきっと楽しい事だろうと伸は思っていた。一年にほんの一、二度の旅行でも、いつも同じ趣向では詰まらなかった。
 試練のある環境にはある意味慣れている。無論昼夜を問わず、ろくに寝食も与えられず戦う事に比べれば、休み休み歩くだけの旅行など大した事ではない筈だ。けれど生物とは不思議なもので、置かれた状況に拠ってその限界値も変化する。命が掛かっているとなれば、暑いの寒いの言ってもいられないが、今は只管気候に苦しめられる征士が居る。
「…伸は暑さに強いから良いが」
 そう呟いた彼に比べ、伸はまだ随分と軽やかに歩いていた。
「うーん?、どうだろうね。本当はそうでもないのかも知れないけど、僕自身が夏が好きだからだろ」
 それについて伸の説明は今一つ呑み込めなかった。場合に拠っては、伸の曖昧な説明を流すこともある征士だが、今は歩きながらの会話以外にする事がないので、一応問い返してみる。
「…そういうものか?」
 すると、伸はそれなりに自信あり気な様子でこう返した。
「『好きこそものの上手なれ』って言うじゃないか、ちょっと意味が違うけど、『嫌だな〜』と思ってると対抗する力が弱くなると思わない?」
 成程、彼の自信の裏付けが征士にも伝わって来る。強大な敵に挑む前に、気持で負けること程不様な負けはない。勝負の世界を知ればこその意見かも知れない。意のある相手とは異なるにせよ、思い方ひとつで己を強くも弱くもできる、そんな意味だろうと征士は理解できた。
「…意外と分かり易い説明だ」
 なので素直に伸の理屈を認めた。彼の言うことは大概があまり理論的でなく、その時々の情動に拠って色合いを変える面もあるが、むしろ考え込まない、ふと閃く発想には感心することも多かった。それはまるで一体となった海の水が、水滴となって離れた一瞬だけ光を反射して、宝石の様に輝くことに似ている。その時以外は海水の渾沌とした様子であっても。
「だからね、もっと好きになった方がいいよ」
「…そうだな」
 結論としてそう念を押されれば、確かに伸ほどの哀楽を以って夏を意識していないと、征士は改めて気付いた。否、出来事としての思い出は最も多い季節だが、征士には思い出より未来の方が大切だからだろう。特別な季節には違いないけれど。
「今笑っただろ?」
 すると、征士の言葉尻の自嘲を耳聡く捉えた伸が言う。
「僕は嘘付いてないよ、心の動きが体内物質の合成を変えるんだって、最近の研究で分かって来たんだよ」
「疑っている訳ではない」
「じゃあ何だよ」
 伸は自分が笑われたと勘違いをしていたが、征士は特にそれには触れずに答える。
「…伸に会う前に比べたら、格段に夏は好きになっている」
 そう話せば充分だったからだ。
「あ、えへへ、そうかぁ」
 それが正しく通じたので、伸も掛かる物言いは止めてしまった。
 それより次々に脳裏に蘇る、去年の夏、一昨年の夏。ここ数年の記憶の中では、君が登場しない夏はなかった。海の色が明るく輝く大好きな季節の中、君もその一部になってほしいと、僕は暗に思って来たのかも知れない。と、伸は近年の楽しかった思い出に微笑する。それで征士の意識が変わって来たのだとしたら、それこそ本望だった。
 伸は今正にその、最も理想的な夏の一コマの中を歩いている。但し、思い出される過去は楽しい事ばかりではなかった。一度頭を巡り始めた回想は止まらず、必ず行き着く戦いの場面まで思い出してしまう。
「色んな事があったもんね」
 間を置いてトーンダウンした伸の声に、何が起きているのか想像できない征士ではない。
「…余計な事まで思い出さないでくれ」
「ん?。…思い出されると困る事は君の方が多いんじゃないの?」
 しかし、伸は征士の気遣いに気付くと、振り切るように調子を変えてそう答えた。そんな切り返しができる内は、まだ深みに嵌まっていないと判るから、征士はやや安心して話を続けられた。
「私のことは良いのだ、もうどうでも」
「そんな投げ遺りな」
 笑って話せていた。笑い話として過去を話題にできるなら、己が笑い者になろうと構わない、征士はそんなつもりで言ったのだろう。
「晒せる限りの恥を晒して来たからな、今更伸に弁解する余地もない」
 過去は過去として開き直るしかなかったので、今の征士が存在するとも言えた。彼本人はそれで充分に満足だった。けれど、
「そうかなぁ…」
 伸の方は納得していないようだった。征士が自ら認める欠点にすら、伸は某かの意味を見い出しているようなのだ。自身についてあまり主張をしない割に、他人の立場や存在意義については、何故か必死に弁明することのある伸だ。他が在っての己と言う考え方は悪くないが、彼の個性として、自己を過小評価する傾向はあくまで、「善くも悪くも」の意味で仲間達には知られている。
 それを前提として征士は再び伸の意見を尋ねる。
「どう言う意味だ?」
 しかし先程の、明るい自信に満ちた表情とは違うものの、さして心配に思える様子もなく伸は答えてくれた。
「いや。僕は最近思うんだ、今の僕が考える事と、昔の僕が考える事は明らかに違うってね。年とか、置かれた環境とか、その時その時によって、心がかなり変化してるのが分かるんだ。だから昔は苦しんだ事情も、今は笑って許せるようなものだったって、何だか馬鹿馬鹿しく思えるんだよ」
 無論誰にでも経験のある事だろう。人間は死ぬまで成長するとも言うが、その途中で過去を振り返る度、未熟だった己に笑ってしまう事もあるだろう。誰もが日々少しずつ進歩している。伸の話は特別珍しい事例ではない。なので征士は、
「…皆子供だったのだ、仕方がないだろう」
 そう返事をしたが、伸は更にこう続けた。
「うん、だからさ、別に、過った事をいつまでも恥だと思わなくていいんだ、と思うけど?」
 そうしていつも、己を差し置いて人には寛容なのが彼だった。と、征士はこれまでに幾度となく思って来た。
「…お優しいことだな」
「そうじゃなくてさ、僕だって最初の頃兄貴面してたのが、後から恥ずかしいと思ったけど、今も気にしてるってことはないよ?。みんなそうなって行くもんじゃない?」
 なので伸が幾ら尤もらしい説明をしても、過去の経緯から見れば、迂闊に首を振ることができない征士だった。
「…そうだな」
 恥と言う言葉を使ったのは、征士だけの感覚だったかも知れない。本来最も近い言葉を探すなら「傷」と言う方が良い。生物は機械のプログラムではなく、一度書き込まれた記憶はは容易に消せるものではない。一時忘れていた記憶がふと思い出される、そんな現象が日常的に起こる通りだ。現にこうして、ただ暑い季節が巡って来る度に思い出す事がある。幸福だと感じた記憶も、二度と繰り返したくない記憶も、鮮やかな印象を残す記憶は全て。
 特殊な事情を抱えていた彼等の活動に於いて、苦悩と幸福は常に表裏一体だった。だからこそ、他人の心配をする前に誰もがそれは同じだと、誰もが愛しむべき傷を負っていると、まず伸には心に留めてもらいたいと征士は考えている。無論本人が楽になるからだ。
「もー…、その返事は真面目に聞いてないってこと?」
「いや、難しい話は頭が回らないのだ…」
 明るい顔をして、楽し気に過ごしている時もいつの時も、伸の感情はさざめく波の様に、止まっていることがないと知っている。誰もが知っている、変えようのないこと、議論してもあまり意味を為さない事実のこと。
 ただ、彼が彼である由縁。
「そうだねぇ…、そろそろスコールが来てもいい頃なんだけど」
 そろそろ、朦朧とする感覚が現れるようになっていた。そう言って空を見上げた伸の視界には、晴れ渡る空の端の僅かな雲が見えていた。国境近くの町で昼食を摂った後、三時間程が経過して、もうじき夕刻に入る時間帯だった。スコールを降らせる雲の流れは早く、何れ彼等の所へと追い付いて来るだろう。雨が降った後は一時的に気温が下がる。街道を行く旅人にもそうだが、この国ではこの時期誰もが待っている雨。
「…流石に伸も厳しくなって来たな」
 昨日までは丁度今頃スコールに遭っていた。今日に限って普段より幾らか時間が遅いようだ。否、彼等は移動しているのだから、微妙に時間がずれて来る可能性を忘れている。
「そりゃ歩き通しだからね。まあこう言う旅もいいでしょ、たまには」
 雨が恋しいとこんなに感じたことはない。ひとつの新しい価値観だった。
「もう少し湿度が低ければな…」
「そうだね」
 それでも、旅行と言いつつ我慢比べのような状況に、ふたり共まるで音を上げないのは流石だった。ふと、伸は以前誰かに聞いた登山の話を思い出していた。結婚相手を選ぶ時は、一緒に山登りに行くと良いのだと。人は苦しい状態になると地が出易いので、そうして相手を見極めよと言うのだ。まあそんな意味では、お互いに合格と言うところだっただろう。
 今更試す事でもなく知っていたけれど。



