宇宙の下
CRY CRY FOR THE MOON
Undiffelent



 彼の人は常に遠い住人だった。

 そして私は頗る不愉快だ。
 六月には祭日がなく、欠席の口実に使えそうな行事もなく、部活での遠征も皆無だ。逆に月末には期末試験が始まる為に、授業を飛ばすのは後々リスクが高い。学生らしい生活をまともにしていると見せなければならない、個人的な足枷もある所為で。
 今年から選択授業になったとは言え、学校に行かなくて良い日は流石に無かった。

『やっと免許取れたんだよ!、嬉しい〜』
 六月の頭に伸が電話をくれた。そう言えば五月の連休中に、皆で伸の東京のアパートに押し掛けた時は、漸く仮免許だと嬉しそうに話していた。彼と同学年の友人の中には、去年の夏には免許を収得した者もいた筈だ。そんな中で最も遅く資格を与えられる立場の彼だから、「やっと」と言う心境がぴたりと当て嵌まるのだろう。
 征士にしても、誕生日までの数日がもどかしいばかりだった。
「良かったな、それなら家の方に練習に来てくれ」
 免許が下りる以前に車を買っていた伸は、現在時間的に融通の利く大学生である。今頃の時期は全国的に、そう忙しい事情は存在しない筈だった。どうせなら遠出できない身の己の所へ、試運転に来てくれれば良いと征士は考える。だが、
『うーん、まだちょっと自信ないなぁ。実家の方なら練習し易かったんだけど、都内の道って初心者にはかなり恐くてさ。まあもう暫くしたらね』
 とあっさり断られてしまった。不安な運転で事故に遇われるよりはマシだけれど。
 そしていつも思うことが頭を過ぎる。自分は何故もう一年早く生まれなかったのだと。或いは何故この国では、普通運転免許を十八歳からと定めたのか。否、それを言っても埒が開かないと解ってはいるが、不満に傾く心情が変わる訳でもなかった。何故なら十三までカートに勤しんでいた彼には、「年齢」以外に障害になる資格は無かったのだから。
 彼の人は常に遠い住人。
 三月の春休みには、伸の誕生日と進学を祝って萩に集まった。五月の連休には、引越した伸のアパートに皆で集まり、周辺の町や学生街を案内してもらった。会える機会が全くない訳ではない、電話なら気付けばすぐに掛けている。けれど、それだけでは足りない。征士がそう考えるのも不思議なことではない。単なる仲間の一人ではないと知った時から。
 まして最近は団体行動ばかりが続いている。もし今車を使えさえすれば、特別な機会を窺わなくとも、普段の生活の中で、ひとり週末に出かけることが可能な筈だった。伸が心許ないと言うなら自分が行く。と征士は言いたいだけなのだが。
 これでは命の危険を伴いながら、日々戦っていた時の方が良かった、と安易に考えられてしまう。自分個人の為には、全体の平和より局地的な戦場が有り難いとさえ、征士には思えていた。

 電話の受話器を元通りに戻すと、彼の耳には静かな夜の雨音が聞こえていた。まだ梅雨入りの予報は出ていなかったが、そろそろ屋根の下に閉じ込められる季節が来るだろう。何もかもが白む雨垂れにぼやけて、一時世界が静穏に留まる梅雨の頃は、誰にもそれなりの安息感を与えるものだろう。ただ、見たいものが見え難くなる憂鬱を除けば。
 それはまるで、雨に滲むフロントガラスの視界のようではないか?。不馴れなドライバーには増々、無理に出て来てほしくもないこれからの季節。
 今、薄暗い雲の後ろに隠された月を見上げて、征士は無言に吠えた。
『ただ会いたいだけなのだ』
 特別な繋がりを意識しなかった頃は、長く間を空けても感じなかった苛立ちが今は有る。一面では誰よりも近い存在となった分、他の面では隔たる距離を苦痛に感じている。この感覚が伸に通じないとも思えないが、今一つ素っ気ない彼の態度にも悩ませられる。
 こうして今年の六月は始まった。



