高校時代の伸
アダムへの帰還
Return to First Man



 僕に取っての愛情とは、優しい眼差しで見守ることではない。



「おいおい、毛利」
 その時は、次の授業で使う古語辞典をロッカーへ取りに出て、また教室に戻って来たところだった。
「何?、大内」
「数学の宿題やって来たか?」
 愛想良く、親し気に近付いて来た彼の問い掛けに、どんな意味が含まれるかはすぐに気付いた。
「やって来たけど…それが何?。『写させてくれ』とか言うのはナシだよ」
「あっ、ケチ、何でだよ〜」
 高校一年の時、一年間だけ同じクラスだった大内君とは、大体いつもこんな態度の人間だった。全体的に見れば問題は多くない存在だったが、依存的な性質だけは明らかな欠点と伸は感じている。否、伸にもそんな傾向が多少あるからこそ、見逃せない欠点に思えるのかも知れない。
 そして人には親し気に映る彼等の間には、特別に強い絆も無ければ、共通の懐古的記憶も存在せず、未だ単なる知り合いの域を越えない間柄だった。そう、伸は彼のことを『友達』とも呼び辛かったのに、何故か傍に居る時間が長く感じられていた。感覚だけでなく、実際に毎日彼は話し掛けて来た。他愛ない日常会話から授業のお浚いに至るまで、無論、何らかの信用を置いてくれるのは嬉しかったけれど。
「何でじゃないだろバーカ、自業自得だ。僕は自分にも人にも厳しく在りたいんだよ」
 事実として、伸には煩わしくて仕方がない時もあった。一度拒否しても同じパターンを繰り返すからだ。なので時には、釘を差す厳しい言葉も口にしていた。馴れ合いは御免だと、一時だけでも気持を察してもらうしかなかった。楽天家なのかいい加減なのか、不快な出来事は忘れる頭だと伸には思えていた。
 楽天家と言えば、運命的に出会った仲間達の中には、伸の戦士としての価値を支える大切な人が居る。結果を恐れず目的だけを見て居られる人が居る。不思議なもので、単純な言葉では同じ形容をするけれど、実物を比較すると全く違うことは歴然としている。日本語は曖昧なのだ、公か私か、楽観視する対象に拠って代わる言葉が他に無いからだ。
 せめて大内君には、自分同様に相手も楽天的だと解釈しないでほしい、と伸は考えていた。『己と他者は違う』『違うからこそ意味がある』、最初からそう理解できる優れた魂も、同じこの世界に生まれて生きていると言うのに。
「…何だよ?」
 今は離れている仲間達をふと思い出していた、伸は神妙な顔付きで己を見ている彼に気付く。そして伸には些か問題児である、クラスメートは大真面目にこう切り出していた。
「毛利って…、優しくないな」
「しみじみ言わないでくれない?、悪かったなぁ?」
 如何にも冗談らしい口調で話すならまだしも、宿題を見せる見せない程度の話題で真面目な顔をされても、と言うところだ。すると相手は続けてこう言った。
「気の優しい人は見た目も優し気になると思うからさ?。毛利はどう見ても優しそうだ」
 まあ、それも一理あるとは思うけれど。名は体を表すと言うように、内面が外側に反映されることはあるけれど。
「だから何?、君に誉められても嬉しくないよ」
 今は、特にそれを取り上げてほしくない時だったので。
 優しさ、万物に優しい行動と言うものは、この世界に必要なひとつの要素と言えるだろう。またその担い手として戦いに参加している伸。己に求められている役割を果たす為に、これまで心の鍛練に取り組んで来た経過がある。いつも、いざと言う時に責任を持って、己の能力を発揮できなければならない。戦士としての責任の上で、真の優しさとは何かを理解しなければならなかった。
