水を思う
バクティナーガ
Love around the snake



 毎年夏に海外旅行をするが、今年は年末からの冬休みに無理矢理出掛けた。僕は在宅の仕事だから関係ないが、征士には一週間の休みに無理矢理有給休暇を付けさせ、八日間のバカンスに出た。
 何故そこまでする?。わからない。海を見る為なら多少の無理もする。
 否、今回は冬でなければ意味のない場所だったからだ。



 一月下旬のある小春日和の日、征士と伸は都内の某美術館の展示を見に、骨董通りと呼ばれる雰囲気の良い道を歩いていた。都内の町の景色とは凡そ、無機質なビルの壁面が立ち並ぶものだが、この辺りは住宅や小規模店鋪の連なる閑静な地区で、大人の為の東京と呼べるような一角だ。既に大人になって久しいふたりにも、当然その大人らしいお洒落さは楽しめた。
「あれ知ってる、薩摩焼だよね。うちの傘立てがそうだった」
 ガラス越しに見えた、極彩色の大壷を見て伸が言うと、征士はやや首を傾げながら返す。
「ああ…、家にも似たようなのがあったな」
 彼等の家はどちらも名家と言える家、それぞれ美術品、骨董品らしき物を日常的に見て育って来た筈だ。なのでこの骨董通りに並ぶ商品は、彼等の幼少期を思い出させる品物でもあった。昔、祖父が命より大事にしていた掛軸があっただの、家一軒買える値段の代々伝わる絵があるだの、そんな話はよくある通りで、暫し昔話に花が咲いた。
「子供の頃はそんなに高価な物とは知らなかったから、結構乱暴に扱ってたよ」
「確かに。いつか何かの皿を割って、大騒ぎになったことがある」
「あ、そうそう!、お皿のセットとか、大抵何枚か欠けちゃってるよね」
 そんなことを話しながら、店のショーウィンドウを次々眺めて行く。明るい冬晴れの天気の中では、古びた骨董品もより輝いて見えるようだった。陶器の表面の上薬がテラテラと光を反射していた。可愛らしい大正ガラスの、乳白色の食器が雪解けのように輝いていた。
 万物は光の下に在って初めて輝く。水だって、闇の中では雫の輝きも何も見えやしない。と、伸は骨董を見ながら何故かそんなことを考えていたが、その時、
「お…!」
 征士がふと上を見上げて声を出した。
「何、どうしたの?」
 店を見ているのではない。その敷地の奥の庭を見ていたのだが、そこで、こんな町中では珍しいものを彼は見付けていた。
「あそこに蛇がいるぞ」
 征士の指差す先、ある程度育った桜の木の又に、とぐろを巻きかけたような格好で蛇が休んでいた。征士も伸も、地元ではしばしば見る光景なので、特に恐れるようなことはないが、やはり東京では初めて見る日常の景色だった。
「あっホントだ、青大将かな?。東京の町中にもいるんだねぇ?」
 伸が面白そうに言うと、
「職場の人間に聞いたが、三十年くらい前までは普通に、古い木の多い所には居たと言うぞ」
 征士は聞き知った情報をそう伝えた。
「お寺や神社とか?」
「それだけでなく住宅街の庭の木などにも。この辺りはまだ木が残っているのか」
「成程、木が残ってれば寄って来る虫もいるし、少し前まで餌が多くあったんだろうね」
 すると、確かに伸の答えた通りなのだが、蛇と言う動物を見た瞬間、まだ鮮明に連想される別の話題があり、征士は思わずその事を口にした。
「餌もそうだが…、蛇は水の象徴だろう?」
「ん?」
 そう、それはこの冬休みに出掛けた、オーストラリアでの出来事だ。ふたりは偶然彼の地で、水にまつわる不思議な話を聞き、思わぬ神秘的な心境を味わって来たばかりなのだ。その中で征士は特に、水と蛇に関する話が印象深かったらしく、
「アポピスも原始の水から生まれたと言う。水と蛇は関係が深い」
 と、次にはエジプト神話に絡めてそう話した。アポピスとは太陽神に敵対する悪の蛇のことだ。
「ああつまり、この辺りは水に恵まれてる土地だって言いたいの?」
「そうなんじゃないのか?」
 征士が至って真面目にそう話すので、伸も一応その話題に乗って答える。
「そうかもね、都心の中ではね」
 何故一応なのかは、伸はあまり蛇が好きではない。蛇のことなど深く考えたくはないので、この話は早く切り上げたかった。

