■京都・彦根旅行記(2014.4.23〜25) 今回は、最初から旅行と計画して出掛けた訳じゃないので、色々な予定変更や、下調べの甘さなどがあって、ちょっと残念な面も出て来てしまいました。でも天気に恵まれ、これまで観たことのない場所を色々巡って来たので、充分いい旅行でした。 期間は2014.4.23〜25、使用したツアーは京都に行く時はいつも使う、JR東海ツアーズのホテルと新幹線のセットです。しかし今回、いつもと同じツアーを申し込んだつもりがちょっと悲劇が… |
4/23 寺町(本能寺)〜木屋町(瑞泉寺)〜祇園(辰己大明神) <やっぱり必ず何かあるな…> 出発前までは不安定な天気が続いていて、どんな服を着て行くかとても迷った。寒かった時の為に、旅行に持って行く服を少し買ったげど、実際は旅行中ずっと好天で、手荷物として折り畳み傘を持ち歩くのも、重くなるだけ損な状態でした。 その旅行用に買った服。私ではなく母の方ですが、無地のシャツだと淋しい、派手目なネックレスか何かを着けたいと言うので、私の持ってるのを貸そうか?と話が着いたんだけど… 旅行当日の朝、家を出ようと言う時にそのネックレスを頭から被ったら、髪に引っ掛かったのを母が無理に引っ張って、バラバラバラっ…とビーズ類が散乱。いきなり出がけにネックレスを壊された(T T) いつも出発時に何か、思わぬ失敗やトラブルがあるとは思っていたけど、こんなことが起こるとは思わなかったな…。 壊れた物はもうしょうがないので、気を取り直して東京駅へ。今回はまず、京都に住む母の友人の、油彩の個展を見に行くのが目的なので、午前十一時頃の遅い新幹線に乗りました。昼食はその中でお弁当を食べることにして、東京駅で崎陽軒のシュウマイ弁当を買って行きました。 実は、私も母も崎陽軒のシュウマイが好きで、昔から食べ慣れてることもあって、できれば日常的に買いたいんだけど食べるのは数年ぶり。横浜は勿論、昔から東京駅や品川駅では売っていて、都内に居た頃はよく食べてたんだけど、今は家の近くで売ってなくてさ…。 帰りにまた売店でシュウマイを買って帰ろう、と話しつつ京都へ出発しました。いつも東海道新幹線に乗ると、富士山や浜名湖の景色を見るのが楽しみだけど、今回は二日目に出掛ける修学院離宮と桂離宮の解説本を読み耽っていて、全然景色を見られなかったわ。 <知らなかった素敵なエリア> 一時頃に京都に到着し、ホテルに荷物を預けると、西宮の伯母と合流してすぐに地下鉄に。個展を開いているギャラリーは京都市役所前と言う駅で下車、名前のイメージからお役所周辺の、堅い感じの町並みを想像してたけど、歩いてみたら京都らしい雰囲気の素敵な町だった。 その寺町商店街には、日用品を売る店から観光客向けの雑貨を扱う店まで、色々あるんだけど、とても清潔で綺麗なアーケードなのが印象的でした。今が旬の筍を山のように卸している店などは、京都らしい景色でしたね(お高いけど)。 商店街の入口と言っていい場所には本能寺があります。そう、織田信長が明智光秀に討たれた時の本能寺ですが、勿論その時に燃えてしまったので、ここは再建された本能寺。実際にあった場所は堀川四条の方で、そこには碑が立っているだけですが、ここはちゃんと信長の供養塔や、一緒に亡くなった家臣の人々の供養塔もあります。森兄弟(森蘭丸の)の名前もちゃんとありました。 またここには、銀座の地価の話題で必ず名前が出て来る、文具店の鳩居堂本店があり、銀座と変わらぬ重厚な店構えが目立ってました。売ってる物はあまり変わらないけど、お香や茶道具が多い印象だったかな。お香の香りを着物に着ける為の、着物を被せておく伏籠(ふせご)が展示してあり、興味深く見させてもらいました。 この商店街の中にギャラリーがあり、勿論個人の趣味の展示会だから、規模は小さいものだけど、一応地元の京都新聞に話題として載っていたので、見に来る方もぼちぼちいて、母の友人(仁子さんと言う)も嬉しそうでしたわ。ちなみにその方は元々東京の人で、京都が好きで移住したんだそうです。 