別人な征伸
中学生日記
シンデレラ
A Magic from Cynderella



 その朝早く、伸はまだ同居している姉、小夜子の手を借りて身支度を終えた。
 手には大きな鞄、羽田行きの航空券を携えて彼は出掛けて行った。

 ナスティの計らいで実現しそうな計画。遼の誕生日にかこつけて、この夏は初めて、仲間達と海外に出掛けようというのだ。その細かな相談をする為に、ついでに征士の「お誕生日会」をする為に、今は離れて暮らしている仲間達が、今日の夜には、柳生邸に顔を揃えることになっていた。
 六月八日、午前十時。
 その日の夜までに集合と言う割に、伸はかなり早く家を出発していた。その上、柳生邸へ向かうのに「羽田行き」とは何事か。
 そう、今日は仲間達の集合の他に、例の征士への「お返し」をする日でもあった。伸は事前に連絡を取り、新宿のアルタ前に午後四時の待ち合わせをしていた。ふたりはそこでしばらく過ごしてから、柳生邸へと向かう予定になっていた。
 自宅から宇部空港まで約二時間半、空港から羽田へは一時間少々の道程だった。柳生邸からは最も遠くに住む、伸には何かと移動の苦労が付きまとうけれど、その日は通り過ぎる時間の中で、常に周囲の視線を気にしていた。それを楽しんで過ごせていた。
 何しろ、今日こそは一から十まで完璧だった。
 『シンデレラの靴』のお礼をすると決めた時から、これまでに伸は、自分の寸法に合わせた服を仕立て、サイズの合う靴を取り寄せ、元々伸びていた後ろ髪を大事に切らずにおいた。特に完璧主義でもない彼が、そこまで入れ込んでいた理由は誰にも判らない。唯一言えるのは、誰かの為にと言うより、本人が面白くてやっていることだけだ。
 それは誰にでもある変身願望かも知れないし、「真剣に遊ぶから面白い」という、彼なりの哲学かも知れない。またそれに乗ってくれる相手が居るからだった。
 さて前回、肩幅を誤魔化す為に有効だったパフスリーブ。それを取り入れたエプロンドレスを、伸は同居する姉に頼んで縫ってもらった。一切の理由を話した上でのことだった。しかし頼まれた小夜子は何故か、「馬鹿げた注文」とは受け取らなかった。何故ならそれは昔の記憶に繋がっている。
 伸が提案した服のイメージ、それと同じような服を着ていた昔の自分を、小さな伸はいつも、羨ましそうに見上げていたのを思い出した。男の子が着る服と言えば、高級であろうがなかろうが、装飾的な面白さは少ないものだ。様々な造型が成された少女服の賑やかさ、色使いの楽しげな雰囲気が、幼い伸にはとても魅力的に映っていたらしい。何故自分には買ってくれないのかと、しばしば母親を困らせていた。
 なので、今に至ってそれをリクエストすることも、意外に自然な流れに思えるのだろう。
 完成した淡い水色のワンピース、白いエプロンにはピンタックとボビンレースの縁取り。それに合わせ、無理矢理編み込み風にまとめた髪に、小夜子は水色の細めのリボンをいくつか結んだ。伸の明るい茶色の髪にはよく映えていた。
 それから顔に、ポイント使いに化粧品を乗せて、円筒形の可愛らしいバッグを持たせると、予想を凌ぐその装いは、一度きりでは勿体無い程の出来栄えだった。正に化けていた。
 朝、鏡を覗きそれを確認した伸は、それだから意気揚々として出掛けて行った。駅の構内でも、電車の車内でも、空港のロビーでも機内でも、この凛として背の高い美少女には自然に視線が集まっていた。「そうじゃなくちゃ」と内心、伸はひどく上機嫌に東京へと向かう。
 そうじゃなくちゃ、記憶に残る思い出にならないと思っていた。