 東京、と一言で言って、思い描く景色は人それぞれだと思う。それは高層ビルの立ち並ぶ、代表的な近代都市の姿かも知れないし、治世と金融、商業と流通の中枢として目に余る程の豊かさ、大規模な娯楽施設の華やぎや人混み、或いは、嘗ての江戸を忍ばせる下町の賑わいかも知れない。
 そして伸は今、それら全てが揃ったような町に住んでいた。
 今年四月の始めに、彼は都内某所の新築アパートに引越しをした。日本では「アパート」と「マンション」の区別が何となくあるようだが、鉄筋五階建てでもそこは「アパート」と紹介されていた。都心にしては広々とした2LDKの間取り、各階に二室しかないこの高級アパートを、彼が気に入ったのは単に建物だけではなく、その周辺の環境も含めてのことだった。
 東向きの窓からは上野公園の緑が一望でき、西向きの窓からは、新宿御苑の向こうに高層ビル群が遠く見える。心安らぐ緑と東京らしい景色が同時に見られるのは、大変贅沢な趣向と言って良いだろう。勿論だが彼の通う大学へも徒歩で移動でき、又その道程は古くからの学生街とオフィス街が混在する、常に賑わう商業地域になっていた。
 しかしながら、アパート自体はごみごみとした町中ではない。比較的古い、昭和初期の町並みには高速道路の高架もなく、威圧的な商業ビルも傍にはなく、都心の真ん中にしては下町の趣を持った、気取りのない住宅街の中だった。日常の生活物資の買い物に困ることもなければ、都会ならではの、文化的水準の高い施設は身近に存在する独特の地域。
 東京と言う土地にはある程度知識のある伸だが、こんな良いとこ取りな地帯に、思いの外住み良い住宅地があるとは知らなかった。
 ところで、引っ越しの目的は無論大学に通う為だった。つまりまだ親の世話になっている身で、独立した意味でないのは明らかだ。しかし誰にしても初めての一人暮らしとは、様々な期待に胸踊らせる経験だろう。実家に居て別段不自由のなかった伸にも、気兼ねなく自由で開放的に暮らせる生活は、少なからず憧れを抱くものだったようだ。
 そのひとつは、己の趣味で生活環境を統一できる楽しみ。引っ越しの際に揃えた簡単な家具や家財道具は、全て彼が好きな色やデザインを選んでいる。当然だがこれより毎日、好きなものを食べ、好きな服を着て、好きな物に囲まれて生活することになる。如何にも「勉学」を差し置いた所で楽しんでいる風だが、否、現代では多くの者がそうなのだから、彼ひとりを不真面目とは言えないだろう。
 そしてもうひとつは、誰でも気軽に部屋に呼べることだった。例え煩い親でなくとも、そこに居るのと居ないのとでは大差があった。殊に訪ねて来る側に気を遣わせない状態は、実家の有り様からは望めないことだ。伸には住み慣れた家でも、旧家に縁遠い者には一概に、格式高く息苦しい印象を与えていた。それが己と人との間に隔たりを生じさせることを、伸が気にしていなかった筈もない。
 そして大事な仲間達とも、これまでより大分行き来し易くなる。そんな幾つかの意味で、「距離」と言うものを失くしたいと考えていた。

 大学受験、合格後高校を卒業、遠距離の引越し、親元を離れての生活の始まり。それらは浅い春よりふた月程の内に、慌ただしく駆け足するように過ぎて行った。
 又そんな激しい状況の変化を伸は、いつものように「大したことじゃない」と言う様子で過ごした。否、事実そうだったかと言えば、単に意地を張るのが癖になったこともあるだろう。四月の下旬には大学に通い始めていたが、当初は慣れない生活と、これまでと違う授業の取り方にも迷いながら、かなり浮き足立った毎日を送っていたのだ。
 けれど誰にも実情は話さないでいた。『常に余裕を見せて一歩前を歩く先輩』。それが他の仲間達に対する、己の理想的な在り方だと今も思い続けているからだ。同時に自分を除く四人は皆、来年の大学受験に向けて準備をしている今頃。自ら弱音を吐くことで、余計な心配をさせたくもなかっただろう。
 そうして伸は、新しい環境に丸二ヶ月を過ごした今となって、漸く落ち着きを得られて来たところだった。
 引っ越しの片付けが済むと同時に通い始めた、自動車教習所も大した躓きなく卒業できた。先に借りておいたアパートの駐車場には、練習用に買った中古のアコードが既に納車されている。大学での友人も幾らかできて、サークル活動にも参加するようになった。毎日の生活、ひと月毎の生活のサイクルも大方固定して、伸にはこれからが本当の、大学生活の始まりのような気がした六月だった。



