70億の天国
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Where's our heaven?
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雨が降ったり止んだりの日がここ一週間続いていた。六月は大体そんな天気になるものだが、今年は例年に比べ気温も低めのようだ。と、梅雨時期の肌寒さを感じていたある朝、
「馬鹿だなぁ」
と伸は、ダイニングテーブルで頭を抱えている征士に言った。そして本人も、
「…返す言葉がない」
と、掠れた声で力なく返した。実はこの朝、妙に暑いと感じて早く目が覚めた征士は、39度近い熱を出していたのだ。実は、と言うのは説明上のことで、数日前からあまり体調が良くなかった征士を、伸はずっと気に掛けていたのだ。なので、
「だから!、僕は何度も薬飲んだらって言ったのに」
伸の口調が不満そうなのは当然だった。その親切な忠告を聞き入れず、仕事を休まざるを得ない結果にしてしまった。征士が仕事を愛しているのを知っているからこそ、伸はそれに協力しているのに、これではおかんむりになるのも致し方ない。
「このくらい気力で治せると…、…過信し過ぎたな」
そう、本人が言うように何事も過信は良くない。ふたりはまだ三十路になる手前の年だが、若いからと言って病気にならない訳でもない。家で仕事をしている伸に比べ、不特定多数の人と接触がある状態で働く彼は、思わぬ伝染病を貰って来る可能性もあるだろう。そんなことに対し、征士は少し不注意だったかなと反省していた。
「冬は気を付けてるからともかく、今頃は管理が適当になってて、意外に風邪ひきやすいんだよ」
伸の言う通り、冬場は予防の為にマスクをしたり、手洗いやうがいを徹底するよう注意喚起されるものだが、暖かくなって来るとその習慣が緩む。勿論風邪などのウィルスが、乾燥した状態を好むから理に適ったことではあるが、暖かくなったからと言って、ウィルスが消滅する訳ではない。疲労などで体が弱って来ると、活発でないウィルスでも風邪をひくことになる。
そこに加えて過信だ。ふたりは一昨年から毎年人間ドックを受けている。これまで体に異常が見付かったことはない。運動もしているし、伸が考えている食事はとても健康的なものだ。だから少しくらい調子の悪い時があれど、数日すれば整うだろうと思ってしまいがちだった。実際これまでそうだったことが、この度の失敗に繋がっていた。
放っておいても良くなる場合とそうでない場合がある。なるべく薬を飲みたくない考えがあるなら、その見極めは難しいところだが、同居する人に感染し、自分より苦しい思いをさせる可能性を思えば、もう少し注意した方が良かったかも知れない。
「まあ僕まで一緒にダウンしてないだけマシだけどね」
幸い今は、伸には体調不良がないようだった。これまで粘膜の接触がなかった訳ではないが、伸が平気でいるところを見ると、それは明らかに征士の体の問題だった。気付かぬ内に疲労が蓄積していたり、温度変化で体が冷えたりしていたのだろう。
とにかく征士が異常を起こしている、と知ると、今朝から伸は確とマスクを掛け、いつも出掛けにしているキスも、マスク越しに額や頬にするだけに留めた。この状態は淋しいな、と征士は思うが、淋しいと思うのは伸も同じだった。そして珍しく伸がハンドルを握り、車で征士を病院に連れて行った。
しかし現代の病院は多くがそうであるように、着いてすぐ診てもらえるのは急患の場合だけだ。ただ発熱しているだけの状態では、電話予約した順番が回って来るまで待つしかない。具合の悪い状態で待たされる時間が、長ければ長い程患者には厳しい状況だが、システム上なかなかその点は改善されない世の中だ。順番を待つ間に伸は、普段とは違い何処かボーっとしている征士に、
「大丈夫?」
と幾度か声を掛けた。まあ倒れそうな程様子がおかしい訳ではなく、何処かに激痛がある訳でもないようで、征士は終始静かな態度だったが、
「まあ…」