で、お土産と言う訳じゃないんだけど、展示してある絵をもらってくれと言われ、ちょっと困ってしまった。私の家には既に、買ったor戴いた油彩やリトグラフなど幾つも絵があって、既に飾り切れず押し入れにしまってるくらいで、これ以上増えても…と言うところなんだけど、是非友達である母に一点譲りたい、と言うことで、ロシアや中国の玩具を描いたものをいただくことにしました。旅行から帰ったらすぐ家に届いたけど、それをどうするかは今のところ未定です(^ ^; <寺町から木屋町へは是非徒歩で> 寺町商店街は、賑やかな商店街もいいんですが、細い裏通りも雰囲気があって素敵です。歴史ある有名旅館の俵屋や柊屋が並ぶ道、麩屋町通りは静かで昔の風情があって、歩いていると料理を煮炊きするいい香りが漂っていたりして、タイムスリップした気分を味わえます。 ここから少し歩くと、幕末関係の碑が多く立つ木屋町に出ます。木屋町は人工運河だった高瀬川を中心としたエリアで、鴨川との間にある先斗町(ぽんとちょう)は、昔から舞子さんや芸者さんの居る歓楽街として有名ですね。 寺町の方から歩いて行くと、まず最初に見られるのが池田屋騒動の址。この辺りにあの、新撰組が切り込みに行った池田屋があったと言う碑があるんですが、今そこには「はなの舞(居酒屋チェーン)」が建っていて、人によってはがっかりする方もいるでしょうが、昔の建物はもう失われた所が多いと知ってる分には、はなの舞の暖簾に堂々と「池田屋」と入ってるのがイカしてるわー、と笑って見れます。壁に説明文も出ているので、立ち止まって見る人が多かったです。 そこを過ぎると、高瀬川沿いの清涼感がある風景が出て来て、木屋町の雰囲気がパッと広がります。流れる川の水がとても綺麗で、川沿いの柳の木が昔の雰囲気を引き立ててます。新しい建物もお洒落で、川沿いを歩くととても気持がいいエリアです。 と言っても、前途の通り昔の高瀬川は水運の為に作られた人工河川。今は景観の為に残され、綺麗に整備されていますが、昔は多くの船が行き交う賑やかな川でした。それを示す碑や、当時の船の見本が設置してある場所もありますが、昔を想像しつつ、現在の綺麗な町を歩くのも楽しいです。ちなみにこの川沿いの柳を銀座に持って行って移植したそうですが(恐らく江戸時代)、高瀬川周辺を整備する際に、今度は銀座からここに移植したそうです。鳩居堂の話もありましたが、何かと銀座に縁のある地域ですね。 次に、高瀬川沿いの道を曲がるとすぐ龍馬通りがあり、坂本龍馬寓居の址の碑が立っています。そこには酢屋と言う、龍馬と海援隊を住わせていた材木屋の建物があり、勿論当時の様子に再建されたものだと思いますが、ここで中岡慎太郎らと共に、活気ある議論を交わしてたのかなと、暫し幕末の歴史に浸れる場所です。尚、この材木屋は今現在も材木屋として続いてるそうです。 |
左上)一見普通のアーケードの寺町商店街 右上)本能寺の入り口の、 多分日蓮上人の像だったと思う 左)本能寺の本堂 平日だったせいかほぼ誰もいなくて静か 左下)信長の供養廟 右下)本能寺で亡くなった人々の供養塔 右の立て札に亡くなった人のお名前一覧 |
左の左)寺町商店街にある 鳩居堂本店の店構え 銀座に比べると とても静かな佇まい 左)老舗旅館の俵屋 ここはお料理も一流で 懐石コース3万円と ぐるなびに書いてあった |
左上)はなの舞・池田屋店 と書いていいような感じの池田屋跡 右上)龍馬が住んでいた酢屋(再建) 酢屋とは屋号で、酢を売っていた訳じゃない 左)高瀬川の碑と柳 左下)高瀬川沿いの木屋町通り きれいで涼しげな素敵な通りです 右下)川沿いにまだ桜も咲いてました |
左)高瀬川の多分端の方、
昔この川を行き来していた荷船を 再現したものが設置されてます 今は静かな川だけど、 昔は賑やかだったのが想像できます |
