■京都・滋賀旅行記(2007.11.1〜3)
 多分これで京都に旅行するのは4度目ですが、それくらいじゃ全然見切れない京都だから、何度行ってもいい所ですね〜(^ ^)。
 今回の京都旅行は11月1日〜3日の2泊3日で、JR東海ツアーズのぷらっと(ホテルと乗り物のセット)を利用しました。新幹線の時間を自由に設定できたので、行きは東京駅AM7:06発、帰りは京都駅PM7:35発と言う、めいっぱい旅行先に居られるスケジュールにしました(^ ^)。


11/1
比叡山〜滋賀県内・佐川美術館

 出かける前、ここのところアクシデントやパニック続きなので、旅行中何か起こりそうだな〜と不安に思っていました(- -;。前日早速、母親のデジカメがおかしくなっていたのに続き、当日の朝、着て行くつもりだったジャンスカにカビが生えていた…。タンスの中の他の服は何でもないのに、何故これだけが…と言う感じ。
 急遽服装を変更したりして、慌てて家を出たので、何かしょうもない滑り出しでした。

<滋賀県側から比叡山へ>
 京都駅に着いて、ホテルに荷物を預けた後、西宮の伯母と合流して湖西線に乗りました。琵琶湖の西側を走る東海道線の別名です。
 比叡山へ行くには、京都側から行く方法もありますが、今回は他に寄る所との兼ね合いで、滋賀県側のルートを使いました。京都駅から17分の比叡山坂本と言う駅で降りて、バスで数分行くと比叡山ケーブルの小さな駅に着きます。日本一長いと言うこのケーブルカーを降りると、比叡山のメインの東塔エリアまで10分以下で歩けます。
 ちなみに坂本の町は、明智光秀の坂本城があった土地ですが、今はお城は跡形も無いです。西教寺と言う明智一族の菩提寺(桜がきれいだと言う)と、秀吉ゆかりの日吉神社があります。西教寺には行ってみたかったけど、時間の関係で寄れませんでした。と言うか、後のトラブルを予見できていたらなぁ…。
 しかしそれにしても、ケーブルカーの運賃がバカ高いです(笑)。往復1570円とは。観光用ケーブルってみんなこんな値段なのかな。この日は朝からぐずついた天気で(東京は晴れていた)、本来は素晴しい筈の琵琶湖の眺めも、霧に覆われて全然見えませんでした(- -;。紅葉もまださっぱりで(11/3から「比叡山もみじ祭」と書いてあったのに)、かなり損した気分です…。
 ただ山頂に着いてから、それまでパラパラ降っていた雨が止んで、傘が必要なくなったのは良かったです。山頂まで11分の道程には、おもちゃみたいなかわいい駅が2つあって、紀貫之の墓などもあるそうですが、そこには降りられないようでした。もうひとつの駅は、申し出れば降りられます。

<意外に天気が幸いした延暦寺>
 山の麓のケーブル駅に居た時から、何となく線香の匂いがしていたのですが、いかにも霊山と言う感じですねー。今年の気候のせいか、まだ青々とした山林の道を7〜8分歩くと、東塔の中心の広場に出ます。
 そこからまず最初に向かったのは、不滅の法灯のある延暦寺の根本中堂ですが、広場に着いて写真を撮っている間に、偶然僧侶の行列に出会いました。何かのお務めらしく、「一隅を照らす会館」と言う建物に皆入って行かれましたが、一番偉い(と思う)緋の袈裟を来た老僧を、周囲の人が敬っている様子と、列の後ろの方の若い坊さんの雑談が印象的でした(笑)。いいもの見ました。
 さて根本中堂の話に戻りますが、トルーパーに出て来たシーンでは、純が蝋燭を見て由来を尋ねてましたよね。88年の当時はもしかしたら、本物の蝋燭を灯していたのかも知れないけど、今は蝋燭型の電灯なので、螺呪羅が現れても消えないと思います(^ ^;。
 それと、不滅の法灯は蝋燭の方ではなく、お堂の中央に3つ置かれている、蓮の花の飾りの付いた八角形の入れ物(灯籠?)にあります。それが実は、天気の良い日だと日光の明るさに負けて、殆ど見えないそうなんです。この日は天気が悪かったせいで、1200年燃え続けていると言う明かりが、しっかり見えて却って良かったです。
 中堂の中は奥深く、広々としていて、ちょっと寒かったですが妙に落ち着く場所でした。仏像や法灯の置かれている場所が、建物の床より低く掘り下げたようになっていて、全体を見渡し易いのがとても良かったです。この構造は現代仏教の祖である最澄(伝教大師)の、「仏凡一如」の思想によるものだそうです。
 尚、ここは薬師如来を祀っていて、病気の回復祈願などに来る人が多いのですが、私の従兄弟のお嫁さん二人が、揃って手術を受けることになって、伯母は護摩木を買って、手術の成功を祈願していました。

