晩夏の幻想
あの夏に生きる
We live for the Summer



 夏の為に生きている。自然に体がそう動く。
 何も気にしなくていい。何も失敗はしないのだから。



 窓の外はまだ、ジャングルを思わせる熱気に満ちた夏の景色だ。大通りに犇めき合う人々の服装は明るく、汗の滴る上気した顔もまた明るい。それぞれ手にした買物袋の光沢も、ビルの隙間に差し込む夕陽を映し、変哲もない見慣れた袋であるのに一際眩しい。
 ここは秋葉原の中央通りである。この数年、休日の町中は常にごった返している感はあるが、何故か今日は普段より更に人が多い気がした。ふたりが暮らすマンションからは近い場所の為、しばしばここに家電製品や事務用品を買いに来ては、活気ある町並みと人の様子を見るのが、ちょっとしたふたりの楽しみとなっていたけれど。
 もうすぐ夏が終わる。と同時に夏休みの終わる中高校生などが、駆け込みで買物に来ているのだろうか?。その騒々しさと人混みの暑さに、今日はしばしば窒息しそうな思いがした。
 漸く落ち着いた通り沿いの喫茶店、涼しい店内で冷たい飲み物を口にすると、今はガラス越しに見える歩道の人波に、自分も紛れていたことを不思議と忘れる。ガラス一枚隔てまるで別世界のようだった。そんな極端な感覚の変化は、ある意味夏場の醍醐味でもあるかも知れない。変化が大きければ大きい程感情の振れ幅も大きく、殊にこんな状況は気分爽快だ。
 半日程歩き、些かだるい足を遊ばせ座るひと時。心地良い清涼感。
 手にしたグラスの中の氷がカランと音を立てた。まだここに着いて十分程しか経っていないが、もう飲み物がほぼ尽きかけていると知り、気付かぬ内に随分喉が乾いていたんだな、と征士は自ら驚いた。所々でペットボトルの飲料を口にしていた筈だが、まだ乾いているとすればそれだけ汗をかいた証拠だ。水分を多く摂り、多く汗をかくのは健康的な体の活動。それを思うと尚、現在の状態は居心地が良かった。
 予定していた買物を予定通り済ませた。辛くない程度の夏の日射しの中、快活に動き回り、東京一の電気街にて新たに見る物、触れる物、話す事、あらゆる場面が新鮮で楽しい時間だった。また自分がそう感じているように、きっと伸も同じ気持だったろう。
 と、征士が思うことなく思っていると、ふと右肩に重みを感じた。見れば珍しく、人目も憚らず、伸が身を預けて笑っているではないか。
 どうしたことだろう?、他人の前では滅多にそんな素振りはしない彼が。却って征士の方が心配に思い、自分らを怪しむ人目は無いかと、首を捻って店内を見回していた。すると、
「こうやって、いつまでも寄り添っていたいねぇ」
 征士の心配を余所に、伸は殊に幸せそうな調子でそう言った。店に入ってからふたりは特に話らしい話はしていない。ただ暑かった、いい買物ができたと、本日の感想を口にしていただけだ。そんな中伸は何を思っていたかと首を傾げ、征士は簡潔に今の心境を返す。
「こんな状況で言うことか?」
 例えて言うなら、今は仕事帰りのビアガーデンでジョッキを啜る、あのキリリとした充足感に似ている。よく働いた後に冷えたビールは旨い。そんな開放的な気持良さに浸る数分だった筈が、伸には何か別の景色が見えていたのだろうか?。
 すると、彼にはまた珍しく、上目遣いで甘えて見せながら言った。
「こんな状況だから言うんだよ」
 その途端、征士の脳裏にフラッシュバックが起こる。そう言えば出掛ける前も、伸はこんな様子を見せていたのだと。
 ただ何が切っ掛けか判らない、今日が特別な日だとも聞いていない。そもそも買物の話に熱中していたその直後、普段と違う態度が出て来るのは妙だった。思い切り甘えられるのも悪くない、寧ろ最高の時間だとは思うが、その心を知らなければ釈然としない状態に征士は困った。