<戦国時代の悲劇を伝える寺> 龍馬通りの、高瀬川を挟んだ向かい側には瑞泉寺と言うお寺があります。ある意味、ここだけは高瀬川沿いでは異色の場所かも知れません。ここは豊臣秀吉の甥で養子だった、秀次とその一族を供養する為に建てられました。 戦国の歴史好きの方は知ってる筈ですが、秀次は子供の無い秀吉の後継者として、政治を任されていましたが、淀君に子(秀頼)が生まれると疎まれるようになり、聚楽第の建設などでも不興を買い、石田三成の策略にも遭い、切腹させられてしまいます。その時正室から側室、全ての子供に至るまで、鴨川の河川敷で公開処刑されたと言う、凄惨な話があります。 その場所に殺生塚と言う塚があったそうですが、後に高瀬川と木屋町を水運の町として開発する時、それを担当した角倉了以が、塚のあった場所にこのお寺を建立したと言うことです。秀吉と秀次の確執について、事実はどうだったのか今となっては判らないけど、可哀想な目に遭った秀次と家族の供養塔が、このお寺にはあります。 見所は何と言っても資料室(と言うか休憩所のような所)で、そこには、秀次の後に処刑された女性や子供達の資料があり、それぞれの辞世の句を、処刑された時に着ていた着物で表装した掛け軸の写真があり、十代の子供などの句を読むと、何ともいたたまれない気持になります。是非実物を見たいところですが、収蔵されているだけで公開はしてないようです。辻が花の絢爛な着物地に、悲惨な歴史を乗せた掛け軸、きっと凄い迫力を放ってるんだろうな。 その辻が花、超高級な着物として知られてますが、一度完全に制作者が廃れてしまい、今新しく織られたものは皆復刻したものです。きっとここに残る掛け軸の生地も、復刻の際に参考にされただろうと思います。 しかしそんな悲しみの寺である瑞泉寺も、今はお洒落なコンサートが開かれたりするらしく、お寺の使われ方が最近あちこちで、随分変わって来たなとも感じました。 <リーズナブルだけど特別> 予約の関係で少し早い、夕方五時台に夕食を食べることに。伯母が予約しておいてくれたんですが、「がんこ」と言うチェーン店です。東京にもある、捻り鉢巻の板前のキャラクターの店ですが、東京の私達には何となく居酒屋?のイメージで、本当は和食店なんですね。しかも予約してくれたがんこ二条苑は、前出の、高瀬川周辺を整備した角倉了以の別邸跡で、店は広く日本庭園があり、少し特別ながんこさんです。 この日本庭園は、お店に来た人は自由に歩けます。角倉了以自身が設計し、後に山県有朋の別邸になり、その後も色んな財界人の所有になって来たそうですが、今は誰でも入れるお店の所有なので、公開してくれるのが有難いですね。お庭の池のせせらぎは、やはり高瀬川をイメージしているそうです。 お食事も普通に美味しかったです。特に湯葉とろ豆腐鍋と言うのがすごく良かった。湯葉豆腐は勿論美味しいですが(炭酸を入れていて豆腐がとろとろになる)、それを食べた後、大根や京菜などの野菜を鍋に入れ、更に大量の大根おろしと、季節のお魚を入れるんですが、この時期はホタルイカでした。そのホタルイカから出る出汁が、大根おろしと野菜に広がってすごく美味しかったです。 特別高級な店と言うこともないので、大人数での気軽な会食や、外国人の団体客も入っていたし、堅苦しくなく行けるのがいいお店です。 <夕方からの町> 夕食後鴨川のほとりを歩くと、橋の麓で若いお兄ちゃん達が路上演奏をやってたり(Eクラプトンのチェンジザワールドだった)、川に沿ってカップルが等間隔に並んでたり(京都では有名なスポットだそうで)、この辺りは東京で言うと原宿みたいな町なのかな?、と言う雰囲気です。 そうなると、先斗町はその横の青山辺りの雰囲気。昔は茶屋が並んでたであろう、細い路地には今は隠れ家的なバーや料理屋さんが並び、明かりが灯ると、大人の愉しみを誘う雰囲気が漂って来ます。本当に細い路地なので、ヨーロッパの古い町並みをも思わせます。古い町の形をそのまま残すとこんな感じ、と言う歓楽街です。 そして祇園方面へ歩いて行きました。祇園は以前もちょろっと、八坂神社に近いエリアだけ歩いて来ましたが、今回は違う方向から夜の祇園の様子を見に。 