<思わぬ事で足がつる…>
 根本中堂を観た後は、その向かいにある文殊楼へ行きました。その名の通り、文殊菩薩が祀られている小さめの塔です。文殊様については、一昨年行った天橋立の方が有名ですが、それ自体より文殊楼に至る石段の途中に、根本中堂の全体が見えるポイントがあるので登りました。国宝に指定されている大きな建物の、よく知られている姿はそこから見た景色なのです。
 石段を登り切ると、ちょこんと言う感じの赤い建物があり、その2階に文殊菩薩が置かれています。折角だから見て来ようと思ったのですが、中に入って驚きました。物凄く急な階段なんです。殆ど垂直に掛けられた梯子状態。鞄を持っていると登れない程だったので、伯母に預かってもらいました。
 その上、根本中堂の冷たい床で冷えたらしく、階段を登る途中で足の裏がつってしまい、大変な思いをして登り切ることに…。でもまあ、それも良い思い出です(笑)。学業成就を祈願する年じゃないですが、かわいらしい文殊菩薩像に会えて良かったです。
 ちなみに比叡山内は、歩く道は特にきつくないですが、各建物の前の石段をいくつも登っていると、股関節やももが段々辛くなって来ます。私の場合はその後も度々足の裏がつって、その方が辛かったです(^ ^;。
 その後は大講堂へ行きました(遼が水を飲んでいた手水はここのものだと思う)。僧侶が修行する為の道場と言うことで、中には入りませんでしたが、その庭にある「開運の鐘」を伯母が衝いていました。と言うか、お金を払わないと衝けないのはどうなのか。この辺は観光地っぽいですね。
 更に阿弥陀堂にも行きましたが、ここは新しい建物なので、檀家でもなければ、特に来る意味は無さそうでした。もう少し時間があれば、国宝殿も見たかったし、横川の方にも足を伸ばしたかったのですが、残念ながら今回はここまでです。

<下山して琵琶湖のバス事情を知る>
 比叡山を降りる頃には、かなり雲が切れて来たので、下りのケーブルカーから琵琶湖を見ることもできました。麓のケーブル坂本駅に丁度バスが来ていて、すぐ発車すると、JRの比叡山坂本駅にもすぐに電車が来て、本来は結構不便な場所の筈が、物凄く乗り継ぎ良く移動できました。
 前と同じ湖西線に乗って3つ目、堅田駅(かたたと読む)に向かいました。そこから次の目的地、佐川美術館行きのバスが出ています。但し、平日の昼間は全く出ていません(^ ^;。それは調べて判っていたので、タクシーに乗るつもりで最寄駅に行った訳です。
 実は佐川美術館のホームページには、琵琶湖の東側の守山駅からの案内しか無く、地図上ではどう見ても堅田の方が近いのに、「変だな?」と疑問に思っていました。現地に行ってみるとその謎は解けます。要するに、琵琶湖は東側の方が栄えていて、守山駅からのバスは常にあるのです(と言っても平日の昼は1時間に1本)。
 なので帰りは守山方向のバスに乗ってみたけど、やはり時間は倍(30分くらい)かかり、素敵な風景がある訳でもないので、どっちもどっちと言う感じでした(^ ^;。
 話は戻りますが、昼食を堅田駅のHEIWADO(関東に於けるヨーカドーみたいなもの)の中で済ませた後、タクシーで琵琶湖大橋を渡って行きました。少々寒々しかったけど、琵琶湖の一番細くなっている部分の、運河のような景色を見ながら進むと、タクシーの運転手さんが、この辺りはみんな佐川(急便の一族)の持ち物だと教えてくれました。美術館以外にも、スポーツ施設など、佐川と冠する建物が色々ありました。

比叡山 比叡山
僧 左上)登った時の比叡山からの眺め。

右上)降りる時の比叡山からの眺め。
ほぼ同じ場所から撮ったけど、
かなり雲が切れて来たでしょ?
でも琵琶湖ははっきり見えない…

左)丁度目の前を通った僧侶の列。
前の方の人ほど位が高い
右)「不滅の法灯」のある根本中堂入口。
中は残念ながら撮影禁止

左下)文殊楼の階段から見た根本中堂。
これが一番よく見る絵面だと思う。
ラジュラが立っていた場面が目に浮かぶ(笑)