「早く着いちゃったな…」
 空港からの乗り継ぎが良かったのか、伸は予定より二十分も早くアルタ前に到着していた。
 待ち合わせの十分前には着くように、と思ったが三十分も余裕ができてしまった。流石にこの格好では、今ここでできることにも制限がある。伸は持て余した時間をただぼんやり、通り過ぎる人波を眺めることで費やしていた。
 晴れていても鈍い色彩の空、近代建築のビルにはメタリックな影が貼り付き、何処となく暗い印象を与えている。行き交う人の、都会的に洗練された服装には隙がなく、見慣れぬアクセサリーの反射が目に眩しい。耳に届く意味不明なざわめきは、この町のカルト放送のようにも感じられた。同じ国の中に居ながら、この街は渾沌として捉え切れない世界だ。
 けれど、そんなものに揺られているのも心地良かった。誰も自分を知らない、他人行儀に冷たく澄まして流れている運河。その中を漂っている自分は、『街の魚』とでも言える存在だろうか。伸はそういう立場である自分をも楽しめていた。それこそ元々の性分なんじゃないかと。
 そして彼の思惑とは全く関係なく、街は常に生きて動いている。JRの地下道から、地下鉄の駅から、どこからともなく人は現れ、集団となって流れて行く。今はもう、蛻の殻となって寂れていた一時の面影など、何処にも見付け出せない、熱と活気に溢れている新宿の街。彼等だけが知っている、彼等だけが持っている街の記憶は、今は何処にも存在しない幻なのだ。
『みんなにはあり得ない出来事が、僕らには大事な記憶なんだ…』
 けれど、人類の記憶に存在しない、僕らの存在とは何だろう?。
 丁度そんなことを考えていた時だった。誰かが背後から、指先だけでチョンチョンと肩を叩く。まだここに立って十分も経たないが、待ち人の性質を思えば、今現れても何らおかしくはなかった。
「ああ…」
 振り返りながら、言葉を発しようとして思わず伸は目を見張る。
「彼女〜、何してんの?」
 見覚えのないふたり連れが、ヘラヘラと愛想を振り撒いているのだ。
「お茶でも飲みにいかない?」
 流行りの型のスーツにありがちな台詞、ありふれた、いかにもポリシーのないナンパ風情。
 それにしても、と伸は思う。こんな連中はどうして、通り一遍の同じような行動をするのだろうと。制服を纏ったようなふたり組は、お揃いを着た双児にも見えなくない。どうせなら自分が一番カッコ良く見えるように、己の個性を出す方がいいんじゃないか?。と、男である伸は流石に批判的に構えていた。
 けれどこんな時に限って、相手を蔑んで見てしまうことにも気付く。自分だって普段、彼等と大して変わらない行動をしなくもない。他人を批判できる程立派な人間でもない筈が、立場の違いとは恐ろしい。自分が属さない種族に対しては、幾らでも冷たくなれてしまうと知る…。
 思わぬ未知の経験もある。だからこそ変装は楽しい。
 否、伸の感じ方は、これからやって来る人と比べ、印象の落差が激しいせいもあるかも知れない。
「あの…、彼待ってるんで」
 伸はそれだけ言って軽く頭を下げる。すると意外に、ふたり組はあっさり身を引いて離れて行った。やれやれだった。
 しかし更に五分程経つと、状況に変化のない様子を見て、また彼等は伸に近付いて来た。
「来ないねぇ」
 それには言い返す言葉がない。
「君すっぽかされたんじゃないのー?」
 でもそれは絶対にないだろう。それだけは判る。
「こっちが早く着いちゃったんです」
「俺は来ないと思うなぁ」
「十分待ったらこっちから振るもんだよ普通〜」
 ふたり組はすぐ横で勝手な話を続けていた。しつこい、いい加減にしろ!。
「諦めた方がいいよー」
『諦めたらおまえらについて行くと思ってるのかよ!?』
「俺こう見えても、ここらのディスコじゃカオなんだよ?」
『知るかそんなこと!』
 単なる待ち合わせで何をこんなに、我慢に我慢を重ねなければならないんだろう?。
『こいつらどうにかしろ〜〜〜!!』
 と思った時、
 見分けの付かない集団の中から突然現れた、彼だけは周囲の何にも染まらない、際立つ存在感を示して歩いて来た。伸の心境としては、探していた避難所が漸く見付かったところだ。挨拶の言葉をあれこれ考え出す前に、思わず走り出して抱き付いていた。