 その日は朝から快晴に近い空模様だったが、初夏から真夏のギラついた陽光は大分落ち着き、穏やかな夏の一日を予感させる日曜日だった。伸は朝食を終えると徐に席を立ち、マンションの窓辺に立つと一頻り町の様子を眺めていた。
 誰でもそうだが、酷暑と言えるような日には家から出たくない。昔は家庭にクーラーのある家は少なく、外の施設に涼みに出たり、海や避暑地に出掛けるのが夏の常識だったが、今は家に閉じ篭っている方が快適だったりする。十代以下の極若い頃ならともかく、大して重要でない事でわざわざ出掛けたくはない、と普通の大人は考えるものだろう。
 だが普通の大人は同時に、何処かへ出掛けたい意識も隠し持つものだ。例えば日本人の涼のイメージには、浴衣を着て夕涼みする江戸の町人の絵図などがある。或いは京都の川床など、昔から夏の暑さを癒す楽しみは存在する。一日中冷えた部屋で気楽に過ごすのも良いが、一度暑さを感じた後に涼を取ることは、心理的に格別であると体が記憶しているせいかも知れない。
 それとも本能的なものかも知れない。光を浴びないとビタミンDが生成されない為、骨が弱くなると現在は明らかにされている。日光の少ない北欧などでは、国がビタミンDのサプリメントを摂るよう、国民に呼び掛けているくらいで、健康上とても重要なことと認識されている。即ち人間は身を守る為、本能的に日の光を浴びたくなる傾向がある。その意味でも夏は出掛けたくなる季節なのだろう。
 但し、当たり前だが真夏の炎天下に出掛ける必要はない。農家もこの時期は早朝と夕方に作業し、昼は休息するのが昔からのスタイルだ。だからこれまでは伸も、積極的に外に出ようとは言わなかったのだが。
 夏も終わりに差し掛かったこの日曜日。窓から気持の良い青空を見渡すと、
「何処か出掛けない?、今日。もうすぐ夏らしい雰囲気も終っちゃうしさ」
 明るく振り返って彼は言った。これまで押さえられていた外出欲求が、漸く解放される季節が巡って来たところだった。
 けれど征士はそれに対し、若干申し訳なさそうな顔を見せて返す。
「何処かと言うか…、私は午後から秋葉に買物に行こうと思っていたんだが」
「え?、何?」
「いや仕事で、最近頻繁にパソコンを使うようになって来て、やはり自宅用のノートが欲しくなってな。周辺機器共々見て来るつもりなんだが」
 征士の引け目は、伸の目的が遊楽的な事だと判る為、仕事に関する買物に付き合わせるのはどうか、と言う考えからだったが、それはすぐにも杞憂に終わった。伸は彼の話を聞くと、途端にスイッチが切り替わったように、より明るい調子で話し出した。
「ああ、そうなの!。それなら僕も用があるから一緒に行くよ。最近掃除機が何か調子悪いし」
 そして言われると征士も、確かにそれは気になっていたと同意した。
「そう言えばそうだな、最近異音がするような」
「だよね?、吸引力も落ち来た気がするし、そろそろ買い替えようと思ってたんだ」
 伸の様子が寧ろ小躍りするように、楽しげに変化したのを見ると、不粋な提案と思っていた電気街への買物が、実は今必要なことだったかと征士は思い直す。このマンションに共に暮らし始めて今年で九年目。既に買い替えた家財道具は幾つもあるが、当初から残っている物はそろそろ皆ガタが来る頃だ。掃除機の他にも何かあるかも知れない、と考え始めるとすぐに、征士は日々使用するある物を思い付いた。
「あと、もうひとつ危ない気がする物がある。ドライヤーなんだが、」
 すると、征士同様に何か調子悪い物はないかと、既に意識を集中し居間を探し回っていた伸が、
「そうそうそう、僕も大丈夫かな?って思ってたよ。あの側面の所変色してるよね?」
 また切れの良い返事でそう返した。他に集中していてもすぐ反応するくらいだ、伸もそれは常々気になっていたのだろう。
「熱くなる物だから、プラスチックが傷んで来るのかも知れない」