右下)大講堂前の手水。
勿論ですが水を飲むことができます
根本
根本 手水

<佐川美術館にて予想外の事態…>
 そもそも母がここに来たがった理由は、今年9月にオープンした、十五代目楽吉左衛門(楽焼の楽の家長)の作品展示と、その人の構想で建てられた現代の茶室を含む、「楽吉左衛門館」を観ることでした。
 特にその茶室は、周囲を人工的な水槽で囲んでいて、意図的に半分くらい水没させた造りの、とても面白い建築物なのです。コンクリートの打ちっ放しの壁などは、正に現代的ですが、そこに手漉き和紙や竹細工の建て具を付けるのも、意外にマッチしていて驚きます。茶道に関心の無い人も、噂を聞き付けて建物を観に来るそうです。
 ところがっ…!。その入口が見付からないと思って、館内の人に聞いたらとんでもない事実が。何と、オープン当初は拝観自由だったのに、今は予約が必要で土日のみになったとのこと…。直前にもう一度ホムペを確認しておくべきでした(T T)。
 何故そうなったかは、特に有名でもない、辺鄙な場所にある美術館なので、毎日4〜500人の人が押し寄せるとは、当初は予想しなかったらしいのです。そして、基本的にお茶室ですから、畳など天然の素材で造られた部分が、オープンして2週間程で酷く傷んでしまったそうです。それで一時は公開を止めて、今は予約制にしたと言う話でした。
 無論それだけ人が押し寄せたのには訳があります。母がこの茶室のことを知ったのは、NHKの番組で、建設中の頃の話を観たからでした。つまり同様に「行ってみたい」と思った人が、日本全国に存在したと言う訳で…。テレビの力って恐ろしいですね(^ ^;。
 と言う訳で、中を見られなかったのは物凄くがっかり。ですが、海外から来た人も断ったと言うくらいで、どうしようもなかったです。陶器の展示は観ましたが、それだけでは物足りなかったので、元々ある平山郁夫館も観て来ました。むしろこっちの方が面白かったくらいです。ペン描きに彩色したシルクロードの絵と、今さっき観て来た比叡山や琵琶湖の風景が良かったです。
 ああ、こんなことなら西教寺に行けば良かった…。そう言えば、ミュージアムショップに佐川トラックのミニカーや、飛脚の絵のグッズ、佐川急便の制服を着たキティ(ぬいぐるみ)などがあったのは笑えた。そう言う趣味の友達がいたら買って来たんだけどな。

<京都のお茶漬けを初めて食べた>
 泊まる場所が、京都駅のすぐ前にある都ホテルだったので、京都に戻ると駅の地下にある、西利(千枚漬けで有名な漬物屋)の食堂で夕飯を食べました。伯母が知っていて連れて行ってくれたのですが、漬物三昧なメニューの面白い店で、ここで京都らしくお茶漬けセットと、「漬物寿司」なるものを注文しました。
 まあ基本的に漬物が美味しい店なので、何を食べても美味しかったですが、寿司はちょっとシャリがやわらかすぎたかな。お茶漬けは間違いなく、漬物で食べる場合はほうじ茶が合います。ただ、本当に漬物だけのお店なので、むちゃくちゃさっぱり系です。人によっては蛋白質が欲しくなるかも。
 一緒に付いて来る白味噌のお味噌汁も、人によって好みがあると思うけど、私は美味しいと思いました。九州の方の白味噌は甘くて苦手ですが、京都の白味噌はドロっとしていても大丈夫。
 さてそんな訳で、明日は朝から予定いっぱいで忙しいので、ホテルに戻ってさっさと寝ることにしました。…しかしホテルの部屋が、思いっきり駅に面していた為、駅を通る乗り物の音がかなりうるさかった(- -;。いつもホテル選びは、何より立地の利便性を取ってしまうので、たまにこういう事もあります…。
 イギリスに行った時も同様のホテルに泊まったけど、向こうは首都でも電車は多くなくて、えらい違いだなぁと思いました。