「・・・・・・・・」
 遠目から伸を確認していた征士だが、思わぬ展開に一瞬言葉を失った。伸は下を向いて縮こまっている。この状況を理解するのにやや時間がかかっていた。ふと視線を正面に向けると、こちらを凝視しているふたりの男が目に入った。
「…誰だ?」
「知らない」
 まあ聞くまでもないことだ。この街の様子に慣れ切った風情の男が、伸の知り合いだとは考えられない。一応確認を取った上で征士は、如何にも不愉快そうな顔を作り一瞥してみた。すると、離れていてさえ寒気が走るような、威圧的な眼差しにふたりはそそくさと退散。結局何と言うことはないと、征士は安心して遅れて来たことを詫びた。
「待たせてしまったようだ。変な輩に絡まれて迷惑していのたか?」
 待たせたと言っても、まだ待ち合わせより十五分も前だった。それについて伸が、
「ナンパだよ、ただの」
 と答えると、その不貞腐れた口調に征士は吹き出しそうになる。いくら「成り切っている」とは言え、目的がミエミエな同性に摺り寄られるなど、あまりに気味の悪い体験だろうと。
 けれど、顔を上げた伸を見るや俄に、征士の動作は止まってしまった。
 暫く会っていなかったとは言え、たった三ヶ月ほどの短い時間だ。成長期ならば、背が伸びる程度の変化はあるが、この変わり方は何だろう…?、と征士は己が目を疑っていた。以前の記憶より尚印象的な姿の、自分の前には本物の美少女が立っていた。
「伸なのか?」
 思わずそんなことを呟いた征士に、けれど伸は、
「違うよ、『サヨコ』だって言ったでしょ」
 と笑う。その微笑には勿論、自分のこれまでの努力が報われたことを、手を叩いて喜ぶような気持も含まれていた。「騙す」と言っては聞こえが悪いが、相手の鼻を空かしてやりたいとは思っていた。いつも一方的に、カッコいい所を見せられてばかりでは面白くない。今日はまず伸の勝利だった。



 ところで今日は、特に何処へ行くという予定はない。ひとつだけ伸は探している本があると言って、取り敢えず新宿通りへと歩き出していた。土曜のこの時間はまだ歩行者天国になっている為、歩道も車道もなく人は思い思いに溢れ、段々に色合いを変えて行く日射しに照らされていた。
 怪し気な通りの入口は、チラシ配りの黒服のラメ模様が目に付く。高級店の一角よりも、目を引くのは原色の看板やのぼりの数々だ。世界中の街と言う街に比べれば、新宿は決して美しいとは評されない。むしろ疚しさや、止め処ない欲求に彩られた、これが我が国の一側面かと思うと恥ずかしくも思う。けれどこの日、この時だけは、煩い看板より注目を集めるふたりが居た。
 思えば始めからこの街は、『白い虎を連れた少年』騒ぎからずっと、鎧戦士に注目し続けた場所なのかも知れない。今また再び、浮き立つように空気の違うふたりが、仲睦まじく歩く姿を街は遠巻きに眺めていた。これだけ様々な人間が集まる中で、何故か彼等だけが選り出されているようだ。
 要するにここでも彼等は目立っていた。
 人ごみの中伸が立ち止まる度、やれ化粧品のモニター募集だの、モデルスカウトだのと、煩い連中がいちいち声を掛けて来た。そして、誰の目にも止まる『サヨコ』を連れて歩いている、自分も鼻が高いと征士は増して調子良くなっていく。勿論順序として、伸の前に最初に目に飛び込んで来るのは、より目立つ風貌の征士の方だけれど。
 ごっこ遊びは成り切る程面白い。周囲に囃し立てられるようなこの状況は、今日も愉快に一日を過ごせる前兆だと思った。のだが。