 仲間達に出会って一年が過ぎた。ひとつの山を越えたところで伸が感じたのは、それまで己が知っていた優しさとは、普通の人々が暮らす社会の中でのみ通用する、中途半端な感情に過ぎなかったと言う反省だった。だから今は、普通の感覚で言う優しさなどには、あまり価値を感じられていないのだ。
 と、僅かの間の内に目指す理想を思い描いていた、伸の耳には予想もしない返事が齎される。
「んん…?、じゃ誰に言われたら嬉しいの?」
 質問の方向が変わっているではないか。問い掛けた本人は何ら、不自然さや唐突さを意識していない様子。もしそれで、誰か特定の名前を出したとして、この大内君には満足感や納得を得る算段があるのだろうか?。或いは単なる興味本位だろうか。
「…何でそんなこと。言葉の綾だろ、『優しい』なんて有り触れた形容だし、誰に言われたところでさぁ」
 暫し考えた上で伸がそう答えると、
「そう言うもんかぁ?、ふーん…」
 彼は感慨深い様子で腕を組んで見せた。どうにも、伸には理解に苦しむ状態だった。
「何で感心してんの?」
「いやー、自分の売りを誉められたら、普通嬉しいんじゃない?」
 そう言う大内君は、全く普通の感覚を持った普通の人のようだ。大概の者なら個人の特徴が認められ、誉めて貰えることは嬉しいだろう。お世辞でないと知れば尚更のことだろう。けれど伸の望む事はそうではない、より高いステージを見ている伸に取っては。
「売りじゃないよ」
「えー、嘘だろ」
「何で嘘だ、僕は言う通り優しくないし、ナルシストでもないし、この外見が特に気に入ってる訳でもないんだけどな?」
 簡単な言葉で表せる程度の評価は不要だった。つまり伸はそう話しているのだ。
「うーん…?」
「コラ、さっきから何なんだ?」
 学生の身分以外に立場を持たない、十五、六才の少年には難しい話だったかも知れない。勿論伸が、戦士としての活動を部外者に話すことも有り得ない。一般の誰にも、深い理解を求めることができない現状。その中に在って、確と己の意思を伝えるのは困難でしかなかった。だからいつの時も、例え相手が筋違いな発言をしていても、深く気に留めることはなかったけれど。
 踏み込んで言えば、誰にも解りはしないと諦めているのだけれど。
「だってさぁ、明らかに周りを意識してるだろ?、毛利、いつもきれいにしてるしさ」
「単なる身だしなみだろ」
「そうかなぁ?」
 後に続けられた会話が、あまりに些末な話題へと転じて行くので、伸はもうそれ以上、詰まらない尋問に付き合うのを止めることにした。そう、実際気の優しいところがあるとしても、我慢して相手に合わせる必要は感じなかった。殊にこんな風に、意図の読めない妙な質問をされるばかりでは。
「おかしいよ、君。何を勘繰ってんの?」
 最後に一言、伸は反撃を試みるように質問で返していた。問われた本人は特に態度を変えはしなかったが、多少言葉に詰まった様子を見せて答えた。
「別に…」
「いいけど、次の授業始まるよ」
 折良く教室の引き戸の向こうに、古典の教師の姿が現れたところだった。伸の席の傍を慌てて離れ、自分の席へと戻って行った大内君は恐らく、ほっと胸を撫で下ろすような心境だっただろう。伸にはそれが解った、彼は何かを知りたがっているが、その理由は自分でも解らないようだと。答えてほしい相手に逆に問い詰められれば、途端に言葉を失ってしまった。
 ただ、仕方のないことだった。ほんの短い時間を生きただけで、己の全てを認識することなどできない。特殊な状況下で切磋琢磨して来た伸もまた、十分に未熟者であることは自認していた。まだ誰もが視界不良の路の上を歩いている、そんな時期なのだから仕方がない。

