薔薇色
薔薇色の明日
Tomorrow's just another day



 春の夢の過ぎた後は、人は何を待ち暮らせばいいのだろう。

 その夕べ、征士がマンションのドアを開けると、
「お帰り〜♪」
 何食わぬ顔をして伸が玄関に現れた。何食わぬ顔をして、と言うのは語弊があるかも知れない。征士にはそう感じられるだけで、伸は至って普通にしているつもりだ。
「…ただいま」
「もっと嬉しそう顔しろって言ってるだろ?、こうして迎えてくれる人がいるんだから」
 そう、伸が在宅での仕事を始めたお陰で、帰宅時は常に出迎えてくれるようになったのだ。彼は常々不満を漏らしていた会社勤めを四月いっぱいで終えた。その後五月の連休以降のひと月弱、この習慣を毎日続けている。が、
「うーん…、どうも慣れないな…」
 征士は呟くように言いながら鞄を置き、靴を脱いで室内履きに履き替える。それらの行動はこれまでと何ら変わらないが、何故か自分でぎこちなく感じる不思議。否、今の状態を嫌がっている訳ではないのだが、彼にはまだ何処かに抵抗感があるようだ。「人に済まないと思って生きるタイプ」だと、当麻達に言われたことが意外に尾を引いているのか。
 何しろ、家にいる伸はよく気が付く。よく気が回る。何でも先回りして用意している。それらの多くは自分の生活にも関わることなので、征士はやはり申し訳なく感じることが多かった。結婚した男女ではない、立場としては対等な関係の上で、一方に生活の負担が掛かるのはどうしたものか。
 けれど伸は、配慮する苦労など露にも感じない様子で、家に上がった征士の首を取りキスした。
「お帰りなさい、旦那様」
 改めて、ふざけてそんな挨拶をする彼に、
「違う、私は旦那様でもご主人様でもない」
 征士は多少いたたまれない気持もあって、真面目にそう返すと、伸は更におふざけを乗せてこう返す。
「そうだね。じゃあお帰り、愛しいあなた」
 そしてもう一度キスした。
「ハハハハ!」
 伸はただただ楽し気に笑っているが、前途の通り、征士も決して嫌がっている訳ではない。寧ろ伸の陽気な態度に安堵したり、日常の明るさに喜ぶ気持の方が大きかった。だから内心、
『何をやってるんだか』
 などと、馬鹿馬鹿しい戯れに自嘲していたりするのだが、嬉しさの反面割り切れない感情が、なかなか心の隅から消えてくれない状況だった。どうしたらこの生活の不均衡を解消できるだろうか?。征士はこのひと月そんなことばかり考えている。
 けれどキッチンへと戻って行く伸は、対照的に踊るような足取りで廊下を歩く。
「今日はねぇ、時間があったからコロッケ作ったよ」
「最近精が出ることだな」
「そりゃそうだろ、疲れて帰って来てから支度するのと、自由に時間配分して過ごすのと訳が違うよ。つくづく会社辞めて良かった」
 彼の明朗快活な様子からは、全く言葉通り、会社勤めなんて辞めて正解だったと言う、清々しさしか今は感じられない。勿論本人が心から喜び、納得して選んだ結果であることが一番だ。それに対して文句を付けるつもりなど、征士にある筈もない。
「そう…それならいいんだが」
「が?」
 と、今一つ歯切れの悪い返事をした彼に、伸は軽く突っ込みを入れるが、相手の気分を害する言葉は流石に出て来なかった。
「いや何でもない。そのせいか血色も良くなったようだ」
「え?、僕のこと?」
 それは適当なおべっかではなかった。征士なら場合によって青白く見えることもあるが、伸は元々明るく赤味掛かった肌をしている。それが落ち着いて来たのは年のせいかとも思ったが、今は随分戻って来たと征士は感じていた。それだけ過去の生活は、彼の健康に影響があったと言えるだろう。
「そっかー、ストレスが大幅に減ったからだろうね。いい傾向?」
 伸の言う通り、ストレスはあらゆる病気や不調の元だ。ストレスが全くない環境も問題になるが、伸は煩わしいばかりの環境を捨て、心身共に健康になったのだと思えば、征士の罪悪感ももう少し減らせるかも知れない。
「そうだな」
 と、相槌を打って答えると、伸は誉められたことに気を良くしたのか、一度収まったキッチンから廊下に戻り、飛び付くようにまたキスした。
「早く着替えておいで」
 そして征士は再び思うのだった。
『何をやってるんだか』