 けれど、確かに蛇と言う存在はひとつの神秘だ。それだけは判る。
 水の将である僕が言うんだから、間違いないことだ。



 オーストラリアに行くなら夏の方が良い。但し南半球の夏は北半球の冬なので、ふたりは例年の夏のバカンスを変更し、珍しく冬に旅行に出掛けた。福引き賞品のハワイ旅行以来だった。
 しかし冬休みはあまり長くは取れないもの。実質滞在できる六日間は、四日目までグレートバリアリーフを中心とした海で、残り二日をエアーズロックなど中央部で楽しむことにした。広大な珊瑚礁の広がる美しい海は、伸の想像通りの場所で、ふたりは休養しつつも毎日楽しく過ごしていた。
 空港からの移動途中で野生のカンガルーを見た。海辺のシーフードレストランで、名物だと言うワニ肉の料理を食べた。大晦日にはオールナイトで花火が上がり、一月一日には巨大なカニのボイルと、地元のお祝い料理も食べた。もうそれだけで充分と言えるような四日間だった。最近は年末年始を海外で過ごす家庭も多いそうだが、確かに冬のバカンスもいいものだ。
 そして五日目になると、ふたりはアリススプリングスと言う町から、車でエアーズロックへ行くツアーに参加した。海のバカンス以外はおまけのように考えていたが、実はそこからが、オーストラリアと言う土地を知る重要な道程だったとは、まだ彼等は知らなかった。

