少し不満顔
天 降 言
(あもりごと)
Falling down



 その夜、渋谷の某居酒屋の一角は、周囲の騒ぎをよそに酷く沈んでいた。
 この店は場所柄、若者と学生の集団で大半の席が埋まり、夜毎奇声が上がるほどの活気を帯びている。酒を飲みに来る理由は様々なものがあろうが、一度この喧噪の中に紛れると、誰もが安心して箍を外せる場所、となっているのかも知れない。
 渋谷にはふたつの面がある。ひとつはお洒落で先進的な文化、或いは高級な人々の上品な文化を伝える町。そしてもうひとつは退廃と享楽、その日暮らし、一夜限り、前途不透明な若者のやどり木的な町。
 それら、どちらに属するのか、どちらに触れているかは人それぞれだが、渋谷の町は基本的に自己主張が必要な場所だ。新宿のように、異端者も犯罪者も包み隠してくれるような、懐の深い町ではない。己が何処に属するか、或いは何をしにやって来たのか、確と目的が定まっていないと遭難する荒海だ。
 そのせいか、夜になると主張に疲れた若者が、居酒屋で馬鹿騒ぎする光景をしばしば目にする。単純な「カッコ付け」も、それなりにエネルギーを使う行動であるからして、全く、渋谷は人に優しくない町だと思う。
 そうと知っていて、この場所を選んだのは、単に乗り物の便が良かったからだが、まだ充分若者と言えるふたりが、周囲の活気とは対照的に沈んでいるのは一種異様な光景だった。
 入店から三十分ほど経った頃、それまでに届いた肴の皿を一通り片付け、突然当麻はボソっと言った。
「自由っていいよな」
 それまでの会話と何ら繋がらない単語を耳に、
「急に何だよ」
 向かいの席に座る秀はそう返した。
「いや…、伸の話を聞いてさ」
 伸の話とは無論、彼が会社を辞め独立したことである。それについて最も衝撃を受けたのは、言わずもがな同居人の征士だが、他の仲間達にもその意味に於いて、少なからず影響を及ぼしているようだった。
 時代は丁度、過去から続く年功序列の伝統を脱し、社会構造を変化させて行こうと時だ。古い体質の企業に見切りをつけ、新しい働き方、新しいライフスタイルを選択できる風潮を作りつつある。流行に乗れば良いと言うものではないが、伸のように、仕事以上に大切と思えるものを優先する独立は、これからの時代を象徴する出来事のように感じられた。
 ただ、
「自由ったって、何もしないで悠々自適って訳じゃねぇし」
 秀はこの話題に多少慎重になって話す。彼は周知の通り、伸とは日頃から仲が良い。独立には独立なりの苦労や妥協があると、電話等で度々聞かされて来た経緯があった。
 無論、当麻ならそんなことは容易に想像できただろう。彼は解っていて、その上で秀にはこう話した。
「そうだが、確かに時間を融通できる生活は魅力的だな、と改めて思うんだ」
「てめぇ、まだ学生のくせに何言ってんだよ」
 そう反論されるのは、まあ仕方がないことかも知れない。今や五人の仲間の内で、社会人でないのは当麻ひとりだ。怠けて落第した訳ではない、他の四人よりずっと高度な勉強をしている訳だが、それでも、これまで聞いたことはなかったけれど、彼なりに出遅れを感じ、内心穏やかでないのかもと秀は思う。
 そうでなければ、好きなことに没頭できる環境を得ていながら、更なる自由に憧れる筈はないと。
 ところが当麻は、暫し難しい顔を見せた後にこう続けた。
「だからだ」
「はァ?」
「いや、高校から大学までは、何でも比較的好きなようにできたよな。長期の休みはあるし、金がなければバイトもできるし」
「バイトしてるじゃねぇか」
 因みに当麻は、土日だけ都内の書店でアルバイトをしている。仕送りされる生活費は充分だったが、その他の小遣い稼ぎである。だがそれが話の主題ではない。
「重要なのはそこじゃない、問題は滅多なことで大学院は休めないことさ」
 と話すと、流石に秀にもひとつ思い当たることがあった。