すると、京都でよく見られる、細く長い路地の奥の奥に、ごく小さな看板しか出していない料亭などが、ズラズラ並んでいる町並みに出ます。恐らく「一見さんお断り」の店が多いんだろうな、と言う店構えが、秘密の臭いを漂わせてていい感じです。途中に竹市半兵太の居住跡などもあり、幕末の頃の賑わいも感じられるのがまたいいです。 祇園で舞妓さんがよく手を合わせに来ると言う、有名な辰己大明神の周辺は、夜の景色がもう本当にステキで、過去の花街ってこんなに幻想的だったんだ!、と、そこに集まって来る人の艶めく気持が、何ともよくわかるような雰囲気でした。いや勿論遊びに来るのは男なので、男の気持になっての感想ですが、暗闇の中にポツポツと灯る明かりと、昔ながらの建物が見せる映像は、例えば六本木などの新しい歓楽街には、絶対に出せない夢と風情がありました。 ただ、夜の撮影がうまくできないカメラだったので、まともに写真が撮れなかったのが残念(^ ^; 料亭以外には、やはり昔ながらの置き屋さんもあって、表札に舞子さんや芸子さんの名前も出ていたので、面白くて写真を撮ったら、丁度その時、その家の方(割と若い男性)が帰って来てちょっと気マズかった。あれは置き屋さんの御主人だったのかな? 祇園を抜けると、夜の知恩院や八坂神社のライトアップも見られたり、京都の夜の散策もとても楽しかったです。 |
左上)瑞泉寺にある秀次と一家の供養廟 それぞれひとつずつあるんだけど、 片方は光が入り過ぎてうまく撮れなかった 右上)瑞泉寺内の藤棚 小さいお寺だけど雰囲気が良いです 右)辞世の句を着物で表装した掛け軸、 の写真が展示してある 写真だけでも見る価値ありますよ |
左上)がんこ二条苑の庭 この奥の細い水路は高瀬川を イメージして作ったと言う 右上)庭の水辺の風景 花は多分シャガではないかと 右)この日のがんこのお料理 このコースは高いと安いの中間くらい |
左の左)夕方の先斗町 もっと暗くなると すごくいい雰囲気に 左)細い路地の奥ーの方に 料亭の入り口がある 祇園ではよく見る 店構えだけど 写真がうまく撮れなかった |
左上)辰己大明神 暗闇に赤々と明かりが灯ってる様子は 強く印象に残る風景 右上)夜の祇園の町(と言うか川) 幻想的で素敵なんだけど、写真がうまく撮れない 右)とある置屋さんの表札 面白い舞子さんの名前や屋号も出てますね |
4/24 桂離宮〜修学院離宮 <無料ですが予約が必要です> 一昨年京都に行った時、ネットから修学院離宮の観覧を申し込んだがハズレ。今回は昨日会った、母の友人の仁子さんが電話で申し込んでくれて、ふたつの離宮を同時に見ることになりました。京都在住の方だから、申込みの手際が良かったのかな?と思ったらそうではなく、フィトネスクラブに来ている仲間が、電話かハガキの方が抽選率高いですよ、と教えてくれた(^ ^;。一昨年聞きたかったな… それと、一昨年は秋だったので混んでいた可能性も。京都はやはり春より秋の方が、圧倒的に観光客も多いので、空いてる時期だったのが良かったのかも知れないです。 で、仁子さん曰く、京都は何処に行っても拝観料などが高いから、知り合いが来たら必ず離宮を見に行くよう勧めるのよ、とのこと。東京にある浜離宮は300円位払った記憶があるけど、こちらの方が規模が大きいのに無料とは、確かに一度は見ないと勿体無いですね。 ちなみに、日本に於ける離宮とは基本的に茶室のある庭園で、お公家様が遊興に使っていた場所です。ヨーロッパ王室の離宮は大概、避暑などを目的にした長期滞在型なのに対し、日本の離宮はプライベートな休息所のイメージですね。なので宿泊用の建物は小さく、それより庭に重点が置かれています。 さて、まず始めは予約時間が早い桂離宮へ。京都駅前のバスターミナルで、500円のバスカードを買いました。京都バスと市バスなら、市内は一日いくら乗ってもいいお得なカード。ですが、桂離宮も修学院離宮も、市内から出てしまう為少し追加料金を払います。