 砂漠の真ん中に突如現れ聳えるエアーズロック。その周囲の景色は何とも形容し難いものだった。写真等で見る通り周囲には何も無く、否、観光客相手の商売をする者達と、短い草や石ころ以外は何も無く、ただ荒涼とした土地が一面に広がっている。その赤い大地は正に乾きを想像させるものだった。
 何もかもが味気なく乾いている。それがオーストラリアの中央部だ。
「何かさ…、オーストラリアって意外に岩だらけだよね」
 伸がその大岩を見上げ、溜息を吐くように話した。海沿いのケアンズに到着した時は、グレートバリアリーフの美しいサンゴ礁、自然の緑豊かなオールドイングリッシュの町、と言う、歴史を感じさせながらも瑞々しい印象を受ける、オーストラリアのイメージそのものだった。ところがアリススプリングスへの道中は、それとは真逆の世界だった。即ち列車の車窓からも車からも、大小様々な石や岩ばかり目に着く景色なのだ。
 乾いた大地を這う、僅かな草と石がこの大陸の本当の顔かと思うと、バカンスに来たのに少々気が滅入る思いだった。
 またそんな感想は征士も同じだったようで、
「だな。こんなに閑散とした景色が多いとは思わなかった」
 と伸に返す。どうも我々は観光する順番を間違えたようだ、先にここへ来て、後で安楽のビーチに行けば良かったと、征士にも軽く思わせていた。そして彼が続けて、
「要するに渡って来た人間が作った町は、住み易い南東側がほとんどで、我々の知るオーストラリアはそのイメージだったんだな」
 そう話すと、伸も素直に相槌を打っていた。一般に知られるオーストラリアとは、カンガルーが居て、コアラが居て、タスマニアのような秘境もあり、牛肉を生産する牧場も多くある、自然に恵まれた豊かな大陸だ。だが一部を切り取って見るのと、実際そこを旅するのとでは全く視界が違う。勉強になったと言う意味では、とても大事な体験をしている最中だとは言えるけれど。
 ただ、伸はどうもこのオーストラリアの在り方に、納得が行かない様子でこう続けた。
「うん…、でもアメリカなんかはさ、例えばグランドキャニオンやナイアガラの滝は、観光地としてもっと整備されてるじゃないか。人が住まない荒々しい場所も、見せ方が上手いって言うか。オーストラリアの中央はこれじゃ、エアーズロックしかないみたいで何だかな」
 つまり伸は、同じダイナミックな自然を見ている割に、アメリカなどに比べ味気なさ過ぎると言いたいようだった。それは見せ方の問題ではないかと。
 だが征士がそれに答えると、伸は再び納得して頷くしかなくなった。
「平坦で特徴のない平野が広がっているだけのようだし、基本的に起伏がないんだろうな」
「そう、山が無いから川や滝もないんだよね…」
 自らそう言って、伸はもう一度周囲の景色を眺めてみる。彼の前には只管地平線を目指して続く沙漠と、ポツリポツリ岩の陰があるばかりで、やはりどうにも楽しくはなかった。そんな伸の様子を、少し面白く見た征士が、
「あるのは沙漠だけだ」
 と笑って言うと、伸はその沙漠にも文句があるようだった。
「沙漠もさあ、アラブやアフリカみたいな美しい沙漠を想像すると、何処も石がゴロゴロしてて全然綺麗じゃないし」
 そう、沙漠と聞いてまず想像する景色は、美しい弧を描く砂山と、年輪のような不思議な砂紋の模様が、照り付ける太陽の下、或いは月の光の下で黄色く光っている、と言う感じだ。だから沙漠は何となく幻想的な何かを感じさせる。但しそれは、アラブやアフリカに限った話だった。
「沙漠には、海から運ばれて来る砂で出来た砂漠と、単に乾燥して草も生えない沙漠の二種類ある。ここやゴビ沙漠は後者だ」
 征士が説明したことを、伸も知らない訳ではなかったが、まさかここまでイメージが違うとは、と、微かな期待も裏切られた気分だった。これなら鳥取砂丘の方が何倍も綺麗だと。
 尚、エアーズロックの西側に立つと、右にグレートサンディ沙漠、正面にギブソン沙漠、左にグレートヴィクトリア沙漠が見える。背中側にはシンプソン沙漠が広がっている。ここは正に沙漠のメッカ、乾燥極まる土地の中央部なのだ。それを改めて肌で感じると伸は、
「学校の勉強で、自国の地理として、こんな沙漠の名前とか憶えさせられたら嫌だな」
 水の戦士としては、こんな土地には生まれたくないと苦笑いした。それを、
「はは…。そんなことを言ったら、この岩だらけの風景を見て来たアボリジニに失礼だ」
 征士がそう返すと、その原住民族については関心があるようで、伸はすぐにその話題に食い付いて来た。
「ああ、この辺ってアボリジニの保護区だって言ってたよね?」
「そう聞いた。だから開発もしないんだろう」
「でも沙漠全部がアボリジニの土地じゃないだろうし、もっと有効利用しようと思わないのかな?」
 そこで伸は先程の話題に戻る。見せ方を工夫すれば、もう少し楽しく見られる場所になるのではないかと。その為にアボリジニの文化や、彼等の生活に関わる演出等をしてもいいんじゃないかと思うのだ。例に出したアメリカだって、グランドキャニオンは長くインディアンの土地だったことを、映画等でも紹介している通りだ。しかし、
「カンガルーの保護区だったりするんじゃないのか?」
 下手に開発できない事情があるのかも知れない。と征士が言うと、
「いやだから、カンガルーや面白い岩を観られる場所にホテルを建てて、そこまで線路を引くんだよ。その程度だったら環境を壊すこともないでしょ、これだけ沙漠だらけなんだから」
 伸はあくまでほんの少し、沙漠の一部を借りるような開発をするだけだと主張する。勿論そのホテルの周囲に、ラスベガスのような町を作ったりはしない。ありのままの自然を見る為のホテルとして、泊まりたがる客はそこそこいる筈だと思うからだ。
 ただ、そのホテル計画はともかく、征士にはひとつ気になる点があった。
「沙漠だらけと言うか…」
「何?」
「東側に比べ、西側には道路や線路が極端に少ないのは何故なんだろうな?」
 そうなのだ。伸がホテルを建てようと言ったのもその西側、何も無く広がっている平野に対しての話だ。何故そのまま放置しているのか、国土の狭い日本人には考えられないような状態だった。
「そう言えばアデレードの駅で、ナラーバー平原の方は何も無いって言われたよね。何も無いなら何で何か作らないんだろう?。少なくとも平原なら、畑や牧場にでもしたらいいのに」
 その平原は、面積で言えば日本の本州ほどもあるが、道が一本通っているだけで、人はおろか家畜すら住んでいない土地なのだ。人口に対しそこまで食料を生産する必要がない、と言う理由も昔なら通用したが、食料輸出が国を支える現在に在っても、その土地は手付かずのまま残されている。とても不思議なことだった。
「乾燥が進んでいることが問題視されているが、水道や灌漑の設備も作らないようだしな」
 征士が言うように、もし耕作地として不適切な土地なら、他の目的に使用しても良いように思う。乾燥を少しでも防ぐ為の施設なら、国としても重要な事業である筈だ。
 しかし、現状何もしていないらしい。
「うーん?、何かあるのかな…?」
 伸は、エアーズロックの横を吹き抜ける風に向け、その風上の平原を見据えながら思った。オーストラリアは他の大陸とは何かが違う。他の大陸と関わらず独立していることもそうだが、それだけでない何か、特別な条件のある土地なんだろう。僕はその秘密を是非知りたい。それはこの大陸を取り巻く、美しい海の秘密でもあるだろうから。と。