「そう言や夏休みとかって、聞かなかったな」
 そう、当麻が大学院に進んでより二年半ほどの間、夏も冬も、無論春も秋も、長期間出掛けたり実家に戻っていることはなかった。余暇が全くないことない筈だが、会う度いつも忙しそうにしていた彼の様子を、秀はふと思い出している。
 そして当麻は、恐らく初めてその理由を明かした。
「盆と正月は流石に休みだが、講議の他の研究や実験を途中で放り出す訳にも行かない。高い授業料も払ってるしな、下手に休めないんだ」
「おまえが授業料払ってる訳じゃねぇじゃん」
「だからって気にせずいられる額じゃない。大学四年間で三百五十万、大学院三年で五百万、その他に家賃と生活費だぞ?。それを考えるともう、絶対に迂闊な行動はできない」
 単に休日がないのではない。自ら休めないと言うのだから、ここは秀も相槌を打つしかなかった。
「そう、か…」
 確かに、当麻ひとりに既に一千万以上注ぎ込まれている状態。子を育てることは親の投資でもあるが、それだけ両親が、彼を認めていることの顕われと言えるだろう。ただ、羽柴家は金の生る木がある家ではない。飛び抜けて裕福な家庭に育てば、金のことなど気にしなくもなるだろうが、その意味では彼は普通の感覚を持てる程度の、そこそこ豊かな環境で育って来た訳だ。
 だから、年々嵩んで行く投資額が気になるのも解る。それに応えなければならないと、真面目に大学院へ通う気持は理解できる。けれど秀が、
「でも来年卒業なんだしよ?、今頃ウダウダ言わなくていいじゃん。もうあとちょっとの辛抱だぜ?」
 と続けると、当麻は何やら意味不明な言葉を聞かせていた。
「そうとも言えるが…、そうじゃないかも知れないと考えることがあるんだ」
「どういう意味よ?」
 それが、最初に出て来た「自由」に繋がる話だとは、秀には思いも寄らなかった。
「結局大学院を卒業しても、生活はあまり変わらないんじゃないかと思うからさ。大学に残れば、ほぼ今と同じ環境で研究や実験をするだけだしな」
 ある意味、当麻に最も向いていると思えた研究者の道。
 彼の気持がいつからそう風向きを変えたんだろうと、秀は思う。以前は研究室に篭る生活に不満を言うことはなかった。否、今ですら就職の問題さえなければ、望み通りの生活をしていると端からは思えるのに。
 何故今更不自由を感じるようになったんだろう…。
「あー…、何か、企業の研究所がどうとかって話してなかったか?」
 そこで秀は、いつか聞いた外部の就職先の話題を振ってみる。確か、研究の制約は大きいが、勤務時間が決まっている分楽だし、収入もいいと話していた筈だった。
「ああ。うまく一般企業に就職できれば、大学にいるより楽になるんだろうけどな」
「じゃそれを祈ろうぜ?」
「それが難しいから考えてるんだろうが」
 当麻がそこで溜息を吐くの見ると、彼の言が正しく現状を現していることは、秀にも充分伝わっていた。
「…もう九月だしなァ」
「まあ、普通の大卒の就活とは違う分、時期はそれほど気にしなくていいんだ。ただ、専門分野が分野だけに、なかなかいい所がなくてな」
 尚、当麻の専攻は物理数学である。学ぶ意味では、理系の学生には殊に面白い分野だが、それを扱う場所となると、一にもニにも宇宙開発に関わる企業となる。無論そんな企業は国内外合わせても数少ない。もしこれが物理数学でなく数学物理なら、今後有望なコンピューターグラフィクスの企業が多数存在するが。
 しかし大学院まで進んでおいて、今更専門分野を変える訳にも行かない。後は妥協して、多少違う分野に就職するしかないところだ。
 そこで秀が、
「うーん?、企業の研究所って、何研究してる所が多いんだ?」
 と尋ねるが、当麻は更なる溜息で返すばかりだった。
「相変わらずだな…、そんなこと考えなくともわかるだろ」
「わからねぇから聞いてんだろが!」
「社会を見回して、何を製造する企業が最も多い?、何が最も流通してる?」