 過ごし易さの中にも暑を感じるようになった六月。既に背広の下のシャツは夏物に替えたが、ネクタイを外すと途端に清涼感が感じられた。伸が会社を辞めると言って大騒ぎした頃は、まだ冬の寒さの残る春先だったと、流れている時間を征士はふと意識して思う。
 これが単なる慣れの問題、で単純に解決できることなら悩まなかった。このひと月自分はどう対応するべきか、日々考えながら生活して来たが、上手い解決策が出ない問題はあるものだ。一日家に居る人間が、必然的に家の用事の大分部をカバーするようになると、その代償に何か、代わってあげられることがあれば良いのだが、意外に代われる用事が少ないのも家事の一面だ。
 常に人が居るのに、週に一度しか掃除や洗濯をしないのはおかしいし、そもそも伸が不快に思うだろう。料理をしない人間が買物するのも何かと不便だ。だからどうすれば良いのか解らなくなる。自分に何ができるだろうと考え込んでしまう。
 今日も、征士は頭を悩ませながら夕食の席に着く。
 その前に、部屋着に着替え廊下に出ると、珍しく伸の部屋のドアが細く開いていた。閉めておこうとその前に立った征士は、何の気なしにその中をチラと覗いてみる。すると、これまでは綺麗過ぎるほど整えられていた机の上に、積み上がった書類のファイル、多数の伝票、開きっ放しのノートパソコンが、ありありとした作業感を見せて目に映った。
 まだ伸の在宅経理は、ツテで拾った二軒の店鋪のものだけで、完全に軌道に乗ったとは言えない状況だが、頑張っているなと感じさせる部屋の様子だった。
 そして、
「何かいいことあった?」
 ダイニングにて、大分リラックスした様子の征士に伸が問うと、
「ついさっきまで仕事をしていたようだと」
 彼は椅子を引きながらそう言った。それが「いいこと」かどうかは考え方によるが、少なくとも伸が社会生活も真っ当に行っていると、判れば安心する気持が彼にはあるのだろう。
「そうだよ。君が電話くれるまでやってたけど、それが何?」
「フーン…。確かにそう言われると時間の融通ができるのは、無駄が省けていいかも知れないな」
 なので今は、征士も素直にそんな感想を口走る。すると伸はその点について、大いに語りたい諸々のことを話し出した。
「そうなんだよ。食事の支度は七時には終わらせるし、今日は君が帰るまで一時間あったから、隙間の時間にも充分仕事できるだろ?。僕はこういう生活がしたかったんだよ。会社にいると仕事がない日でも、退社まで時間潰さなきゃならないし、無駄な拘束があるのが嫌だったんだ。その間女子社員のお喋りに付き合うような時は最悪だよ」
「まあな、そういう事はままある」
 伸の話を聞くと、本来は誰もがそんな生活を求めているかも知れない、と言う考えも生まれて来る。好きな時に仕事をし、好きな時に身の回りのことをし、好きな時に趣味や遊びにも興じる。それで全ての人間の生活が成り立つなら、誰もがそうしたいところだろう。ただ現実にはそうできないことばかりだ。農家でさえ、太陽が昇り切らない内に作業を終えるのが鉄則だ。
 だから、伸の手に入れた生活はある意味贅沢とも言える。贅沢でありながら、征士には多少申し訳ない事情を生む生活。
「だろ?。君もだいぶ理解して来たようだ♪」
「ん、今更だが伸のことが大分解って来たようだ」
「ハハハハ」
 ただ面白いのは、自由を愛する征士が企業に勤め、従属する傾向の伸が独立したことだ。何故かそれでうまく回って行けそうなのだ。
 否、征士は自由だからこそ枠組が必要かも知れない。伸は自ら律して生活できるからそれでいいのだろう。仕事に於いても生活に於いても、人には向き不向きのスタイルがある。一見片方に比重が掛かっているように見えても、実際はそうでもないことがある。
 それが如何なるバランスで成り立つかは、神のみぞ知るところだ。