 エアーズロック周辺をうろうろしている中、伸が白人のガイドを掴まえて尋ねたら、
「ナラーバー平原は一枚岩の石灰岩だからね」
 と言う答が返って来た。簡単に教えてもらった大陸の秘密だが、実際それは大変なことだった。
「一枚岩の石灰岩…。秋吉台みたいだ」
 伸がそう感想を漏らした通り、あの剥き出した岩のゴツゴツした秋吉台が、日本の国土以上の面積で広がっていると言うことなのだ。日本ではあの景色はごく一部だから珍重されるが、ここでは飽きる程その地質が続いている。成程、何処を見ても石や岩だらけなのは納得だった。そして、
「そうか、耕作に向いた土地ではないんだな」
 と征士も、何故有効利用されないのか合点が行ったようだった。石灰岩は御存知の通り弱い地盤だ。その上に重量のある施設を作るのは無理がある。ただ、石灰岩の地形と聞けば、同時に思い出される素敵な特徴もある。
「あ、じゃあ下に鍾乳洞とかあるの?」
 すぐに伸がそう続けると、ガイドの男は少し笑顔になってこう話した。
「鍾乳洞と言うか、この平原は雨に侵食されてできた穴が一万以上あって、その下は皆繋がっているんだよ」
 水に溶け易い性質を持つ石灰岩が、長い年月をかけ作り出す鍾乳洞は天然の芸術だ。だがここでは不思議なことに、洞窟化するのではなく、小さな泉のようなものが点在する形になっているらしい。ガイドが笑って話す通り面白い話だった。
「なら水はあるんじゃないか。乾燥を防ぐ為にそれを汲み上げて使えばいいのに」
 話を聞いて伸が単純にそう言うと、征士は、
「海水なんじゃないのか?」
 と、何か使えない事情がありそうなことを示唆して返す。すると、ふたりには全く想像できなかった事情が、ガイドの口から淡々と語られた。
「いや、海沿いの一部は海と繋がっている部分もあるが、内陸の穴は繋がっていない。だから、四千万年前の雨水がそのまま残っているんだ。とても貴重なんだよ」
「四千万年!」
 ふたりの口から思わず同時に声が漏れた。四千万年前と言えば、漸く哺乳類が誕生した頃ではないか。まだ人類も居なかった時代からの雨水が溜まっている。そんな事実は確かに、下手な開発を拒みたくなる条件だとふたりは納得した。
 無論、つい最近降った雨水もその泉の中に合流しているが、地中を流れる水は濾過されてとても綺麗な水になっている筈だ。太古との繋がりを感じられる貴重な水。乾いた大地の下で大切に守られて来た歴史的な水。もしそれに触れられたら、その中を泳ぐことなどできたら、きっと母親の羊水を漂うように気持が良いだろう、と思えた。
 伸が見に行きたいと言い出すことは、容易に予想がついた。だが征士が見ている横で、それは無理だとあっさり断られてしまった。
「そんなツアーはない。穴は細くて深いものが殆どだから、上から覗いても水は見えないんだ。研究者が時々何処かしらの穴に潜って調査しているが、陸路もないから、ヘリをチャーターして行くような場所だよ」
 今現在、小金持ちを自負する伸ではあるが、個人で飛行機を飛ばして冒険するとなると、なかなか予算的に厳しい。恐らくその為には専門家の同行と、事前の調査等も必要だろうし、簡単には行けそうもない場所だと知るばかりだった。まあ、神秘の秘境などと言う場所は、何処もそう簡単に踏み入れられるものではないだろう。そう思って諦めるしかなさそうな状況、なのだが。