 新宿、午後五時前。
 紀伊国屋書店を出てから、ふたりはショーウィンドウの洋服や商品を眺めながら、コマ劇場の方へと戻って来ていた。もう街はすっかり、朱に霞んだ空を背景にして、そろそろ帰路に立つ人の流れを自ずと作っていた。途中でその流れから外れるように、ふたりはここに辿り着いていた。
 新宿コマの周辺と言えば、パチンコ店やゲームセンターなどの遊戯場と、映画や演劇の看板が犇めく界隈。浮浪者や、行く当てもなく座り込む人が何故か目立って多い。蒸し暑く感じるこの時期に、しなだれるそれらの集団の人いきれにあっては、少々気分が悪くなりそうだった。
 けれどその、金銀の装飾がギラギラした一角に、広場に隣接した、目立たない小さなホテルのイタリアンレストランを見付けた。表に出された黒板から、丁度コースメニューの始まる時間だと知り、そこでふたりはやや早い夕食を摂ることにした。
 ビルの小さなエスカレーターを昇ると、外の様子とはまるで違う、シンと静まり返ったホテルのロビーが現れた。一変した風景をやや場違いにも感じつつ、そこから恐る恐る覗いてみたレストランの店内は、赤味を帯びたオーク材と、白熱灯の柔らかい光に包まれた雰囲気の良い空間だった。
 土曜ということで混雑も予想されたが、ゆったりしたスペースに配置されたテーブルは、ほぼ満席でも息苦しさを感じさせない。小さくても流石ホテルのレストラン、という印象だった。またウェイターも親しみ易い明るさで、若いふたりを席に通してくれた。
 店内に流れるカンツォーネが耳に、余所のテーブルの話し声を意識させない心地良さで響いている。地中海の夕陽を忍ぶオレンジのシーリングランプの下、少しばかり大人っぽいシチュエーションに、ふたりはかなり満足しながら食事をした。
 実は、イタリアンを選んだのは伸の計画の内だった。
 席に着いて注文を告げた後、『待ってました』というように、伸はバッグの中から小さな包みを取り出し、テーブルの上に差し出して見せた。
「はい、十五才のお誕生日おめでとう」
 さり気なく切り出した伸に対して、征士の反応は、
「一日早いんじゃないか?」
 と言いつつ、至極機嫌が良さそうだった。
「いいんだよ、これは『サヨコ』からのお礼だもん」
 この一時の為に今日がある、全ては今日の為に作り上げた自分だ。伸は楽しみに待っていたこれまでの日々を思いながら、遊び心いっぱいの笑顔を返した。
 なんて自然に、少女の顔をして笑えるのだろう。
 そして征士は先程から、しばしばそんな『彼女』に出会う度に、もう元が誰であるとか、周囲が騙されていて面白いとか、そんなことはどうでも良くなる瞬間を感じていた。ここに居るのは一年程前に出会った少女、それが更に理想的に成長した姿なのだ。単純に演技が成長したにしても、伸が元々持つ要素を逆に引き立てていると思う。だから殆ど違和感を感じない…。
 『サヨコ』はとても魅力的な人間だった。
「開けてもいいか?」
 目の前に置かれた、赤い包装紙の包みに手を掛け征士が言うと、伸は一言、
「うん」
 とだけ返事をする。今日日の世の中には、ステレオタイプの口煩い女、男勝りのがさつな女も増えていると言うが、元より控え目で品のある伸には、そうした小さな意志表現がとても似合って、又それが人の関心を惹くのだろうと思えた。現にふたつ隣のテーブルに居る、若い会社員風の男がチラチラと、こちらに顔を向けるのが見えていた。
 そしてすぐ横のテーブルでは、いかにも派手な女子大生と思しき集団が、「ガキのくせに生意気な」という目で、ふたりの成り行きを気にしている様子だった。それらに気付いていた征士は、勿論、最も紳士的に見える仕種をわざと演じて、『せいぜい驚いてもらいましょう』とするのだった。
 ところが、
 外装を広げた包みの中に、もう一重に薄紙で大事に包まれた箱があり、その蓋に印刷された金色の文字を見た途端、征士は演技を忘れて目を細めた。
「フェラーリ…」
 外見とは裏腹に外国語は苦手な征士だが、流石にこの文字列は見慣れていた。その、息を呑んでいる様子を見て、伸は楽しげにあらましを説明し始める。
「あはは、色々考えたんだけど、君カートやってるって聞いたからさ。車好きそうだし、親戚に貿易屋さんがいるから、取り寄せてもらえたんだよ」
 伸の明るい口調は嬉しかったが、しかし征士は戸惑い気味に、
「そんなわざわざ…」
 と言いかけた。元々遊びの中の、更に遊びの遣り取りにそこまでするかと。けれど割って入るように、
「ううん!、この靴も一緒だから気にしないでよ」
 伸はそう言って、征士が遠慮を感じないよう促していた。
 隣席の無い側から、伸はそっと片足を上げて見せる。それは確かに前回のような間に合わせではない。黒のスウェードの上に、レース模様にカットされたエナメルが重なり、太めのアンクルストラップが付いた革の靴。そして伸の足に丁度良くフィットしているようだった。
「イタリアにはさぁ、25センチ以上のレディースの靴が普通にあるんだよ」
 そう続けて屈託なく笑った伸。結局つられて征士も笑い出していた。以前伸が、靴に困っていたのを知っていたからだ。そして笑い飛ばしたことで、申し訳なく思う気持も何処となく薄れていく。
「そうだな、外国だったら困ることはなさそうだ」
「もう少し後だったらオーストラリアで買って来たよ、家族でスキーに行く予定なんだ。でもそしたら、プレゼントはコアラのぬいぐるみだったかもね」
 すると征士は引き続き笑いながら、
「別にそれでもいいが。旅先でも私のことを考えてくれている、という意味だろう」
 と答えて笑いを取っていた。征士の言葉は無論適当なものだが、会話がいい調子に戻ったことをただ、伸は喜んで笑っていた。
 そして箱の蓋が開けられると、中にはフェラーリ社のマークと、近年のモデルのF1カーが影彫りになった、真鍮のキーホルダーが入っていた。通しナンバーの刻印も入った限定品らしい、日本では殆ど見ることのない商品だ。征士が大人しくそれに見入っていると、
「…君がね、免許を取って、自分の車を買ったら使ってよ」
 テーブルの上で頬杖を付きながら、伸は自分のことのように嬉しそうな顔で言った。
「ありがとう…」
 反射的にそう返事をした征士。しかし彼の思うことは、終始笑っている伸の肩越しの、今は遠い異国の空の下にあった。
 名だたるレーシングカーが生まれ出る国、古代の強大な帝国の歴史と、厳格な宗教の都を内包しながら、陽気で明るい太陽の振り注ぐ国。速度規制のないサーキットロードがそのまま、自由なローマへの道となって、征士は赤いテスタロッサに乗った自分と、助手席に座る『サヨコ』の絵をパッと想像できた。
 直走る高速道の、山の斜面にはくすんだ緑のオリーブの林、遠くには澄んだ水色の海を臨める景色。憧れるイタリアの風が体を包む、歓喜する心だけで息ができる明るい国。何故なら隣に居る君も笑ってる、君はいつも笑っている。どこまでも遠く先まで道があるような、希望的で明るい未来の想像図。
 今にときめく気持だけで描かれた、ふたりの世界。
 暫しの後、征士が素の状態に戻っても、伸は変わらず穏やかに微笑んでいた。彼の心情を見透かしたように、或いは自分の思惑通りになったと楽しむようだった。
 的確に相手の望みを捉えることは、自分の得意だと征士は思っていた。けれど「してやられた」格好の今を思うと、伸は自分以上に、他人の傾向をよく見ていると知った。否、元々そうだったかも知れない。それから自分達は、普通の友達より特別な仲間だから、普通以上に解り合える面もある。
「フフフ、私は幸せ者だな、こんなに思われているとは」
 征士が言った、作り話にしても恥ずかしい冗談に、
「何言ってんの」
 と、伸は一度否定したけれど、
「別に、いいけどね」
 敢えて肯定する言葉も付け加えておいた。それは「こいつら何者」という顔を揃えた、隣のテーブルに対してのことだったが。