 通じ合えないのは仕方がない。
『僕に構わないでくれないか』

 そもそも伸が入学した私立の高校には、以前からの知り合いは少なかった。そしてクラスには見知った顔がひとりも居なかった。なのに、入学式の当日から声を掛けて来た彼。
 最初は図々しいような、非礼な態度にも感じられていたのだ。その後クラスメイトとして時が経つに連れ、そこまで悪い印象ではなくなっていたが、未だ友達とは呼べない程度の付き合いだった。愛称で呼ぶでもなく、連れ立って帰るでもなく、電話を掛け合う訳でもなく。あくまで学校に居る間だけの身近さに過ぎなかった。
 彼が良い人だろうと悪い人だろうと、受け入れられない理由が伸にはあるからだ。
 そう言えば、その日は雨が降りそうな暗い空だった。
「なぁ、何で人を見ると笑うんだ?」
 一階の教室の窓から、校庭へと向かう知り合いの学生を見ていた伸は、耳のすぐ傍にその声を聞いて思わず身を引いた。そんなに近付かなくとも話せるだろう、と言う程近くにその人の顔はあった。
「…は?」
「俺思うけど、毛利は誰にでもいい顔するよな」
 ジャージ姿の集団はもう、教室の前を通り過ぎて皆校庭へと出て行ってしまった。見るものが無くなったので、伸は体の向きを変えてから大内君に返した。
「そんなつもりはないよ。…それが何なんだよ?」
 気に入らないか?、と率直に言った方が良かったのだろうか。伸は返答した後になって考える、憎まれているようでもない、批判的な口調にも思えない、ならばせめてそれをどう思っているかくらい、正直なところを聞かせてほしいと。しかし実際にその言葉は出せなかった。迷いのある相手に厳しく出られない、伸の哀れみ深い根性が邪魔をしていた。
 こんな時、征士ならスッパリ切り捨ててしまうだろう、とも思いながら。
「何と言うか…」
 そして案の定、大内君はそう切り出したまま何も答えなかった。答を持たない人、或いは答の纏まらない人に、何をどう問い詰めても無駄だと思う。故に伸は、
「大内くんよ、どうでもいいけど、そうやって僕を監視しないでくれない?」
 そんな風に話を変えて差し向けるしかなかった。
 元を辿れば、意味も無く話し掛けられたり、妙な質問をされたり、それらの行動以前に彼の視線は気になっていた。伸が既に知り得ている、家族を案ずる温かい眼差し、仲間を見守る信頼の眼差し、人を傷付けない為に送る社交辞令の目配せ、熱病のような恋心、又は狙いを定め、捕捉する敵の息を潜めた戦慄。そのどれにも当て嵌まらない視線は、生温く気味の悪いものだったので。
「えっ??、…そんなつもりはない、けど…」
 すると彼の口からは、思わず先程の伸と同じ言葉が零れ、ここに来てはっと我に返ることになった。彼が気付いたのは無論、無意識の行動に確固とした理由は無いこともある、と言う事実だった。何故伸が笑い掛けるかは、何故己が伸を見ているかに等しい。だとすれば、伸が正しく答えられないのも当然だと、大内君は無言のまま納得したようだった。同じ人間なのだからと。
 そんな偶然の出来事に、多少驚いた顔も見せてはいたけれど、伸がはぐらかしている訳ではないと知ると、彼はむしろ安心したように一息吐いて、続けた。
「じゃあさ、毛利は誰か、好きな子がいる?」
 またもや、話は突然変わっていた。
「唐突だなぁ」
 上辺ではそれなりに自然な返事をしていたが。この時の伸には、何となくこのパターンが見えて来ていた。そう、彼は本当に言いたい事を話す前に、必ず別の話から入って来るようだ。何を意図してのことかは解らない、ただ相手の気持に臆病なだけかも知れないけれど。
「…さあね。居たとしても君に話す必要ないだろ」
 ただ相手がどんな人間であっても、伸の返す言葉はそれだけだった。事実伸自身も、未だ噛み砕けない感情を持て余した状態だ。君は誰が好き?、僕は誰が好き?、否、好きなのか、嫌いなのか、それとも好き嫌いと言う表現で正しいのか、定まらない言葉が頭の中を行き来する日々。思い返せば、考える暇もない戦場に立って居た頃は、何の疑問も持たずに有りの侭の感情を抱いていられた。
 必要な存在がそこに居るから幸福だったと。
「あー、教えてくれないんだ」
「何で教えなきゃなんないんだよ」
「そうだけどさぁ…」
 伸はすると、しつこい問い掛けに一喝するようにこう言った。
「それと!、『お願い』って顔止めてくれないかな?。土下座されても何も言わないよ、僕は」
 懇願されても、スクープを追い掛けられる芸能人ではない。真実を話す意味もメリットも、この場には存在しないことも解っていた。会話として使われる言葉は同じでも、求める内容のレベルが違い過ぎていた。その上で話しても何が伝わるだろうか?。
「冷たいよー」
「世の中そんなに甘くないからね」
 大内君は決して頭の悪い奴ではない筈だった。だがこんな時に限って、いつも酷く愚鈍な態度を見せ付けて来た。相手が拒否する部分にわざわざ、踏み込もうとする姿勢は理解し難いものだった。そして、突き放されても罵声を浴びせる事もない。
 生温いのだ。次第に彼は鬱陶しい存在になって行った。降るとも降らないとも言えない、灰色の雲に被われたままの一日のように。晴れもしない、雨は降らない、強い感情の流れが感じられない人物。また彼もそうだが、自分もそう見られているかも知れないと、伸はその時ひとつの理屈が得られていた。
 ここは本当の意味で、己の居場所ではないから仕方がない。