 伸の頭からは、その美しい太古の水への憧れが離れなかった。
「行きたい、どうにかして行きたい」
 意欲的に呟く伸の横で、征士は現状どうできるかを考えている。
「無理だと言うのに」
 そうは答えたが、できるなら伸の望みを叶えてやりたかった。殊に水に関わる場所は、伸の大切な起源とも言えるものだから、水にまつわる全てを極め、伸の伸らしさをより磨いてほしいと言う思いもある。相手の性質に惚れ込むからこその、征士の深い思い遣りだった。
 だが果たして、道も無い大平原に空いた穴を探しに、すぐ出掛けられる方法はあるのだろうか?。そこへ丁度通り掛かった、アボリジニらしき青年を捕まえて聞くと、彼は意外に簡単にこう話した。
「行きたければ行けばいいよ、穴なんて珍しくもない」
 おや、ガイドの厳しい態度とはえらく違うな?、とふたりが当惑していると、やはり青年は但しと言う話も付け加えて来た。
「でも穴は神聖なものだから、勝手に入って壊したりしないで」
「壊す訳ないよ、何でさ?」
「僕は大学で勉強したから言うんだが、この土地、石灰岩がもうかなり風化しててね。乾燥のせいで何処も脆くなって、触るとすぐ崩れるような場所が多いからさ」
 成程、それを聞くとガイドの厳しい返事も解る。観光地化するには劣化が進み過ぎているのだろう。下手に触れたりすれば増々崩れるので、研究者以外は傍に寄らないでほしいのだ。元々アボリジニの保護区であり、必要のない道路や線路、観光施設も作らない。そうするのには確と理由があったことをふたりは、ここで漸く素直に飲み込めたのだった。
 ただひとつ、伸には判らないことがあった。
「下に水があるのに、どうしてそんなに風化するの?」
 日本で見る鍾乳洞などは、大抵中に川が流れていたりして、常にとても潤っているイメージだ。また石灰岩は元々海底の珊瑚礁からできているのだから、傍に水が存在するのは当然のことだ。水はある。確かに地下に存在すると言うのに、地表は脆く崩れ掛かっていると言う。何故そうなるのかここでは考えられなかったけれど、
「大した量ではないのかも知れん。大気が乾いているのも問題だな」
 征士が考えてそう言うと、少しずつ伸の目にも、日本とオーストラリアの違いが見えて来たようだった。そう、日本は海に囲まれた多湿な国なのだ。普段それをそこまで意識してはいないが、海から発生する水蒸気は相当なものなのだろう。だから雨も多く、山間部では霧も多く発生する。山の上の鍾乳洞すら潤っているのはその為だ。
 そしてこのオーストラリアと来たら、周囲を海に囲まれているのは同じだが、細長い島国と大陸ではスケールが違い過ぎる。海から来る潤いがもう、この平原の奥地には届かない程なのだ。だから地表の石灰岩は乾燥するばかりで、地中の水は奥へ奥へと隠されて行くしかない。ここはそんな乾き切った土地なのだと改めて知ると、伸は少し悲しくなってしまった。
 同じ地球の上に住む人間でありながら、同じ豊かさを共有できるとは限らない。同じ水の恩恵を受けられるとは限らない。自分は偶然豊かな水のある国に生まれ、当たり前のように水を使って生きて来たが、そうではない土地の水の貴重さが、今身に染みて解ったような気がした。四千万年前の雨水とはただ言葉通りの水じゃない。この国の乾いた歴史を示す証拠品なのだと。
 そして、自分は日本人に生まれて良かったと、逆の思いが生まれたことも深く噛み締めた。
「だから、今の状態を何とか保ってくれている、太古の水は大事なんだ。大昔は井戸として使ってたけどね」
 アボリジニの青年がそう話す頃には、伸の気持もすっかり落ち着いたようだった。
「そうか…。じゃあやめておこうか」
「おや、珍しく諦めが早いな」
 征士が伸の表情を窺うと、確かに何か吹っ切れたような顔で笑っていた。こうしたいと言い出したことを、こんなにあっさり撤回するのは珍しいことなので、伸に取って、何か余程腑に落ちる理屈を得られたのだろうと征士は思う。まあ征士なら、伸が良ければそれで良いと言うつもりだったが、そこで、
「神聖な物には簡単に触れちゃいけない、だから美しいんだよ」
 伸が自らそう言うと、それを聞いた青年は彼を見所のある人物だと思ったのか、ふたりにこんな話を聞かせてくれた。
「じゃあ折角だから、君達にアボリジニの伝説を教えてあげるよ。このオーストラリアの大地が岩だらけなのは、大蛇が通り過ぎた跡だからなんだ。泉の水を飲み干して、大きな腹で這って行ったから、こんな乾燥して荒れた土地なんだよ」
 水を飲み干した大蛇の通り道、ナラーバー平原とその横に広がる沙漠は、そんな古代の伝説が生まれた時から変わることなく、現在に至ってもこの有り様なのだ。そう聞くとそれはそれで、考古学的価値が見出せる貴重な土地かも知れない。日本に於いては全国何処も開発が進み、太古のままの土地と言うのはごく僅かだ。生きる為の便利さを優先するかどうか、どちらにも美点、欠点があって仕方のないことだった。
 伸はそんなことを思いながら、今一度沙漠に古の水を探すように、広がる地平線に視線を漂わせていたが、そこで征士が、
「ここではその大蛇が神なのか?」
 と、アボリジニの青年に尋ねると、彼は伝説の続きをもう少し教えてくれた。
「いや、その後溜まった雨水の穴から美女が現れて、その水の女神の出現を見ると、地上の他の精霊達も目覚めた。そして生物の住む土地になったんだって話だよ」
 科学的に言えば雨が降り、石灰岩を溶かして泉が出来、泉の周囲に植物が沸き上がり、土地全体に生物が暮らせるようになったと言うところだろうか。しかしその、動植物が貧しかった時代を蛇が闊歩していたとするのは、なかなか面白いと征士は思った。有名な聖書の冒頭で、最初に名指しで登場する動物も蛇だからだ。何故か蛇は神話によく出て来るものだと思った。そして伸も、
「じゃあ蛇は悪者だ。ヤマタノオロチみたいだな」
 蛇と言う動物が多く悪役で出て来ることを、そう指摘して笑った。否、勿論ギリシャでは医学の象徴として崇められてもいたし、日本の一部でも蛇を祀った神社等はあるが、大別して悪いイメージで語られることが多い動物なのは、間違いのないところだ。そこは日本人とアボリジニの、共通の感覚のように思えて伸は嬉しかった。
「ヤマタノ…?」
 と、青年が聞いた言葉を繰り返したので、伸はその意味を説明した。
「日本の伝説に出て来る大蛇だよ。八つの頭に八本の尻尾があって、娘を攫って行く怪物だ」
「へえ?」
 するとやはり、アボリジニの青年は何か、直感的に理解できたような明るい表情をしたので、伸はこの心の交流を持てたことに満足そうだった。そう、水と言う物質を追い求めるのにも意味はあるが、人との繋がりに心を寄せることはより重要だ。何故なら、それこそが真の「水の意味」だと、伸は間違えず居られる自分を少し誇らしくも思った。
 どんな形にも変われるからこそ水には価値がある。自分はそんな人間で在らなければ。
 四千万年前の雨水が美しいのは、それだけ多くのものに濾過され、多くの塵が沈澱する年月を重ねているからだ。人間もより良く進化する為に、より多くの経験をしなければならない。人種や文化の違う相手を認め合い、手を取り合って進んで行く、そのまだほんの第一歩でしかないけれど…。