 そうして、薄汚れた街の喧噪に触れ、美しい未来の想像図を見た、オリーブオイルの香りのする短いデートは、一応終わった。



 小田急新宿駅、午後六時半。
 新宿から柳生邸へはかなり長い道程だ。それこそ車があれば遠回りせずに行けるが、あと三年待たなくてはならなかった。まあしかし、特に疲労もないふたりが長距離を苦にすることはない。むしろ柳生邸に着くまでは、仮想デートの続きのようなもの、引き続き状況を楽しみながらの移動となる筈だ。
 さて、金銭的に問題があった訳でもないが、彼等は在来線を乗り継いで行くことにした。そうして降り立った小田急線のホームだったが、
 予期せぬことに出会った。土曜だというのに乗客がホームに溢れている。否、土曜も出勤する会社員は少なくないし、当時の学生には関係がない。しかしこれはまるでラッシュじゃないか?、と、自分達の感覚のズレに初めて気付いた。新宿のような都心のターミナル駅は、通常のラッシュ以外にもこうして、人が混み合う時間帯がしばしばある。
『こんなことなら、素直に新幹線にすれば良かった』
 言葉にはしなくても、お互いそう思っているのが何となく判った。
 しかし考える間もなく電車はホームに入って来る。ふたりは取り敢えず乗り込むが、後から次々に入って来る人で、車内はあっと言う間に埋め尽くされて行った。そして反対側のドアに押し付けられるように、じわじわと空間が詰まって行き、遂には否応無しに周囲の人間と密着した。
「こんな電車に乗ったの初めて」
 征士の方に体を反転させながら、伸は小さな声で言った。
「そうか?、時期によって新幹線もこんな感じになるが?」
「普通の電車でって意味だよ」
 それでもまだ、その時は適当に話ができる程度だったが、他愛無い会話をする間にも、出発時間が近付くに連れ、僅かずつ窮屈になって来るのが判る。そして発車のベルが鳴り始めた時だった。
「う、わ、…」
 思わず伸の口から声が漏れた。ドアの中央に近い彼は、開いている反対のドアから一気にかかった圧力に、耐えられず変に腕を折り曲げながら、ひどく苦しい顔をした。すぐ前に居る男が大柄な為に、顔を上げられず息をするのも辛そうな様子。
『どうする?』
 と、比較的楽なドア横に居た征士は咄嗟に、沈んでしまいそうな伸の腕を掴み、無理矢理自分の方へと引き寄せた。火事場の馬鹿力、と言うより日頃の鍛練の成果かも知れない。
 身動きしている伸に合わせるように、周囲の人間が少しずつ体勢を変えて行く。引っ張られるまま伸は前のめりに倒れて行った。漸く楽になったと彼が思った時には、征士の腕に抱き止められるような格好になっていた。そして息をし易いように、彼はドアに手をついて伸の頭の周囲を空けてくれていた。
 悔しいけれど頼もしい。
『普段なら、こんな風にはいかないよね』
 伸は征士の、とても親切な一面を知ってはいるが、今の自分は特別扱いされていると実感があった。女の子の振りをしていなければ、「バーカ」と罵られても仕方がない場面だろう。けれど何も言わず自分を助けてくれた、自分に場所を作ってくれる征士が、伸は途端に切なく感じた。在りもしない物をチラつかせて、彼の良心を欺いている気がして。
『やっぱりもう、サヨコはやめた方がいいかもね』
 女の子の立場の特権を楽しみながら、考えてみればいつも「本当にいいのかな?」と躊躇いながら、征士のサービスに合わせていた。遊びの中で遊びを忘れる一瞬に垣間見る、真面目な演技者である征士に、もう無理を強いることは辛い。何より自分が辛くなる、と伸は考え始めている。
 そして伸は知った、本当の自分だろうと、演じている別の人格だろうと、悩みを持たずに生きることは不可能なのだと。
 ただ楽しくて、只管愉快に過ごせる時間も、いつかは終わってしまうのだ。