美術館 茶室
左上)佐川美術館。ギリシャの神殿が
近代的になったような外観と、広く浅い池


右上・右)中に入れなかった茶室。
水に浮いているように見える

左下)彦根嬢400年記念キャラ「ひこにゃん」
滋賀県内に入ったらグッズを買えたけど、
彦根嬢自体に行けなくて残念

右下)千枚漬けで有名な西利の漬物寿司!
茶室
ひこにゃん 漬物寿司



11/2
大徳寺〜鷹峯・光悦寺〜源光庵〜冷泉家〜京都御所

 この日は朝6:30には起きて、京都駅で8時ちょっと過ぎの市バスに乗りました。最初の目的地までは35分、とガイド本にはあったのですが、朝のラッシュ時だったので道が混んでいる上、北大路通りに入ると、バス停ひとつひとつに止まって人が乗り降りして、結局50分近くかかりました。
 観光地は大体皆9時に開くので、京都駅ではちょっと早いかな?と思ったけど、実際は丁度ぴったりでした。バスには会社員と老人の他、立命館の学生も乗っていてちょっと面白かった。
 面白いと言えば、大徳寺に入ってすぐに外国人に声を掛けられて、「Where's The Golden Pabirion?」と尋ねられたんですよ。何だそりゃ?と思ってしばし考え、「金閣寺のことか!」と(笑)。金閣寺は大徳寺のすぐ近くなので、地図を指して何とか教えることができました(^ ^;。

<とにかくとってもきれいな大徳寺>
 ここは大徳寺そのものと、広い境内の中に多数の塔頭(たっちゅう)を含む、ひとつの町のようなお寺です。塔頭とはお寺の付属設備のことで、姉妹寺や誰かの菩提寺、茶室などがそれに当たります。全て公開している訳じゃないですが、有名な人物に縁のある寺院が多く、境内は公園状にきれいに整備されているので、色々な視点からじっくり楽しめる場所です。
 まず最初に、東側の門から入ってすぐの所に、朱塗りの三門(金毛閣)が見える筈だったのですが…。肝心の門の前に、もうひとつ木の門が立っていて、正面からは殆ど見えませんでした。左右は木で囲まれているし、唯一後ろからの姿は見えたのですが、柵が巡らされていて入れなくなっていました。どうやら普段は公開していないようです。
 この門は千利休の寄進によって建てられましたが、古渓宗陳(こけいそうちん)と言う僧侶がそれを記念して、利休の像を門の真ん中に付けたら、「利休の股を潜るのか」と秀吉の不興を買った、と言う話があります。その利休像があった正面を観たかったのに、残念でした。門の後ろには大徳寺の本堂である仏殿、法殿、総本所などがありますが、ここも普段は檀家専用で非公開のようでした。
 それらの横を通り抜け、一番奥まった場所には芳春院があります。前田家のまつ様の菩提寺です。門を入って院へと続く、細い小径の庭があまりにもきれいなので、庭に少しだけ入って見せてもらいました。ここも普段は非公開です(と言うか、車が停めてあったので生活している人がいる模様)。
 芳春院の手前を右に曲がると、沢庵和尚の名で知られる大仙院があります。ここは紅葉や枯山水が知られていますが、その前に手入れの行き届いた門周りの庭が、本当にきれいでした。この二院のある一角は、明るい庭の美しさがとにかく印象的です。尚、大仙院は常に公開していますが、時間の都合で中には入りませんでした。

<この景色はここか!…と言う寺院>
 その後西側に回って、細川家の菩提寺である高桐院へ行きました。ここは東側とは違い、竹林が覆っていてやや暗いのですが、庭に一歩入ると、その暗さが物凄く風情を漂わせていました。いきなり数百年前にタイムスリップしたような、時代の趣を感じさせる庭です。
 そんな入口付近も素敵なのですが、中に入ると、広間に面した庭の素晴らしさにまた感激します(^ ^)。「あっ、この景色はここだったのか」と、誰もが一度は写真等で見たことがある庭の、実物の広がりに感動すること受け合いです。横に広々と開いた空間に、竹や苔の緑と緋毛氈の赤とが際立って、目に焼き付くようでした。
 もっと紅葉が進んだ時期なら、より多くの彩りが見られて尚良いだろうし、竹林が青々としている時期も、きっと涼し気で良いと思います。ここは普段から公開している院なので、京都に行ったら一度は見てみる価値ありです、ホント。
 この院と、ここにある松向軒と言う茶室は、細川忠興が建立したものだそうですが、忠興とガラシャ夫人、その後数代の細川家の人の、京都の墓所となっています(本当の墓は九州にあります)。それと、何故ここにあるのかは不明ですが、出雲の阿国、名古屋山三郎の墓も存在します。忠興が色々な芸術を嗜む風流人だったから、でしょうか。
 さてもうひとつ、常に公開している瑞宝院も行きました。位置的には南側の真ん中にあり、キリシタン大名として知られる、大友宗麟が菩提寺として建立した院です。ここは何と言っても、ふたつある枯山水の庭が良いです。
 独坐庭と言う南に面した枯山水は、由来や説明を聞かなくとも、山と海の風景を表していることがわかる、ダイナミックな力を感じる庭です。この時とても天気が良かったので、庭に面した広い縁側に座って、ポカポカと暖まっているととても気持が良かった。同様に他の観光客、特に外国人の夫婦が長く、庭を眺めて座っていたのが印象的でした。日本人でなくても、この庭の眺めは何処か惹き付けられると思います。
 もうひとつは北側にある、閑眠庭と言う枯山水ですが、こちらは石の配置が十字になっていて、宗麟のキリシタンとしての意思を秘めた庭、と言うことで知られています。独坐庭に比べ、名前の通り静かな印象のする庭で、同じ石や岩を使っているのに、随分印象が違うことに驚きます。