 朝はこれまで通り六時半には起きる。幾ら自由に生活できると言っても、時間帯に拠ってできる事とできない事がある限り、ある程度早起きしなければならなかった。大学の講議に出掛ける前に、身だしなみを整え、食事をして洗濯をして、日常的な掃除を済ませ、集積所に出すゴミを纏めなければならない。と、清潔好きな伸の朝はいつも忙しい。
「おはようございます」
 と大学への出掛けに、アパートの隣に住む老人に挨拶をすると、
「ああ、いってらっしゃい」
 所狭しと道路脇に広げられた盆栽に、水を撒きながら彼はいつも笑いかけてくれた。未だ名前も知らない間柄だが、もう既に伸を取り巻く、意心地良い要素のひとつとなっている。近代的な格好良い生活にも勿論惹かれるが、昔ながらの当たり前の感覚は、やはり何処か安心されられるものがあった。そんな意味でも「ここを選んで良かった」と伸は考えていた。
 そしてゆったりとしたペースで歩き始める。混み合った住宅街の細い路地を一本外に出ると、突然目の前に現れる片側四車線の街道。引っ切りなしに行き交う車の音と排気ガス。まあ、これが本来の都会らしさと言うものだ、と、日々感慨に浸りながら長い信号を待つ。
 その横断歩道を渡った先には、某私立大学の裏門が在る。午前八時を過ぎた今なら開いているので、裏門から正門へと抜けて歩ける。始めの内は、余所の大学の敷地を歩くなど気が引けたが、よく観察してみれば大学とは全く関係のない会社員、老人達、買い物袋を下げた主婦までが気にせず通り抜けていた。否そもそも大学病院に患者が来るのだから、通り抜けるくらいどうと言うことはないかも知れない。
 つまりそこを通るのが駅への近道、或いは繁華街への近道だと、大学側も理解しているのだろう。駅前に巨大な建物があることがそもそも邪魔、と言う感じがしないでもないが、そもそもこの町は各種学校の校舎だらけで、今更それに文句を言う者は居ないのだろう。地域に際立った特徴とは、不便さよりも住民に愛されるもののようだ。
 皇居の外堀に掛かる橋を渡ると、そこからは賑やかな街が広がっている。伸と同様に大学へと向かう者、或いは予備校に通う者、大荷物を抱えたデザイン系の学生、ホワイトカラーの会社員等が、道と言う道に拡散して行くような朝の駅前。こんな大軍勢の活気だけは、静かな田舎町では感じられないものだった。エネルギッシュで前向きな、明るい気分を与えてくれる光景だと伸には感じられていた。
 一見冷ややかに澄まして、目的地へと歩き去るだけの都会の人々。そうして意識せずここを歩く者も、気付かぬ内に場を形成するひとりになっている。人は集まれば集まるだけ力を生む。誰もが知らず知らず都会の明るさを分け合っている。そんな原理が手に取るように知れた。
 何にしろ出掛けに心が持ち上がるのは良いことだ。