 心が別の場所に在るから仕方がない。
『聞いても理解できないから話さないだけだ』

 そうなのだ、目紛しく戦いの時は過ぎて、今は普通の生活のサイクルに戻ってはいるけれど、戦士としての意識から完全に脱却していないのだ。何故なら架せられた使命の全てを終えた訳ではない、この時はまだ、与えられた力も鎧そのものも残されていた。その責任からも、持ち物への愛着からも、心がそれに附随する事象へ寄りたがっていると、伸は自ずから感じ取れていた。
 安穏とした普通の生活が嫌なのではなかった。欠伸が出る程退屈な毎日でもなかった。ただ、極限まで神経を集中させて挑んだ戦い、常に気を張り詰めて行動した危機的状況の中で、得られた喜びや安堵感は他に比較しようもなく、強い輝きを以って心を占めていたからだ。己がそこで、全ての命の活動を守る唯一無二の存在として戦えたこと。そんな経験をしてしまった後では、日常的な物事はどうしようもなく霞んでしまうだろう。
 故に、学校と言う集団生活の場に於いて、伸に必要だったのは上手く立ち回ることだけだった。正体を見せずに、普通の人の振りをして居られれば良かっただけだ。誰に対しても、可も不可もなく目立たない存在で構わなかった。真実を見ていてくれる人は他に存在するのだから。
 それが伸と彼との違い。
「毛利は、俺のことが嫌いなのか?」
 ある時大内君は言った。相変わらず、何が言いたいのか解らない奇妙な調子で、ともすれば誤解を招きそうな台詞だった。
「別に、普通だよ。他の奴と変わらない、けど、何がそんなに気になるんだい?」
 図書室から借りて来た本を捲っていた、伸はその手を止めて顔を上げると、前の席に後ろ向きに腰掛けて、こちらを見るともなく見ている彼が居た。放課後の教室は部活に参加する者も、帰宅部も皆退散した後で、委員会の集合時間を待っていた伸と、大内君の他には誰も居なかった。だから思い切った言葉も出たのだろう。流石に視線を合わせて言える台詞ではなかったようだが。
 そしてこんな環境ならば、伸も曖昧な気遣いをせずに、今日は本当の気持を話せると感じた。
「気になるよ、普通だとは思えないから」
 彼はそう返したが、伸には全く思い当たらない事実だった。
「何で?、君が特にどうなんて考えたこともない」
 もし普通の扱いでないと彼が感じるとしたら、その原因は彼が必要以上に近付き過ぎるからだった。伸は当たり障りなく人と付き合っていた。それを理解する者は、自ずと距離を保って付き合うようになって行った。ひとり彼だけがそうならないのは、伸に対して何らかの、単なる友達以上のものを求めているからだろう。人間的に頭の悪い者でなければ、それ以外に理由は無かっただろう。