何か答える度に聞こえる掠れ声から、喉が荒れていることはありありと伝わって来た。尚、病院とは病気を治療する場所であり、当たり前だが病人が集まっている。つまり普通の環境より病原菌が多く飛び交う場所なので、病院にかかる際には注意が必要だ。稀に待合で風邪をうつされることもある為、伸は征士に掛けさせていたマスクを、そこでちょっと直してあげた。この場合は隣の患者に病気をうつさない為の配慮だ。
例え何らかの病気だったとしても、征士が幸福なのはこうして、細かな世話を焼いてくれるパートナーが存在することだろう。こんな事態には滅多に遭遇せずに来たが、いざとなると全く有難いものだと、征士は今の環境に感謝するばかりだった。どちらかと言えば伸の方が、度々体調を崩して心配を掛けさせる立場だが、自分はその時々、伸にそこまで手を掛けた記憶が無い為、余計に征士は申し訳ない気持になった。
そう言えば、と、そこで征士は昔のある出来事を思い出す。
「前に、いつだったか、伸が40度近い熱を出して、大騒ぎしたことがあったな」
「あはは、あの時はみんなに心配させちゃったね」
それはまだ最初の鎧が存在した頃、阿羅醐を始め妖邪界との一連の戦いが決着した後の、五月の連休に一度柳生邸に集まった時のことだった。伸は当時十六才になっていたが、以前から何らかの理由で突然高熱を出すことがあり、仲間達には度々心配をさせていた。特にその時は酷い高熱だった為、どう対処すればいいか右往左往することになった。何故なら、
「保険証持ってなかったから、病院にも行けなかったし、今妖邪が来たらどうしようって感じだったね。僕も朦朧としながら『どうしよう、どうしよう』ってばかり考えてた」
と言う事情があり、世話役のナスティは万一のことを考え、伸の実家に幾度も連絡を取った。他の仲間達も楽しく連休を過ごすどころではなくなり、効果的に熱を下げるにはどうしたら良いか、本気で研究した者も居たほどだ。その甲斐あってか翌日には39度を下回り、連休中に問題のない状態まで回復できたが、彼等にはとんだ連休になってしまった。
ただ伸自身の意識としては、
「でもまあ、僕は時々そのくらいの熱が出ることがあるし、命の危機を感じる程苦しんでた訳じゃないけどね」
そこまでのことではなかったようだ。勿論高熱の他にどんな症状があるかにより、本人の不安も違って来るだろう。恐らくその時の伸は、「ああ、よくある奴だ」と認識していたに違いない。実際何処かが痛いなど、通常と違う症状は感じていなかった。連休後に一応病院で診てもらうと、扁桃腺が腫れていると言うありきたりな診断だったそうだ。
扁桃腺やリンパ線などが弱い、或いは細菌にそれが冒されたりすると、他に異常はないのに高熱が出ることはよくある。伸はそんな状況には慣れているのだが、
「今の君の方がよっぽど心配」
「ん…?」
「君こんな高熱出したことあんまりないだろ?、慣れてないと辛いもんだからさ」
と言って、伸は征士の只ならぬ様子を気遣っていた。別段発熱はそこまで辛くはなかったが、実は車に乗っている頃から段々と頭痛がするようになり、征士はそれが鬱陶しかったのだが、
「いや…、子供の頃は結構あった筈だ」
伸の語り掛けに対しては、まだ普通に応じられる程度だった。彼の返事を聞くと伸はすぐ、その理由を答えられていた。
「ああ喘息だったんだもんね」
今でこそそんな面影はないが、征士が幼い頃は恐らく伸よりずっと、周囲に気を使わせる存在だった筈だ。小児喘息の子供は珍しくもない存在だが、成長しても改善しない人も一定数存在する。幸い征士は小児の内に症状が改善されたが、その間親の心配は、幾許のものであっただろうと伸は思う。
けれどその本人には、
「だが流石にもうその感覚は忘れてしまった。小学二年、三年頃以降はほとんど、病気らしい病気をしなくなったしな」
伸の例と同じく、いちいち記憶に残ることはなかったようだ。熱が出たり、咳が続いて苦しんだことはあっただろうが、当時はそれが日常だったせいだろうか。或いはその後とても健康になったことで、無意識に過去の記憶が整理されたのかも知れない。昔病弱だった記憶は必要のないものだと。