 ふたりはそして道の途中でスコールに遭った。
 日本ではこんな降り方の雨はないが、突然豪雨が降り始めてまるで嵐のようになり、二、三十分もするとすっきり上がってしまう。つまりその間だけ何処かに避難していれば良かった。
 ただ彼等は丁度建物のない場所を歩いていたので、振り始めの雨にかなり打たれた後、漸く道沿いの民家の軒下へ駆け込むことになった。それでもびしょ濡れになるよりはずっとマシだった。幸いそれは住居と言うより倉庫のようだったので、中の住民に出て来られる事もなかった。ほっと溜息を吐くと、先程までに額や首を伝っていた汗が、浴びるような雨粒にすっかり流れていた。
 あまりの雨の激しさに話し声すら聞き取り難い。なので自然と黙って辺りを眺めることになる。只管明るく開けていた筈の景色が、僅かの間に叩き付ける雨と暗雲に被われ、今は一面灰色の空間に閉じ込められている。これがごく短い時間で通り過ぎると言うのは、全く不思議な現象だと昨日も、今日も感嘆するばかりだった。
 そして、始めの内は萎れた草花の如く、雨の到来を歓喜するような心境だったけれど、暫く雨宿りをする内に、伸は先程交していた会話を思い出していた。
 征士にああは言ったけれど、実は自分も今は純粋に夏が好きだとは言えないと。いつからか言えなくなっていた。それもまた自己の変化のひとつかも知れない。色々な事があり過ぎて、いつもこの季節に入る頃は不安にもなった。もう戦う資格を手放していると言うのに、また何かあるのではないかと、過去の痛恨の惨事が心から消えない。
 今年は今のところ何事もないけれど、この後はどうだろうかと度々考えている。脳裏を過(よぎ)る悲しみを無視できないでいる。己の感情を映すような激しい雨を見て、それに同調するような伸の、密かに揺れ動いている様子を征士は、また見逃さずに見ている。
 ただ、苦しみを伴った思い出ほど色濃く残るように、やはり夏は大切な思い出の季節である。