 電車が動き出してからどの位経っただろう。
 無言で居る時間は長いようで、実はそれ程経っていないことが多い。が、小田原はまだまだ相当先なので、過ぎた駅を数えるようなことはしない。征士はただぼんやりと、車内吊りの公告を見るともなく見ていたが、決して退屈していた訳ではなかった。何故ならこうして、『サヨコ』を抱えて満員電車に乗っているのも、長い映画のひとコマのように感じられたからだ。
 征士は知っていた、楽しいだけの思い出は忘れても、苦労を伴うことはずっと忘れないものだと。この世は晴れも褻もあって成り立つ世界。彼が親しむ剣道は元来『殺人術』だった。だからこそ心を学び、邪念を払うことを旨とする。それでも、大義名分があったとしても、苦痛を感じず人を斬れるものではない。苦しむことなくして、後に残る物は得られないということだ。
 けれどふと、彼にも解らなくなった。
『苦しめば、何でも望みが叶うのだろうか?』
 頭を下げ、抱えている伸を上から見下ろした時、彼の着ているワンピースの襟の下に、征士は見覚えのある小さな物体を発見した。例の『ガラスの靴』だった。
「あ、ちゃんとしてきたんだよ」
 その様子に気付いた伸は、何とか首だけを捻って笑うと、そのまま征士の肩に頭を預けて、甘えるような仕種をして見せた。伸は故意にそうした。
 そうしておいて、言わなければならない言葉を告げようとする。離れたくても離れられない、不可抗力でくっついている今が一番良い時だと思えた。面と向かって「さよなら」とは、どんな時でも言えない伸のやり方は、いつもそんな風だった。
「…ガラスの靴だね、今の僕には丁度ぴったりだと思わない?」
 伸は呟くように話し続ける。
「時間が来ると魔法が解けちゃうんだよ。そうしたらもう、こんな服も靴も履けない。ちょっと淋しいような気もするよ」
 しかしそれを聞いて、征士はクスと小さく笑うと、
「生憎、そういう感傷は抱かない性格でね」
 とサラリと返して来た。カッコいい、でもやっぱり悔しいと感じざるを得ない伸。
「かわいくないよ…」
 けれど、そんな言葉がスラスラ出て来る征士だから、名残惜しいのだ。この立場でないと聞けない、最も征士らしいと思える話し方が、伸はとても好きだったからだ。飾り立てるばかりで実のない会話は、実用とは言い難いフリルやレースの存在に似て、何より心を楽しませるものだから。
「かわいい?、などと言われたら迷惑千万だ」
 そう、その調子で聞いてくれたらいい。伸は思いながら続けた。
「だって時間がないんだよ、僕には。…君が免許を取る頃には、『サヨコ』は見る影もなく消えてるさ。きっと」
 そして征士は伸が何を言おうとしていたのか、解った。
「そんなのって、辛いよ」
 今、心の中で何かが弾け飛んで、壊れてしまったような感覚を征士は覚えた。何処ともつかない、不安定な中空にふわふわと浮かんでいた何か、とても大事にしていた筈のものが。
 そしてほんの一時、心臓を掠めて過ぎた振動。その震えが「淋しさ」であると気付くのに時間はいらなかった。
『最初から作り事だ、何が淋しい?、何を悲しむ?』
 自分で理解できない感情に、今自分はどんな顔をしているだろうと、征士は顔を上げて車窓に目を向けた。ほぼ暗闇になった背景に、はっきりと映し出される自分の虚像。そしてそれは更に、悲しげな表情で自分を見据えているように見えた。手に入らない物に触れてしまった切なさ、まだその事実さえ見えていない、自分の中の悲しみを。
 解らない征士に代わって言えば、彼の居る未来に永遠に『サヨコ』は居ないということ。成り切る程楽しいと言いながら、虚構の中から現れた幾つかの真実こそ、彼が惹かれていた要素だったのかも知れない。生まれ来る心まで演技に徹することはできない。それが悲しみの始まり、淋しさを見い出す始まり。
 もう二度と、会えない。かも知れない。