 食事を終えた後、取り敢えず食器の片付けを買って出た征士は、手を動かしながらも考える。
 この程度の労働なら、人に任せてもそれほど苦にならないのだが、一週間の内に行う家事は多々存在する。過去はそこそこの家には皆女中がいて、家の主人や奥方は、それほど家事と言うものをしなかった。しかし現在の家政婦の給与の高いこと。それだけ家事労働の大変さが認知された結果だろう。
 今、自分は自分の部屋と自分の持ち物、週に一回休みの日に廊下と玄関、一部の水周りを掃除するくらいで、その他のことは皆伸がやっている。もうひとつふたつ分担を増やしてもいいのだが、結局気の付く伸が自分でやってしまうことが多く、結果的にそうなってしまった。
 それについて特に不満を言うでもないから、そのままになっているが、実際のところどうなんだろうと考えることもしばしばだ。勿論彼が元来好きでやっていること、と言うのも理解できなくないし、柳生邸時代から言っても自分は、あまり彼に負担を掛ける方ではなかったが。
 それらの条件を言えば、現状の有り様にそこまで気を咎めることはないのかも知れない。元々それでバランスが取れていたのか、双方が不快に感じることは滅多になかった。けれど、今はどうしても割り切れない気持が存在する。何故なら…
「ところでさぁ、今年は何処に行こうか?」
 大方の食器を水切棚に並べ、水道の音が止まると、居間のソファで寛ぐ伸は言った。
「何のことだ?」
「誕生日だよ、君のお誕生日!。いつもふたりで食事に出てるだろ」
「ああ、そう言えば六月になったな」
 てっきり夏の旅行計画の話かと思った。今年は去年と同じスペインの、バレアレス諸島を巡ろうと既に予約を取っているが、そう言えばその前にいつも誕生日が来る。現実逃避的なバカンスに思いを馳せる前の、もう少し現実的なイベントだ。
「何処か行きたいところある?」
 と伸は尋ねるが、まあいつの年も、征士が自ら希望を出すことはほぼなかった。伸の勧めで彼の好みそうな場所に出掛けるのが定石だ。そして今年もまたいつものように、
「特別ここと言う希望はないが」
 征士はそう返すと、伸は暫し考えて話した。
「駅前にイタリアンディナーのお店ができたんだよね。予約が必要って言うから、結構いいお店だと思うけど…」
 すると、悩んでいる風でもないのに、何故だか征士はじっと伸を見ている。その視線に気付くと、相手の次の言葉を待って伸も黙った。こんな時は突然とんでもないことを言い出したりする、嫌な前触れだと多少身構えもした。
 ところが、
「それより、折角伸が家にいるようになったのだから、」
 征士の話そうとすることに、伸は途中ですぐに反応して同意した。
「あ、僕もそう考えてたんだよね〜。今年は家でお祝しようかなーと」
「それでいい」
「あはは、何となくそう来るとも思ったんだよね」
 仰天するような提案でなくて幸いだ。よく考えればこの数年は、双方に余裕がないことを前提に、外でお祝いをすることに決めていた。特別高級な場所に行きたい訳でもないし、伸ならともかく、征士はそれほど食に関心がある訳でもなかった。なので、
「以心伝心だ」
 ふたりの考えが合っていたことを征士は、そんな言葉で表現したが、その前に伸にはひとつ思うところがあったようだ。
「って言うか、君あんまり外食好きじゃないだろ?、ホントは」
「そうなのだ。流石に伸は解っているな」
 実はそんな裏事情もあり、伸には思い付き易いことだった。
 特別外食を嫌う訳でもないが、昼はどうしても外食になってしまうし、朝はそこまで豪華な食事をするでもない。となると、夕食はできる限り家で食べたいと言うのが、征士の理想とするところだった。大学生の間はそれで安定していた筈が、社会人になって崩れた習慣のひとつだった。
 意外に征士は慣れた味にこだわる所がある。今のところ自分の実家の食事と、暫くお世話になったナスティの作る料理、そして近年は伸の作るものに安心感を持っている。食べることの一側面には、安心や安全を取りたい欲求もあるだろう。見目の華やかさや珍しさに関心のない征士なら、尚更そんな価値観を見い出していそうなものだった。
 だから、伸には彼の気持が解ったのだが、
「まあね、お弁当までは作らないけど、誕生日くらいは奮起して豪勢にしてあげるよ!」
 と返すと、思わぬ一言に征士はややがっかりして見せた。
「…そうか、弁当は無理か」
「そこまで甘えるんじゃないよ」
「何だ残念だなぁ、三食伸の飯が食べられると思ったのに」
 無論それは冗談だろうが、案外素直な返事だったかも知れない。目の前に起こることに申し訳なさを感じつつも、最上の理想を言えばそうなのかも知れない。けれど何もかも理想通りにはできない、それが人生だ。解っていて言ってみたかったこと、それを言える場面が存在するだけ、ふたりの間にはゆとりがあると言うことではないか。
 すると伸は征士の目の前に手を出して、
「一回三千円で引き受けましょう」
 と笑って言った。
「高いな…」
「今はまだ本業の方の仕事が少ないから、サイドビジネスだよv」
 さて、征士がお弁当を頼むことが、今後あるかどうかは解らない。それも特別な日なら、無料でサービスしてくれそうなものだが。
「どうするかな…」
 ただ、伸のギブアンドテイクな提案を受け、征士はひとつの真実に気付いた。
 済まないと思ってしまうのは、割り切れなく感じてしまうのは、何故なら君が好きだからだ。君の負担になると解っていても、そうしてくれると嬉しいことが生活の中に溢れている。それに甘えてはいけないと、理性的に考える前に、心が先に喜んでいるからだ。
 ただ、君が何かをしてくれると言うだけで。