 スコールが過ぎた後、三十分も歩くと彼等はその日の目的地である、コタバルに到着していた。特に近代的でもなく小規模な町だが、それが却って、雨に降られた出で立ちの旅行者でも、気兼ねなく歩ける様子で助かっていた。ふたりは早速ツーリストインフォメーションに向かい、その日一泊だけの宿を探してもらった。もう少しメジャーな土地ならユースホステルを使うのだが、残念ながらここにはなかった。
 案内されたのは所謂アジア的なプチホテルで、陶製の家具が涼し気な良い部屋だった。インフォメーションの人間は客が日本人だと判ると、必ずある程度以上の宿を勧めて来るものだ。防犯の意味では助かるが、場合に拠って金銭的な迷惑を被ることもあった。今日はそれなりにリーズナブルで、清潔な宿を紹介してもらえたようだ。
 部屋に到着するとまずシャワーを使い、ふたりはホテルに程近い、大衆的な飲食店に食事に出掛けた。この辺りの土地では平日、自宅で食事をしないのが習慣らしい。なので連日夏のビアガーデンのような賑わいが、あちらこちらの店や露店から谺している。
 今日はかなりの距離を歩いて、食事に出る頃には、ふたり共些かばかり疲労の表情を見せていた。が、その店内に集まる人々の、溢れる活気に後押しされるように食事は進んだ。それもまた不思議な現象かも知れない。前に伸が話した、夏が好きであれば夏に強くなる理論に、通ずるものがあるのではないだろうか。例え本人に元気がなくとも、周囲の環境が確実に体を変化させているのだ。
 牽いてはそれが生物である証しなのではないだろうか。
 窓のカフェカーテンの間からは、如何にも田舎臭さを残す下町風の町並みと、その向こうに陽の沈む海が見えていた。そして、こんな風景こそが「旅行」ではなく「旅」の醍醐味だと、ふたりは自ずと感じるようになっていた。都会らしい街や整備されたリゾート地などは、当たり前だが生活感と言うものがあまりない。生活を忘れに行く目的ならそれで正解だろう。
 しかし人間の暮らす街には、それとは全く異なる雑然とした面白さが存在する。そもそも人間は、よくまとまった集団ではないと示すようなもの。勿論たった五人が調和を得るまでに、随分と時を要したことが良い例である。だから楽しい、人々がばらばらな意思で生きているから楽しい、人間は面白いと感じる理由がそこにはあった。
 真摯に生きようと、格好を付けようと、人のする事は常に愉快だと捉えることもできた。人一人が生きる意味や理由など判らない、意味など無いかも知れない、この小さな頭脳ではどうせ大した事は考えられない、財を為しても幸福に必ず結びつきはしない。だからこそ命は楽しまなくてはならない、改めてそんなことが感じられる今年の旅。
 もう一度、戦士でもなく学生でもなく、ただの自分に戻るような時間が過ぎて行った。