「機能的に問題はなさそうだけど、ある日溶けて火が出たりしたら怖いよね?」
「顔の近くで使う物だからな」
 そして短い談義を終えると、ドライヤーについても伸は威勢良く決断した。
「よし、それも買い替えよう!」
 毛利伸と言う人は、対人的な物事には優柔不断な面もあるが、物質に対する要不要の判断は常に早い。今日もそんな気持の良い彼の姿を見て、征士もつられるように椅子を立った。
「私も色々チェックしてから出掛けるか」
「そうしてよ、帰って来て買い忘れを思い出すとがっかりするし」
 言いながら伸は、既に隣の寝室へと移動していたけれど。
 突然の提案だったにも関わらず、既に彼の頭は買物でいっぱいのようだ。否、これがもし、適当な季節の服を買いに行くと言うなら、町歩きも兼ねのんびりした気分で支度するが、買い替えが必要な機器を買いに行くとなると、充分な下調べをして出掛けたいと思うのだろう。誰しもそうかも知れないが、殊に完璧主義者の伸には、不用意に出掛けることは許されないようだ。
 暫しの後クローゼットを開けた伸は、ハンガーに掛かる衣類を見るなり、
「そうだ、ハンディアイロンがほしいと思ってたんだ。下げたまま使えるやつ」
 と、買い替えではないが、以前から欲しかった物を思い出していた。伸は現在在宅で仕事をしている為、スーツ類を着る機会はあまりなくなっているが、それだけに、たまにアイロンを使おうとする度、思い出しては忘れるのがハンディアイロンだった。今思い出したのは幸いだ、今日こそ買って来ようと彼は意気込んでクローゼットを閉める。
 そしてまた、ベッド脇の棚の扉を開けると、夏場は使用しない機器が収納されているのを見付けた。彼は片膝を折り、その前に落ち着くと、やや難しい顔付きになって考える。
「この加湿器もな〜、今いいのが出て来てるから見て来たいな」
 風邪を引き易い伸と、喉が弱い征士の冬場の必需品。だがよく思い出してみれば、もう七年ほど使っている旧型の機種だ。ドライヤー同様機能には問題ない、と思える物だが、最近はより効率的に湿度を調節できたり、洗浄が楽だったり、良さそうな新機種が次々発売されている。何せ健康を支える機器だから、ケチってはいけないのではないか、とも思う。ひとまず買物リストには入れておこうと、伸は頭にメモした状態で次へと急いだ。
 彼が次に向かったのはキッチンだが、そこでは思わぬ大物を発見する。普段はあまり覗かない、床下収納の蓋を開けた時に、その大きな段ボール箱が目に入った。
「そう言えばこのホットプレートも買い替えたかったんだ、鉄板の焦げ付きが酷くなって来たし」
 そう頻繁に使用する器具ではないが、来客時、それこそ仲間達が集まる時などには重宝する代物。ただこの手の鉄板物はどうしても、長く使う内に表面が荒れて来るものだ。鉄や銅のフライパンなら、スチール束子で削ってしまうこともできるが、電気を使うプレートは下手な事をすると、機械部を壊してしまう危険がある為、あまり勢い良く洗えないものだ。
 そんな訳で、伸にはかなり不満な状態のホットプレート。どうせ高価な物ではないし、選択に迷うような機能のある商品でもない、これは思い付いた今、とっとと買い替えてしまおうと伸は判断した。
 そして最後に、伸は自分の仕事部屋を開けたが、仕事に必要なファイルや伝票は二日前、近所の文房具店で購入して来たばかりだった。そうした物は特に必要はなかったが、後の買物の手間を省くことを考え、
「パソコン見に行くんだったら、ついでにCD−ROMとプリンタのインクも買って来るかな」
 と、細かい消耗品や記録媒体などを頭に止めると、漸く出掛ける前の準備が出来たことに、意気揚々として彼は部屋を出て行った。ここまでに掛かった時間は約十分。早い仕事であるが、普段から整理整頓を心掛けているからこそ、と言うところだ。