<意外な発見があった黄梅院>
 ところで旅行に行った期間を含む2週間程の間は、非公開文化財特別拝観の開催をしていて(毎年春と秋に行われるらしい)、普段は公開していないものが見られる、とてもラッキーな時期でした。この大徳寺では黄梅院と言う、主に茶室として知られる院を公開していたので観に行きました。
 茶室ですから、ほぼ母の趣味で観に行ったようなものですが、門を潜ってすぐ横にある、石碑に掘られた名前を観た時、「あれっ?」と意外な発見をしました。4つの石碑には、織田信秀(信長の父)、小早川、毛利の長州勢と、会津の蒲生氏郷の名前があり、それらに関係のある院だったのです。
 しかし普段は公開していない為、入館の際のパンフレット等が無く、当然旅行ガイドにも情報が載っていない。この特別拝観だけのボランティア学生の辿々しい説明では、あまり要領を得なかったのが残念です。豊臣方の人はまとまっているとして、蒲生氏郷の名前が何故あるのか?、と質問したら、「そこまで勉強していないので分かりません」と言われてしまった(^ ^;。そんな…。
 取り敢えず、信長と親交の深かった僧が建て、信長の死後に秀吉が手を加え、続けて小早川が改築して落成し、その後毛利家が手を加えながらお茶室として使っていた、と言う話でした。
 なので、本当に大まかな説明しか聞けないまま、沢山の連なった茶室群、加藤清正の寄進した灯籠のある庭(秀吉にちなんで瓢箪型の池がある)や、毛利家の紋の入った建て具のある部屋、竹野紹鴎(千利休の師匠)のデザインした茶室を、余所からそのまま持って来て組み込んだ部屋(昨夢軒と言う)、狩野探幽の仏画群や雪舟の達磨の絵など、色々面白い物を観て来ました。
 もっと詳しい説明があったら、より関心をもって楽しめたのに…と思ったら、そこを出る時に買った「拝観の手引」と言う雑誌に、今回の特別拝観の全ての説明が載っていたのでした…。先に買った方がいいと教えてくれればいいのに!。
 と言う訳で、手引の説明によると、成立ちの流れは前の説明通りで、元は黄梅庵と言う名だったものを、小早川隆景が改築した際に黄梅院と改めたそうです。また蒲生氏郷については、千利休の切腹後、その息子を会津に匿っていた氏郷が、家康と共に千家の再興を計ったことに絡んで、ここに何らかの縁があったようです。やはり詳しいことは不明のようでした。
 また、観ることはできませんでしたが、院内墓地にはその蒲生氏郷と、織田信秀、毛利元就夫妻と毛利家一門の人々、小早川隆景夫妻など、淙々たる面子の塔が連なっているそうです。まあ、氏郷と織田家は茶道に深い関わりのある人ですが。
 以上、ここは充分に満足な特別拝観でした(^ ^)。そして大徳寺全体がとてもきれいで、印象が良かったので、機会があったらまた来たいと思いました。