それでも買った方が得だと言われて買いましたが、実際どうだったのかはわかりません(笑)。 桂離宮への道は、バス停を降りて桂川沿いを歩いて行くんですが、天気が良く、広々とした河川敷に菜の花が咲いて、とても気持の良い景色でした。途中に水門跡もあり、この川が過去に何度も氾濫したことが判ります。離宮の周囲を囲む桂垣は笹で作られた生垣で、この離宮独特のものだそうです。青々としてとても綺麗でした。 <桂離宮は伝統的な日本庭園> 実はどちらの離宮も、後水尾天皇と言う同じ宮様が関わってるんですが、この桂離宮の方が少し古くからあります。古くと言っても35年くらいの差で、その時代背景がちょっと面白くて不思議です。 天下分け目の関ヶ原の合戦は1600年のことですが、そのたった15年後に、後陽成天皇の弟、八条宮智仁親王が別荘として、この桂離宮の造営を始めたと言うのです。当然日本は戦国時代を勝ち上がった徳川の世、首都も江戸へ遷都され、権力は皆武家のもの、天皇や公家の力など数百年前から無きに等しい、と言う状況なのに、この時期見事な庭園が幾つもできたのは、そう言う時代だったんだなと感じさせます。 つまり、国の実権を握った武士が次に目指す欲望は、大概天皇家と縁続きになること。家康も後陽成天皇の子を養子にすることに、凄く情熱を燃やしましたが、力は無くとも天皇家と縁ができることは、やはり日本人として最高のことだったんでしょう。或いは武士と言う存在が、鎌倉時代の源氏を倣っている為、武士は皆天皇家と繋がりを持つものだ、と言う考えがあったのかも知れません。 あと、京都から遠い田舎の大名達は、国の代表者としての作法や言葉遣いなどを、公家から習っていたそうなので、そういう面での恩もあるんでしょうね。 戦乱の時代が終わると、何処の大名も軍事費が浮いて来るようになるので、公家からお嫁さんをもらったり、立場の弱い公家の後ろ盾になってあげたり、と言う動きが活発になり、この時代に贅沢な別荘や庭園が作られ始めた、と言う流れだと思います。 この桂離宮も、智仁親王が没すると一時廃れたそうですが、その跡を継いだ智忠親王が前田家から嫁をもらい、充分な資金を得て、それまで以上に完成させたと言うことです。 さて、その離宮の様子ですが、美しく整備されているのは当然として、茶室や池、植物の配置がとても見事な庭園になっています。天橋立をモチーフに作られた州浜、狩野三兄弟がそれぞれ一室ずつ絵を描いた贅沢な中書院のある御殿、大胆な市松柄を配した松琴亭が見えるように、高低差をつけて眺めを工夫した月波楼など、一時間半ほどかけてガイドさんと眺め歩き、その見事さに感動します。 書院には「桂棚」と呼ばれる、名物の違い棚もありますが、書院の中は基本的に非公開のようです。ただその建物の床が高いのは、前途の桂川の氾濫対策なのがわかります。 また、門と道などの配置を、遠近法を取り入れて広く見せていたり、当時の芸術的手法は独自に考えられたものなのか、海外から入って来た知識なのか、少し驚く点もありました。 面白かったのは茶室の待合(腰掛けて呼ばれるのを待つ所)の横に、昔のトイレが付いていること。その中も見せてくれますが、砂のトイレと言うことで、現代の感覚では猫のトイレのようでしたね。また、幾つかある石橋のひとつを渡った時、橋の麓に蛇がいました。他の参加者の方は気付いてなくて、後ろの方を歩いていた私が「あ、蛇だ」と言ったら、皆さんびっくりしてましたっけ。 そこそこ大きい青大将でしたが、桂離宮の周囲は町を離れた長閑な地域なので、まあ蛇ものんびりしてる感じでしたね(笑)。古い木のある水辺などに蛇はよく居るし、結構庭園の風景に馴染んでると思いました。 五月に近い春の時期と言うことで、桂離宮の庭は全体が青々としていて、とても気持が良かったです。花は池を囲むように咲いていた、赤い皐くらいしか目立ったものはありませんでしたが、青い紅葉に小さな赤い花が沢山付いていたのが、春だなと言う印象でした。 |