 そうして伸が居間に戻ると、何故だか征士はゆったりソファに寛いでいた。
「何サボってんだよ?」
 と声を掛けるが、
「サボってないぞ、私の持ち場にはこれ以上特に無かった」
 征士は結局、自分が見て回った範囲では、買い替えが必要な物は見付からなかったようだ。因みに彼が見たのは洗面所と風呂場、自分の小さな書斎、玄関の四ケ所で、
「強いて言えば蛍光灯のストックが二本しかない、と言う程度だ」
 彼がそう続けると、ちゃんと仕事をして来たらしき相手には、よくよく褒めるように伸は優しく返した。
「そう、それならいいんだ。蛍光灯は別に今日買わなくてもいいかなぁ、もうすぐ切れそうな場所は無いよね?」
「ああ、気になる箇所は特に無い」
 そして確認を終えると、伸は素早く征士の横に座り、センターテーブルにいつも置いてある、メモ帳を取って手早くリストを作り始めた。
「取り敢えず全部メモして出掛けよう」
 買物一覧。征士の仕事用ノートPC、必要な機種の場合CDドライヴ、欲しければプリンタ、掃除機、便利そうならアタッチメント、ドライヤー、ハンディアイロン、加湿器、ホットプレート、空のCD−ROM、プリンタのインク四色と黒三個。征士の物はわざわざ書く必要はない筈だが、先頭にまずそれを書いたところを見ると、ほんの些細な事にも「思ってくれているなぁ」と、征士もまたとても優しい気持になる。
 なので彼はその場を立ち、置いてあった空の湯呑みを手に取ると、
「では一杯お茶でも飲んだら出るとしようか」
 と、自らキッチンへ向かっていた。伸のことだ、最後にもう一度確認したいと言い出しそうなので、その猶予の為にお茶の時間を作る。すると案の定征士の背中で伸は、
「あ、ありがと。ホントにもう無いかな?、他には…?」
 呟きながら居間の家具類を見回していた。慣れた共同生活の中で培われた自然な行動は、他の誰にも真似できない気の利いた行動へと進化する。ふたりは生活の中でしばしば出会う、互いの思いを感じるそんな行動を見ては、当初の思いを新たにしているようだった。いつかこんな風になりたいと想像した未来が、現実に進行している素晴しい幸福だ。
 今日もきっと、とても良い夏の一日になるだろう。
 最終的に伸は居間の棚の引き出しを開け、単三電池が残り少ないことに気付くと、リストの一番最後に加えた。その頃には征士の運んで来た湯呑みの緑茶が、半分くらいまで減っていた。ふたりソファに並んで座り、今は嵐の前の静けさを楽しむようなひと時だ。日曜日の秋葉原は当然ながら、多くの人出で賑わっていることだろう。そこで手際良く全ての買物を済ませられるか、一種のサバイバルでもあった。
 ただ、
「夏には違いないが、もう夏の盛りは過ぎたな」
 そこで征士が話したように、外出が最も辛い時期は過ぎている。心理的な気楽さが感じられる中、楽しく過ごせそうな予感を伸も素直に喜ぶように、やや甘ったるい調子で応えた。
「うん…、立秋過ぎたからね…」
 そして少しばかり肩を竦め、何故だか可愛らしい態度で征士に寄り掛かる。穏やかな日常にふと感じる相手の重みを、征士は普段通り快く受け入れていたけれど。
「早く本格的な秋になってほしいものだ、半分営業のような仕事もしているからな」
 と征士が続けた後、伸は返事をしなかった。本来聞かれる筈の簡単な相槌すらなかった。
「・・・・・・・・」
「どうかしたか?」
 征士は伸の顔を見たが、その表情に不調や不機嫌さは感じられず、寧ろ彼は幸せそうに微笑んでいる。
「ううん?」
「何か良い事でもあったか?」
 すると征士は思い掛けない伸の行動に出会した。寄り掛かる右側の征士の腕を取り、大切そうに抱き締めると、飼い馴らされたペットのように頭を擦り付けて来る。そして彼は言うのだ。
「ずっとこうして、隣に座ってられるといいなぁ、…と思って」