 ごく始めの内に伸が、大内君と言う人物について感じたことは、今となって正に証明されたようなものだった。当たりの柔らかい、気の優しそうな人間に対する態度と、そうでない者への態度が明らかに違っていた。簡単に言えば媚びているのだ。恐らく彼は家庭の環境か、他の何れかの環境の中で何かに餓(かつ)えているのだろうと、伸は大方見取れていた。
 『何か』とは無論愛情であり、優しさであり、当たり前に人間が持つ感情だ。特別な才能も要らず、何処の誰にでも与えることのできる、ごく基本的な人間の能力と言えよう。そして伸については、そんな能力を極める立場に選ばれた存在でもあるが。
 但し、必ず個々の思う形になれる訳ではない現実も、知らなければならないだろう。強く切望する対象が身近に存在しても、運良く理想的な相手に巡り会えても、欲しがる物をくれる人が目の前に居たとしても。この世では誰もが足りない部分を補おうと、己の断片を探しながら生きているけれど、始めからぴたりと重なり合うものは存在していない。前以って考える理想像は幻想でしかない。
 例え僕が君の理想に見えたとしても。
 ねえ君、時間の経過が隙間を埋めて行くから、人は繋がれるのではないか?。
 その意味では、濃密な時間を共に過ごした仲間達以上には、誰にもなれないだろう…。
 ふと、伸の髪に徒に彼の手が触れた。
「触るなよ」
「ほーら。嫌そうじゃないか」
 確かに嫌なのかも知れない。ただそれは相手が誰だからではなく、誰にも深入りされたくない意思表示だと、今日こそは解ってもらいたかった。そして伸はこう返した。
「…じゃあ言い方を変えるよ、君だけが嫌いなんじゃない、みんな嫌いだ。それなら文句はないだろ?」
 やや乱暴な言い方だったが、それでちっとも構わないと言う風に笑っても見せた。
「・・・・・・・・」
 もし、伸がごく普通の学生で居られたなら、大内君とは仲の良い友達になれたかも知れない。彼は決して悪い人間ではない、少しばかり環境的な愛情に飢えているだけだ。そして彼には不利なタイミングで出会ったと言うだけだ。それ以前に伸が出会って来た者達に、あまりに深く結び付いてしまった後だった。
 だから、その時間の妙を少しばかり切なくも感じていた。そんな思いも込めた穏やかな伸の眼差しには、既に決してしまった運命への決意も見えた筈だった。
 平和な世界に暮らす誰にも余計な心配はさせない。
「おい…、そんな事言ったらマズいだろ?、親友とかできないだろ?」
「いいんだよ、僕はひとりでも大丈夫だから」
 自ら苦しむ事情に関わってはいけない、と伸は今一度優しく突き放していた。

 そんな優しさがあっても良いだろう。
『僕は誰のことも見ているが、誰のことも見ていないのと同じだ』

 僕らは誰かひとりの為だけに生きることを許されない。
 優しさがほしいだけなら他を当たることだ。
 頼れる者は僅かな理解者のみで、命を賭して戦う五人の苦悩と孤独に比べたら、
 大多数の人々は余程安楽に暮らせているのだから。