 太古の水の話を通し、新たな異国の神話を聞くことができた。そんな出会いも旅の楽しみのひとつだ。アボリジニの青年が去ってしまった後、征士はポツリとこんなことを言った。
「美女と言ったが、私はそれも蛇だと思う」
 どうも、彼には雨水の溜まった穴に、水の精が現れた説はイメージし難いようだ。それは恐らく今目に映る、荒涼とした赤土の沙漠が、美女と言う言葉に結び付かないからだろう。伸が、
「ん?、何で?」
 と問うと、征士はより自然に思える情景を簡単に話した。
「蛇は水辺が好きだしな」
 例外的に、アフリカの沙漠を走る蛇もいなくはないが、大概蛇とは湿った場所を好んで暮らす。日本ではよく池や古井戸などに潜んでいたりするだろう。トカゲから進化した蛇は爬虫類なので、両生類のように水を必ず必要とする訳ではないが、何故か古来から蛇は水辺の生物だった。以前征士が伸に説明した弁財天も、蛇を使いとして操る川の神だ。
 水が豊かで潤おう土地には蛇が居る。その経験から蛇と水が関連付けられ、人の歴史や文化に刷り込まれて行ったのだろうが、
「ああそう言うこと…。僕も蛇だって言いたいの?」
 伸がやや不機嫌そうに、否、蛇を装って小悪魔っぽい顔をして征士を見ると、征士の方はすかさずこう言った。
「いや美女の方だろう」
 自分で精霊は蛇だと言ったのに、都合良く解釈するものだと、伸は思わず笑ってしまった。それは多分、例え伸が蛇であろうと美女であろうと、征士には同じだと言う意思表示でもあるのだろうが、面白かったので伸もその軽妙な調子に合わせ、
「あはは。美女ね、ビジョ…、ビジョビジョ〜」
 とふざけて返した。
「駄洒落か?」
「あははは、いいんじゃない、瑞々しくて」
 だが言われてみると、美女と言う言葉はなかなか語感が良いようだ。そもそも「美」ひとつでも水っぽさを感じる。美しさとは適度な水分あってのものなのだな、と、全く関係ない所からも水を連想する楽しみを征士は得た。そしてだから、我々の水の戦士は美しく魅力的なのだと、酷く納得する思いで笑顔になっていた。多少無理に休暇を取ってまで、オーストラリアに来て良かったと。