 まるで最初からそうであったように。
 家電製品の選別に目を光らせていた数分前と、今の間に何があったかと征士は戸惑う。勿論伸の感情が変わり易いことは知っている。さっきまで怒っていたと思えば、数分後にはカラっと笑っていることもある。だから征士の違和感はそこではない。基本的にプライドの高い彼が、突然羞恥心を無くしたような態度に出たことが、これまでの経験から異質に感じたのだ。
 無論今は艶っぽい言葉など全く出ていない上、
「何だ何だ、少し変だぞ今日は?」
「クスクス…」
 指先で伸の頬を突つき、やんわりからかうように言っても、本人ははにかむようでもなく、ただ嬉しそうに体をくねらせている。けれど、征士が増々解らなくなって来たところに、伸はひとつ納得させる一言を放っていた。
「夏の終わりっていいよねぇ…、僕は好きだなぁ」
 夏の終わり。その言葉から征士が思い出す事と言えば、まずあの年の夏の日々だ。私達を強制的に繋いでいた鎧が失われ、日本に戻った後伸が失踪しかけたところを、征士が見付けて引き止めたあの夏。そして夏休みが終わる頃まで、現実から逃れるように遊興に耽っていた。後に大目玉を喰らうことになったあの夏…。
「…何日も新宿を遊び歩いて、あの時は楽しかったな?」
 征士が言うと、彼の共感する筋道は正しかったらしく、
「うん」
 伸は屈託なく頷いて笑った。そうか、夏の終わりを話題に出したせいで、伸はあの時のことを思い出したのか、と、征士はそこで漸く状況が腑に落ちた。確かにあの夏の思い出は強烈にして未だ鮮明だ。何もかも初めて出会う出来事ばかり、戦士として急転直下の事態を通り抜けた後に、塞き止められていた何かが一気に解放され、過去に経験したことのない安楽と密なる愛を知った。
 つまり私達が特別な形で繋がれた大切な時間だ。
「そうだな、私達は夏の終わりから始まったのだ…」
 暫し征士もその、懐かしく愛おしい記憶に思いを馳せた。あの時はまだ何の未来も見えていなかったが、私達は密着して暮らすことで互いの気持を共有し、確と信じられるようになった。信じられるだけの時と機会が齎されたことは、運命的な幸運だったと今は思う。だから今こんな未来に辿り着けていることも感無量だ。恐らく伸もそんな心境で居るのだろうと、征士も自然に顔を綻ばせた。

 それから、伸の気分が切り替わるまで十分少々、穏やかな心の交流タイムが続き、ふたりは買物へ出掛けて行ったけれど、征士にはそこから新たな疑問が生じていた。夏は毎年やって来るのだから、当然夏の終わりも毎年やって来る。だがこれまでこんな事があっただろうか?と。あの夏を思い返し話すことは度々あるが、その都度伸がこんな様子だった憶えはない…。



「…こんな状況とは?」
 そこで、出掛ける前を思い出した征士が尋ねる。
「人混みの中大荷物を抱えて歩き、ようやく車に積み込んだところでひと休み、と言うところだぞ?。麗しい思い出があるとも思えぬが」
 そこまでのふたりの行動。まず征士のノートPCは、ある程度機種の選択をしていたのですぐ済んだ。他に書類専用のポータブルプリンタ、会社の同僚の勧めでマウスとマウスパッド、セキュリティソフト、伸の買物の空CDとインク、電池も同じ店で買った。選んだノートはCDの書き込みができないが、ドライヴは買わないことにした。家でする必要は滅多にない為、互換性のある伸のPCを必要な時だけ借りることにした。
 その後家電店へ行き、本日一番迷った掃除機を購入。この手の家電は機能だけでなく、持ち運びや騒音、手入れ方法などチェック項目が多く、あれこれ比べて一時間過ぎることも多いと思う。残りの内ドライヤー、ハンディアイロン、ホットプレートはどれを買っても大差ない為、時間はかからなかったが、加湿器は掃除機同様にかなり迷い、結局今日は買わなかった。もう少し待った方が希望通りの機種が、多く出揃って価格も下がりそうだった。余談だが掃除機のフィルタも購入した。