<大徳寺の門前町>
 大徳寺だけでかなり沢山のものを観て、丁度お昼になったので、門前町にあるお店で食事をしました。「紫野うどん」と言う、京野菜や京都の食材が沢山入ったうどんですが、まず目に付いたのが豆腐!。うどんに豆腐なんて〜!と思いきや、意外にその豆腐が美味しかったです(笑)。立木庵と言うこのお店は、甘味処でもあるようなんですが、それ以上食べられなかったのは残念。
 ところで門前町と言っても、前に書いた通り北大路通りは交通量の多い道路で、周辺はかなり近代的な町になっているので、大徳寺通りと言う東側の道に何軒か、小さなお店が連なっているだけです。
 そしてここには知る人ぞ知る、「大徳寺納豆」と言う名物があります。大徳寺の中の何処かの院でも売っていましたが、味噌になりかけた大豆、と言った感じの食品です。味は名古屋の八丁味噌を更にスッキリさせた感じで、味噌を丸めた粒のような見た目です。多分昔の携帯食か何かで、いかにもお精進っぽくて、地味と言えば地味な名物ですが…。
 買って帰ったら意外にもアホ父が気に入ってしまい、もっと買って来ればいいのに、と喜んで食べてます(^ ^;。確かにご飯に合う、3粒ほどでご飯一杯食べられてしまいます(笑)。
 また、大徳寺納豆の専門店で売っていた、お茶席用のお菓子が小さくてすごく可愛かった。お店自体も小さくて京都らしい感じ。更に昆布の専門店では、一見大徳寺納豆に見えてしまう、玉の様に丸めた昆布を売っていて、美味しかったので買って帰りました。このお店、松田老舗一休こんぶ、と言う名前なのですが、一休が何か関係あるのか?、と思ったらありました。
 大徳寺納豆を開けたら、一休和尚が開発した食品だとかいてありました(^ ^;。また母が茶道関係の本で調べたところ、ある期間大徳寺の住持(寺の責任者)になっていました。ちなみに前出の沢庵も住持になっています。

三門 法堂
左上)大徳寺三門を裏側から。
手前に小さく映っているのはうちの母(笑)


右上)大徳寺法堂。天気が良すぎて光に消えそう

右)大徳寺の中はみんなこんな風に、きれいに道が整備
されていて、景色を眺め歩くのが楽しい

左下)「たくあん」の語源になった沢庵和尚の
大仙院。この庭の手前にある松もすごい

右下)芳春院の門を入った所。
このずーっと奥にお寺があるが、そこに至るまでが
とても美しい
大徳寺
大仙院 芳春院

高桐 高桐 左の左)高桐院に入って
すぐの庭。
写真はかなり明るく
加工したけど、実際は
心地よい暗さ

左)もう少し歩いた所。
突然明るい場所に
出る感じで気持ち良い
右)高桐院のこの眺め、
みんな必ず何かで目にして
いるくらい有名ですね。
JR東海のCMとか。

右の右)同じ庭の別の方向。
手前の木が紅葉して
いないので、奥の竹林の
緑がさっぱり映えない
ですね…
竹林 竹林

瑞宝院 左)瑞宝院の入口。
どこのお寺も庭がとにかくきれい

左下)枯山水「
独坐庭」。
鳳来山を取り巻く海をイメージしている


右下)北側の枯山水「
閑眠庭」。
この方向が十字ですがわかる
かな?。
廊下の奥に居る金髪の女の子は、
熱心に観ている親から離れて退屈してた
枯山水 枯山水

黄梅 黄梅
左上)黄梅院の庭の通路。
ものすごく美しい!