確かに幼少期にかかった病気の記憶は、本人はあまり憶えていないことが多い。幼稚園に通う頃には、はしかや水疱瘡などによくかかるものだが、幼児にはまだ経験的な病識がない為、その当時を確と記憶していることはあまりない。だがこんな時だから伸は言う。
「だからだね、慢心は良くないよ?」
「ああ…」
時々は過去を思い出し、本来は喉に弱点のある人間だと、自身を疑ってみることが必要かも知れなかった。それが何より、己を大事に思ってくれる人への礼儀ではないか。続けて伸は征士に、訴えるようにこう話した。
「今日だって、診てもらわなきゃわからないけど、ただの風邪じゃなくてインフルエンザだったりしたら、他の人にも迷惑かけるんだから」
「そうだな…」
「インフルエンザだったとしてもまだいいよ、君はそんなことでいきなり死んだりしないだろうし。それよりもし、もっと怖い病気だったらどうすんのさ」
そう言われ、伸の心からの思いを感じると、征士は増々何も言えなくなってしまった。自己管理をすることは、碾いては愛する人を悲しませないことだ。勿論管理していても防げない病もあるが、防げるものに対しては甘い考えでいては駄目だ。征士はそこで深く深く反省した。
ただ、恐らく風邪であろうと思える状態に対し、伸の強い不安感も行き過ぎな気がした。
「私は後進国に仕事に行くことはないからな」
と征士が話すと、伸はその安心材料にすら否定して来た。
「伝染病じゃなくても、風邪によく似た初期症状のある病気って、色々あるじゃないか」
まあそれも一理あるのだが、その場合は他に何か、もっと特徴的な症状を伴うものではないだろうか。例えば咳が出続けて止まらないとか、嘔吐や下痢のような症状があるとか。征士の場合はそうした事はない為、伸は少し考え過ぎだと感じた。
何故そんなに強い不安を感じているのだろうか?。
その時、征士はふと周囲の様子を見回し、これが原因かも知れないと呟いた。
「雰囲気に飲まれ過ぎではないか?」
「え?」
「小規模な町医者に行った方が良かったな。どうもここは色々複雑な患者が多そうだ」
征士がそう話した待合には、確かに点滴を引いて歩く入院患者や、複数の科に通っていそうな老人など、どうにも元気がなさそうな患者が目に着いた。そんな環境では余計な不安を煽られることもあるだろう。
けれど伸はそんな思いをしながらも、
「僕は!、滅多に病気しない君だから、心配してここに連れて来たんだよ!」
このそこそこ大きな病院に連れて来た理由を、強く力説してみせるのだった。結果ただの風邪なら構わないが、大病院で待つ嫌な気分を味わっても、万一のことを考えここに連れて来たと言う。そこまで言われると、珍しくストレートな伸の愛情表現が逆に滑稽に見え、征士は思わず笑ってしまった。
普段は絶対に、こんな強い言葉で気持を伝えることはないのに。いつも冗談のような会話の中で、気心の知れたやり取りを繰り返すだけなのに。しかし命と言うものが掛かった場面では、思わぬ強固な意思が見えたりするものだと、征士は酷く幸せそうに笑っていた。それを見て伸は、
「まあ笑ってられるなら、そんなに心配ないかも知れないけどね」
と、流石に真面目過ぎた態度をはぐらかして来たが、そんな伸の本心からの優しさを労うように、征士は彼の頭をスッと撫でて言った。
「私はただの風邪だ。と思うぞ」
すると伸の気持も少しばかり落ち着いたようで、もう悪い方には考えないようにしよう、と、強張っていた表情を少し緩めた。
近年の病院の雰囲気は、昔感じたものとはかなり違って来ているような気がする。征士の記憶に残る古い病院のイメージとは、壁一面が白く、行き交う医師や看護婦も皆白い。常にクレゾールの匂いが充満している、と言うものだったが、病院施設内の内装は居心地の良いものに変わりつつあり、医師や看護士の服装も様々なタイプが見られ、何より独特のクレゾール臭がしなくなっている。
勿論何らかの消毒液の匂いはあるが、昔ほど鼻に付くようなものではなく、それが無いだけでもストレスが軽減されている気がした。昔はとにかく病院の匂いがするだけで、嫌な気分になったものだが、今は特に「病院の匂い」と言う程の匂いはしない。小さな事かも知れないが、世の様々な点が日々進歩しているのは、こんな場所でも感じられた。