「…元気だなぁ」
 ホテルの部屋に戻り、今夜は早々に足を休めようと、既にベッドに就いていた征士のところへ、何故かもう一度シャワーを使った伸が戻り、ガウンのままべったりと張り付いて来た。普通に考えて、征士の口から出た言葉は妥当なものだっただろう。しかし伸は妙な単語を使って答える。
「ビバークだよ」
「は?」
 言うなり、伸の手足が征士に絡み付いていた。ビバークとは元は『野営』の意味で、登山用語では特に、気温の低い山岳で遭難した際などに、体を寄せ合って体温の低下を防ぐ手段を指す。
「はは、暑い国に来てわざわざ温め合おうと言うのか」
 当然征士はそう受取るが、それは伸のジョークだと思っていた。しかし、
「酔狂だろう?」
 と征士の言葉を借りて返した彼の、しおらしく巻き付いた腕に触れると、解かれた掌が征士の頬を掠めた。その手を取って、
「ふーむ…、冷たい手だな」
 ただ場を楽しませる冗談を言った訳ではないと、征士は確認するように答える。
「空調のせいで冷えたみたいだ」
「良くないな」
 否、大して空調は効いていなかった。征士はむしろ寝苦しいと予想する程だった。それはつまり、ここに来る以前に伸は風邪気味だったと言う意味だ。彼は何も言わないが、もしかしたら既に何らかの症状があるのかも知れない。寒気を感じるからもう一度シャワーを使ったに違いない。
「それじゃあ、今夜は遭難者になったつもりで寝よう」
 かなり確かな予想が付いたので、征士も伸の意向を組んでやることにしたようだ。征士にしてみればただでさえ暑いと言うのに、全く親切なことである。そればかりか自分が風邪を伝染される可能性もある。ある意味捨て身の彼の行動を理解したのかどうか、
「既に遭難してるみたいなもんだけどね」
 伸はそう話して目を閉じた。
「予定通り来てるだろう?」
「旅行のことじゃなくて、人生がだよ」
 彼は本当に具合が悪いのかも知れない。冗談にしても悲観的過ぎる意見を耳にすると、征士は普段通りに、叱咤するような強い口調で返していた。
「良くない…、そんな事を考える暇があるなら寝ろ」
「うん」
 それで安心したように伸は眠り始めた。片方が弱気になれば、片方は鼓舞するように強く出て来る。彼等のバランスはそんな風に保たれているので、決して共に遭難することはない筈だった。

 カーテン越しの月が厄介な程明るい夜だった。そう、これ程に月の輝く夜では、遭難しようにも明る過ぎて不可能だ。旅人を見守る夜の月から、弓矢を背負った女神が今にも現れそうだった。追い求めるものがあるからこそ移動するのだと、彼女は鹿狩りの愉しみを説くのだろうか。否、それ故人は太古から、様々な移動をして来た歴史があるのだけれど。
 人生を旅に例える話はよく聞かれるが、では旅とは何なのだろう。
 私の求めるものは何か。伸の求めるものは何か。こんな僅かの時間ではまだ言葉にできない。
 そんな事を考えながら、いつしか征士も深い眠りに就いていた。