右上)庭のひとつ。ひょうたん池のある庭を
撮り忘れてしまった

左)ゆかりのある人の名が掘られた碑

下左)茶室のひとつ。ここには全部で
7〜8軒の茶室がある

下右)ねばねばは無い大徳寺納豆
碑
茶室 納豆


<光悦寺にて嬉しい出来事>
 食事を終えると、時間が勿体無いのでタクシーで鷹峯(鷹ケ峰)へ。途中、あぶり餅で知られる今宮神社の横を通り、本阿弥光悦の開いた光悦寺に行きました。徳川時代初期の大風流人が、今で言う芸術村として作った、寺を中心とした工芸師の町があった場所です。今でも住所は鷹ケ峰光悦町と言い、家康が光悦に与えた土地だそうです。
 ここもまた黄梅院と同様に、広い公園状のお庭に幾つもの茶室があるのですが、山の丘陵地だけあって、 とても眺めの良い景色が楽しめました。庭の一角には光悦とその子孫の墓もあります。
 また入口の門の前の路地がとてもきれいで、いかにも風流を感じました。帰る時に偶然、その路地の左右に掛けられた竹の柵を、新しい竹に替えようとしていたのですが、作業をしている人に聞いたら毎年替えるんだとか。やはり放りっ放しでは保てない美しさなんですね…。
 この時、特別拝観とは関係ないのですが、ここでも丁度収蔵庫の公開をしていました。展示内容は、全体的にはやや期待外れだったのですが(光悦自身の作品が少ない。近くの美術館の方に行ってしまった様子)、そこで予想しなかった、私に嬉しい物を発見しました。
 光悦が書いた、能の謡本「二人静」があったのです(能舞台の後方で謡う人用の台本)。原作は世阿弥と言われる作品ですが、当時の印刷(版画のようなもの?)の為に、版下として書き写したんだそうです。本阿弥光悦と言う人は茶道具工芸、陶芸、彫刻、絵と書、蒔絵、造園などまで手掛けたマルチな芸術家ですが、印刷物の文字を書く人に抜擢されるくらい、書の上手さも認められていたんですね。
 一昨年香雪美術館でも、光悦の書いた書は見ましたが、私もこの方の文字はとても好きです。現代の感覚から言うと女性的な、細い筆遣いでの丸みを帯びた文字は、読み易く親しみ易さも感じます。また本自体に使われている紙なども、こだわって作った感じが見て取れました。何かもう、これを見ただけでとても満足でした♪。

<鷹峯の街道を行く>
 鷹峯には光悦寺の他に、ちょっと面白い寺院があります。源光庵と言う、私の父の家と同じ曹洞宗の禅寺です。ここの入口には大きな看板が立っていて、嫌でも目に入る文字で「血天井」とあるのですが、それが有名なお寺です。
 本堂の広い天井に、全体的に黒い染みがあるのですが、それは過去、桃山城の床だった板だそうです。そこで家康の忠臣・鳥居彦右衛門の一党が、石田三成の軍に責められ、380人程が自刃した跡がこの「血天井」と言う話…。よく見てみると足跡や、掌を引き摺ったような跡があり、惨事の凄まじさが感じられます。そんな場所を天井にしてしまうと言うのも、豪快と言うか情け深いと言うか、不思議なお寺ですよね(^ ^;。
 またここには禅寺らしく、円形の「悟りの窓」と、四角い「迷いの窓」と言うものがあり、すぐ隣り合っている窓なのに、そこから見える景色が全然違っています。禅をしながら瞑想する時の、心の風景を表したような面白い趣向でした。
 源光庵から少し先には、春は桜、秋は紅葉が美しいと言う常照寺もあり、名妓と言われた吉野太夫が寄進した門などがあります。ちょっと今回は時期が半端でしたが、整備された庭と言うより、自然な感じの門前の木立がいい雰囲気でした。中には入りませんでしたが。
 さて、これらを見た後は、昔の風情が残る鷹峯街道を下って歩きました。午後になっても天気が良く、空気は少し冷たい感じで、歩くのには丁度良い条件でした。京都の町家らしい家や、一昔前(昭和の印象)の長家風住居などを見ながら、のんびり道を下って行くと、二百年近く続く造り醤油の店や、生湯葉の店などが時々現れたりして、京都の長閑な側面が感じられました。
 20分程の道程を歩いた後、今宮通りとぶつかったところでタクシーをつかまえて、次なる、京都御所周辺へと向かいました。

<これがかの有名な…!>
 前出の非公開文化財特別拝観期間で、最も短期間しか公開していない、冷泉家を丁度見られる期間だったので、既に沢山歩いたけど頑張って行きました。ここも例によって、学生ボランティアが解説を務めていたのですが、黄梅院に比べ由来がはっきりしているのか、割とわかりやすい説明でした。
 しかし、京都御所と同志社大学のある今出川の交差点は、午後三時前後の時点で相当な人出でした。御所と共に冷泉家を見に来た人が多く、単なる家である冷泉家の敷地内は、「こんなに人が多くちゃよく見られない」と言う感じでした。それでもまだ金曜日だから、翌日よりはマシだったかも知れませんが。
 冷泉家は冷泉天皇の子孫ではなく、藤原定家の流れの和歌系の公家で、テレビで歌会の様子が放送されたりする通りです。過去は「冷然家」と言ったそうですが、然の字に火を付けると「燃える」となることから、火事の多かった昔に縁起が悪いとされ、冷泉と改めたそうです。
 その改名話は意外に面白くて、明治時代、王政復古により権力を取り戻した皇族は、みんな東京に居を移したのですが、この冷泉家は一度東京に移った後、留守居役となって京都に戻った為、関東大震災の被害を免れたんだそうです。名前を変えたのが良かったのかな。そのお陰で、重要書物を現代に伝える貴重な存在になったのです。
 建物は現存する最古の公家住宅とのことですが、敷地は恐らくもっと広かったんでしょう。今は同志社大学の一角になっていますが、大学の敷地全部が昔は冷泉家だったと思います。
 家には相当広い土間があって(料理人や女中などが多く出入りした為)、奥に畳の広間が続いていて、庭の奥に「お文庫」と呼ばれる倉があります。これがかの有名な、国宝書籍を5種所蔵する、当主しか入れないお文庫か!。…と言うだけですが(笑)、直に見られただけで嬉しかったです。また庭には橘と梅の木があって、普通「右近の橘、左近の桜」と言いますが、古くは梅が正しいんだそうです。
 その他、貝合わせのセットや円山応挙の掛け軸、実際に着用した公家の着物等が展示されていました。私としては、もうちょっと突っ込んだ展示を見たかったですが(歌会や神道関係の物)、滅多に見られない所を見せてもらったので、まあ良しとします(^ ^)。