ただ、
「それにしても、老人が多いな」
と、待合の患者を見回して征士が言うと、
「午前中はいつもこんな感じだよ、特に内科はね」
「聞きしに勝るって奴だ」
伸は最近の病院事情を知らない征士に話した。否、伸もそう詳しい立場ではなかったが、この病院には一昨年の冬に、なかなか治らない風邪の治療に来ており、その時三度通ったので、午前中の内科の様子は憶えていただけだ。けれど、
「常連の顔見知りの老人が、いつもおしゃべりしてるんだよね。少し前までもっと酷かったけど、最近ちょっと感じが変わって来たかな」
伸の感覚では、これでもマシな方だと思えるようだ。前途の通り、度々謎の発熱をすることがある伸は、子供の頃からしばしば病院のお世話になって来た。その時々の病院内の風景を思い出すと、昔はもっと酷い状態だった。おしゃべりと言うより井戸端会議、否、町内会でも開いているかのように、老人が待合の席に固まり喋り通しだったのを憶えていた。
「変わったと言うのは?」
と征士が尋ねると、伸は恐らくその決定的な原因を話した。
「多分これまでは完全に朝から並んだ順で、同じ面子の暇な年寄りが集まってたけど、最近初診以外は予約制になったみたいだからね」
そう、それぞれ予約時間が決まっているなら、いくら暇な老人でも、朝一番に並びに来ることは少なくなる。パソコンの普及で患者の管理がし易くなったことが、それを実現できた要因ではないかと思う。
その結果、待合で長々とおしゃべりする老人は減って来た。病気を抱えたお年寄りが、常に屯する景色はあまり印象の良いものではないし、そのせいで深刻な患者が長く待たされるのも問題だった。現在はそうした待ち時間の問題が改善されつつあり、誰にも大型病院が利用し易くなったのは素晴しいと伸は思う。
古くから「医は仁術」と言う言葉があり、今風に言えば医療はサービス業の面を持つと言うことだ。快適に利用してもらう為の改善を重ね、今の状況になったのは確実な進歩と言えるだろう。
だが征士はそこで、
「それは、良かったのか悪かったのか」
何かに疑問を感じたように首を傾げる。明らかに利便性が向上したと思える状態の、何が不満なのか伸には解らず、
「ん?、何で?。良い事に決まってるじゃないか」
と返すと、征士の口からは意外な言葉が列ねられた。
「暇な老人に取っては、楽しみのひとつを奪われたことにならないか?」
成程、反対の視点から言えばそうかも知れないが、それでは本末転倒だと伸は返す。
「うーん…?、そう言う考え方もまあできるけど、無駄に待つ時間を他の楽しみに使えばいいんじゃない?」
けれどその尤もらしい伸の意見に対し、征士はひとつ問題提議をするように言った。
「病気の老人なんだぞ?、そんな元気があるかどうか」
「…ああ…、そう言う人も確かに居るかも知れないけどね」
そこで初めて伸は、言われてみれば自分と同等の人のことしか考えていない、と気付かされる。勿論通っても来れない重病人は論外だが、何とか出て来られる人についてはどうだろう。病院に通うことが唯一外出らしい外出の人に取っては、病院がコミュニケーションの場であってくれた方が、良かったのかも知れないと考えることもできた。
立場によって何が最適かは変わるものだ。征士の言いたいことを理解すると伸は、
「考えてみるとそうも言えるかも知れない。大した病気じゃなくて元気な人はともかく、病院に来るくらいしか出掛けないような人だと、それが一番の楽しみだったりするかもね」
そんな不自由な立場の老人も存在すると、少し考えを改め始める。昔よく見たお爺さんやお婆さん達は、何らかの病を持つにせよ、病院に集まるのが楽しそうだったと思い出す。そして征士は現状について、
「効率化も良い面ばかりではない、仕事に於いてもそうだ」