 そう言われると、例え教養のない秀にもすぐ閃くものがあった。彼が何より好きなものだ。
「え、そうだな…、食い物とか」
「そうだろ、人の生活に密着した製品を作る企業が最も多い。当然それらの研究所が多いんだ。わかったか!」
 一瞬、柳生邸での合宿の日々を思い出すようだった。勉強の苦手なふたりを監督するのは、常に当麻の役目だった。殊に憶えが悪く、やる気のない秀を怒鳴ってばかりいたあの頃。今は大概そんなこともなくなっていたが、久し振りに当麻は、グラスを持つ手が震える感覚を思い出していた。
 そう、あの頃はどれ程自由な未来を見ていただろう。子供じみた楽天的な夢を見る時期は過ぎても、それぞれが己を知り、自信を持って未来を選択できると考えていた。
 そしていつの間にか、お荷物だった秀も遼も社会人となり、あとのふたりも普通に仕事を持って暮らしていて、序でに伸は企業からも独立した。当麻としては少なからず、仲間に先を越された苛立ちもあるのだろう。単純に頭脳だけで言えば、自他共に認める一番手であった筈なのに。と。
「俺はそういう所からはお呼びがかからない。つまり少ない需要を奪い合う状況なんだ」
 ところで、多少違う分野に就職するとしても、流石に食品会社や洗剤メーカーに入るのは難しい。それらはそもそも学部からして違う分野だ。企業研究所の多くはそうした、当麻の専門外のものばかりである現状だった。ただ、
「…別におまえじゃなくても、今就職しようとしてる奴等は、みんな困ってんじゃねぇの?」
 秀がそう言うように、今は誰しも就職難を感じる時代だ。95年を過ぎると目に見えて社会情勢は厳しくなった。それについては、
「まあこんな御時世だしな」
 当麻もそう答えるしかなかった。二年半前、既に就職が難しいと見切って大学院に進んだが、その頃より更に状況が悪くなったことが、結局最大の問題だった。
 先行きを見通せなかった訳ではない。日本経済が下り坂に転じたことは把握していた。ただ単純に大学卒業時点では、希望の就職先がなかっただけだ。まだ妥協して異業種に就職する気はなかった。そこまで就職に齧り付きたい意識がなかった。最悪大学の研究者になれば良かったからだ。
 けれど、何処へ行くとしても多少の苦悩や、詰まらない思いはするものだ。それが社会人と言う立場であり、自分はそれを理解するのが遅過ぎたと、今、当麻は自業自得に思っているようだった。
 そんなつもりはなかったが、少し長く夢を見過ぎたかも知れないと。
 けれどそんな姿勢の彼を、誰も心配しなかったのも事実だ。
「おまえは少なくとも、俺を含めた多くのバカよりできることが色々あるだろ?。そんな深刻になんなよ」
 暫し会話が途切れた後、秀はジョッキに残ったビールを一気に空にし、やや改まった様子でそう言った。彼が卑下を組み込んで話す裏には、「それでも当麻は大丈夫だ」と言う意識が見えるようだった。
 ただ、最低限生き延びることと、社会の中でそれなりに充実して生きることとは違う。当麻にもプライドと言うものがある。
「職種を選ばなければ、だ。だが大学院まで行って、それを生かせない仕事に就いちゃ、それこそ金も時間も無駄になるだろ」
「…それもそうだけどよ…」
 そうして話を聞いて行く内に、秀にも相手の悩みの真相が確と掴めて来た。今の当麻には確かに自由がないことを。学生でいられる自由を感じられないほどに、現状の窮屈さを感じているのだと。
 思えばおかしなことだ。昔の彼のイメージは何に於いても軽やかだった。物事を軽々と理解する頭脳、自由な閃き、常に先を読み行動する先駆者だった。例えるなら大型の鳥、そう、ともすれば翼が生えて、本当に飛べるようになるんじゃないかと、天空の鎧には思わせるものがあった。
 それが何故こうなってしまった。
「あーあ、まったくどうすりゃいいんだか…」
 当麻の嘆く様子を見るに、そんな過去との違いに苦しんでいるのかな、と秀は思う。