 ふたりはこの乾いた大陸にて、再び一から水の何たるかを考えた。



 そんな、予想外の展開があった年末年始の旅行だった。それをまだ鮮明な記憶として思い出すと、伸は今になってもう一度、まだ見ぬ幻のような水への憧れを語った。
「ああ…、骨董品もいいけど、骨董よりも時代の古い水を見たかったなぁ」
 骨董通りの店先に並ぶ陶器や書画、古道具などは、皆時を経て重厚な趣を楽しませてくれるけれど、所詮人の作った物の寿命は限られているものだ。エジプトのピラミッドやスフィンクスも、あと千年持つか持たないかと言うところだろう。無論限りある物だからこその美しさも理解できる。
 けれど、ヒトの発生から進化まで全てを超え、存在し続ける天然の美しさの前では、とてもちっぽけな物に映るのは確かだ。オーストラリアの地下に眠る太古の水は、ダイヤモンドの輝きに匹敵する透明度で己を魅了するだろうと、伸は空にその水の色を見ていた。
 すると征士は、
「水は循環しているのだから、今降っている雨も、考えようによっては古代の水だ」
 そんなことを言った。学校で習う通りそれも間違いではない。ただ、征士は伸を慰めようとしてそう言ったに過ぎないので、それが判る伸も笑って答えた。
「まあそうだけどね」
 笑ってはいるが、君の無念さが解る。
 至上の宝物に触れられなかった、君の残念な気持が手に取るように解る。今はそう解り合える、通じ合えるふたりに進化できたと、反対に喜びを感じている征士だった。手の届かぬものへの憧れと同時に、すぐ傍に存在するものへの愛着があって、初めて自分は理想の愛情を持てたと感じていた。崇高すぎても低俗すぎても駄目なのだ。それはまるで、常に水平を保とうとする水の性質に似ている。
 だから水について考えると自ずと心も潤おう。私が伸を想う時、いつも心豊かなのはそのせいなのだろうと、征士は今深く相手を理解できた気がした。
 ただ、
「因みに、インドでは蛇は循環の象徴だ」
 と話を続けると、その話題では不興を買ってしまった。
「もう蛇の話はやめろって…」
 見せ付けるように口角を下げた伸を見ると、理想の愛を知った征士にもまだまだ、完璧に愛することはできていないと自ら知れるようだった。それは恐らく人類全ての課題だ。ひとりの人の嗜好や主義、その時々の気持までを完璧に把握し、全て解り合えるようになるまであと何年、何千年必要だろうか。果たして人類はその域まで到達できるだろうか。そして、私達は?。

 海は教えてくれるだろうか?。太古の水は教えてくれるだろうか?。
 もしかしたら、蛇は知っているのかも知れない。









コメント)話の冒頭にある通り、オーストラリアは夏の旅行ではあまり行かないので、新年第一回目のお話として旅行話を書きました。まあ旅行よりアボリジニと蛇の話を書きたかったんですけどね。
私は蛇は、見るだけなら別に嫌いじゃないので、ペットショップに行くとよくいるグリーンスネークとか、ちょっと可愛いと思ったりします。勿論毒のある大型の蛇なんかは、怖くて近寄れないですが。素早いブラックマンバとか超怖いですね(> <)。



BACK TO 先頭