<京都御所と烏丸通り>
 元々御所に入る予定はなかったので、散歩的に敷地を歩いただけですが、その時丁度拝観時間が終わって、ぞろぞろ人の列が出て行くところでした。御所は今特に、特別拝観的なものは無かったですが、それでもこんなに人が来るのか、と言う大行列でした。
 御所を北の端から南の端へ移動すると、地下鉄の次の駅に着くので、駅を目指して南下していたのですが、丁度中間くらいに蛤御門があるので見に行きました。幕末好きな人には、禁門の変で馴染みのある蛤御門ですが、意外に立ち止まる人も少なく、不思議な感じがしました。それ以上の物が他に沢山あるからかな。
 尚、門が面している烏丸通りには、結構面白い建物が建っています。次の駅(烏丸丸太町)の乗り場の横に、鬱蒼とした木に囲まれた洋館が建っていて、ドラキュラ伯爵でも出て来そうな雰囲気なんです(笑)。うろうろして塀の表記を見付け、ここは大丸ヴィラと言う、大丸の社長か何かが昔に建てた、迎賓館のようなものだと判りました。酷く外国っぽいと思えば、正統なチューダー様式の建築だそうです。
 その少し手前には、平安女学院と言う学校があって、その敷地に重厚な印象のアグネス教会があります。これもかなり昔(明治以降ですが)に建てられたもののようで、御所の周囲だと言うのに、妙に外国っぽい一帯なのでした。
 地下鉄烏丸線に乗って京都駅に戻り、この日の観光はこれで終了となりました。今日だけで10軒以上のお茶室を見て、流石に母も満腹状態でした(笑)。
 ホテルに戻った時間が早かったので、買物をしに再び京都駅に戻り、適当に夕食も食べて寝ました。この時買物を済ませておいたのが、明日良い事に繋がったので分良かったです。

光悦 鐘
垣 左上)美しい光悦寺の入口。
取り替える為の竹が外してある

右上)光悦寺にある鐘。
茅葺き屋根が付いているのが珍しい。
こういうのも光悦のアイディアだと思う


左)茶室の前の垣根。「光悦垣」と言う。
ここが一番紅葉していた。
(それでもこの程度)

源光 源光
左上)この恐ろし気な文字の看板、
気にならない人はいない筈(^ ^;

右上)禅寺・源光庵の外観。
この中の天井が血天井。ちょっと
黒っぽすぎて写真には撮れなかった


右)「悟りの窓」。この右に「迷いの窓」
悟りの窓

常照寺 左)常照寺の庭。この木立が
桜や紅葉で彩られたら
確かにいいだろうな…

それにしても今回、「光」の字が付く寺、
光るとか照らすとか言う名前が
やたらに多いな…

土間 貝合わせ
左上)冷泉家の土間から、続く部屋の方を写した。
土間には「しゃぐま」と言う、お祭りに使う
魔除けが付けられている

右上)その奥の奥(の奥?)の部屋。
貝合わせのセットが展示されている。
かるたと違ってかさばるせいか、
入れ物が重箱のようにに大きい


右)奥にあるのが有名な「お文庫」。
手前の新造された蔵には、比較的新しい物が
収蔵されているそうです。
左手前は井戸
お文庫

蛤御門 左)これが蛤御門!。
御所のほぼ中間地点にあります。
入ってすぐの所がタクシー乗り場で、
車が通行できる大きさです。
(毛利庭園の門は観光バスも通れたけど
そこまで大きくはない)

立て札の説明を読む母が
また映ってしまった



3日目(続き)へ