 既に僕には、並の優しさが解らなくなっていたかも知れない。
「分らないか…?」
「分っているとも」
 誰かの返事が聞こえた。突然、頭の中を掻き混ぜられたような混沌を感じていた。記憶に残る景色が、時間毎の場面がマーブル模様に歪んで、その内すっかり空白になってしまった。
「ん…?」
 見覚えのある天井が視界に広がっていた。煌々と辺りを照らす蛍光灯の、新調したばかりのランプシェードは、部屋のカーテンの色に合わせて、アクセントに緑が入ったものを選んでいた。春先の部屋の模様替えは楽しかった、と伸はぼんやり思い起こしている。元のこの部屋はモノトーンだったけれど…
「うとうとしてたら寝てたのか」
 新しい色調に変わったリビングルームの、伸が枕にしていたフロアソファの横で、征士は大学の教科書とノートを広げて、大人しく今日のお浚いを続けていた。夕食後だった、まだ幾分浅かった筈の夜空の色が変化していた。眠り込む前に観ていたテレビ番組も、もうとっくに終了してスイッチが切られていた。静かな部屋にはふたりが動作する僅かな音以外に、何も聞こえては来なかった。
 否、そんな状況の変化よりも気掛かりだったのは。
「僕何か言った?、…何を分ってるって?」
 目覚める直前に聞いた、声の主は征士だと伸は気付いていた。けれど自分が何を話していたか思い出せなかった。長い夢を見ていた。その中で延々と何かを語っていたような気がした。何かを訴えていたような気がした。寝起きの悪い夢を見た後には大概、そんな戸惑いが生じるものだろうけれど。
 しかし征士の返事は至極簡単なものだった。
「さあ」
「さあって。…あのさぁ、寝言に話し掛けるのは良くないんだよ?、知らないの?」
 聞いていたのに聞かない振りをするのか、或いは聞き取れなかっただけなのか。
「話していない、相槌を打っていただけだ」
 ただどちらだったにせよ、征士が平静な様子でそう答えるのを見れば、伸は己のして来た選択が間違いではなかったと、安堵する気持にもなれた。言葉が誰に向けられたものかは、征士には知りようのないことだったが、考え方を否定せずに居てくれたなら、伸にはそれで良かったのだ。
 人は誰も完全ではない。例え心を極めた鎧戦士の一員であっても、完璧な自己コントロールなどできはしない。その上で己の失態を感じれば、いつまでも痛恨の記憶として残った。社会の中に紛れ、表面では卒無く優等生を演じていたけれど、その時々に、心の底に溜め込まれた不安や不満は出口を失ったまま、今もしばしば思い返されている。
 温もりを求める手を振り払って悪かったと。他に対応の仕方があったのではないかと。まだまだ己が人物として小さい存在だったことが悔やまれる。
 けれどもう過ぎてしまった事なのだ。
「分かんないで相槌を打ってた訳?」
「フフフ…」
 どうやら、征士はある程度は聞き取れていたようだ。無論それでも彼が笑って返せるなら、伸は何も心配しなくて良かった。少なくとも大切な仲間達の基準の上で、伸の優しさは間違っていないのだろう。そして、真実を見ている人は今もここに居るのだから。
「いいけどね、別に」

 だから他の場所には還りようがない。
 大内君には言えなかったけれど、淋しさの骨を埋める場所は誰にもあるのだと思う。









コメント)エヴァのようなタイトルになっちゃいましたが、話は全く関係ありません(読めばわかるけど)。最初は「帰還」だけのタイトルでしたが、話のテーマから「アダム」を加えてみました。まあ本文にはさっぱりその名称は登場しませんが。
ところで今年も、3月アップの小説が征士の話で、6月アップの話が伸の話になっちゃいました(^ ^;。故意にそうしてる訳じゃないんだけど、話の順序がこうなってしまうのは辛いところです。とりあえず伸の高校時代の話が書けて良かったです。ふたりの生活の馬鹿話(?)については次から書きます…。




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