 魔法をかけてもらったシンデレラ、魔法にかかってしまった王子様。
 自分で思っている以上に征士は、『サヨコ』が好きになっていたのだろう。

「あ、ちょっと空いたみたいだよ」
 それから暫く経った頃、何処かの駅で人が多く降りて行ったらしい。真横に詰めいてた人垣に余裕ができ、もう寄り掛からなくても真直ぐ立てそうだ、と伸は訴えたつもりだった。けれど何故か征士は、頑なな態度を見せてそれを聞き流す。上体を起こそうにも、背中に回った腕にがっちり押さえられていて、自力で起き上がるのは無理な気がした。
 征士は目を伏せて黙っていた。車内で立ったまま眠るような人間じゃない、もし眠っていたとしても、伸の動きで目を覚まさなければおかしいだろう。だから伸は、彼が自ら塞いでいることを理解した。先程までの征士とは違うような、それが自分の所為であるような、どうにもできないでいる時間が過ぎていく。
 ひと駅通過する度に、車内は徐々に空間を増していくようになった。
 いつまでもこんな格好で、べったり寄り添っていては恥ずかしい。と、固定されている腕を何とかして振り解こうと、伸は思いきり体を横に捻ってみた。ところが、大して動けなかったばかりか、その時見えた車内の様子は、白々とした視線を自分に向けている他の乗客達。
『こっ、これ以上恥はかけないっ…』
 耳まで赤く染めて泣き寝入りとなった伸は、仕方なく元通りに征士に寄り掛かっていることにした。残る小田原までの道程が、更に長く感じられたに違いない。
 それでも、残された時間は短かかった。

 今日が終わることと、全てが終わることの違いは?。
 不意に始まって終わる事と、任意に始めて終わる事の違いは?。
 ほんの僅かの時と決まっているなら、愛しむことを躊躇わずにいられる。
 しかし短い時間だからこそ、心は続きを求めたがるのだ。