 他に、予定には無かったエクセルの活用本と、自動車用の電動洗浄ブラシを購入。一度に多くの物を買ったので、勿論大物は配送手続きをしたが、小型の商品だけでも手荷物が一杯になった。中にはやや重量のある物もあったが、まあこれだけの数をしっかり選んで買った満足感が大きく、ふたりは終始楽しんで過ごせていたけれど。
 楽しかった、のは、買物の過程であって、その間特に恋人らしい会話をしていた訳でもない。買物を終えて伸が、何故また甘くしなだれるような気分になったのか、二度目の事なので征士は是非知りたいと思う。そこには何か理由があるのだろうかと。
 すると伸は、一見ぼんやりしているようで、心に確と見えているらしき彼なりの思いを、出会って十三年目の今日初めて話してくれた。
「フフ、君にはただ慌ただしいだけだったかも知れないね」
「ん…?」
「僕は、バタバタした事が続くとその後にいつも、みんなの顔が浮かんで来るんだ」
 それは恐らく、彼等が戦うことを余儀無くされた、初期の頃からの習慣的気苦労の話だろうが、その上伸にはもうひとつ、強く残る彼だけの経験が存在した。
「だからあの夏は本当に辛かった…。君と遼は晴天の霹靂のごとく、突然涼しい高地に連れてかれちゃったけどね、僕には本当に辛い暑さだった」
 そう、消えたふたりを探しに当麻と秀も、ナスティと純も日本を出国してしまい、伸だけが留まっていた数日間のことだ。正確に言えば白炎も日本に残っていたが、ずっと彼の傍に居た訳ではない。
「そう言えば、当麻達と喧嘩して伸はひとりだったと聞いたが、その詳細は聞いたことがないな」
 伸の話し振りから、かなりデリケートな話題だと直感した征士は、注意深く言葉を選んでそう尋ねる。だが伸の回答はその点に於いては、もう整理がついている様子で簡潔なものだった。
「うん、話したことないよ。別に話すような出来事は何もないんだ、アフリカに行くまでの一週間くらい、毎日何もせずボーッとしてただけだし」
 しかし表面上はそうだとしても、心の中では様々な活動をしていただろう。あの時のことを思えば、彼がそれまでの生活上最も複雑な心境に陥っていたことは、征士にも容易に想像できる。なので今の伸の返事は無理な虚勢にも聞こえ、征士はより気遣って話し掛けるようになるが、
「ずっと考えていたのだろう?」
「うん、まあ…。…でも考えてたようで、何も考えてなかったかも知れない。最近そう思うんだ」
「…何故そう思う?」
 伸の表す柔らかな表情を見ていると、これまで敢えて言葉にしなかったその記憶を、今は自ら話したいと思えるようになった、そんな印象を征士は受け取った。自身の為に、或いはふたりの為に、今になって話したい事が何かしらあるなら、心を研ぎ澄ませ耳を傾けるのみだった。それはとても貴重な、伸にしか持ち得ない宝物のような思いだろうから。
 そして伸は、誰も知らないままだった過去を静かに語った。
「戦いたくないとか、鎧に違和感を感じるとか、あの時は否定的な気持に悩んでたけど、今は体の良い言い訳にも感じるんだよ。だってあの時の僕の記憶は、みんなと離れたくないってだけ残ったからさ」
「いや実際…」
 伸は現実から逃れる為の言い訳だと言うが、現実に鎧の本質をいち早く見抜いたのは伸だ。それにより否定的な感情が生まれたのだから、順序が逆だと言おうとして征士は留まる。それはあくまで周囲の人間の見方であり、伸が感じていた事とは違うかも知れない。
「…違うな。伸に取ってはそれも真実のひとつ、と言う話だな?」
 と征士が訂正すると、伸はそこでひとつ大きく頷き、
「うん、そう、そう言いたかった」