 薄曇りだが雨の心配はなさそうな空。その日は九時半から始まった法律の講議を受け、十一時半にはそれを終えていた。その後、伸は同じ学部の友人達と共に学食へと向かっていた。
 昼食は今のところ、学食か近隣の店での外食となっていたが、しばしば学食に弁当を持ち込む者も見られ、たまにはそうしたいと考え始めている。実はちょっとした理由があった。
 周辺を取り囲む町には、洋食、和食、種類を問わず一般向けの飲食店が数多く存在するが、この町の昼時は正に戦場だった。集められた学生と会社員が一気に押し寄せる為、リーズナブルで美味しいと知られる店などは、席を待たされる上に食べる時間を急かされる。とてもじゃないが、話しながらゆったり楽しく食事する雰囲気ではないのだ。かと言って高級店に足繁く通える身分でもない。
 時間と値段にシビアな社会人に対し、呑気な学生には少々厳しい社会の現実だった。そして一度それを経験してしまうと、冴えない学食に行く方がまだ良いように思えた。但し学食のメニューはそう多くもなく、常に固定して決まり切っている。ただでさえ外食は飽きが来易く、栄養も偏り易いと言われている。拠って伸は「弁当持参」を考え始めているのだが。
 ただ、実家から通う学生ならともかく、今の立場ではやや勇気が要る行動でもある。果たして周囲の学生はどう見るだろう?。柳生邸に集まった仲間達のように、誰もが好意的に解釈してくれるとは限らない…。
「毛利ってよ、妙に行儀の良い食い方すんな」
 案の定、テーブルの向かいに座った友人が言った。
「…そうかな?、別に意識してないけど」
「お育ちが違うって感じだぞ」
 言いながら、彼は丼飯を漁るようにガツガツと口に運ぶ。誰かを思わせるような豪快な食べっ振りは、大柄なスポーツマンタイプには似合う様子だった。まだ彼のことはそこまでよく知らない。一年浪人と言うからひとつ上で、実家は茨城だと聞いている。大学のラグビー部に所属している。その程度だった。
 そして伸もまた、充分に自分を出せてはいないと思う現在。彼が自分に何を思っているのかが、気になって仕方ない伸だった。
 確かに普通の学生とは微妙に違う存在だろう。豊かな伝統に恵まれた家庭に育ち、多くの行儀作法を身に付け、又ひとりの「戦士」として戦ったと言う、特異な経験もしながらここへやって来たのだ。その良し悪しは判らないことだが、それによって疎外されることがあれば辛い。不思議なもので、金持ちだろうと貧乏だろうと、度を過ぎる者は疎外されるのが常だからだ。
 すると隣に座るもうひとりの友人が、
「おまえと育ちが違うのは確かやん、俺だって音立てて食うと怒られるって」
 と、助け船に感じることを話していた。
「んん、何で?、蕎麦は音を立てて食うもんだって言うじゃん」
「蕎麦は別格、普通音を立てるのは下品って」
 すると厳つい顔をキョトンとさせて止まった、大柄な彼は意外ととぼけた一面を見せる。
「おいおい…、ひでえ非常識な〜」
 そう茶化されても怒りもしない、むしろコミカルに受け流している態度からは、見た目通り大らかな人物だと受け取ることができた。そしてそれなら自分に対しても、詰まらない嫌味を言いはしないだろうと、伸は漸く安心して笑えた。
「ハハハハ」
「…俺んちじゃみんなこうだがなぁ」
 友人と言えども今はまだ、かなり気を遣いながら付き合っている状態だった。
 しかし取り敢えず今日までのところは、馴染んで来た彼等との不和も感じず、又問題と思える人物に関わることもなく済んでいる。一人で暮らしている以上、同じような境遇の学生とは助け合いたいもの。大学内での平和を保つことは必要不可欠だった。拠って伸の気苦労も当分暫く続くことになる。
 ところでその折、隣に居る友人がある相談を伸に持ちかけた。
「そーそー、話のついでで何やけど、毛利、週末暇ねえ?」
 そう言う彼は、言ってみれば実に平均的な人物だ。と伸にさえ思わせる程、適度に礼儀を知っていて、適度に世慣れ、適度に遊んでいながら、適度に体面を保っている、それはそれで大した才能のようにも思われた。人に拠っては立ち回りの軽さを疎まれるタイプだが、伸には始めから友好的に接してくれたので、付き合い易い相手ではあった。又名古屋から来たとのことで、そうそう気取った人物でもなかった。
「週末っていつの?」
「えーと、来月から毎週」
 単なる遊びの誘いかと思いきや、そう聞けば事情が違うのは明らかだった。
「え、何?、バイトか何か?」
 伸の予想は当たっていた。
「ピンポーン。俺今渋谷の茶店でバイトしてて。今来とる奴がひとり今月一杯で辞めるんで、店長が誰か探してくれってな。俺は毎日居るけど、欲しいのは金土の夕方から夜に出られる奴なん。もし暇あったらどーかなぁ〜、俺毛利は接客向きやと思うけど」
 普段通り人当たりの良い口調で、彼はそんな風に説明をしてくれた。
 そしてこんな場面に、誰もが予想できることだが、金銭的な悩みは持たないのが伸だった。実家からの仕送りは充分に受取れる上、個人的な蓄えとして貯金も多く持っている。例えば企業を興して学生社長になる、将来の夢の為に大口の投資をする等、大それた行動を望まないのであれば、四年間の学生生活に困ることはまずないだろう。自身でも大方の試算をした結果論だった。
 それはつまり、単に賃金を貰う為の行為ならば、アルバイトなど全く不必要な労働と言う訳だ。
「ふーん…。困ってるなら入ってもいいよ。もう教習所通いも終わったから暇あるし」
 けれど伸は深く考える様子も見せず、断りもしなかった。
「あっ、ホント?、ラッキー。じゃ今日店長に話してみるな!」
 話を持ちかけた彼の方が、意外にもあっさり引き受けてくれたことに驚いていた。
 そう、伸の目的は金銭では有り得ない。一人暮らしにも大学にも徐々に慣れ、新しい友人等の横の繋がりも出来始めた今、己の経験として足りなそうなことと言えば、社会の中の一人として働くことだった。これまで実家の稼業に手伝いとして参加したことはあれど、全く関わりのない企業や店鋪に、従業員として働くことはなかったからだ。
 これまでずっと、己よりも豊かな家庭に生まれた秀などが、数々のアルバイトをしている様子を羨ましく思っていた。恐らくそれは地域差の所為であり、横浜ならば意気込んで探さなくとも、学生が働く口は数多に存在するだろう。だからこそ都会に住む機会には、何か仕事を持ちたいと伸は思っていたのだ。
 すると、
「ふうむ、おぼっちゃまには社会勉強が必要だ!」
 大盛りのカツ丼と掛けうどんをすっかり平らげた男が、笑っていた。その屈託のない様子を改めて見れば、伸は軽く図星を刺されたことにも、純粋に先輩の助言として受け入れられる気がした。不作法で無頓着だと言うだけで、その人物は測れないことを知っている。少なくとも己に悪意を持っていないと知れば、それで充分上手くやって行けると思う。
「そーゆーおまえも物を知らねーって」
 更に伸を庇ってくれる言葉も有り難いが、もうどうでも良く感じられていた。
「ああ?、バイトなら山程やってるぞ。今はガソリンスタンドだろ、その前は建設現場、郵便配達、年賀状配達、遺跡発掘、海の家、列整理、掃除…」
「すごいねー」
 単純に感心する伸の横で、もうひとりの友人も流れに合わせて笑っていた。
「バイトマニアよなー」