 約束は、始めから一度きりのものだった。



 漸く、柳生邸の明かりが見えて来た。
 山中湖畔へ向かう道。既に午後十一時にもなろうとしている。恐らく他の仲間はもう、遠目に見える明かりの中に集まって、既に欠伸をしている者もいるだろう。手を繋いで歩いて来た伸の足が、ひとり空回りしながらもペースを上げて行った。
 予定ではあと一時間以上早く、ここに辿り着ける筈だった。こんなにも遅れてしまった理由は、小田原に着いてからの征士の行動が、酷く緩慢になものになったせいだ。決して不機嫌ではないのに、宥めても急かしても、こんな時は厄介なマイペースを決め込んで、電車の乗り継ぎに遅れること二回。それで一時間近く無駄になった。
「何なんだよ、さっきからおかしいよ君」
 と、その度伸は抗議したが、
「どうせ嫌でも着くだろう」
 今の征士には暖簾に腕押しだった。
 自分にも原因があることを思うと、伸はあまり厳しいことも言えず、只管成り行きに任せる他になかった。そして十時丁度の終バスにも間に合わず、ふたりは駅からかれこれ四十分程歩いて来た所だ。手を繋いで、というのは歩の進まない征士を、伸が引っ張って歩いて来た意味だった。
 ただ、ナスティに電話をすれば、迎えに来てもらうことはできた。
 けれど電話はかけなかった。
 伸はそれまでの征士を見て来て、彼の心情を大体察している。何故終わりにしなければならないのか、何故未来がないのか、納得できないでいるのだろうと。そう、もし自分が逆の立場なら、恐らくもっと駄々を捏ねて、テコでも動かないと伸は明確に思う。何故なら楽しいことが嫌いな人は居ないだろう…。
 そして、外見はまるで大人のように見えるが、やはり征士も年相応に物事を感じていると、ひとつ安心させられる現実だった。普段は落ち着き過ぎているとも取れるが、中身は存外可愛らしいなとど言ったら、彼はきっと怒るだろうけれど。
 だから伸は裏切れなかった。
 まだ充分に幼い僕らの為に、もうあと僅かで終わってしまう今日を、簡単に切り上げることはできなかった。
「やっと湖畔の道に出たよ。もう少しだ、はい、歩いて歩いて」
 先程から伸はひとりで喋っていた。けれどその内、懐かしいとさえ思える水辺の臭いを感じ、月の光の反射する湖面を一望すると、征士は一言、
「帰って来た、という感じだ」
 と言った。やっと自分から話題を振ったな、と伸は溜め息を吐きながら返した。
「僕らはここでできた家族だから、いつもここに帰って来るんだ」
 最も基本的な彼等五人の結束、それがより強く育まれた場所に、今は比較的平和な状態でみんなが戻って来ている。世界が平和を保っているからこそ今が在る。そうでなければ楽しいだけの夢など、呑気に見ている暇もない。けれど、そうだと解っていても、征士には結局納得できなかったようだ。
 彼は立ち止まった。先を急ごうとする伸は途端に、湿った下草に足を滑らせそうになった。無気味なだんまりにそろそろ振り返ると、静寂に張り詰めたような、夜の顔をしたもうひとりの征士がそこには居た。
「…何を嫌っているのだろうな、私は」
 それはきっと、物凄く正直な言葉なんだろう、と伸は思う。
「わからん…」
 征士は、歯に衣着せぬ物言いをする反面、己の弱味は決して自ら口にしないタイプだ。だからこれは今の彼が揺らいでいる証拠、揺らいでいる、風に靡く湖面の光のように。偽物から生まれた真実の輝きを見て、思わぬ結果に戸惑っている。
 そしてそれをただひとり、見守っていられるのも伸だった。
 始まりも終わりも僕らの中にある。
 こんな時はどうすれば、と考えても、まだ的確な答を出せる程長く生きた訳じゃない。あらゆる全ての思いを受け止められる程、自分が大きな人間であるとも思えない。どんなに大切な事情でも、手に負えないことの方が多い。僕らはまだ充分に無知で非力だった。
 それは仕方がない、仕方がないことを認め合うしかない。

「仕方ないよね」
 伸は考えた末にそれしか言えなかったが、変わらず悲しげに見詰めている征士には、少しだけ大人の顔を作って見せた。 そう、少し心が痛むくらいなら構わない。突然の幕切れより気持良く終われるなら、もう少しだけ時間をあげてもよかった。
「僕にもわからない。だから訂正、もう少しこのままでいることにするよ。僕らが何を見てるのか、きっとわかると思う…」
 それできれいに答が出るかは判らないけれど。
 ただ、征士が自分のように揺れていてはいけない、と思った。
 そして吹っ切れたように、又は諦めたように伸は笑い出す。その軽やかな声は、雑多な夢を貪る林の眠りに吸い込まれて行った。征士はというと、結局それで満足だったのか、そうでないのか考えつつ、黙ってゆっくり歩き出していた。まだ朧げで形にならない答を探しに。

 僕らは歩いて行こう、先は短くても、きっと何処かに辿り着けるだろう。

 不格好に欠けた月が見ている、中途半端な、何とも表せないふたりの成り行きを見ている。夜の帳は安らかにそこに在るが、月はいつも不安を投げ掛ける。変わってしまう、同じ姿を留めていてはくれない。
『いつかは消えてしまう』
 その意味をずっと征士は考えている。
『大人になるということは、儚い物、曖昧な物を切り捨てていくことだ、ろうか…』
 そして一度知ってしまった切なさを、もう消すことはできなかった。

 横を歩く伸の微笑みの下で、細い鎖に繋がれた壊れやすい夢が、光っていた。



つづく





コメント)ギャグ小説だったのに何でこんな展開!?、って、いえ元からこういう、ちょっと切ない系シリーズなんです。ところでこの話に出て来るイタリアンレストランは、当時はなかったかも知れません(笑)。つい最近映画を観に行った時に入ったの(おいおい)。値段もリーズナブルで、イタリアンケーキが揃ってて結構いいお店ですよ〜。
それにしても、このシリーズは割と自分で心が和みます。コドモの頃って良かったな、何だかんだ言って、と思うからです(^ ^)。




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