 今は複雑な意識を汲み取ってくれる人が、傍に居ることに安堵したように息を吐いた。意識や感情はいつもひとつとは限らない。否、常に様々なものが混じり合う中、ひとつの強い意識が優位であることが多い、と言う方が正しい。その理屈で言えば当時の伸は、強い意識を複数抱えた状態だったのだろう。だから逆に何も考えていなかったように感じるのだ。理性的な悩みは皆同じ比重で均等に存在し、感情的な不安や焦りばかりが彼に残った。
「実際戦うことはいつも嫌だったし、鎧の変化も怖かった。でも僕は当麻達がアフリカに出発した後も、柳生邸の傍を離れられなかった。光に集まる羽虫みたいに、いつまでもそこに居たかったんだよ、纏まった考えは何もなかったのにね」
 そう続けた伸は、もうその頃の苦悩や悲しみ自体は、朧げになっていると示すように優しく笑い、その結末をも楽しそうに語った。
「あの時、毎日すっごく暑かったなぁと思って…。…タンザニアが物凄く涼しかった」
「ああ…。伸にはそんな時間経過だったんだな」
「そう、みんなに会いたい、君に会いたい、と思ってて、また会えた時は天国みたいに感じた。夜だったから寒いくらいだったし」
 つまり暑さに苦しみながら悩んでいた彼は、涼しい場所に移動した途端悩みから解放されたのだ。その落差は確かに、他の誰にも想像できないものだった。何しろ征士の記憶では、
「むしろ私達は寒くてしょうがなかった、素通しの牢屋に入れられていたからな」
 と言うタンザニア滞在記だったのだ。最も長くそこに居たふたりは、その出来事が夏と結び付かない面もあるくらいだった。すると伸は、今更文句を付けるような征士の口振りを面白く笑い、
「アハハ、だから、あったかいって感じられるのはいいよね」
 と言った。そして出掛ける前のように征士の腕を取ると、大事そうにそれを抱え寄り添った。
 涼しい部屋、涼しい店内で感じる人の体温が殊更嬉しい。慌ただしく考え悩み、動き回った後に涼んでいる時間が何よりの至福だ。それらは伸だけが獲得した特別な感覚であり、全てあの夏に繋がっている。それが偶然晩夏のこの時期に呼び起こされたので、同時に日本に戻った後の事も思い出しているのだろう、と征士は思った。
「例え夏でも、か」
 目くるめく恋の愉しみを満喫した思い出の夏。但しその直前に受けた伸の心の傷が、今もまだ癒えていない事実を知る。起こった物事自体は忘れられても、受けた衝撃を心は忘れられない。だから伸はこうして、夏の喧噪に夏の終わりを手繰り寄せ、あの夏がそうであったように、今も理想的な愛の日々に居ると確認したくなるのかも知れない。
 日々共に生活し、幾度もふたりの夏を過ごして来た征士には、微かに淋しさを感じさせる状態だった。自分はまだあの夏の印象に負けている、と、競いようもない対象を彼は恨めしく感じた。ああ、どうしたら伸はそこから解脱できるのだろう。無意識に残る季節の記憶をそっくり、自分の記憶に入れ替えることは不可能だろうか?。それは欲深い人間のエゴだろうか?。
 難しい問題だ。

 伸は幾度も繰り返す。
「夏の終わりはいいね、いつも待ち遠しい…」
 ならば幾度も、しつこいくらいに応え続けなければ。
「私はいつも、毎年そこで待っているからな?」
「うん…」
 いつか彼の中に潜む、夏の悪魔を葬り去る時は必ずやって来ると、希望を込めて征士は彼の肩を抱いた。そこが人目のある喫茶店であることなど、最早どうでも良くなった。









コメント)秋の長雨でしばらく具合が悪く、2/3くらい書いたところで数日止まってたので、途中で雰囲気が変わっちゃってたら申し訳ない。でもこの話は元々落差がテーマなので、ふたりの心境が色々変化して行くのは予定通りです(^ ^;
しかし輝煌帝伝説は元々、何でそんな暑そうな服なの?と思う作品よね。冒頭のナスティがめっちゃ涼しそうなのに、みんなこれから涼しい所に行くと予感してたのか(笑)。



BACK TO 先頭