左上)一日バスカード。今はお茶の広告入り 右上)桂川の河川敷 菜の花で一面黄色でとてもきれいだった 右)桂離宮を囲む桂垣 割と車通りのある道路沿いなので 時々車が突っ込む事故があるそうです |
左上)桂離宮内の道 とてもきれいに整えられている 右上)先端に灯籠が立っている州浜(左側) 天橋立に見えるかな? 右)庭園内の紅葉の花 秋は紅葉してまたきれいだろうな |
左の左)待ち合いの 前にある丸い手水から 見上げる風景 左)松琴亭 (しょうきんてい) ここは春は赤い花、 秋は紅葉で常に赤い イメージの庭ですね |
右)松琴亭内部の長細い炉 上に棚があるのは電子レンジと同じで、 食べ物を暖める為に置く場所だそうです 左下)松琴亭の内部 この大胆な市松柄がモダンでもあり、 和風でもありかっこいい 右下)離宮内の橋 木の枝で見えにくいけど、 柵が全くないので気を抜くと池に落ちます |
右)桂離宮の御殿 いくつかの書院に分かれている 左下)古書院の月見台 お酒を飲んだり舞ったりしたのかな 右下)この道の先に松があるのは、 入って来てすぐに、余計な景色が 見えないように配慮しているとか |
<修学院離宮への道> 桂離宮から修学院離宮へ行くのはかなり遠い。桂離宮は嵐山方向なのに対し、修学院離宮は銀閣寺方向なので、京都の中心地を挟んで東西の位置。直接間を結ぶ乗り物はないし、タクシーを使うとかなり高額になるので一度京都駅に戻り簡単な昼食。 京都からバスで、途中平安神宮の鳥居を潜ったりしながら、一時間近く行くとようやく到着。しかもバス停からも10分くらい歩くので、修学院離宮への道程はちょっと長いです。でも離宮の周りには昔の豪農と思われる、古くて立派な民家や蔵が並んでいるので、それらを見るのも楽しかったです。 少し早く着きすぎて、道の途中の開いてそうななさそうな店でコーヒーを飲んだ。ここで少し休憩できて良かったのは、修学院離宮は桂離宮より広くて歩く距離が長いんです。私はともかく母と伯母が、歩き疲れて何処か痛くなったりしなかったのは幸い。 しかも、どちらの離宮も気を付けて歩かないと足元が危ない。桂離宮は飛び石などが多く、ぼんやりしていると躓く上、池の周りに柵などもないので、下手すると池に落ちてしまいそう。修学院離宮の方は、玉砂利のような石の敷かれた道がメイン通路で、真ん中が盛り上がっている為足を取られやすく、ちょっと歩き難い。庭園内の高低差もかなりあるので、ちょっとした山登り状態でもあります。 これから行かれる予定の方は、是非歩き易い靴で行って下さい(^ ^;。 <修学院離宮は遊び場> 桂離宮の方は、後水尾天皇をお招きして、何度かいらしたと言う日本庭園ですが、修学院離宮はその後水尾天皇が自ら造営された庭園で、かなり趣の違う離宮です。面白いと言う意味ではこっちの方が面白い。 何故かと言うと、桂離宮は四季折々の景色を楽しむ風雅を重んじ、計算された美しさのある離宮ですが、修学院離宮はそこで遊ぶことを目的にした、今で言うテーマパークやレジャー施設に近いものだそうで、その時代に流行った遊びを取り入れ、段々に変わって来た離宮です。 園内は三つのエリアに別れていて、それぞれがY字の砂利道で繋がっていますが、その距離が結構長いので馬車で移動していたそうです。今観光に来る人は当然歩く訳ですが、でもその間に見られる風景が、いわゆる日本庭園とは違うのが面白いです。何故なら道沿いは棚田が続いていて、ずっと田んぼや畑が広がっているんです。 恐らく造営当時から、地元の小作農家を雇って、綺麗な田んぼの風景を作っていたんだろうと思います。こういう趣向は日本だけでなく、イギリスのハートフィールドと言う、クマのプーさんで知られる村なども、領主が雇った農民に、綺麗な田園風景を作らせたと言うので、丁寧に手を入れた農地は美しいと感じる心が、公家の人々にもあったことが窺えます。 順路的に最初に観る下離宮には寿月観と言う建物があり、恐らく休憩所などに使われた場所。内部も一段畳が高くなっている御座所があり、位の高い人をお招きする場所でもあったようです。