「まあ、どうにかなるって!。な?」
「どうにかなるなんてな、ろくに考えずに成り行き任せじゃ、何も手にできないかも知れない」
「そんなことねーよ、成り行きでも成功する奴は沢山居るだろ?」
 精一杯の励ましも、今は空々しく聞こえるかと思うと、次の言葉を考えるのも空しくなる。何かしてやりたくても、当麻個人の問題には介入できないと知るばかりだ。だから秀はただこうして、話を聞くことしかできなかった。
「それは、そうだが、自由を得る為には戦わなくてはならん。市民が蜂起しなければ、フランス革命だってなかったんだぞ」
 君は再び自由を取り戻せるか?。
「何だかわかんねぇけど、戦いたい気分なのか?」
 突然の例え話に、キョトンとして秀が返すと、当麻もまた、思わぬことを口にした様子で暫し考える。そして自らこう結論した。
「ああ…、言われてみればこれも戦いだな」
 望むものを手にする為に、必ず闘争する必要があるかと言えば否だ。人によっては、自然な巡り合わせで幸福になれることもある。だが人によっては覚悟を決めて戦う必要もある。人生はとかく不可解だ。
 今はただ、当麻の視界が再び開けて行く、運に恵まれるよう祈るだけだった。以前のように、広い空を自由に羽搏いていられるように…。

 そして取り留めない会話の内に、渋谷の夜は更けて行った。



 その後、九月のある夜、征士が家に帰宅すると、
「お帰りなさ〜いっ」
 日常のようで、それとは少し違う様子の伸が嬉々として玄関に出て来た。
 伸の生活が変化して以降、毎晩繰り替えされるお出迎えの作法は、出会い鼻に抱き着く、軽くキスを交わす程度のことだったが、何故だかその日は行動が派手だった。
「お疲れさまー!、世界中の誰より愛しい君〜♪」
「え」
 言いながら伸は自ら征士の首を取ると、何処と言わず吸い付くように唇を押し当てる。無理に下げさせられた首が締まりそうな勢いだ。そして、
「今日も無事に帰って来てくれて嬉しいよ〜ん」
 征士の背広の胸に、彼は額を擦り付けながら寄り掛かって来た。勢いのまま体重を預けたパワープレーに、征士は一歩後ろによろめく程だった。
「な、何だ?」
 と、問い掛けながら彼は考える。今朝は特に何も変わらない様子だった。今日は何か特別な日だったろうか?、否、思い当たる行事はない筈だ…と。すると伸は漸く、密着していた体を離して言った。
「別に。気分だよ♪」
「気分?」
 まあ、その一言で納得しなければならない時もある。彼の心の動きは測れない、本当に言葉通り、ちょっとしたことで気分が浮沈する様子はもう、飽きる程見て来た現在だ。けれど征士はその日に限り、何処となく裏があるように感じられていた。なので、
「そう!、気分がいいから今日は、秋を少し先取りして舞茸と銀杏のご飯だよ〜」
 そう言って楽し気にキッチンへと向かう、伸の背中に一言言葉を残した。
「一体…」
 伸が在宅で仕事をするようになり、そろそろ半年になろうとしていた。始めの内は慣れない作業に悪戦苦闘することもあったが、今は仕事の手順もほぼ確立し、委託物件の他に固定客を二件獲得した。マンションのポストにはふたりの名前の他に、『毛利会計事務所』と言う新しい表札が加わった。
 当初は難色を示していた征士も、伸が計画通り徐々に安定して来ているのを見ると、最早過去のことは忘れた風情だ。寧ろ感心している。人には向き不向きがあるとは言えど、それを自ら適格に判断し、その通り行動できるとは限らない。本人の意識は状況の流れを見ているだけだとしても、安定した環境を変えるのは勇気がいることだ。
 それに、ひとりで仕事をすると言うことは、自ら全てを管理することだ。納期のスケジュールから一日の仕事量を考え、対価の交渉や保険申請も自ら行い、突発的なトラブルには自ら対処しなくてはならない。それらをこなして時間的自由を取るか、面倒事は他に任せ企業で働くかを考える時、自らマメに動ける自信がなければ、前者を選択することは不可能だ。