 今日もまた気温が上がっている様子が、皮膚に触れる大気から感じられていた。翌朝伸が目を開くと、既にきちんと着替を済ませて、彼の顔を覗き込んでいる征士が居た。
「良くないと言った通りだな」
「ごめん…」
 何故征士がそう言うのかは、既に伸にも自覚があるようだった。何故なら昨晩の悪寒と入れ替わるように、今は焦がれるように顔が熱かった。加えて全身のだるさと言ったら、容易に発熱している状態を思わせた。まあ、それには疑いを挟む余地はなかったが、伸はそのまま不思議そうな顔をして征士を見ている。
「て言うか君、まるで予想してたみたいだ」
 と零した伸に対して、征士は確かに落ち着き過ぎているように見えた。そして、
「まあな、昨日のスコール辺りから」
 征士がそう答えると、成程スコールの間は少し肌寒くさえ感じたことを、伸は微睡みながら思い返していた。運悪く雨宿りの場所が見当たらない所で、スコールが降り始めたのだ。数分走る内に屋根のある場所を見付けたが、衣服はかなり雨に濡れてしまった。その後ひどく気温が下がった訳ではないが、気化熱に体温を奪われたのかも知れない。ただ、そこには全く同じ状態の者が居た筈だった。
「何で、同じ状況で君は何でもなくて、僕だけ熱が出るんだ…」
 そう考えれば不公平を感じて然りだった。これまでの道中、暑さにバテ気味だったのは征士の方で、伸はむしろ普段より快調に過ごしていたと言うのに。
「自分で言っただろう」
 けれど征士は、伸のそんな不満にも答えられていた。
「ん?」
「心の動きが体内物質を変えるとか何とか。化学は苦手だからよく解らんが、『病は気から』と言うことではないのか?」
 その時は黙って雨を見ていた。ふたり雨が通り過ぎるのを待ちながら、思い思いのことを考えていた。海にせよ雨にせよ、水から成るものは皆伸に親しい。彼の心が土砂降りの雨の影響を少なからず受けていると、征士はその場で気付いていたのだ。決して彼の現状に不安はないのに、感情だけが暗い海の上へと流れていた。けれど思うことは自由だから、咎める理由も何も思い付かないでいた。
 つまりその時征士は何もしなかったけれど、こんなに判り易く結果が出るなら、やはり一言言った方が良かったのかも知れない。
『もっと好きになった方が良い』
 今は多少後悔する気持で、征士は大人しい伸の様子を窺っている。
「…気がまずかったのか」
「一時的に、だろうな」
 そして最終的な征士の結論は、止まらない波の様に伸の心が変化するので、一日の中でも抵抗力の強い時と弱い時がある、恐らくそんなところだと締め括っていた。圧倒される豪雨に塞がれていた間、後ろ向きな考え事をしていたのが敗因だったのだ、と。
「伸はもっと夏を好きになった方が良い」
 今度は伸の言葉を借りて、鼻先で笑いながら征士が続けると、
「はは…、それを言うなら、…何でもない」
 何かを言おうとして、しかし言うまでもないことだと伸は、はにかむように布団に潜ってしまった。
 本来なら嫌いになり兼ねなかった季節を、誰かが救ってくれたのではなかったか?。



 この先シンガポールで落ち合う約束になっている、秀には「遅れるかも知れない」と、取り敢えず連絡を入れておくことにした。けれど、征士には彼の反応は判り切っている。伸が熱を出したと話せば、「またか」と笑って返して来るだろう。過去から決して不健康ではないのに、ちょっとした事で体調を崩すのは、最早仲間達の誰もが知るところだった。
 変化の幅が大き過ぎる心が原因だ、そう考えれば納得の行かないこともない。破格に頑丈にもなれば、脆く崩れる時もある。それが即ち、あらゆる物事を受け止められる理由でもある。

 人の最も繊細な部分を司る水の将。
 彼の苦悩も己の一部として抱き締める、征士の理由は、つまり己が多くを受け止める為なのだ。
 夏があまりにも彼を揺り動かすので。









コメント)今回はちょっと難しいテーマだったので、色々考えて時間が掛かってしまいました。これを九月の頭に書く予定だったので、話が思いっきり夏ですみません(^ ^;。
さてお気付きの方もいるかと思います。この旅行は「幸福でない王子」に登場しています。つまりこの後にあの話が続く訳なんですが、えっ?、それじゃ身代わりが出来た時期は??、となってしまいますよね。一応ちょっとだけ説明すると(後で詳しい話は書きますが)、この後すずなぎ関係の話があって、更に「偉大なる哲学」の話があって、丁度良さそうな過去に戻って身代わりを立てるのです。以上です。簡単過ぎですか?(笑)。
また、このタイトルは過去のトルーパー本にもあって、内容はすずなぎに会った前後の話でした。勿論話の筋は今とさっぱり違うのですが、同じような時間の話に、やっぱり同じタイトルを使ってしまう私でした(^ ^;。ちなみに今はなきPINK CLOUD(Charのバンド)の曲名です。




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