 日常の細やかな何かが充実して来ると、それを通して、影に隠れていた恋が見えるとは知らなかった。
 私は今も、こんなにも君が好きだ。



 そして六月九日。
「お帰り〜」
 いつもより少しばかり早く、夜七時過ぎに帰宅した征士の元に、伸はまた何食わぬ顔をして駆け寄って来た。
「ただいま…」
「お誕生日おめでとう、征士」
 そして、このひと月いつもするようにキスした。
「ありがとう」
「君も遂に四半世紀生きたと言う訳だ」
 この日ばかりは素直に返した征士、を見届けると伸は、意気揚々と踵を返し急いでいた。
「今日はリクエスト通り、三時間かけて用意してあげたからね!。君の好きな帆立のカルパッチョと、鮃のムニエル、にんじんのグラッセ、香草とグリルチキンのサラダに、野菜のヴィシソワーズ、サフランごはん、シャンパンと、あんまり甘くないスフレケーキのカラメルソース。蝋燭も立てたし完璧でしょ!」
 そこまで捲し立てると、彼はフィニッシュの為にキッチンヘと消えて行く。征士がダイニングの席に着く前に、全ての準備を万端にしておきたいのだろう。
 玄関から続く廊下の先に、普段の照明とは違う蝋燭の淡い明かりが見える。鞄を置き、室内に上がるともう少しよく見えたダイニングの様子は、テーブルにいつもと違うレースのクロスを掛け、普段より少し上質な食器が並んでいた。
 そして中央に薔薇の一輪挿し。普段は使わない真鍮のボトルクーラーも、曇りひとつなく綺麗に磨かれていた。伸の心尽くしの演出は、適当なレストランにも引けを取らないだろう。全く、彼に任せておけば家のことは万全だ。個人のお祝いだろうと、来客のあるパーティだろうと、残念な思いをすることはまずない。
 ところが、これほど至れり尽せりに用意されているにも関わらず、
「何ボーッと立ってんの?」
 音のしなくなった廊下を覗いた伸が、そこに立ち止まっている征士を見付けた。まさか驚いて放心するでもあるまい。疲れ切っているとも、考え込む態度にも思えないのに、一体どうしたのかとその傍に寄ると、征士はボンヤリしていた視線をふと伸に向け、言った。
「いや…。何か物足りない気がする」
「そう…」
 その物足りなさが何なのかは、伸にはすぐに察しが付いた。普段は馬鹿馬鹿しい遊びのように思っていても、こうして忙しい時には足りないと感じる。「済まない」「申し訳ない」と気を回しながらも、本当はもっと欲しがっていると解る。
 だから伸は征士の耳許で、大声でこう言った。
「僕の大好きな征士!、おめでとう!」
 そして息が詰まる程強く抱き締め、もう一度キスした。
「これでいい?」
 何だかんだと理屈を捏ねていても、ひと月もすれば新しい生活に慣れて来る。今は素直にはしゃぐ子供のように、笑顔を返す征士を見て、伸はやはり「これで良かった」と笑っていた。

 迷える日々は過ぎ去り、今楽しみに待っているのは常に明日だ。必ずやって来る日常の繰り返しだからこそ愛しい、だからこそ何より大切だ。明日は、今日よりももっと薔薇色に輝いている。これから未来へとずっとそうであるといい。と征士は思った。









コメント)悩んでたくせに結局…と言う話です。別に深読みする部分も何もなく、ベッタベタで申し訳ございません(笑)。いや、私の作品では珍しい方なので、たまにはいいですよね(*^ ^*)。短い話ですが。


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