 それらのことを思うと、現在の伸が生き生きと暮らしているのも解る。彼本人が言うように、自身に取って最も大切なことを優先できる生活形態が、つまりは自身に最も合っていると言う訳だ。
 そんな理解もあり、征士はこのところ伸の生活には全く口を出さなかったが、但し今日の彼の様子は、普段のそれとはやや違うことを感じ取っていた。勿論それは、同じ家に毎日過ごす彼ならではの感覚だった。
 着替えや手洗いを済ませ、全ての料理が並べられた食卓に着くと、伸が向かいの席にきちんと座るのを待って征士は話した。
「何があったんだ。何か私に報告したいことがあるだろう?」
 すると、意外にも伸は特に隠すことなく返した。
「あーたーりー」
 その素直で朗らかな表情からは、後ろめたさや心暗い事情は窺えなかった。それならと、征士も漸く安心して箸を動かす気になれた。
「やはりな…。余程いいことがあったに違いない」
「いや、いいこと悪いことって話じゃないけど…」
 そして、明るいながらも多少申し訳なさそうに、伸はその理由を話し始めた。
「悪いけど、僕に四日間休みをくれない?」
「休み?」
 何について話しているのか、征士はすぐには思い付けなかった。現状伸の生活に決まった休みはない。毎日が仕事、或いは毎日が休みのようなものだ。基本的に征士の休日に合わせてはいるが。
 しかし征士が考え込む前に、
「秀と旅行に行くんだ。鹿児島に」
 と伸は言った。つまり仕事に限らず同居人自体を休むと言う、冗談混じりの言葉だったようだ。まあ昨今の世の中では、女性が主婦を休む日があっても良いと言う風潮だ。そう考えれば伸の話し方は納得できるだろう。ただ、
「何故こんな時期に?」
 との征士の疑問は当然だった。秀は旅行に関する仕事をしている。彼のコネを使えば、一番良い時期に適当なツアーを見付けることができるだろう。何故夏の内に出掛けないのか。
「色々あって」
「色々って」
 すると、伸は何処か引っ掛かりのある笑顔を見せ、この不思議な旅行の核心を話した。
「何だかね、当麻の馬鹿を誘おうと思ったら、就職が決まらないってボヤいてて、誘いにくかったから僕に回って来たんだよ」
 それを聞くと征士も、合わせた訳ではないが、釈然としない表情で止まってしまった。
「…確かに馬鹿だな。大学を卒業する時、就職が難しいと言って大学院へ進んだ筈が、また同じことをしているとは」
「ホントに馬鹿だよ、秀は色々気に掛けてやってんのに」
 言われても仕方がなかった。無論生活に於いて就職が大事なことは、敢えて取り沙汰しなくとも解る。だがそこまで首の締まる思いをする前に、外に助けを求めれば良かったじゃないか、と、ふたりは思うからだ。就職先を紹介するのは難しいとしても、頻繁に悩みや愚痴を聞かされていれば、もっと考えてあげることができた筈だ。
 正に秀は、自ら出掛けてその役を買っていたと言うのに。
「言われてみれば、今年に入ってからあまり顔を出さないな、当麻は」
 と、征士が溜息混じりに言うと、伸は口を尖らせ、多少戯けるように返した。
「自分に余裕がないからって、他のみんなを心配させないでほしいよ」
 そこで思い出す。五人が初めて柳生邸に集まった頃のことを。
 当麻は一人っ子のせいか、合宿当初は個人行動が多く、集団生活にはなかなか馴染めない風だった。今でこそ仲間内では気安い間柄だが、誰からも一線を置いていた時期が彼にはあった。恐らく他人や兄弟との、頼りつ頼られつの関係に慣れていなかったのだろう。特に彼は、頭では誰に頼る必要もなかったからだ。
 それが鎧戦士の活動の中で、本当の家族より家族と思えるほどになった。一度はそうなった筈なのに、何故かここで逆戻りしている様子だ。何故かは解らない。