周囲の景色も落ち着いた様子で、ここは割と日本庭園らしいエリアです。 次に観た中離宮には、楽只軒と言う建物があり、何でも疱瘡にかかったとある宮様の治癒祈願で、何日も護摩を焚いた為、天井などがかなり黒ずんでいると言う、変わったエピソードのある場所です。けれど客殿の方はとても綺麗で、内部の菱形模様の装飾の鮮やかさや、円山応挙が描いたとされる杉戸など、いかにも位の高いお客様を迎える部屋、と言う感じです。 ここにも「霞棚」と呼ばれる立派な違い棚があり、桂離宮の「桂棚」と共に、天下の三大名棚と称されてるそうなんですが…、何でも三大○○ってあるもんですね(笑)。棚にまで名物指定があるんです。ちなみにもうひとつは、醍醐三宝院の「醍醐棚」だそうです。私は単純にここの霞棚が良いと思いましたが。 最後に最も広く、最も高い場所にある上離宮。景色としてはここが一番素晴しい場所です。山の上にとても広い池があり、舟屋や船着き場があり、そこで舟遊びをする為に作った場所だそうです。その池の全体像も美しく、可愛い橋が幾つも掛かっていたり、池のある景色を楽しむ隣雲亭からの眺めは素晴しいです。天気が良かったので京都市街まで見渡せて、当時のお公家さん達も、こうして町を見下ろしていたのを感じました。 尚、ここは比叡山を背にしていて、右に鞍馬山、左に西山と言う、正に山のハイキングを楽しむような離宮ですが、桂離宮の方は逆で、比叡山を中心とした山々を遠くに眺める、山水画的な景色に作られているそうです。そうした趣向の違いをガイドさんから聞くと、この京都のふたつの離宮の個性の違いが、より鮮明になって面白かったです。 <結局これ以上は無理でした> 修学院離宮も約一時間半で見学は終わり。その後の予定では近くのエリアにある、宮本武蔵ゆかりの一条下がり松を見に行こう、と言っていたんですが、高低差と歩き難さのある園内を回り、そこそこ歩き疲れていたのでやめました。一条下がり松まで30分ほど歩くことになるし、まだ明日もガンガン歩く予定なので、少し早めに戻ることにしました。 いずれその周辺の、詩仙堂や曼珠院と共に見に行こうと思ってます。 と言う訳で、二日目は離宮をふたつ見学しただけなのに、よく歩いたなぁと言う一日でした。同じ日に両方見学に行くと、明確に比較できていい面もあるんですが、書いた通り離れた位置にあるので移動時間のロスが大きく、個人的にはあまりお勧めしません。 一番いいのは、それぞれの予約を一日違いで取って、桂離宮とその周辺エリア、修学院離宮とその周辺エリア、と言う風に散策することですね。一日だったらまだ、前の日に見た離宮の様子は鮮明に憶えてるでしょうし。 京都駅に戻り、そこで伯母は西宮の家に戻りましたが、伯母は腰が悪いので、昨日と今日でもう限界と言ってましたね。皆様くれぐれも、離宮に行く際は歩き易い格好で。 |
左)修学院離宮のすぐ前にある蔵
この辺りの民家のものだけど、 お花の窓がかわいい 古い家々を見られるのはいいけど この辺りには喫茶店や お土産物屋さんはほとんどないので 食事は他の所でどうぞ |
左上)下離宮の庭の小川と道 ここは日本庭園らしい景色 右上)下離宮の寿月観内部 右)離宮と離宮を繋ぐ道は、 松の間から棚田が見える風景になっている (今は稲を植えてないのが勿体ない) |
左上)中離宮の庭の小川と道 下離宮とあまり変わらない作り 右上)中離宮の楽只軒(らくしけん)内部 ここの壁の装飾はすごく凝っていて、 右にある霞棚も映えている 右)上離宮へ行く道には、 休耕田にレンゲが咲いてた |
左上)上離宮の大池を見下ろす絵 右上)隣雲亭前から見下ろす京都市街 右)上離宮を彩るシャクナゲ 左下)池に掛かる橋。ここは渡れない 右下)窮邃(きゅうすい)の内部 公家の方々はここでお月見してたのかな |
左上)広い池の風景 船遊びをするくらいだから本当に広い 右上)真ん中より少し右に 舟屋がある景色 右下)池の舟着き場 きれいなカーブを描いていて とても気持ちの良い風景 |