と言った。確かに仕事もそうだろう、社会活動全てがそうだろう。働く人の賃金を上げれば物価は上昇し、年金生活者は困窮して行く。年金額を上昇させるには、新たな財源を確保するか他の予算を年金に回すしかない。何らかの税率を上げればそれの活動は停滞し、予算を減らされた部分の活動も手薄になる。何事も何処かに皺寄せが出来てしまうのは、地球資源が有限である限り仕方ないことだ。
そして最も測り難い、個人個人の幸福については、効率化が進んだからと言って誰もが均等に、幸福であるとは言えないものなのだ。切り落とされた非効率の部分に、人の楽しみなり、企業の個性なり、不便さを楽しむ心の余裕などと言ったものが、存在していたかも知れないのだから。
特に今の老人達は、社会が激変して行く中を生きている。江戸時代に生まれて亡くなった人なら、一生大した変化はなかったかも知れないが、ある時代の楽しげな様子を無くしてしまったのは、今の老人達には少々可哀想な気もした。
「老人専門の病院を作って、今まで通りおしゃべりできる場所にすればいいんだ」
そこで伸は提案する。好きなだけ過ごせるようにし、食事する場所や娯楽等も揃えていれば完璧だ、と思う。確かにそれはそうなのだが、
「都心部にはそんな土地もないだろう」
現実的には難しい、机上の空論だと征士は返した。そもそも年寄りは長距離の移動はできないのだから、各市町村に多くそれが存在しなければならない。都心でも田舎でもあまり関係ないことかも知れない。
「う〜ん…困ったな」
伸は更に考える。けれど、この問題に対する正解は無いだろうと踏んで、征士は話題の方向を変えることにした。ある意味で、自分達の世代の一番の悩み所のことだ。
「今でこの状態なのに、これから老人は増える一方だぞ。私達が老人になる頃には、恐ろしい事態になっていそうだ」
「…『楢山節考』とか?」
伸がふと口走ったのは、過去に大変話題になった映画のタイトルだ。映画も有名だが、深沢七郎の短編小説は文芸界にも衝撃を与えたと言う。そのヒット当時は、戦争時代を生きた老人達を手厚く保護していた為、過去はこんなに酷い事が行われていたと、センセーショナルに語られたものだった。つまり貧しい農民などは、食い扶持を減らす為に家族内の年寄りを、山に捨てていたと言う一地方の民間伝承だ。
俗に言う「姥捨て山」の話だが、現代になりまたそれが現実になるかも知れないと言う、危機感を持っているのが彼等の世代だろう。団塊ジュニアと呼ばれる世代は特に人数が多いが、その親である団塊世代が、長寿になり長く生き残ってしまうことで、数十年間の日本は老人だらけになる予測が立っている。果たしてその中で、まともな生活ができるのかどうかと考えてしまう。
「ハハ、まさかそんな事にはならないだろうが、ともすれば人権云々言ってられなくなるかも知れない」
と征士は笑ったが、「そんな事にはならない」と言ったのは、無用な物を捨てるような行為についてである。実際問題として、劣悪な施設に老人を押し込めてしまうとか、そんな行政体系にはなり得るかも知れないと、彼は諦めの境地で笑ったに過ぎない。流石に国際社会に於いて、先進国と認められる立場の日本で、見殺しが当然とされることはないだろうが、良い扱いをしてもらえないことは解っているからだ。
ではどうすれば良いのか。解決できる策はあるのか?。経済成長もあまり望めなくなったこの国に、何か有効な手段があるとも思えない。私達はただ絶望に向かって進んで行くだけなのか?。
けれど、
「そうねぇ、僕らは山に捨てられちゃうかも知れないね」
そう答えた伸の様子が意外にお気楽な様子なので、
「あまり心配ではなさそうだな?」
不思議に思い征士が尋ねると、伸はいかにも彼らしい考えを語り始めた。
「だって、僕だけが捨てられる訳じゃないんだし、みんな同じならしょうがないじゃないか」
「それで納得するのか?」
「納得するかどうかはその時になってみないとわからない。でも、」
でも、と言って、伸はふと顔を上げ、何処か在らぬ空を見渡すように言った。
「まあ、僕らには必ず帰る場所があるだろ?」
必ず帰る場所。一度死を経験した場所。私達の鎧の故郷。それはあの桜の木の下だと征士もすぐに覚った。今は遠いその安らかな場所が、確かに私達の心の中には存在する。それは忘れようとしても忘れられない記憶であり、鎧自体は消失しても、私達五人の仲間としての絆である。私達はひとつの意思を共有する者として、その根源となる意思の元に還る。確かにその道理は信じられた。