 仲間達は皆大人になり、ひと昔前ほど頻繁に会えなくなっている。当麻はそれを疎遠になったと解釈しているのかも知れない。或いは、他の四人が皆社会人となり、彼だけが浮いているせいかも知れない。どちらにせよ勝手に孤独を感じているらしいと、征士や伸には思えるところだった。
 もっと強く、広く誰にも素直に気持を話してくれたら、見失うことはなかった。
 過去の仲間達は今も、基本的には何も変わっていないと。
 だからここでは、「馬鹿な奴」と連呼されるしかない。
「それと秀の仕事の関係で、往復の航空券タダで手に入れたって言うからさ!」
「成程、そういうことか」
 征士はそして、伸が秀の徒労を労う気持で、その誘いを受けたことにも気付いた。まあ当麻としては、故意に秀の気遣いを無下にした訳ではないだろうが、伸の気持が秀への労りに向くのも解る。
 加えて、秀が言いたいことを言い出せないとは、余程のことだと当麻の事情をも知った。征士も、これは自分が動かなければと考え始める。何かにつけ言い負かされ易い秀では、現状は荷が重いのかも知れないと。
 するとそこで、
「ま、そう言う訳で、悪いけど九月下旬の四日間は、我慢して外で食事してくれたまえ」
 と、伸は楽し気に告げた。当然旅行中は食事の世話はできない。その他の家事に困ることはない征士だが、外食を好まない彼には頭の痛い宣告だ。
「う〜ん…」
「だから!、こういうことになるのも当麻からの皺寄せだ。君は当麻に抗議にでも行くんだね」
 そう言われると、どうせ近々会いに行こうと思ったところだと、征士は納得するしかなかった。
「仕方ないな…」
 仕方ない。このまま気付かずに残念な思いをするよりは、気持良く伸を送り出してやろう。当麻との話の席には遼も呼ぼう。各々が得意とする役割を果たした先には、何ら良い結果が見えて来るかも知れない。
 そして、自分が格別の幸福を貪っていられるのも、それを許してくれる周囲の人間の、深く寛大な理解があってこそだと、征士は今回ばかりは、何も反論せず頷いていた。



 九月下旬。
 例年の九州・沖縄は台風銀座と化す季節だが、この年この頃は天気に恵まれ、何処も穏やかな青空が広がっていた。
 秀が何故鹿児島に行こうとしていたかは、有名な桜島や城下町が目的ではない。ふたりは飛行機で鹿児島に着くと、翌日には船に乗り屋久島に向かっていた。そう、鹿児島本土以外で有名なあの木を見る為に。千年の昔から空に手を伸ばし続ける偉大な生命。
 本当なら、空に縁あるあの人に見てもらいたかったが。
「おおー!、あれだ!」
「へぇ、すごいね。これが樹齢千年の屋久杉かー」
 苔蒸す森に隠され、天高く力強く聳える老木。その未だ青々とした枝葉の隙間からは、空の光が数百の細い筋となって降り注いでいた。南国の眩い空から落ちて来る、それは目には見えないが、生物に取って何らかの恵みのように感じられた。
 人間はただ生きているだけで恵まれている。そしてこの老いた大木もまた、無尽の光を充分に受け止め生きている。特別に空に恵まれている。
 考えることなく頂点に立つことはできるのだ。ただ生きていると言うだけで。
『おまえのことだから何とかなるって、みんな信じてるんだぜ』
 秀は精一杯木の頂を見上げながら、更にその上を流れる切れ切れの雲が、この気持を確とその人に伝えてくれるよう、珍しくいつまでも黙っていた。伸はそんな様子をただ、すぐ傍で見守るばかりだった。









コメント)冒頭、渋谷の町について書いたけど、これは80年代後半から90年代前半の様子なので、今とは少し違うかもですね。勿論この話の年代はこれでいいんだけど。
昔は渋谷、よく遊びに行ったのに、最近はあんまり行かないなーと懐かしんで書いてました。
と言う訳で、たまにはこんな、征伸が裏に来る形の話を書いてみよう、と思ったんだけどどうでしょうかー?




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