 滞りなく午後の講議を終えた頃、講堂の時計は夕方五時を幾分回っていた。窓から見えた陽の翳るキャンパスには、帰途に就く者、部活やサークルに向かう者、意味もなく騒がしい集団等が、それぞれの趣く方向へと流れていた。
『今日も頑張ったなぁ』
 と、机上を片付けながらの伸の感想。
 大学はほぼ全てが選択授業なのだから、一年次にそう多くを詰め込む必要はない。ただなるべく早く単位を取り終えた方が、就職活動に時間を取れるメリットがあると伸は聞いた。それでなくとも人生は何が起こるかわからない。後々時間を有効に使えるように、一年目から多くの単位を狙うのは有意義な選択肢だった。拠ってそれがひとつの、彼の忙しさの理由となった。
「毛利君、もう先輩達来てるよー」
 講堂を一、二歩出たところで、廊下の窓越しに同じ学部の女子が声を掛けた。
「ああ、今行くとこ」
 伸がそう答えると、相槌を打つような仕種をして、彼女は慌ただしく走り去って行った。
 部活には敢えて入らなかったが、大学内での活動には何かしら参加したいと思っていた。伸はそんな中で、そこまで忙しくなく、けれどやり甲斐のありそうな『広報企画サークル』に参加することにした。活動は大学内外のあらゆる学生イベント、部活やサークル等の情報を紹介すること、ポスターやチラシの制作、学生新聞の発行などである。社会で言えば「広告代理店兼出版社」のようなものだった。
 広告代理店と言えば、この時代先進的なエリートが集う花形企業。そんな華やかなイメージもあって、サークルへの参加希望者は大変多かった。但し、二年次に正規のサークル員となるには、一年間の審査を通らなければならなかった。正規部員と認められない内は、使い走りのような仕事しかできないらしいのだ。流石に大所帯の人気サークルだった。
 そんな、既に就職競争のような厳しいサークルだとは、まるで知らずに伸は参加を申し込んでしまったが、けれどまあ、実際の就職にも役に立つと腹を括って、この一年間は取り組んでみることにしたようだ。それもまた彼を忙しくさせることのひとつだった。
 取り敢えず今は、審査する側の先輩方に悪印象を与えてはいけない。伸は怒られない程度の早さで、長い校舎の廊下を走り出していた。