見方に拠れば、死ぬまでひとつの縛りの許で暮らすことは、不自由で荷の重い人生かも知れない。しかしその代償に、普通の人生では味わえない苦楽と、類稀なる達成感を得ても来た。そんな特殊な存在として生まれて来たからこそ、最終的に辿り着く場所も普通ではない。それが幸か不幸かは考え方次第だが、少なくとも今のふたりにはひとつの、仄かな光のようにも感じられた。
「それもそうだな…」
征士が軽く溜息を吐きながら、ある種の感銘を伸に伝えると、
「僕らには決まった天国があるから、最後に不幸になることはないと思うよ」
伸はもうずっと前から心を決めていたかのように、清々しい笑顔を作って見せた。
生きている意識が失われるのは恐ろしい。肉体が滅び土類と化す過程も、深く考えたくはないものだ。老いて行く先のことを思うと不安ばかりが募る。けれど最低限と思える大切な人と、魂は恒に共に居られるなら、それを希望に生きて行くことはできるかも知れない。否、少なくとも彼等は五人も仲間が居るのだから、贅沢な話だと受け止めるべきなのだろう。
そう、伸がそれでいいと言うのだから、それでいいんだと考えることにしよう。征士は穏やかな気持で頷くと、全ての人間の行き先について話した。
「そう言うなら、誰にも相応しい場所があるのでは。宗教などはほぼその為にあるようなものだ」
「そうだね。そうだといいね」
例えば日本に仏教が広まったのは、天智天皇の政治的戦略と言う説もあるが、その後特に信仰が盛んになったのは、国が乱れ、末法の時代がやって来ると恐れられた平安末期のことだ。人々はせめて現世を離れた後に、魂が穏やかでいられるよう祈り続けた。それはある意味現実逃避だったかも知れないが、死後の安楽を夢見ながら生きる気力を支えたと言う、歴史的な事実でもあると思う。
大切な家族、好きだった友人や恋人、いつか全ての人にまた会えると思えば、現実は侭ならないものとして受け入れるしかない。それは過去も未来も変わらず、永遠に続く人間の葛藤であり、信じる者には信じる場所が存在すると、敢えて考えることが大切なのだろうと思う。困難な時代だからこそ、信じられる物があるかないかは大きな差となるのではないか。
そう考えると征士は、伸が生来抱えている「信」の心を素直に支持することができた。ところがそこで急に、
「ただ!、そこに行くのはずっと先のことだ。みんなまだずっと先でなきゃいけないんだから、僕は今こうして心配してるんだよ!」
伸がいきり立ってそう言うので、征士は目をパチクリさせる。
単に話の流れがそうなっただけで、別に死や死後のことを考えたい訳ではなかった。また病院と言う場所で話す内容としては、ややヘビーな話題だったかも知れない。伸の気持がそこから更に、余計な不安に駆られたなら可哀想なことをしたと思う。征士は伸の、唐突な態度の変化を読み取ると、改めて安心させるように言った。
「ただの風邪だ、多分」
「だといいけどね」
人の一生は、本人の視点から見ればある程度長いものだが、幸福感を左右する時間はその時々の数分に過ぎない。今こうして順番を待ちながら、あれこれ結果を思い巡らす時間が、ふたりの後の幸福に繋がれば幸いだった。どうかそうなるように今は祈ろう。
いつの日か満開の桜の下に集う日が来るけれど、その日が早く突然訪れられても困る。人間の心を持つ限り人間は我侭だ。それでも天の国は各々に見合った、門を開いていると信じたい。
終
コメント)伸が風邪をひいた、と言うシチュエーションはよくある話になっちゃいそうだと思い、征士が風邪をひいたことにしたけど、予想外に重い話になって、なかなか書き進まなかったのが辛かったわ(^ ^;。入院前後に病院によく行ったから、病院の話でも書いてみようーと、すごく安直に書き始めたと言うのに…。
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