 こうして伸がアパートに帰宅したのは、夜八時を過ぎた頃だった。
 サークルの会合でおやつ程度は口にしていたが、正式な夕食はこれからだった。昨日作ったシチューの残りがあったので、今日は特に買い物の用はなかったが、普段はこれに買い物時間も加わり、夕飯は十時近くになることもしばしばだった。昼時の話に戻ってしまうが、外食は楽でもすぐに飽きてしまう。栄養的にも偏りやすい。なるべくなら得意な自炊を続けたい、と伸は考えている。
 その後八時半にはテーブルに食事が並んだ。習慣的にテレビのスイッチを入れて、ゴールデンタイムの番組を見るともなく見ながら、些か怠惰な動作で食事を口に運んだ。毎日意欲的に様々な活動をこなし、慌ただしいが充実感だけは感じられている。他に何も考えられない程に目紛しい。あと数時間の内に台所を片付け、洗濯を済ませて、風呂に入って寝なければならない。
 追われている意識はないが、何となく窮屈なタイムテーブルの日々。食事が終わる頃にはバラエティ番組も終了して、テレビ画面は雑多なコマーシャルフィルムの、隙間のないローテーションに変わっていた。
 そこでふと現れた缶コーヒーの宣伝に、
『そう言えばバイトを引き受けたんだっけ』
 と伸は人事のように呟いていた。
 毎日が慌ただしい、忙しい。この上更に用事を入れてしまえば、のんびり過ごせる時間はもっと少なくなるだろう。無論判ってはいたのだが、ただ毎日同じような環境にばかり居て、狭い視界の中で退屈するよりはずっと良かった。約束通り来月からバイトを始めるとして、時間が必要な事は今月の内に片付けよう、などと伸はぼんやり考えていた。
 テレビの画面は、また別のコマーシャルに変わっていた。何処か明るい高原の緑の上に、広げられた白いピクニックセット。光るワゴン車の中から楽し気に現れた、タレントが演じる五人家族の休日の様子。確かに今ならまだ間に合う筈。大雨の心配なく行楽に出掛けられるだろう、とも思う。
 明るい賑わい、明るく和やかな休日。
 一度追放された楽園は遠く在って然りだけれど。
『…疲れた』
 伸はもう一言呟いていた。まだ当面の間は気を張った生活が続いて行くのだ。
 それが最も正直な言葉だった。


 ────────


 その日は朝から小雨が降っていた。
 仙台では未だ梅雨入りは発表されていなかった。六月八日、征士の通う高校では、期末試験の日程が各教室に貼り出されていた。
 記念日の一日前。それにしては何の感激もないプレゼントだったが、征士は手帳にきちんとそれを写して帰る。これさえ乗り切れば後は試験休み、長い夏休み、と外出可能な期間がやって来るのだから、それなりに大事な情報だ。

 彼の人は常に遠い住人。
 自室の机の上に並べられた教科書の文字列も、伸には去年の内に通り過ぎた過去でしかない。同じ時に同じ物を見て、同じ悩みを分け合う存在で居たくとも居られない、普通の生活にはそんな口惜しさがあることを、最近になって征士は頓に感じている。
 それだけ高校生と大学生の違いは大きい。
 夜になっても変わらず小雨が降り続いていた。いつぞやと同じように、薄暗い雲の折り重なる陰に、隠された月の鈍く光る輪郭を、征士は眺めている。しばしば語られることだが、遠く隔たる場所に居ても、夜空の月は同じに見えるものだろうか?、と思う。
 征士は無言に吠えた。
『ただ会いたいだけだ』
 その頃若葉マークを付けた中古のアコードが、どうにか東北道の入口に辿り着いたことなど、彼には知る由もなかったが。

 目に映る姿よりも違わぬ月を見ている。









コメント)前回伸のBDに書いたものが、どうも征士の話みたいになっちゃったので、今回は伸の話を中心にしようかなーと思ったら、伸の記述に激しく偏っちゃった感がある(- -;。まあ、征伸には違いないからいいでしょう!、ってコトにします…(勝手に)。
ところで日本語では「泣く」と「鳴く」は違うけれど、英語では同じ「CRY」なんですよね。そんな意味でもはっきりしない感情を汲み取っていただければ、と思います。



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